MEMORANDUM

  きよしこの夜

◆ まだ11月だというのに、街ははやクリスマスの装いだ、というような書き出しでこのハナシを書こうと思っているうちに、気がついたら、クリスマスをとうに過ぎ、年も明け、もう一月も終わろうとしている。というわけで、時期はずれの「きよしこの夜」。

◇  ――星の光る夜、きよしこは我が家にやってくる。すくい飲みをする子は、「みはは」という笑い声で胸をいっぱいにして、もう眠ってしまった。糸が安いから――
 おかしな言葉をおかしなぐあいにつないだ、おかしな文章だ。
〔中略〕
 これは、昔むかし、ある町に住んでいた少年が勘違いして覚えた『きよしこの夜』の歌詞だ。
「きよし、この夜」を「きよしこ、の夜」と間違えていた。「救いの御子」が「すくい飲み子」になり、「御母の胸に」は「『みはは』の胸に」になった。「眠り給う」は「眠りた、もう」、「いと易く」は「糸、安く」……。

重松清『きよしこ』(新潮文庫,p.17)

◆ 重松清の小説にしたがって、「きよしこの夜」の歌詞を書きだせば、

♪ きよしこの夜 星は光り
  救いの御子(みこ)は 御母(みはは)の胸に
  眠り給う いと易く

◆ ということになるが、「御母の胸に」が「馬槽(まぶね)の中に」、「いと易く」が「夢やすく」になっているヴァージョンもある。

◆ これは小説のなかのハナシだからいいとしても、こんなカン違いをするひとは実際には少ないのではないか。そう思った。メロディー通りに歌えば、自然に「きよし、この夜」になるだろう。それをわざわざ「きよしこ、の夜」なんて変な区切り方にしなくてもいいんじゃないか。そう思ったのだが、けっこういるようなのだ。「きよしこ、の夜」派が。

〔教えて!goo〕 「きよしこの夜」を「きよしこ」の「夜」だと思っていました・・・幼少の頃「こ」がつけばなんでも名前だと思っていました
oshiete.goo.ne.jp/qa/101551.html

〔コトノハ:「清し、この夜」を「きよしこの、夜」だと勘違いしててキヨシコってなんや?と疑問だった〕 「さらに勘違いして、『キヨヒコの夜』だと思ってました。」「『きよしこ』って何だよ、って思ってた」「中学生頃まで思ってた」「きよしこさんて誰だろうと思ってました」「今の今までそう思ってたのにそのキヨシコの意味まで疑問に思わなかったアタシって(…)」「キリストの兄弟かなんかだと思ってた」「思ってた思ってた。つい最近知った。」「漢字で見るまで勘違いしてた」「思ってた!!小学校で楽譜配られてタイトル見るまで知らなかった」「NEW HORIZONで初めて知った。ずっと間違えてた。」「辞書で『きよしこ』を探した」「キヨシコって変な名前だよなとか思ってた」「歌詞を読む方から入ったから。きよし子」「はい。知ったのは結構大きくなってからw」
kotonoha.cc/no/66885

◆ 1925(大正14)年生まれの阪田寛夫も、「きよしこの夜」の歌詞をカン違いしていたハナシを書いている。ただし、阪田がこの歌を覚えた昭和のはじめごろは、歌詞がいまとは異なっていて、

◇  「また逢う日まで」の繰返しの入る別れの歌や、クリスマスに歌われる「清しこの夜」は、キリスト教徒以外にも知られるようになっていたが、どの歌も大体は明治にできた漢語まじりの堅い訳詩であった。
  清しこの夜
  光照りきぬ
 今では「清しこの夜、星は光り」と改訳されたが、その頃は「光照りきぬ」だった。ところが旋律の方はヒカリテ、で一息入れる形であるから、子供の私は、「光りて、りきぬ」だとばかり思っていた。クリスマスの晩に、何かが光って、そうして「りきった」のだと思っていた。ついでに、明治四十二年訳ではそのあとが「エスはきませり、みこはきませり、いはへ主を、うたへ主を」であった。
  ささやかなるしずくすら
  ながれゆけばうみとなる
 元の曲はバタくさい筈だが、言葉がむずかしいから、子供の私にはこれが外国の曲だとは思われなかった。逆に、「いとも深き主の愛、聖書(みふみ)をみて、しりけり」という歌を悪用して、ふざけてうたっては人の尻を蹴ったりした。

阪田寛夫『童謡でてこい』(河出文庫,p.98)

◆ 「きのしこ、の夜」より「光りて、りきぬ」のほうが、カン違いの可能性としては高そうに思える。また、「しりけり」で「尻を蹴る」というのも、子どもならいかにもやりそうなことだろう。

◆ カン違いの多いクリスマス・キャロルに、もうひとつ「もろびとこぞりて」を挙げることができるだろう。

♪ 諸人(もろびと)こぞりて 迎えまつれ
  久しく待ちにし 主は来ませり
  主は来ませり 主は、主は来ませり

◆ 出だしからして難しい。「もろびと」に「こぞりて」、コトバの区切りは間違えないにしても、子どものアタマにはなんのことやら、さっぱりわからない。きわめつけが「主は来ませり」の部分。

◇ 私はこの『主は来ませり』の部分をカタカナで『シュワキ マセリ』と歌っておりました。切るところも全然違う…。で、私はこの言葉をいったい何と勘違いしていたかというと、「エコエコアザラク」とか、「コノウラミハラサデオクベキカ」とか、「マハールターマラ フーランパ」などの、呪文と勘違いしていたのです。あ、別に悪い意味で考えていたわけではなく、ただ単に何か意味のある呪文なのかな~と。
blog.goo.ne.jp/flower1208/e/785a4993b17c307291ba97c49101d89c

◇ その歌わされた歌の中に「もろびとこぞりき」というものがありました。この歌を当時かなり不思議だと思った覚えがあります。だいたいこの題名からしてさっぱり意味が分からない。しかも歌詞のサビの部分が「シュワキマセリ~、シュワキマセリ~、シュワァ、シュワァキマセリ♪」というものでシュワキマセリって何だ?と、さらにわからない。これは間違いなく日本語ではなく、この部分だけは向こうの方の言葉で、合いの手というかかけ声の一種だと最近まで思っていました。
fantastic-camera.com/fcg/02-12-20.htm

◇ 諸人(もろびと)こぞりて~♪の賛美歌の「シュワキマセリ」が「主は来ませり」だったとはじめて知りました。「シュワキマセリ」というのはなんというか「ビビデバビテブー」みたいなおまじないというかそんなものかと思っていたですの。
www.odeshisan.com/archives/679

◇ 私は昔『諸人こぞりて』の歌で『主は来ませり、主は来ませり』と言う歌詞を『シュワッキマセリ、シュワッキマセリ』と神様を呼ぶ時の呪文だと思っていた。会社に入って友達とその話をしていたら、横で聞いてた後輩が『え!それって神様が出てくる時の音じゃなかったんですか!?』と驚いていた。ウルトラマンじゃあるまいし・・・
www1.odn.ne.jp/~cav85970/warai9.htm

◇ 歌は「主はきませり」で練習のとき「シュワキマーセリ シュワキマセリ シュワーシュワーキマセリ」とサイダーのような歌だと話したものです。
www.geocities.jp/asakusa_kyokai/history_18.html

◇ あー、でも「主は来ませり」はヘブライ語だとずっと思ってました。それこそ、般若心経の「羯諦羯諦波羅羯諦」みたいなもんだと。
blog.livedoor.jp/yatanavi/archives/51100496.html

◆ カン違いとしては、こちらのほうがわかりやすくておもしろい気がする。

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