MEMORANDUM
2011年01月


◆ 水木しげるの自伝マンガ『私はゲゲゲ』を読んでいたら、万字の「お菊人形」。

◇ 怪異といえばその頃、北海道の山奥の万字という所に、髪の毛がひとりでに伸びる「お菊人形」を見に行った帰り……
水木しげる『私はゲゲゲ 神秘家水木しげる伝』(角川文庫,p.249)

◆ その帰り……、岩見沢のうらぶれた旅館に泊まったところ、そこで「小豆はかり」という妖怪に出くわしたそうな。さすがである。水木しげるがお菊人形を見に万念寺を訪れたのは、昭和51年12月23日。

◆ ちょっと前にカマキリのことを調べていて、宇宙飛行士の毛利衛さんがカマキリ嫌いだということを知ったのだったが、その理由についてはよくわからなかった(「カマキリ怖い」)。先日、ブックオフの105円本に毛利さんの文庫本があったので、買って読んでみた。

◇  とくに嫌いなのはカマキリだった。北海道ではあまり見かけないのだが、のちに大学院生になって神奈川県の横須賀で研究生活を送っていたころ、研究室の窓からカマキリが入ってくるのが怖くて仕方がなかった。窓ぎわに液体窒素をばらまいて殺していたほどだ。
 最近知ったのだが、一緒にヒューストンで訓練生活を送っている女性飛行士の向井千秋さんもカマキリが大嫌いなのだそうだ。向井さんの場合は子どものころ遊びでカマキリを殺しすぎたせいで怖くなったらしい。もしカマキリの宇宙実験が提案されたら、こればかりは土井さんにやってもらうしかない。

毛利衛『毛利衛、ふわっと宇宙へ』(朝日文庫,p.47)

◆ 嫌いなことはよくわかったが、その理由についてはやはりよくわからない。とはいえ、その理由をとくに知りたい理由もないので、つづきを読む。宇宙飛行士の候補に選ばれて、札幌から松戸に引越してきた毛利さん。

◇ いちばんのカルチャーショックは、常磐線の殺人的なラッシュだった。最初のうちは、すでに超満員でホームに入ってくる電車にどうやって乗ったらいいのかわからず、何本も列車を見送っていた。あの混雑にはいまだに慣れることができない。いや、あれに慣れてしまったら、人間の根源的な活力とでもいおうか、とても大切なものが失われてしまうような気がする。
Ibid., p.96

◆ ワタシもほぼ同感。むかしはそんなことをよく考えた。いまでも「あれに慣れてしまったら、とても大切なものが失われてしまうような気が」どこかでしている。とはいえ、失われてしまうだろう「とても大切なもの」が「人間の根源的な活力」といったものであるのかどうか。少なくとも、「人間の」という限定は大げさに過ぎるだろう。せいぜい「日本人の」か、あるいは「北海道人の」ぐらいが適当ではないだろうか。たとえば、「乗車率300パーセント」の満員列車を作り出すインドの人々が「人間の根源的な活力」に欠けているとは、とてもじゃないけど、思えない(「電車はディーゼル車」)。ところで、インドの満員列車に痴漢はいるのだろうか?

◆ 「うみのこ」という船の前に、カモメが二羽。ああ、なるほど、ウミネコにウミネコか、と思われた方は早合点。船の名は「うみねこ」ではないし、カモメはユリカモメでウミネコではない。念のため。

◆ さらには、ここは琵琶湖で、「うみのこ」は「海の子」ではなく「湖の子」。歌でいえば、「♪ われは海の子 白浪の」(文部省唱歌)ではなく「♪ われは湖(うみ)の子 さすらいの」(琵琶湖周航の歌)の方。かさねて念のため。

◆ この「うみねこ」号、《滋賀県立びわ湖フローティングスクール》の学習船だそうだ。

◆ ゲゲゲの鬼太郎、レレレのおじさん。それから、メメメにハハハ。

◇ “薬師へめめめ戸隠へはははは”(柳多留一五二編11)と古川柳にあるように、眼病には薬師さまへ、歯痛には戸隠さまへ祈願するのが江戸庶民の民俗信仰だった。
日本医史学会編『図録日本医事文化史料集成 第4巻』(三一書房,p.70)

◆ 新井薬師が近いので「薬師へめめめ」というのは馴染みがあるが、「戸隠へはははは」というのは初めて聞いた。その代わりといってはなんだが、先日訪れた東寺の夜叉神も歯痛に霊験あらたかであるそうで、「夜叉神キシリトール」なるものも販売されているとか。ハハハ。

◇ 食堂南にお祀りされている夜叉神は、お大師様作と伝えられ、歯を守って下さる神様として昔より信仰を集めています。この度、虫歯予防・口内衛生に効果があるキシリトールを白いラムネ菓子状にして作製した『夜叉神キシリトール』を販売する運びとなりました。食べて歯の健康を守る、“食べるお守り”としてぜひお買い求めください。
東寺『光の日日』(第四十七集[2009年新春号])

◆ メメメの新井薬師でも「めぐすりの木」なる眼病平癒茶を販売しているらしい。

〔辛酸なめ子の目ヂカラ修行:vol.01 目に効くお寺~新井薬師(前編)~〕 昔は目薬も売っていたのですが、たまたま保健所の人がお参りに来て、薬事法的に売れなくなってしまいました……。でも、漢方の「めぐすりの木」のお茶は売っています。『肝気は眼に通ず』と言われているように、肝機能を高めて目を癒すお茶です。
www.eyecity.jp/hitomiplan/shugyo/2010/05/post.html

◆ メメメにハハハ、で思い出した。メハマラ。あるいは、ハメマラ。目に歯に魔羅(摩羅)。ひとによっては、歯に目に魔羅。老化により機能の衰えていくとされる順番。もちろん、魔羅は男性にしかない。さてマラマラマラはいったいどこへ行けばよいのだろう?

◇ 目はめがね歯は入歯にて間にあへど(柳多留三八・15)

◆ おかめそば。

◆ 同じ蕎麦屋のサンプル模型。左:2006年10月2日。右:2010年12月22日。見比べると、700円から750円に値上げ。それから、具材の配置がちょっと違っている。いいかえれば、「おかめ」の顔が少々変わった。

〔NHK放送文化研究所〕 「おかめそば」の名前の由来は比較的はっきりしています。幕末に、今の台東区根岸で開業したおそば屋さんが考え出したことがわかっています。
 上に並べる具の配置が、おかめ・ひょっとこの面の顔を連想させるからという理由です。
 湯葉を真ん中で結んでリボンのようにしたものを丼の上の方(奥の方)に置きます、これは髪に見立てたという説と両目だという説があります。
 そして、真ん中には松茸(たけ)の塩漬けを鼻に見立てて置きます。かまぼこ二枚を松茸の両側に下膨れの顔になるように置いて、三つ葉などの青みや卵焼きで口や襟元を作る店もあります。
 この湯葉が一番上にあるのが江戸の決まりだったようです。戦前までは湯葉の下に海苔を置いて、黒髪を強調した店もあったそうです。
 手のかかった、そして、福を呼び込む顔に見立てるという本当にしゃれた名前の付け方だと思います。

www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/ura/kotoba_ura_08060101.html

◆ 先日、蕎麦屋で「おかめ」を注文したところ、ホンモノのおかめが出てきて驚いた。こんなものは食べられない。蕎麦屋だからと油断して「そば」を端折ったのがいけなかった。すいません、間違えました。申し訳ありませんが、「おかめそば」にしてください。しばらくして、今度はちゃんと食べられる「おかめ」が出てきてほっとした。

◆ 先日の「メメメにハハハ」という記事で、

◇ 薬師へめめめ戸隠へはははは

◆ という古川柳を紹介したが、念のために『誹風柳多留全集』(岡田甫校訂,三省堂)で確認してみると、あれあれあれ、「は」がひとつ多かった。つまり、「はははは」ではなく「ははははは」。

◇ 薬師へめめめ戸隠へははははは

◆ 歯の四本が五本になったところでたいした違いはないのかもしれないが、これを単純に「ハハハハハ」と読んでもいいものやら、よくわからない。もしかしたら、

◇ 子子子子子子子子子子子子

◆ のように、特別な読み方があるのかもしれない。ちなみに、上の十二の「子」は、

〔Wikipedia〕 「ねこのここねこ、ししのここじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と読む。この問題を考え出したのは嵯峨天皇、解いたのは小野篁であると伝えられている。
ja.wikipedia.org/wiki/子子子子子子子子子子子子

