MEMORANDUM

  丹那盆地

◆ 丹那トンネル工事を描いた吉村昭の小説、『闇を裂く道』を読んだら、丹那盆地に行きたくなった。

◇  子供づれの女が通り、老いた男がすぎた。かれらは例外なく挨拶してすぎ、子供も頭をさげた。
 急に樹林がきれ、あたりがひらけた。峠にたどりついたらしい。
 坂道をのぼったかれは、足をとめた。眼下に思いがけぬ光景がひろがっていた。それは、いかにも盆地というにふさわしい地形で、三方が低い山にかこまれ、平坦な地に田畠のひろがりがみえる。光っているのは川で、池らしいものもある。草木は、まだ緑の色をみせていないが、点々と田畠の中に散る藁ぶき屋根の家々が、おだやかな田園らしいたたずまいをみせている。若い技師が、別天地のようだと言っていたが、曾我の眼にも砂漠の中のオアシスのようにみえた。
〔中略〕
 かれは、しばらくの間、丹那盆地をながめていた。疲れも忘れ、眼が清冽に洗われる思いであった。

吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.33-34)

◇  曾我は、川口の家を出ると畦道を進んだ。小川に膝まで水につかった子供たちが、大きな笊(ざる)を突き立て、そこへ魚を追いこんでいる。あげた笊の中には、川魚が何尾もはねていた。
 かれは、水の豊かなことに呆れた。流れがいたる所にあり、大きな水車がまわっている。村には、水の流れの音と匂いがみちていた。
 咽喉がかわいたので、一軒の農家に入り、水を飲ませてもらった。その水は、家の裏手を流れる小川から直接樋でひき入れたもので、丹那盆地に住む人たちが、小川の水を飲んでいることを知った。
 湧水池の近くには、ワサビも栽培されていた。ワサビ田に清流が絶え間なく走り、それが光りながら樹林の中に消えていた。かれは近づき、掌で水をすくってロにふくんだ。歯にしみ入るような冷たさで、かすかに樹皮の匂いがしていた。

Ibid., p.35-36

◆ 「別天地」あるいは「砂漠の中のオアシス」という表現でもいいが、まるで桃源郷のようなところ。かつては。

〔Wikipedia:丹那トンネル〕 トンネルの真上に当たる丹那盆地は、工事の進捗につれて地下水が抜け水不足となり、灌漑用水が確保できず深刻な飢饉になった。住民の抗議運動も過激化したため鉄道省は丹那盆地の渇水対策(貯水池や水道等の新設、金銭や代替農地による補償等)にも追われることとなった。現在でも、完成した丹那トンネルからは大量の地下水が抜け続けており、かつて存在した豊富な湧水は丹那盆地から失われてしまった。例えば、湿田が乾田となり、底なし田の後が宅地となり、7カ所あったワサビ沢が消失している。
ja.wikipedia.org/wiki/丹那トンネル

◆ 正月休みの帰りに、かつては桃源郷であった丹那盆地を訪ねてみようかと思ったが、車がないときびしそうだったので、あっさりヤメにした。寒いし。暖かくなったら、また考えよう。

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