MEMORANDUM

  ボトナム通り

◆ 新潟市内に「ボトナム通り」というのがある。ベトナムではなく、ボトナム。説明板のなかば消えかかった文字をなんとか読むと、

ボトナム(柳)通りの由来
 1910年(明治43)年の日韓併合で、日本が朝鮮半島を植民地にした後、朝鮮人が日本内地に渡航してきた。
 第二次世界大戦さなかの1944(昭和19)年になると朝鮮人に対して「国民徴用令」が適用され、強制的に連行されてきた人が多数いた。
 戦後、朝鮮出身者の多くは祖国に帰りたいという強い意志を表していたが、日本と朝鮮民主主義人民共和国とは国交が途絶えたままで、帰国は実現しなかった。
 1958(昭和33)年、朝鮮民主主義人民共和国は「帰国したい者は受け入れるし、日本に船を向ける用意もある」と表明した。
 翌1959(昭和34)年、日本政府は朝鮮民主主義人民共和国への帰国を認め、日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会との間で、「在日朝鮮人の帰国に関する協定」が成立し、調印された。
 帰国者を送り出す港については、当時反対勢力の妨害が予想される状況の下で引き受ける都市がなかったが、当時の新潟市長は、戦前から交流があったこと、また、将来の対岸交流の進展を予測して新潟港から帰国者を出港させることを決断した。
 帰国は1959(昭和34)年12月14日から行われ、一時中断があったものの、1984年(昭和59)年7月25日の第187次帰国まで、延べ28,409世帯、93,339人が新潟港から帰国した。
 1959(昭和34)年12月の第1次県内帰国者が、在日本朝鮮人総聯合会新潟県本部と新潟県在日朝鮮人帰国協力会の協力を得て、日朝友好親善のシンボルとして、東港線沿道約2キロメートルにおいて305本のボトナム(柳)を植樹して寄贈したことから、当時の北村一男新潟県知事が、その行為に感激され、この道を「ボトナム通り」と名付けた。

2000年6月 新潟県

◆ 朝鮮語でボトナムとは柳のこと。とぼとぼ歩いてフェリーターミナルへと向かう道すがら、たまたまこの説明板ととなりの「朝鮮民主主義人民共和国帰国記念植樹 一九五九年十一月七日」と記された標柱に気がついて、「はて、なんだろう」と思って一枚写真に撮っておいただけのことなのだから、「なるほど、朝鮮語でボトナムとは柳のことなんだな」ぐらいに、あたらしいコトバをひとつ覚えたことで満足しておけばよかったものを、それが、いましがた「PhotoDiary」の編集のために写真を見なおしているうちに、つい(うっかり)説明板に書かれた文字を読もうとしてしまい、それがあまりに読みにくかったので、この説明板の文字をテキスト化しているサイトはないものかとネットで探し始めたら、道に迷って戻れなくなってしまった。探しものはすぐに見つかったのだけれども(《船のウェブ・サイト:万景峰92見学記》)。

〔船のウェブ・サイト:万景峰92見学記〕 ご覧のように、案内板は傷つけられており、一部読めないところがある(■で表記)。
www.interq.or.jp/white/ishiyama/column44.htm

◆ 「■」の部分は、ワタシの画像では読むことができたので、合わせて読めば全文がつながり、めでたしめでたし。というところなのだが、今度は「案内板は傷つけられており」という箇所がどうにも気になってしまった。あの案内板が読みにくかったのは、「傷つけられて」いたせいだったのか。まったく気がつかなかった。ワタシがじっさいにあの説明板を「見ていた」のは、せいぜい数秒のことだったろう。なにせ、とりあえず写真を撮っておくか、と思っただけのことなのだから、シャッターを押せばもうおしまい。その場でそこに書かれた文章を読む気はさらさらなかった。そんなふうだったから、あの説明板がどんな「状態」だったかなどということは一切憶えていない。それなら、なにも見ていなかったのと同じことではないか。そうなのだろう、ワタシはあの説明板の写真を撮ったが、あの説明板をほんとうは「見ていなかった」。

〔浅見洋子 | 金時鐘『長篇詩集 新潟』の舞台 その1 | 日本近代文学研究・論潮の会〕プレートは2000年6月に設置されたものです。しかし、プレートが傷つけられたり、文字がところどころ削りとられたりしていて、判読が困難な状態でした。
ronchou.moo.jp/komiti/komiti-kiji1/komiti-nigata1.html

◆ 文字が薄れていて読みにくいと思ったのは、「文字がところどころ削りとられたり」したせいだったのか。まったく気がつかなかった。やはり、ワタシはなにも「見ていなかった」のだろう。とくに見るつもりもなかったのだから、「見ていなかった」ということを確認したからといって、どうということはないはずなのだが、どうもそういうわけにもいかない。どうしてだろう?