◆ ここもひとつ、小野篁に聞いてみるべきか。

◆ 野坂昭如の自伝的小説『行き暮れて雪』から。戦後まもなくの六甲ケーブル。

◇  ケーブルカーの出発駅はコンクリート造り、要塞の如く頑丈な建物。暗い構内の中央に傾斜した車体があり、これに沿って、プラットフォームも階段状、その向うに明るい山肌とレールが見える。レールの右側に狭い階段、これを掩うように、六甲山特有の、猛々しい熊笹が繁っていた。
 「誰もいてはらへんのかしら」左に切符売場の窓口、正面左側に改札の柵、右が降りロ、構内は深閑と静まって暗い。ケーブルカーの仕掛けは簡単で、山頂駅にもまったく同じ一台が待機している、下の車と、ケーブルで結ばれ、上の車が降りるにつれて、下が引張り上げられる、両駅の中間で、左右にレールが分れて、すれちがい、さらに二つの車は、進みつづける。「ほな、電気みたいなんいらんのん」悠二の説明をきいて、園子がいった。

野坂昭如『行き暮れて雪』(中公文庫,p.268)

◆ 「ほな、電気みたいなんいらんのん」という園子の関西弁がなんとも魅力的だ。「電気みたいなん」はケーブルカーをつなぐ鋼索の巻き上げに使うけれども、ケーブルカー自体は自走するわけではないから、基本的に「電気みたいなん」は不要。

〔Wikipedia:ケーブルカー〕 車両は外部から引っ張って運転するので動力のための電力の供給は必要ないが、車内照明や自動ドアなどのためにバッテリーや架線、第三軌条などから電力を供給している。パンタグラフがついている車両があるのはそのためである。
ja.wikipedia.org/wiki/ケーブルカー

◆ ついでに「運転士」も不要。

〔Wikipedia:ケーブルカー〕 ケーブルカーの車両に乗務している乗務員は必ず前方に乗務している。そのうえ、乗務員がいる箇所には、一見自動車のハンドルのような円形や、クランク状のハンドルがあることも多い。このため、よく「運転士」と勘違いされるが、実際には「車掌」が前方確認のために前方に乗務しているものであり、「運転士」は山上側の駅にある運転室に詰めていて巻上機を操作している。
ja.wikipedia.org/wiki/ケーブルカー

◆ 以下、ワタシのケーブルカーの写真。

◆ 上の写真は、鞍馬寺ケーブル(2004/01/02)。

◆ 上の写真は、高尾登山ケーブル(2004/09/08)。

◆ 上の写真は、大山ケーブル(2010/11/26)。あと、箱根登山ケーブルにも乗っているはずだが(2008/05/03)、写真がないのが、残念。

◇ この看板の第一印象は、おそらくだれもがそうであるように、せやからどない注意せえちゅうねんというものであった。
木下直之『ハリボテの町 通勤篇』(朝日文庫,p.205)

◆ 「この看板」とは「落石注意」(正式には「落石のおそれあり」と読むものらしい)の交通標識のこと。この標識を見て、「せやからどない注意せえちゅうねん」と思うひとはたしかに多いようで、

◇ しかし、運転中に上から落ちてくる石をどうやって注意するのか。がけ沿いの細い道で上を見ながら運転するなど自殺行為だ。うーむ、どうすればいいのでしょうか。
www5b.biglobe.ne.jp/~k-hassy/20091022.html

◇ そこを通る人に何をせよと言いたいのか分からない。山を見上げながら運転したら危ないぞ。車のほうが渓谷に落ちてしまう。
hecota.blog.so-net.ne.jp/2008-05-31

◇ 実際に落石があったとして、どうやって気をつければいいのか分かりませんよね。
aym.pekori.to/koneta/archives/2004/06/post_8.html

◆ などなど。ワタシには「どのように注意すればいいのかわからない」という意味がよくわからない。注意のしようはいくらだってあるだろう。道路の先に「落石のおそれあり」というのであれば、思い切って引き返すとか、ラジオを消して耳をすますとか、ここ数日の天候を思い出してみるとか。もしかして、そういうハナシではないのだろうか? と、ここまで書いて、しばらく時間がたった。そうしたら、なんとなくわかるような気もしてきた。「どのように注意すればいいのかわからない」というひとは、「落石注意」の標識を、例えれば、(気象庁の)「注意報」ではなくて「警報」のようなものとして受け取っているのではないか。「落石のおそれ」にたいする注意ではなくて、「落石そのもの」にたいする注意として捉えているのではないか、どうもそんな気がする。だが、標識は「ただいま落石中につき注意」ではない。

◆ 《Yahoo!知恵袋》にこんな質問。

〔Yahoo!知恵袋〕 落石注意の標識は既に落ちている落石に注意するのですか??? それともこれから落ちてくる落石に対して注意をするのですか???
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1112362581

◆ この質問の意味も、これまたワタシにはよくわからない。お手上げである。質問者は「落石注意の標識」を見ないで「落石注意の標識」の質問しているのだろうか? 標識に描かれているものを見てもなお、疑問に思うのだろうか?(下手くそな絵なのでなにが描かれているかわからない?) それとも、標識そのものとは関係なしに、たんに「落石注意」というコトバのみを問題にしているのだろうか? それにしても、どうして「既に落ちている落石」と「これから落ちてくる落石」を区別する必要があるのだろう。両方に決まっているではないか。「既に落ちている落石」のみの状況は想像しづらい。その場合、「既に落ちている落石」は、すぐに撤去されるだろうから。「これから落ちてくる落石」のみの状況も想像しづらい。「これから落ちてくる落石」は、数秒後にはかならず「既に落ちている落石」になるだろうから。ちなみに、国土交通省道路局の解釈はこうだ。

〔国土交通省道路局〕 この先に路側より落石のおそれがあるため車両の運転上注意が必要であることを指します。なお、「落ちてくる石(岩)」もしくは「道路に落ちている石(岩)」の一方のみに対して注意が必要であるということではありません。
www.mlit.go.jp/road/sign/sign/douro/road-sign-topics.htm

◆ 後半の「なお~」の一文は、まるで「Yahoo!知恵袋」の質問にたいする回答のようでもあり、おそらくそのような疑問をもつひとが多いということなのだろう。

◆ そもそも「落石」とはなんだろう? 落石には「既に落ちている石」と「これから落ちてくる石」、あるいは「落ちてくる石(岩)」と「道路に落ちている石(岩)」の二種類がある、のだろうか? そう思っているひとが多いのだろうか? 落石とは、まず「石が落ちること」であり、また、その結果として「落ちた石」も指す、そう理解していたワタシには、これはちょっと奇妙で新鮮な二分類で、「(これから)落ちてくる石」をはたして日本語で「落石」と呼べるのかどうか、ということが気にかかる。

〔いさぼうネット〕  「落石」の定義とはなんだろうか?国語辞書の「広辞苑」によれば、「山などで、上から石が落ちてくること。また、その落ちた石」と定義されている。一方、専門図書の「落石対策便覧」(日本道路協会)では、「落石とは、岩盤の不連続面(岩盤中に発達する節理、片理、層理等の割れ目)が拡大して、岩塊や礫がはく離したり、表層堆積物、火山噴出物、固結度の低い砂礫層の中の岩塊、礫が表面に浮き出して斜面より落下する現象をいい、落下した岩塊等も落石ということが多い」と、さすがに詳しく説明されている。
 ちなみに、道路上でよく見かける「落石注意」の標識は、「落ちてくる石に注意という意味ではなく、路上に落ちている石に注意してくださいということを促している」と言う意見がある。

isabou.net/theme/03-01_rakuseki/knowledge/index.asp

◆ しかし、「落石に当たって死亡した」などというニュース記事を目にすることもある。

〔MSN産経ニュース〕 11日午後2時45分ごろ、長野・岐阜県境の御嶽山(3067メートル)で、横浜市保土ケ谷区仏向町、無職、****さん(36)の上半身に1メートル大の落石が当たった。**さんは頭を強く打ち、死亡した。
sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/100712/dst1007121114002-n1.htm

〔読売新聞〕 11日午前10時半頃、山梨県南アルプス市の北岳の標高2700メートル地点の岩壁で、落石に当たって負傷していた岐阜県高山市桐生町、会社員****さん(42)を県防災ヘリが発見したが、**さんは内臓損傷による出血性ショックで死亡した。
www.yomiuri.co.jp/national/news/20101011-OYT1T00391.htm

◆ 結局、落石とは「石が落ちること」(fall of rocks)および「落ちている石」(falling rocks)または「落ちた石」(fallen rocks)の3つの意味があるということになるのだろう。

