MEMORANDUM

  新丹那トンネル

◆ 引越のお客さんチに丸盆があった。なにかの記念品のようで、裏返してみると、「祝 弾丸鉄道新丹那トンネル鍬入式 株式会社 間組」と書かれている。日付はない。新丹那トンネルは東海道新幹線のトンネル。「弾丸鉄道」の文字が気にかかる。

◇ 新丹那トンネル(しんたんなトンネル)は、丹那トンネルの約50m北側に並行して延びる長さが7,959mの東海道新幹線用のトンネルである。
 新丹那トンネルのトンネル工事が開始されたのは、1941年(昭和16年)8月にさかのぼる。新丹那トンネルは、もともとは戦前の高速鉄道計画である弾丸列車計画に基づくものであった。しかし、1943年には第二次世界大戦の戦況悪化にともない中止されてしまった。中止の時点において、熱海口(東口)は647m、函南口(西口)は1433mの先進導坑がすでに掘削され、両坑口ともに200~300m程度の覆工を完成させていた。〔中略〕
 戦後、東海道新幹線のために弾丸列車計画のルートが採用されたため、新丹那トンネルは今度は新幹線用のトンネルとして利用されることとなった。新丹那トンネルは、1959年に工事が再開され1964年に完成を見た。〔中略〕
 ちなみに、東海道新幹線の全体の起工式が行われたのは、新丹那トンネルの熱海側坑口前である。新丹那トンネルこそが全体の工期を律する最重要工区とみなされていたためである。

◆ 東海道新幹線の起工式が行われたのは、1959(昭和34)年4月20日。

◇  新幹線工事は、新丹那トンネルの掘削からはじめられることになり、昭和三十四年四月二十日午前十時、新丹那トンネル熱海口で新幹線起工式がもよおされ、十河国鉄総裁が鍬入れをおこない、大石新幹線総局長が工事の開始を宣した。
 弾丸列車計画による新丹那トンネルは、熱海口が間組によって、函南口が鹿島建設請負で途中まで導坑がそれぞれ掘削されていたので、新幹線建設計画でも、両社に請け負わせて工事を再開させることになっていた。総工費三十八億七千万円、工期五十三カ月が予定された。

吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.417-418)

◆ こんどは、十河国鉄総裁の「十河」の読み方が気にかかる。

〔Wikipedia:十河信二〕 十河 信二(そごう しんじ、1884年4月14日 - 1981年10月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。愛媛県西条市市長、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年 - 1963年)。「新幹線の父」と呼ばれる。西条市名誉市民第一号。
ja.wikipedia.org/wiki/十河信二

◆ この「そごう」さんには、こんなエピソードもあるそうな。

〔Wikipedia:十河信二〕 1973年に東海道新幹線の東京駅18・19番ホーム先端に東京駅新幹線建設記念碑が建立されたが、その碑には功績を讃えて、十河のレリーフと座右の銘である「一花開天下春」の文字が刻まれている。ちなみに、そのレリーフの自分の肖像を見た十河は一言、「似とらん」と言ったそうである。
ja.wikipedia.org/wiki/十河信二

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