〔毎日jp(新潟):「ボトナムは知っている」 北朝鮮帰還事業50年(1) 植樹の日に生まれて(2009年12月09日)〕  新潟市中央区のショッピングエリア・万代シテイから新潟港へと続く国道113号沿いに、柳の木が約2キロにわたって立ち並ぶ。幹の太さは一本一本不ぞろいで、葉の付きもよくない。港に一番近い柳の前で立ち止まった曹喜国(チョヒグク)さん(50)=埼玉県川口市=は「懐かしいなあ」とつぶやいた。
 02年、北朝鮮が日本人拉致を認め、問題がクローズアップされて以来、遠ざかっていた。「ボトナム(朝鮮語で柳の意)のことは、もうみんな忘れているんじゃないかな」。そう言うと、曹さんの表情が曇った。
 1959年11月7日。北朝鮮へ向かう第1次帰還船が新潟港を出発する約1カ月前、帰還を控えた在日コリアンたちが日朝友好の礎として県民に贈った305本の柳がこの道沿いに植樹された。その日に、曹さんは新潟市の中心部・古町にある焼き肉店「牡丹」の末っ子として生まれた。
 新潟は堀のほとりにしだれていた柳の美しさから「柳都」と呼ばれた。平壌もまた「柳京」の異名をもつ。柳が植樹されたこの道を、北村一男知事(当時)が「ボトナム通り」と名付けた。
 朝鮮総連県本部の幹部として植樹にかかわった曹さんの父、閏煥(ユンファン)さん(01年に84歳で死去)は「帰国船の子どもが生まれた」と触れ回ったという。名前を付けるのを、第1船が出る12月14日まで待った。前夜の宴席で、北朝鮮赤十字代表団の李一卿団長に名付け親を頼み、「『喜国』はどうか」と提案された。国を喜ばす、祖国のために生きろ--という意味が込められた。
 在日1世の閏煥さんの生まれは、韓国南東部の慶尚北道。だが、帰還事業でこそ「貧困や差別から解放される」と信じ、仲間に北朝鮮への帰還を勧めた。曹さんは小学3年の時、開校と同時に新潟朝鮮初中級学校に転入。帰還船が出入りする度、全校で港に出向いて北朝鮮の国旗を振った。帰り道のボトナム通りで、植樹した日付が記された白い標柱にボールペンで「曹喜国生まれる」と書き込むいたずらをして、友達に自慢したこともあった。
 だが、八つ上の姉が乗った帰還船を72年に見送った時から、日本海の景色が少し違って見えるようになった。「38度線さえなければ」。曹さんはそう言ったきり、思いをのみ込むように口を閉ざした。
〔中略〕
 帰還船を見送った熱狂的な歓声は、「拉致被害者を返せ」のシュプレヒコールに変わり、船の往来も途絶えた。北朝鮮と韓国を分断する北緯38度線は、新潟をも貫く。第1船の出港から50年。柳は次第に枯れ、植え替えもされなくなり、127本になった。時代の波に翻弄(ほんろう)されてきた人々の姿を、ボトナムは見つめてきた。【黒田阿紗子】

mainichi.jp/area/niigata/news/20091209ddlk15040048000c.html

◆ じつは、ワタシは5年前にも、小樽行きのフェリーに乗るために、今回とほぼ同じルートで、新潟の町をフェリーターミナルまでとぼとぼ歩いたことがあった。5年前にもあの説明板はあったはずだが、気がつかなかった。道路の反対側を歩いていたのかもしれないし、暑さで辺りを見回す余裕がなかったのかもしれない。その代わり(というわけでもないが)、こんな写真を撮っていた。

情報提供のお願い!
 昭和五二年一一月一五日、新潟市寄居町付近で、当時中学生であった横田めぐみさん(当時一三歳)が被害者となる拉致容疑事案が発生し、現在まで発見されておりません。警察では、横田めぐみさんの発見と事案の解決に向けて引き続き捜査を進めております。
 当時、全国では拉致容疑事案が相次いで発生しており、海岸から連れ去られた可能性もあります。どんなことでも結構ですので、心当たりのある方は、情報をお寄せ下さい。
 市民の皆様のご協力をお願い致します。

連絡先 新潟県警察本部外事課 

◆ 昨日は、横田めぐみさんの誕生日だった。

〔MSN産経ニュース〕 柳田稔拉致問題担当相は5日の閣議後記者会見で、北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさんが同日で46歳の誕生日を迎えたことに「拉致から33年が経過し、救出できないことを思うと大変申し訳ない。一日も早く安全に帰れるよう最大限の努力をする」と話した。
sankei.jp.msn.com/politics/policy/101005/plc1010051546012-n1.htm

◆ 46歳。ワタシと同い年だ。

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