◆ 冒頭に引用した文章は、「第二印象は、」とつづき、書きたいのは、この「第二印象」のほうだったが、長くなったので、次回。

◆ 「落石注意」の標識のつづき。この標識に描かれた石(岩)は何個だろうか。だれがどう見たって4個だろう、と思うひとがほとんどだろうが、1個だと思うひともいる。

 ◇  第二印象は、法隆寺にある玉虫厨子への連想である。その台座の部分に、自らの肉体を与えることで餓えた虎の命を救ったという、釈尊前世の有名な物語「捨身飼虎(しゃしんしこ)」が描かれている。
 崖の上に衣を脱ぐ男、身を投じてまっさかさまに落下する男、崖下には、虎にまさに今食べられんとする男の姿がある。
 それを、三人の男が次々と飛び降りる様子だと受け取れば、画家は、あまりに張り合いがないと嘆くに違いない。
 画家は、一人の男の三つの場面を苦心して描いたのである。同様に、岩もまた、四個ではなく一個でなければならない。
 玉虫厨子の画家と交通標識の画家との間には、なんと千三百年余りの時間が横だわっているのだ。画家にとって、運動をどのように絵にするかということが、永遠の課題であり、標識のこの表現が古くて新しい方法であることがよくわかる。おそらくもっと早く、絵を描き始めた時から、人類はこの難問とともにあったのだろう。
 なんとか絵を動かしたいという願いは昂じて、とうとう映画を生んでしまう。映画ではなく活動写真と呼べば、動く絵に初めてふれた人々の感動かよみがえってくる。

木下直之『ハリボテの町 通勤篇』(朝日文庫,p.205-206)

◆ 「薬師でめめめ」の川柳を『誹風柳多留全集』(岡田甫校訂,三省堂)で確認したさい、ついでに前後の句もちらほら読んでみたが、皆目わからず。唯一わかったのがこれ。

◇ 優曇華を三度見てから龜ハ死(柳多留152・11)

◆ 三千年に一度しか咲かない珍しいウドンゲ(優曇華)の花も、一万年生きる亀なら三度も見ることができる。

ウドン‐げ (名) 優曇華〔うどんハ梵語、優曇鉢羅(ウドンバラ)の略、瑞應の義〕(一)天竺ニアリトイフ樹ノ名、常二、實アリテ花無ク、三千年ニシテ、始メテ花アリト云フ、若シ此樹ニ金花アルトキハ、佛、世ニ出ヅト云ヒ、又、轉輪聖王、世ニ出ヅレバ、此花生ヅトモイヒテ、世ニ稀ナルコトノ譬ヘトス。(二)芭蕉ノ花ノ稱、寒國ニテハ、花稀ニ開クガ故ニ、譬ヘテイフ。(三)無花果(イチジュク)ノ異名。(加州)(四)一種ノ蟲ノ、其卵ヲ草木ノ枝、或ハ屋内ノ器物ナドニ着クルモノ、長サ四五分、白キ絲ノ如クニシテ、頭ニ白ク小キ卵アリテ、花苞ノ如シ、六足四翅ノ蟲ニ羽化ス、虻(アブ)ノ類ナリ。
大槻文彦『言海』(ちくま学芸文庫,p.254)

〔WikiArc:うどんげ〕 優曇は梵語ウドゥンバラ(udumbara)の音写、優曇鉢羅(うどんばら)の略。優曇鉢華(うどんばけ)・優曇鉢樹(うどんばじゅ)ともいう。霊瑞華と漢訳する。桑科のイチジクの一種で三千年に一度だけ咲く花という。仏の出世が稀なことや、めでたいことのおこる前兆を示す喩えに用いられる。
labo.wikidharma.org/index.php?title=うどんげ&oldid=27293

◆ 三千年に一度といえども、かなり運がよければ、寿命百年の人間であっても見ることができるだろう。とてつもなく運がよければ、寿命一日の蜉蝣(カゲロウ)であっても見ることができるだろう。反対に、寿命千年の鶴だって、運が悪ければ、見ることができないだろう。

◇ 優曇華を一度も見ずに鶴は死に

◇ 優曇華を見て蜉蝣はすぐに死に

◆ カゲロウといえば、先に引用した『言海』には、「優曇華」の意味として、四番目に昆虫の卵が挙げられていて、「(四)一種ノ蟲ノ、其卵ヲ草木ノ枝、或ハ屋内ノ器物ナドニ着クルモノ、長サ四五分、白キ絲ノ如クニシテ、頭ニ白ク小キ卵アリテ、花苞ノ如シ、六足四翅ノ蟲ニ羽化ス、虻(アブ)ノ類ナリ」とあって、この「一種ノ蟲」を大槻は「虻ノ類」としているが、これはクサカゲロウのことらしい。

〔虫の雑学(梅谷献二):うどんげの花〕 クサカゲロウはアミメカゲロウ目の昆虫で、英名で lacewing-flies(レースの翅の虫)または aphis-lions(アブラムシのライオン)と呼ばれている。〔中略〕 特徴的なのはその卵で、雌が腹の先から葉面に一滴の液を落とし、腹を持ち上げるとそれが糸状に伸びて固まり、その先端に卵を生む。同じ場所に何本かまとめて産卵するが、糸が細いので卵が空中に浮遊しているように見える。また、成虫は明かりに飛来する性質があり、よく電灯の笠などにも産卵することがある。そして、古く日本ではこれが植物と誤認された。それも、3千年に一度花が咲き、開花のときには如来が世に現れるという伝説の"うどんげ(優曇華)の花"とされたのである。
www.afftis.or.jp/konchu/mushi/mushi92.htm

◆ とりあえず、いまのところはまだ、優曇華を見たことがないが、クサカゲロウの卵なら、死ぬ前に一度くらいは見ることもできるだろう。

◇ 「私ねえ、本は読まないようにしているの」
 閑(ひま)さえあれば寝っころがって本を読んでいる私はびっくりして、
「どうして」
 と聞いた。
「だって、おばあさんになって老人ホームに行った時、普通の人と話が合わなくなると思うから」

佐野洋子『ふつうがえらい』(新潮文庫,p.234)

◆ なるほど。それもひとつの見識だろう。「敢えて~しない」という決断は目に見えないから、傍目からは「~しない」と見分けがつかない。でも、注意深いひとなら、どこかの筋肉に微妙な強ばりを見出してしまうかもしれない。「敢えて~しない」を続けていると、そのうち「~しない」と完全に区別がつかなくなって、そのころにはかつて「敢えて」という決断をしたことも忘れてしまっているだろう。そうなればいい。

◆ 中野重治『歌のわかれ』(1940)から。

◇  行ってみると内蔵太は風邪をひいて寝ていた。
「なんだ。中将湯を飲むのか。」
「うむ……きくんだよ、おれには。」
 中将湯が振出し薬だということを安吉ははじめて知った。

中野重治『歌のわかれ』(『村の家・おじさんの話・歌のわかれ』所収,講談社文芸文庫,p.205-206)

◆ 中将湯(ちゅうじょうとう)。それから、振出し薬。この場面で「中将湯が振出し薬だということを安吉ははじめて知った」のだったが、ワタシは「中将湯」というコトバも「振出し薬」というコトバもこの文章ではじめて知った。そもそも、薬についてはほとんどなにも知らない。

◇ 「なんだ。中将湯を飲むのか。」「うむ……きくんだよ、おれには。」

◆ どうやら「中将湯」というのは、ふつうは風邪薬として用いるものではないらしい。では、なんの薬か?

〔ツムラ〕 『中将湯』は、婦人薬として用いられている生薬製剤です。「月経」や「更年期障害」に伴う「頭痛」、「肩こり」、「腹痛」、「腰痛」、「冷え」、「のぼせ」、「めまい」等の不快な症状を改善します。
www.tsumura.co.jp/products/otc/otc01.htm

◆ ああ、婦人薬だったのか(と書きながら、この「婦人薬」というのもよくはわかっていない)。すると、安吉の「なんだ。中将湯を飲むのか」というセリフには、「男のくせに」のという意味が言外に込められていたのだろう。

◇ 「あたし、中将湯を飲み出してから病気というものを知らなくなりました」
「それあ結構ですね。実は僕も中将湯の信者なんです」
「あら!男が飲んでどうするんです?」

村松梢風「彼女と中将湯」(『婦人世界』昭和4年7月号)

◆ ワタシも今度風邪をひいたら中将湯でも試してみようか。中将湯のほかにも婦人薬はいろいろとあるようで、先日たまたま見かけた看板の「実母散」もそのひとつ。

〔yomiDr.:薬と健康 なるほどヒストリー(内藤記念くすり博物館 稲垣裕美)〕 婦人薬はその土地ごとに有名な薬があり、江戸では喜谷実母散(きだにじつぼさん)、千葉実母散、中将湯、また、岐阜では蘇人湯、京都では蘇命散などがありました。
 これらの薬は煎じ煮つめるのではなく、必要な時に湯を沸かして、その中で薬を入れた袋を振ると有効成分がさっと溶け出すタイプの薬です。これは、振り出し薬と呼ばれ、つらい症状の時にすぐに用いることができるようになっています。しかも、温かいうちに飲めば、体が冷えやすい女性の体を温めていたわる働きもあり、重宝されました。

www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=26983

◇  煎じ薬はお袋の匂いだった。火鉢に土鍋をかけて、ことことと薬を煎じていたお袋を思い出す。白い割烹着の似合うお袋だった。もう四〇代も半ばを過ぎていただろうか。
 その年頃の婦人特有の変調に“血の道症”というのがある。今風にいえばホルモンのアンバランスと自律神経失調による病変で、更年期障害の代表的な症候群であろう。こんなとき、よく家庭で用いられたのが「實母散」という煎じ薬たった。

鈴木昶『日本の伝承薬 江戸売薬から家庭薬まで』(事業日報社,p.246)

◆ 引越のお客さんチに丸盆があった。なにかの記念品のようで、裏返してみると、「祝 弾丸鉄道新丹那トンネル鍬入式 株式会社 間組」と書かれている。日付はない。新丹那トンネルは東海道新幹線のトンネル。「弾丸鉄道」の文字が気にかかる。

◇ 新丹那トンネル(しんたんなトンネル)は、丹那トンネルの約50m北側に並行して延びる長さが7,959mの東海道新幹線用のトンネルである。
 新丹那トンネルのトンネル工事が開始されたのは、1941年(昭和16年)8月にさかのぼる。新丹那トンネルは、もともとは戦前の高速鉄道計画である弾丸列車計画に基づくものであった。しかし、1943年には第二次世界大戦の戦況悪化にともない中止されてしまった。中止の時点において、熱海口(東口)は647m、函南口(西口)は1433mの先進導坑がすでに掘削され、両坑口ともに200~300m程度の覆工を完成させていた。〔中略〕
 戦後、東海道新幹線のために弾丸列車計画のルートが採用されたため、新丹那トンネルは今度は新幹線用のトンネルとして利用されることとなった。新丹那トンネルは、1959年に工事が再開され1964年に完成を見た。〔中略〕
 ちなみに、東海道新幹線の全体の起工式が行われたのは、新丹那トンネルの熱海側坑口前である。新丹那トンネルこそが全体の工期を律する最重要工区とみなされていたためである。

◆ 東海道新幹線の起工式が行われたのは、1959(昭和34)年4月20日。

◇  新幹線工事は、新丹那トンネルの掘削からはじめられることになり、昭和三十四年四月二十日午前十時、新丹那トンネル熱海口で新幹線起工式がもよおされ、十河国鉄総裁が鍬入れをおこない、大石新幹線総局長が工事の開始を宣した。
 弾丸列車計画による新丹那トンネルは、熱海口が間組によって、函南口が鹿島建設請負で途中まで導坑がそれぞれ掘削されていたので、新幹線建設計画でも、両社に請け負わせて工事を再開させることになっていた。総工費三十八億七千万円、工期五十三カ月が予定された。

吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.417-418)

◆ こんどは、十河国鉄総裁の「十河」の読み方が気にかかる。

〔Wikipedia:十河信二〕 十河 信二(そごう しんじ、1884年4月14日 - 1981年10月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。愛媛県西条市市長、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年 - 1963年)。「新幹線の父」と呼ばれる。西条市名誉市民第一号。
ja.wikipedia.org/wiki/十河信二

◆ この「そごう」さんには、こんなエピソードもあるそうな。

〔Wikipedia:十河信二〕 1973年に東海道新幹線の東京駅18・19番ホーム先端に東京駅新幹線建設記念碑が建立されたが、その碑には功績を讃えて、十河のレリーフと座右の銘である「一花開天下春」の文字が刻まれている。ちなみに、そのレリーフの自分の肖像を見た十河は一言、「似とらん」と言ったそうである。
ja.wikipedia.org/wiki/十河信二

◆ 丹那トンネル工事を描いた吉村昭の小説、『闇を裂く道』を読んだら、丹那盆地に行きたくなった。

◇  子供づれの女が通り、老いた男がすぎた。かれらは例外なく挨拶してすぎ、子供も頭をさげた。
 急に樹林がきれ、あたりがひらけた。峠にたどりついたらしい。
 坂道をのぼったかれは、足をとめた。眼下に思いがけぬ光景がひろがっていた。それは、いかにも盆地というにふさわしい地形で、三方が低い山にかこまれ、平坦な地に田畠のひろがりがみえる。光っているのは川で、池らしいものもある。草木は、まだ緑の色をみせていないが、点々と田畠の中に散る藁ぶき屋根の家々が、おだやかな田園らしいたたずまいをみせている。若い技師が、別天地のようだと言っていたが、曾我の眼にも砂漠の中のオアシスのようにみえた。
〔中略〕
 かれは、しばらくの間、丹那盆地をながめていた。疲れも忘れ、眼が清冽に洗われる思いであった。

吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.33-34)

◇  曾我は、川口の家を出ると畦道を進んだ。小川に膝まで水につかった子供たちが、大きな笊(ざる)を突き立て、そこへ魚を追いこんでいる。あげた笊の中には、川魚が何尾もはねていた。
 かれは、水の豊かなことに呆れた。流れがいたる所にあり、大きな水車がまわっている。村には、水の流れの音と匂いがみちていた。
 咽喉がかわいたので、一軒の農家に入り、水を飲ませてもらった。その水は、家の裏手を流れる小川から直接樋でひき入れたもので、丹那盆地に住む人たちが、小川の水を飲んでいることを知った。
 湧水池の近くには、ワサビも栽培されていた。ワサビ田に清流が絶え間なく走り、それが光りながら樹林の中に消えていた。かれは近づき、掌で水をすくってロにふくんだ。歯にしみ入るような冷たさで、かすかに樹皮の匂いがしていた。

Ibid., p.35-36

◆ 「別天地」あるいは「砂漠の中のオアシス」という表現でもいいが、まるで桃源郷のようなところ。かつては。

〔Wikipedia:丹那トンネル〕 トンネルの真上に当たる丹那盆地は、工事の進捗につれて地下水が抜け水不足となり、灌漑用水が確保できず深刻な飢饉になった。住民の抗議運動も過激化したため鉄道省は丹那盆地の渇水対策(貯水池や水道等の新設、金銭や代替農地による補償等)にも追われることとなった。現在でも、完成した丹那トンネルからは大量の地下水が抜け続けており、かつて存在した豊富な湧水は丹那盆地から失われてしまった。例えば、湿田が乾田となり、底なし田の後が宅地となり、7カ所あったワサビ沢が消失している。
ja.wikipedia.org/wiki/丹那トンネル

◆ 正月休みの帰りに、かつては桃源郷であった丹那盆地を訪ねてみようかと思ったが、車がないときびしそうだったので、あっさりヤメにした。寒いし。暖かくなったら、また考えよう。

◆ 丹那盆地に行くのはやめたが、丹那トンネルだけは見ておこうと思って、新幹線を熱海で降り、伊東線に乗り換え、来宮(きのみや)駅に着いた。改札口でトンネルへの道順を尋ねると、わからないから、となりの交番で聞け、と言う。鉄道員なのに。

◇  丹那山トンネルの工事は、熱海口から開始されることになった。
 大正七年三月二十一日朝、熱海町の梅園近くにある坑口予定地の山肌の前で起工式がもよおされた。

吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.46-47)

◆ たしかに「梅園近く」に丹那トンネル熱海口はあった。

〔Wikipedia:丹那トンネル〕 熱海側の坑門上部には、開通時の鉄道大臣内田信也揮毫の銅製「丹那隧道」扁額が中央にあり、左に2578、右に2594という数字も掲げられている(2つの数字は着工と開通の年の皇紀を表す)。
ja.wikipedia.org/wiki/丹那トンネル

◆ 2594-2578=16。トンネル工事は、1918年(大正7)年から1934年(昭和9)年、完成までにじつに16年もの歳月を要した。殉職者67名。熱海口坑門の真上に「殉職碑」があり、殉職者名簿がある。三澤徳一、長田要一、織田龍一、永井誠一郎、石原森一、横山松太郎、松本源太郎、高橋吉太郎、福本伯太郎、三上清太郎、小林金一、兒玉長太郎、安藤一郎、藤田金一、田口一男。長男っぽい名が多い(なんてことはどうでもいいのだけど)。それから、女性がふたり。岩田エイ、金子安。それから、朝鮮名のもの7名。季春伊、李且鳳、金炳泰、明東善、李賢梓、孫壽日、金芳彦。合掌。

◆ 吉村昭『闇を裂く道』に参考文献として挙げられているもののうち、鉄道省熱海建設事務所編『丹那トンネルの話』が、《土木学会附属土木図書館 デジタルアーカイブス》の「戦前土木名著100書」に選ばれており、うれしいことにネット上でも読める(PDFファイル)。読み物として、おもしろい。たとえば、こんなハナシはどうだろうか(「十一 馬頭観世音の由来」)。

◇  トンネルを掘るには、崩した土砂や岩石――之を碿(ズリ)と謂ひます――を坑外に運び出さねばなりません。此の運び出す作業、即ち碿出は、勞働者がウンサウンサとトロを押してもやれます。併しトンネルの長さがだんだん長くなつて碿の量がふへ、捨場の距離が遠くなると、人間の力でやつたのでは、間に合はなくなります。金も餘計掛ります。だから何か人間より力のあるものを使はなければばりません。これには馬か牛の生物をつれて來て、手傳はせるのが一番簡單です。牛や馬なら人間よりは力が強く丈夫で、しかも文句を言ひませんから、餘計に仕事をさせられます。
 丹那トンネルでも、初めの口付け時代には、人力でトロを押して、やりましたが、間もなく馬に代へることにしました。併し馬を使つて一番困ることは、馬が臆病な點です。殊に坑内の暗い處になると、馴れた奴でも、兎角物事に驚き勝で暴れ易く、その爲に能く足を折る奴が出來ます。馬も足を折つては商賣になりませんから、此奴はトロに積んで坑外に運び出して殺してしまひます。已むを得ませんが、如何にも不憫です。いくら畜生でも一掬の涙なしにはと謂ひたくたります。三島口の鹿島組では、可なり長い期間、馬を使ひましたから、此の間に澤山の馬を犠牲にしました。碿出しの下請をやつて居つた川上氏はこれを見て、仕事の爲とは謂へ、餘りに可哀相だ、何とか馬の靈を慰めてやり度いと、考へた末、馬頭觀世音を建立して、供養をしてやりました。今の火藥庫のある山の下にあるのが、それです。近頃は大分お詣りする人が多勢あります。それは家族が病氣のとき病氣が樂になり早く癒る樣に祈るのですが、效驗があらたかの爲か、お供物を供へて、線香の煙のゆらゆらしてゐる日の方が多いやうです。三島口に停車場でも出來ましたら、もつと適當の場所に移す計畫も出來てゐるやうです。
 馬はこんなエ合で、兩ロとも餘り、成績が思はしくないので、次は牛を使ふことにしました。牛は馬よりもカが強く、それに臆病でありませんから、其の點は好都合です。此の馬や牛を使つた時代は、未だ坑内の明りはカンテラですから、手元以外は眞黒です。此の闇の中で圖體の大きい牛や馬と一緒に働くのですから時々間違ひが起ります。牛はトロを引いても、悠々と餘り音を立てず、暗闇から、のそりと出て來ますが、其の眼玉が異樣に光つて、氣味の悪いものです。或る人夫などカンテラの燈だと思つて居ると兩眼を光らした大きな牛の頭が暗闇から突然眼前に浮び出たので、びつくりして、あわてゝ逃げて、大怪俄をした事もありました。そんなことから、牛の首に鈴をつけて見ましたが、牛が歩くとカランカランと鳴り、坑内から鈴音勇しく出て來る樣は、一寸活氣もあり、乙な處もあつて、いゝものでした。牛馬との暗闇生活で、一番困るのは、先生達の糞尿です。所きらはずやるので坑内は臭くなり、足元がともすると辷つて危険です。此の時分の笑話です。三島口の組員の一人が、眞暗な中を、或る時切り擴げの上段から、手捜で降りて來て、大體此の邊が、支保エの「大引」だと思つて、ぐつと、つかまつて見ますと、何だか柔かで暖い、おかしいなと氣がつくと、馬の尻にしつかりつかまつて居たと謂ふナンセンスもありました。熱海ロの鐵道工業會社では、朝鮮牛の赤い奴でトロ三臺を引くのを使ひましたが、三島ロの鹿島組では、丹波牛のトテツモなく大きい奴で、トロ十臺も引くのを使ひました。面白いことに、兩請負人の仕事のやりつぷりの違ふのが、こんな點にも表はれて居ます。
 こんな工合で、牛馬の御厄介には大分なりましたが、結局技術的な動力の力を借りなければ、充分な仕事は出來ません。愈々牛や馬を免職して、電車運搬にしたのは、大正十年夏頃からでした。今日なら電氣工業も發達し、トンネル技術も進歩しましたから、こんな人から馬、馬から牛、牛から電氣と、まだるいことをやらずに、いきなり電氣を使ふでせう。併し當時としては已むを得なかつたのです。暗い地中のトンネル作業では、味もなく、臭もなく、形もない電氣の御厄介になるのが一番です。之れで碿出し作業も、本格的になつたのですが、馴れると云ふものは、おかしなもので、電車にした當時には、坑夫達のなかに、電車は早くていかんとか、トロの連結があぶないとか、不平を謂ふものがありました。こんな連中でも、まさか今日では牛や馬を使つて見る勇氣もありますまい。人間は兎角舊慣に惰して、新しきにつかないものです。しかし一旦移ると又すぐ馴染んでしまひます。新調の靴が一寸はき悪いと謂つた工合なのでせう。

鉄道省熱海建設事務所編『丹那トンネルの話』(鉄道省熱海建設事務所,p.59-61,1934)

◆ ズリ(碿)を積んだトロ(ッコ)を牽く馬や牛。『闇を裂く道』では、こうなっている。

◇  切端で崩された土石(ズリ)は、労務者がトロッコを押して坑口の外に運び出す。それは、途中で何度も休まねばならぬほどの重労働で、導坑が裾り進められるにつれて運ぶ距離も長くなり、労働は一層きびしさを増した。熱海ロ、三島ロともに一キロメートル近くまで掘り進んでいたので、ズリをトロッコで運び出すにはかなりの時間を要した。
 そのため馬と牛を使用することになり、熱海口では六頭の牛が集められ、三島口では馬が調達された。
 牛馬は、それぞれ空のトロッコ三台をひいて坑口から切端にむかった。坑内は電燈がなく真の闇で、牛、馬は、手綱をとる者の持つカンテラの明かりをたよりに進み、切端にたどりつく。そこでトロッコにズリが積まれ、牛、馬は、それをひいて坑口に引き返して土捨て場にゆく。これによって能率が上がり、人件費の節約にも役立った。
 ズリ出しを終えた牛や馬は、坑口の外で飼料をあたえられて休息をとる。係りの者は馬を近くの川に連れて行って体を洗ったり、牛の体を藁で拭いたりしていた。
 半月ほど過ぎた頃、三島口で馬の事故が起った。
 その日、ズリを積んだトロッコをひいて坑口に進んでいた馬が、突然、暴れ出した。手綱をもつ男の手にしたカンテラの淡い灯だけの闇に、馬が恐怖を感じたのである。
 男は驚いて制止しようとしたが、馬はたけり狂い、足を曳き綱にからめて骨折してしまった。馬の甲高いいななきをきいて集まってきた労務者たちは、倒れた馬の足を綱でしばってトロッコにのせ、坑口の外に運び出した。足を骨折した馬は殺す以外になく、処理業者に渡され、運び去られた。
 馬の事故は、その後もつづいた。臆病な性格の馬は闇を恐れ、不意の音に驚いて暴れ、足を骨折する。その度に、馬は、大ハ車で処理場に運ばれた。三島ロのズリ出しを請け負っていた親方は相つぐ馬の死をあわれみ、霊を慰めるため自費で馬頭観世音の像を建立し、香華をそなえた。
 熱海口で使っていた牛には、事故はなかった。牛は馬より力が強く、歩く速度はおそいが闇も恐れずトロッコをひく。そのため、三島口でも馬の使用をやめて牛に切りかえることになった。
 三島ロでは丹波牛を集めた。それは、体が大きく力もあって、熱海口で使っていた牛がトロッコ三台をひくのに、丹波牛は十台もひく。落ち着いた動きでズリを満載したトロッコをひいて、坑外に運び出し、能率が向上した。
 しかし、牛そのものに事故はなかったが、熱海ロの坑道で、坑内夫が重傷を負う出来事が起った。牛は物音も立てずに歩く。その坑内夫は、闇の中から突然、姿をあらわした牛に驚き、あわてて逃げたため支保工の丸太に体を打ちつけて顔を強打し、腕も骨折したのである。
 この事故は、今後も起ることが予想された。それを防ぐため牛の首に鈴をつけさせることにしたので坑道には悠長な鈴の音が往き来するようになった。
 そのうちに、坑内労務者の間から牛の排泄物に対する苦情が建設事務所派出所に持ち込まれるようになった。坑内に悪臭がただよい、糞に足をすべらせて倒れる者もいる。派出所では、専門の処理係をもうけ、糞をスコップですくってトロッコで坑外に出させる処置をとった。

吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.64-66)

◆ 同じ文章を再読するより、似たような文章を複数読んだほうが愉しいし、記憶に残るように思う。間違いも少なくなるだろう。

◆ 丹那トンネル熱海口坑門の真上には殉職碑があり、その背後には丹那神社がある。《丹那神社》のサイト(URL上は、来宮神社のサイトに間借りしている)によると、

〔丹那神社〕 丹那神社は、このトンネル工事の犠牲者の英霊の鎮魂の意味を込めて、工事の守り神として坑口上に建立、当初「隧道神社」と命名されて現在地に祀られましたが、後に「丹那神社」と改称されて今日に至っています。
www.kinomiya.or.jp/tanna/yurai-keidai.htm

◆ この「丹那神社の右斜め上に」小さな祠がある。この祠について、《丹那神社》のサイトはつぎのような説明をくわえている。

〔丹那神社〕  トンネル工事を担った坑夫は、金、銀、銅などの鉱山で活躍した坑夫の系譜に連なる人たちです。
 固有の歴史と伝統、規律を持つこの人たちには、様々な習俗・習慣がありましたが、その一つに工事を起こす際に、山を鎮め、工事の安全を祈って坑口に山の神様(山神宮)を祀るというものがあります。
 丹那トンネルの工事に際しても、着工前に山の神が祭られました。丹那神社の右斜め上にある小さな祠がそれで、石を刻んだだけの素朴な社です。
 祭神は大山祗命(おおやまずみのみこと)が祀られ、坑夫たちは坑内への出入りの際には参拝したと言われています。

www.kinomiya.or.jp/tanna/yurai-keidai.htm

◆ この「山の神様」を祀っている小さな祠が、山神社(さんじんじゃ)。坑夫、炭鉱夫、トンネル坑夫。ああ、そうか、トンネルで働くひともやはり坑夫なのだった、と当たり前といえば当たり前のことに、いまさらながらに気がついて、なるほどなるほど、と合点がいった。山の神。

◇ 妻が出産した折りには一週間坑内に入らぬ習わしがあり、女が坑内に入るのをかたく禁じる現場もある。それは、山の神――女神の嫉妬を買い、山が荒れるからだという。迷信だと言って笑うのは容易だが、それほど神経を使わねばならぬ危険な職場だ。
吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.94)

◆ トンネルにかぎらず、全国各地の鉱山、炭鉱には、きまって「山神社」がある。友人の住む万字にも山神社はあった(近年移築され、その賽銭箱を友人が作った)。

◆ べつな本を読んでいたら、こんな記述。

◇  宿を出て渓谷沿いに下って行くと、巨大な男根状の岩(男石明神)を過ぎ、やがて狭い谷からすこし開けた里に出た。谷の出口から下に棚田が見えている。その出口というか、里のほうから来れば狭い谷への入口に、小さな神社があった。
 風雪にくろずんだ白本の鳥居に、「山神宮」と書いた板額が上がっている。
 ――なんと素朴な名前だろう。
 角間神宮といった名があってもよさそうだが、たんに山神宮だった。鳥居の奥の社殿も祠といったほうがいいくらいに素朴で小さなものだ。この神社が、固有名詞をもたず、ただ山の神社であるところに、ここがまさに山国であることを思わせられる。

高田宏『信州すみずみ紀行』(中公文庫,p.113)

◆ 「なんと素朴な名前だろう」、ワタシも友人に万字の神社の名が「山神社」であることを聞いたとき、そういう気がした。上の引用文で触れられている角間渓谷の山神宮も、もしかしたら近くに鉱山があったのでは、とつい思ってしまったが、山の神を祀るのは、なにも鉱山だけではない。マタギ、キコリ、炭焼き、山にはいろんな仕事がある。

◆ 似たような写真が3枚あると、並べたくなる。2枚では少なすぎ、4枚では多すぎる。3枚がちょうどいい。ちょっと前にも、「3つの講堂」を並べてみたが、今回は高校の校門の写真を3枚。

◆ これらがみな高校の門だというのだから、驚く。
(左)長野県立上田高校正門(旧上田藩主居館表御門)。上田市文化財。
(中)千葉県立大多喜高校〔かつては〕正門(旧大多喜城二の丸御殿薬医門)。千葉県文化財。
(右)京都府立園部高校正門(旧園部城本丸櫓門)。文化財指定なし。

◆ 門といえば、小諸城大手門にふれて、「愛がなくちゃね」という記事を書いたが、歴史的建造物として観光名所であるだけの門よりも、じっさいに使用されている門のほうが好きだ。門だって、門として建てられたからには、できることならいつまでも門として仕事をしていたいだろう。博物館に保存された「きかんしゃやえもん」が幸せだとは思えない。

◆ 3つのなかでは、この上田高校の門が一番すばらしい。《長野県上田高等学校公式ホームページ》の、「校門と堀・濠」というページの写真の数々(卒業式や入学式)がこれまたすばらしいのでぜひ一度。

◇  本校正門は、上田藩主居館表御門を継承したものである。
 寛政2(1790)年、上田藩主が松平忠済(ただまさ)の時代に再建され、形式上薬医門と呼ばれる。中世以降の武家、禅宗寺院に多く用いられた様式である。
〔中略〕
 門標の「長野縣上田高等学校」は昭和38年秋、当時、新潟大学教授石橋犀水先生に揮亳していただいたものである。門標が盗難に遭う前に籠字にしておいたものを80周年の記念事業の中で刻して復活した。

ueda-h.ddo.jp/koumon.htm

◆ なにがすばらしいといって、この歴史のある門が、いまなお「生きている」のがすばらしい。訪れたのは土曜日で門は閉ざされていたが、右端のポストには新聞が配達されていた。

◆ 大多喜高校のこの門、説明板によると、

◇ この門は大多喜城内建造物唯一の遺構である。本柱が中心より前方にあり、控柱を付けた薬医門形で、天保十三年の火災後に建築された二の丸御殿の門である。明治四年の廃藩の際に、城山水道の開鑿により、功績のあった小高半左衛門に払い下げられた、大正十五年、曾孫にあたる県立大多喜中学校第一回卒業生小高達也氏により、同校の校門として寄贈された。

◆ とある。たしかにかつては校門として使用されていたらしいのだが、いまでは校舎へと直接つながるスロープが門のすぐわきにあるので、門としての役割はあまり果たしていないのが残念といえば残念。ネット上であれこれ検索してみても、卒業生の思い出話にこの門のハナシは見つからない。城門としても小ぶりで、だから、城めぐりが好きなひとが、

〔K.Yamagishi's 城めぐり〕 裏門だったので大したものではない。水戸一高内にある水戸城本丸正門だった薬医門のほうが立派である。
shiro.travel.coocan.jp/02kanto/otaki/index.htm

◆ と思うのも仕方がないだろうが(ちなみに、上記のサイト管理人は水戸一高卒業生だそうだ)、創立4年目の新しい高校に通ったワタシとしては(そんなことはどうでもいいが)、それでもこんな門のある高校がうらやましい。

◆ 園部高校正門。この門もいまなお生きている。(あれこれ調べて補足の予定)

◆ 独り言はあまり言わないほうだと自分では思っているが、それはふだん耳が働いていないだけのことかもしれない。そんな気もする。つい今しがた、「あれっ!」という自分の声が自分の耳にはっきりと聞こえた。銭湯の帰りに立ち寄ったいつものスーパーで、いつものように、1パック6缶入りの缶ビールを買って帰った。部屋に戻って、さっそくそのうちの1缶を取り出したところが、「あれっ!」。いつものように、500mlのものを買ったつもりだったのに、手にしているのは、なぜだか350ml。「あれっ!」。このあと何本飲んでいいのやら、微妙に判断に迷いつつ、とりあえず、いま2缶目に手をつけたところ。

◆ 3つの駅前ビルに共通点。いずれも名称の由来がダジャレ。
(左)京都市山科区、(JR・京阪)山科駅前にある「RACTO」。洛東から。
(中)京都市伏見区、(地下鉄)醍醐駅前にある「ダイゴロー」。醍醐から。
(右)川崎市高津区、(JR・東急)溝口駅前にある「NOCTY」。溝口(みぞのくち)の愛称「のくち」から。

◆ 醍醐駅は地下鉄なので、駅前というより駅上か。溝口駅はJRが「武蔵溝ノ口駅」、東急が「溝の口駅」と表記がややこしい。あと、小田急線高座渋谷駅前には「IKOZA(イコーザ)」というのも。

◆ 「きのこのこ」という店の看板を見て、ちょっと考えた。

き-の-こ (名) 〔木ノ子ノ義カ〕
大槻文彦『言海』(ちくま学芸文庫,p.393)

◆ キノコは「木の子」。だったら、キノコの子は「木の子の子」になって、ということは、「きのこのこ」は木の孫になるのかな? でも、「木の孫」っていったいなにかな?

◆ ケヤキにキノコが生えていた。「けや木」に「木の子」が生えていた。「けや木」に生えた「木の子」は「けや木の子」? このケヤキの子はなんという名前かな?

◆ 「けや木」というレストランがあった。けや木の「けや」ってなにかな? 大槻さんに聞いてみよう。

けや-き (名) 〔良材ナレバ、貴(ケヤ)ケキ木ノ意カト云〕
大槻文彦『言海』(ちくま学芸文庫,p.470)

◆ 「やな木」というレストランはまだ見たことがないけど、やな木の「やな」ってなにかな? 大槻さんに聞いてみよう。

やな-ぎ (名) 〔彌長木ノ意カト云、或云、梁木ノ義、水邊ニ多ケレバイフト、或云、矢之木ノ轉、(又矢木(ヤギ))古ヘ、矢ニ作レバイフト、共ニイカガ〕
大槻文彦『言海』(ちくま学芸文庫,p.1175)

◆ あはは、「共ニイカガ」だって。なんだか政治家みたいだな。語源というのは、いつでも、とってもむずかしい。

◆ 「ケヤキの木」とか「ヤナギの木」っていう言い方は、「けや木の木」とか「やな木の木」ってことだから、ちょっとだけヘンかもしれない。

〔毎日jp(新潟):「ボトナムは知っている」 北朝鮮帰還事業50年(1) 植樹の日に生まれて(2009年12月09日)〕  新潟市中央区のショッピングエリア・万代シテイから新潟港へと続く国道113号沿いに、柳の木が約2キロにわたって立ち並ぶ。
mainichi.jp/area/niigata/news/20091209ddlk15040048000c.html

◆ 以前、この新聞記事を引用したとき(「ボトナム通り」)に、そのことがちょっとだけ気になったのを思い出した。

◆ ヤナギが樹木の名前だということを知らないひとは少ないだろうから、「柳の木」の「木」は余分だろうと思う。でも、ケヤキは知らないひともいるだろうから、「ケヤキの木」と書くのが親切である場合もあるかもしれない。葉の落ちた冬のケヤキの樹影はとてもキレイだ。そのシルエットを模して「欅」という漢字が作られたというハナシもある。

◆ 京都刑務所(の敷地の中だが塀の中ではない場所)に祀られている「福堂地蔵尊の由来」。

◇ この地蔵尊は、京都刑務所建築の際、当敷地内に散在していたものである。大正十三年、京都刑務所は当地に建築工事に着手し、昭和二年に京都市上京区主税町にあった旧施設から移転を行ったが、そのころから不思議なことに職員及び家族に原因不明の病死者が続出したので神仏に祈願したところ、地蔵尊を奉安するようお告げを得た。急遽官舎周辺に放置同然にされていた地蔵尊を集めて祭ることにした。祭礼により漸次病魔も退散し、平穏のうちに推移したが、その後、施設建物の増改築が進展するにつけ地蔵尊の居場所が転々と変り、お堂がないまま歳月が移りその供養も途絶えがちになった。それと符節を合わせるかのように、昭和二十六年頃再び奇病が流行し始めたので誰云うともなく地蔵尊の供養が途絶えているからだという風評がたったので、改めて、現在地に福堂を建立して丁重に供養することとなった。その後は、毎年八月下旬に盛大な供養を行っている。〔誤記と思われる箇所を一部訂正〕

◆ 桶川の古い商店。魚屋のようだが、中央のガラスケースにはなにもない。手前の台には、桜えびと煮干し。左の棚には、味噌、醤油の類、「ウナギ蒲焼 鹿児島産 一串 ¥800、ー」「八ツ目」の貼紙。天井から裸電球。電話は「六一番」。

◆ それから、思わず微笑んでしまったのは、中央の柱の上下2枚の貼紙。「初かつをあります」に「青森産どじょういます」。「あります」と「います」。ああ、どじょうは生きているんだな。

◆ 桶川市で見た看板。消えかかった文字を読むと、「桶川 風呂センター 森田風呂店 風呂桶」。桶川の風呂桶屋さんか。ちょっとにやり。

◆ ちょっとにやり、で終わったはずが、その後、同じ看板の写真を載せているブログをたまたま見つけて、読んでみると、

◇ 個人的な話ですが風呂桶って風呂にある洗面器のことだと思っていました。まさか風呂そのものだとは…どうせ私は風呂桶がわからない世代ですよ~
rougtry.blog117.fc2.com/blog-entry-9.html

◆ 念のため、辞書を引くと、

ふろおけ【風呂桶】  木を桶状に組んで作った湯舟。また、浴槽。 入浴の際に用いる小さな桶。湯桶
小学館「大辞泉」

◆ とあって、おっとびっくり! 大きいのも小さいのもどっちも風呂桶だったとは! ということは、風呂桶に風呂桶を浮かべることもできるわけだな。

◆ ちなみに、桶川の語源ははっきりしないが、「桶」はどうやら当て字のようで、風呂桶の「桶」とは直接の関係はないらしい。

◆ 園部の「カトリック教会」。小さな町にカトリック教会が複数あるわけもないので、これで十分なのだろう。

◆ 東京都杉並区の「カトリック下井草教会」。東京にはカトリック教会がたくさんあるだろうから、区別する必要があるのだろう。だから、「下井草」と地名を入れる。どこに? 「カトリック」と「教会」のまんなかに。なるほど、カトリック「下井草」教会であって、「下井草」カトリック教会ではない。ちょっとだけ変な気がする。

◆ とすると、もしかして? これまで「PhotoDiary」に載せたカトリック教会の表記が気になって、あわてて調べてみると、ああやっぱり。彦根カトリック教会、新潟カトリック教会、山手カトリック教会、とすべて地名を頭につけていた。正式には、地名をあいだに入れて、カトリック彦根教会、カトリック新潟教会、カトリック山手教会。あわてて訂正。

◆ ああ、3枚とも空が曇ってる。それから、園部の「カトリック教会」にも、もちろん正式名称はあるので、

〔南丹生活〕 園部町新町の園部川沿いにあるカトリック丹波教会園部聖堂。地元では新町カトリック教会と呼んでいます。
tanbarakuichi.sakura.ne.jp/nantan/sightseeing/sightseeing05.html

◆ カトリック丹波教会は、園部と亀岡のふたつがあって、交互にミサが行われている。

◆ まだ11月だというのに、街ははやクリスマスの装いだ、というような書き出しでこのハナシを書こうと思っているうちに、気がついたら、クリスマスをとうに過ぎ、年も明け、もう一月も終わろうとしている。というわけで、時期はずれの「きよしこの夜」。

◇  ――星の光る夜、きよしこは我が家にやってくる。すくい飲みをする子は、「みはは」という笑い声で胸をいっぱいにして、もう眠ってしまった。糸が安いから――
 おかしな言葉をおかしなぐあいにつないだ、おかしな文章だ。
〔中略〕
 これは、昔むかし、ある町に住んでいた少年が勘違いして覚えた『きよしこの夜』の歌詞だ。
「きよし、この夜」を「きよしこ、の夜」と間違えていた。「救いの御子」が「すくい飲み子」になり、「御母の胸に」は「『みはは』の胸に」になった。「眠り給う」は「眠りた、もう」、「いと易く」は「糸、安く」……。

重松清『きよしこ』(新潮文庫,p.17)

◆ 重松清の小説にしたがって、「きよしこの夜」の歌詞を書きだせば、

♪ きよしこの夜 星は光り
  救いの御子(みこ)は 御母(みはは)の胸に
  眠り給う いと易く

◆ ということになるが、「御母の胸に」が「馬槽(まぶね)の中に」、「いと易く」が「夢やすく」になっているヴァージョンもある。

◆ これは小説のなかのハナシだからいいとしても、こんなカン違いをするひとは実際には少ないのではないか。そう思った。メロディー通りに歌えば、自然に「きよし、この夜」になるだろう。それをわざわざ「きよしこ、の夜」なんて変な区切り方にしなくてもいいんじゃないか。そう思ったのだが、けっこういるようなのだ。「きよしこ、の夜」派が。

〔教えて!goo〕 「きよしこの夜」を「きよしこ」の「夜」だと思っていました・・・幼少の頃「こ」がつけばなんでも名前だと思っていました
oshiete.goo.ne.jp/qa/101551.html

〔コトノハ:「清し、この夜」を「きよしこの、夜」だと勘違いしててキヨシコってなんや?と疑問だった〕 「さらに勘違いして、『キヨヒコの夜』だと思ってました。」「『きよしこ』って何だよ、って思ってた」「中学生頃まで思ってた」「きよしこさんて誰だろうと思ってました」「今の今までそう思ってたのにそのキヨシコの意味まで疑問に思わなかったアタシって(…)」「キリストの兄弟かなんかだと思ってた」「思ってた思ってた。つい最近知った。」「漢字で見るまで勘違いしてた」「思ってた!!小学校で楽譜配られてタイトル見るまで知らなかった」「NEW HORIZONで初めて知った。ずっと間違えてた。」「辞書で『きよしこ』を探した」「キヨシコって変な名前だよなとか思ってた」「歌詞を読む方から入ったから。きよし子」「はい。知ったのは結構大きくなってからw」
kotonoha.cc/no/66885

◆ 1925(大正14)年生まれの阪田寛夫も、「きよしこの夜」の歌詞をカン違いしていたハナシを書いている。ただし、阪田がこの歌を覚えた昭和のはじめごろは、歌詞がいまとは異なっていて、

◇  「また逢う日まで」の繰返しの入る別れの歌や、クリスマスに歌われる「清しこの夜」は、キリスト教徒以外にも知られるようになっていたが、どの歌も大体は明治にできた漢語まじりの堅い訳詩であった。
  清しこの夜
  光照りきぬ
 今では「清しこの夜、星は光り」と改訳されたが、その頃は「光照りきぬ」だった。ところが旋律の方はヒカリテ、で一息入れる形であるから、子供の私は、「光りて、りきぬ」だとばかり思っていた。クリスマスの晩に、何かが光って、そうして「りきった」のだと思っていた。ついでに、明治四十二年訳ではそのあとが「エスはきませり、みこはきませり、いはへ主を、うたへ主を」であった。
  ささやかなるしずくすら
  ながれゆけばうみとなる
 元の曲はバタくさい筈だが、言葉がむずかしいから、子供の私にはこれが外国の曲だとは思われなかった。逆に、「いとも深き主の愛、聖書(みふみ)をみて、しりけり」という歌を悪用して、ふざけてうたっては人の尻を蹴ったりした。

阪田寛夫『童謡でてこい』(河出文庫,p.98)

◆ 「きのしこ、の夜」より「光りて、りきぬ」のほうが、カン違いの可能性としては高そうに思える。また、「しりけり」で「尻を蹴る」というのも、子どもならいかにもやりそうなことだろう。

◆ カン違いの多いクリスマス・キャロルに、もうひとつ「もろびとこぞりて」を挙げることができるだろう。

♪ 諸人(もろびと)こぞりて 迎えまつれ
  久しく待ちにし 主は来ませり
  主は来ませり 主は、主は来ませり

◆ 出だしからして難しい。「もろびと」に「こぞりて」、コトバの区切りは間違えないにしても、子どものアタマにはなんのことやら、さっぱりわからない。きわめつけが「主は来ませり」の部分。

◇ 私はこの『主は来ませり』の部分をカタカナで『シュワキ マセリ』と歌っておりました。切るところも全然違う…。で、私はこの言葉をいったい何と勘違いしていたかというと、「エコエコアザラク」とか、「コノウラミハラサデオクベキカ」とか、「マハールターマラ フーランパ」などの、呪文と勘違いしていたのです。あ、別に悪い意味で考えていたわけではなく、ただ単に何か意味のある呪文なのかな~と。
blog.goo.ne.jp/flower1208/e/785a4993b17c307291ba97c49101d89c

◇ その歌わされた歌の中に「もろびとこぞりき」というものがありました。この歌を当時かなり不思議だと思った覚えがあります。だいたいこの題名からしてさっぱり意味が分からない。しかも歌詞のサビの部分が「シュワキマセリ~、シュワキマセリ~、シュワァ、シュワァキマセリ♪」というものでシュワキマセリって何だ?と、さらにわからない。これは間違いなく日本語ではなく、この部分だけは向こうの方の言葉で、合いの手というかかけ声の一種だと最近まで思っていました。
fantastic-camera.com/fcg/02-12-20.htm

◇ 諸人(もろびと)こぞりて~♪の賛美歌の「シュワキマセリ」が「主は来ませり」だったとはじめて知りました。「シュワキマセリ」というのはなんというか「ビビデバビテブー」みたいなおまじないというかそんなものかと思っていたですの。
www.odeshisan.com/archives/679

◇ 私は昔『諸人こぞりて』の歌で『主は来ませり、主は来ませり』と言う歌詞を『シュワッキマセリ、シュワッキマセリ』と神様を呼ぶ時の呪文だと思っていた。会社に入って友達とその話をしていたら、横で聞いてた後輩が『え!それって神様が出てくる時の音じゃなかったんですか!?』と驚いていた。ウルトラマンじゃあるまいし・・・
www1.odn.ne.jp/~cav85970/warai9.htm

◇ 歌は「主はきませり」で練習のとき「シュワキマーセリ シュワキマセリ シュワーシュワーキマセリ」とサイダーのような歌だと話したものです。
www.geocities.jp/asakusa_kyokai/history_18.html

◇ あー、でも「主は来ませり」はヘブライ語だとずっと思ってました。それこそ、般若心経の「羯諦羯諦波羅羯諦」みたいなもんだと。
blog.livedoor.jp/yatanavi/archives/51100496.html

◆ カン違いとしては、こちらのほうがわかりやすくておもしろい気がする。

◆ これはよく行く銭湯の下駄箱の写真。たまたまではない。いつものように、4と13が空いている。4か13。さてどちらを取るべきか? どちらのほうがより不幸せにならずにすむのだろう? というようなことを、スノコの上で靴を脱ぎ、その靴を片手に持って、下駄箱の空いているどこかの箱に入れようとしている、まさにその瞬間に、チラリとでも考えてるのかどうか? これがよく自分でもわからない。結果としては、4の箱を選択していることが多い気がする。このことはなにを意味しているのだろう? たぶんなんにも意味してないと思うのだけど、ちょっとだけ気にかかる。

「風呂桶」のハナシを書いた次の日に、こんな文章に出くわすのは、とってもウレシイことだ。

◇  おひろお婆さんはひどくおっとりした老婆であった。自分の夫がおかのお婆さんという二号さんと同じ村の同じ宇に住んでいるのを黙って許していたくらいであるから、おっとりしていない筈はなかった。従って、このおひろお婆さんは、血は通っていないが、私にとっては正式の曽祖母であった。私が小学校へ上がって間もなく六十七歳で他界したが、本家でも、親戚でも、それから村の人たちも、何となくこのおひろお婆さんという女性を特別な眼で見ていた。沼津藩の家老であった五十川(いかがわ)という家の娘に生れ、十何歳かの時潔のもとに嫁いで来たが、嫁入支度の中に朱塗りの風呂桶と薙刀(なぎなた)がはいっていたことが、最初に村人を驚かせた。風呂桶は納屋に仕舞われ、薙刀は本家の二階の座敷の長押(なげし)に掛けられ、そしてそのまま、おひろお婆さんの長い生涯を通じて、この二つの物はその位置を移動することはなかった。
 おひろお婆さんが二番目に村人を驚かせたことは、嫁には来たが、何の料理もつくれないことであった。そして彼女は、それを少しも改めることなく一生を過した。台所では湯を沸かす以外、何もしなかった。

井上靖『幼き日のこと・青春放浪』(新潮文庫,p.61-62)

◆「 おひろお婆さん」の嫁入支度のなかにあったという「朱塗りの風呂桶」。さて、この風呂桶は、

ふろおけ【風呂桶】 [1] 木を桶状に組んで作った湯舟。浴槽。[2] 浴場などで用いる小さな桶。
三省堂「大辞林」

◆ どちらの意味?

◆ たとえば、銭湯でよくみるケロリンの桶。

〔内外薬品:ケロリン桶の由来〕 東京オリンピックの前年(昭和38年)に、内外薬品に睦和商事の営業スタッフ(現社長)から「湯桶にケロリンの広告を出しませんか?」と持ち掛けられたのがキッカケ。衛生上の問題から、銭湯の湯桶が木から合成樹脂に切り替えられる時期、「風呂桶を使った広告は多くの人が目にするはず」ということで話がまとまり、東京温泉(東京駅八重洲口)に置いたのが最初です。
www.naigai-ph.co.jp/special/fanclub/yurai/

◆ このケロリンの桶も風呂桶であるなら、「朱塗り」の桶は、「朱塗り」であることによって、いまではかなりの高級品であると判断されるだろうから、いまなら驚く村人もなかにはいるだろう。この朱塗りの桶が小さな湯桶ではなく、そこでひとが入浴する大きな桶のことであるなら、当時の村人が驚くのも無理はない。