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◇ 〔まちBBS:☆長野県の方言~四言目~☆〕 この間、関東の方にもろこし(とうもろこし)と、うり(きゅうり)と言ったら、何で略してるのぉ~w って笑われたんです。もろこしとうりは方言なんですかね? ◇ えっ、「もろこし」って方言だったんですか? 知らなかった。両親の実家が山梨なこともあって、普通に「もろこし」って言ってました。 ◆ 方言といっても、かたちの上ではトウモロコシの語頭のトウを省略しただけに思えるので(語源的な経緯はしらない)、その場合はくだけた俗語として長野・山梨にかぎらず全国的に用いられもするだろう(スナック菓子の「もろこし村」とか「焼きもろこし」とか)。 ◇ 〔ほぼ日刊イトイ新聞-みうらじゅんに訊け! ──この島国 篇:山梨県〕 みうら ぼくは、とうもろこしが好きなことで家では有名です。じゅんはとうもろこしが好きだ、とうもろこしが入っていれば苦手なものも食う、と、評判でした。例えば、ぼくはサラダは好きじゃないですけど、とうもろこしをプラスしてもらえればとうもろこしだと思ってサラダも食べるぐらいとうもろこしが好きです。ですから、とうもろこしを焼いて売っているところでは、当然、買います。前回、富士山の5合目に車で近づいたときもそこでもろこしを焼いてることは、すぐに発見しておりました。
◇ 札幌の大通公園は、トウキビの立ち食い風景の名所のひとつで、紳士淑女でも、だれはばからず、黄金のかぶりつきが見られる。 ◆ さっき引用したみうらじゅんのモロコシ談義がおもしろいので、もう少し。 ◇ みうら ところでぼくは、「1もろこし、ひとり」という考えで、これまでやってきました。1本のもろこしをふたつに割って人に与えるほどの余裕はないです。もろこしは、1本まるまる自分が食う、という考えです。でも、必ず「ちょっと食べさせて」という人がいるでしょ? ぼくは「ちょっと食べさせて」がいちばん嫌いです。だったら1本買えばいいじゃないか、と思うんです。しかしどうやら、特に東京の人は、「ちょっと味見」が好きなようで、ちょっと食べる人、多いです。
しんとして幅広き街(まち)の |
◆ 「京の七口」という記事を書いたときに、写真を添えたくなって、とくに「京の七口」の写真を撮ったという記憶はなかったけれど、とりあえず探してみると、粟田口の写真を1枚だけ見つけた(下の左)。撮影日は2003年1月5日。カメラはCASIOのEX-S1(124万画素)。京都市立粟田小学校の校門の右端に「粟田口」と記された石柱と解説板が写っている(はず)。それで、その解説板の部分を使おうかと思って拡大してみたが、ご覧の通り(下の右)、まったく使いものにならない。 ![]() ![]() ◆ なもんだから、先月帰省したときに、ふたたび同じ写真を撮ってきた。今回のカメラはCANONのS90(1040万画素)。 ![]() ![]() ◆ さすがに、124万画素と1040万画素の差は歴然で、これなら拡大してもなんとか文字が読める。めでたしめでたし、というわけなのだが、写真をよく見ると、小学校の名称が「粟田小学校」ではなく「白川小学校」になっていた。 ◇ 〔粟田小学校ホームページ〕 平成15年度をもちまして粟田小学校は135年の歴史を閉じます。今までずっと、交流学習を行ってきた有済小学校と統合し、「京都市立白川小学校」として再出発いたします。永年つちかってきた「粟田教育」を新しい学校でも続けていきたいと思います。 ◆ 平成15年といえば、2003年か。ということは、最初の写真を撮ってまもなく粟田小学校はなくなってしまったんだな。 |
◇ おりひめバスですか! ひこぼしバスは無いんでしょうか? ◆ とは、もっともな感想で、「ひこぼしバス」はないのか? と、そう思うひとも多いだろうと思う。 ◇ そうですね、なぜ、おりひめなのか意味不明です。群馬で桐生で。何があるんでしょう。 ◆ けれど、彦星はさておき、織姫にかんしては、群馬の桐生には関連する何かは確実にあるので、けして意味不明というわけではない。 ◇ 〔桐生市ホームページ〕 桐生の織物の起こりは古く、奈良時代のはじめには絹織物を朝廷に献上し、江戸時代には「西の西陣、東の桐生」とうたわれ、織物の一大産地となりました。織物産業の繁栄を今に伝える町並みがいたるところに残り、のこぎり屋根の織物工場や土蔵造りの店舗など近代化遺産の宝庫となっています。 ◆ ああ、そういえば、むかし社会科の授業で習ったな、と思い出すひともいるかもしれない。たしかに、桐生の町を歩けば、それだけで「織物産業の繁栄を今に伝える町並みがいたるところに残」されていることに、だれだってその場で気がつく。……はずなのだが、ワタシがそのことをほんとうに実感できたのは、桐生を訪れたあとずいぶんと経ってのこと、家に帰ってからのことだった。写真の整理をしている過程で「おりひめバス」のことが気になって、あれこれ調べだして初めて、ああ、そういえば、桐生は織物の町だったんだな、とあらためて気がついた。なんとも間抜けなハナシだが、ほんとうのことだから仕方がない。 ◇ 〔ぶぎんレポート No.122 2009年5月号:産業文化都市―織都“桐生”のまちづくり(松本あきら)〕 桐生には「おりひめバス」という美しい名前のミニバスを市が運行している。現在7路線、平成8年に完全撤退した東武バスに代わり市民の貴重な足になっているが、毎年1億円近い赤字が出て市も見直しを検討しているという。自治体バスは、民間バスの撤退後、市町村が赤字覚悟で市民の足を確保する対策型タイプと、コンパクトなまちづくりで中心市街地を再生させることを念頭においた政策型タイプに大別される。桐生は、前者のタイプだが、もう少し政策的観点を強めたらどうだろう。 ◆ 「おりひめバス」の名称の由来を調べようと、桐生市役所のホームページを閲覧しているときに、たまたま市役所のの住所が目にはいって、それが、桐生市織姫町1番1号。織姫町! それを見て初めて、ああ、そういうことだったんだな、とようやく合点がいったわけなのだった。ちなみに「おりひめバス」という名称は公募によって決まったそうだ。
◇ 〔桐生市ホームページ〕 当初は隣接する織物工場で働く従業員の浴場として建築され、現在は銭湯として営業している。 ◆ のだそうで、この記述を読むにつけ、そうかそうか、桐生はやっぱり織物の町だったんだな、とあらためて気がつく。
◇ 〔桐生市ホームページ〕 織都桐生に繊維関係の高等教育機関をという願いがかない、大正5年に染織と紡織の二科を専門とする桐生高等染織学校が設置されました。その後、桐生工業専門学校の時代を経て、昭和24年には群馬大学工学部となり現在に至っています。 ◆ この記述を読んで、あらためて、そうだった、桐生は織物の町だった、ということに気がつく。
◇ 〔桐生市ホームページ〕 本町1・2丁目周辺には、木造のほか石造、煉瓦造など、桐生を代表する近代化遺産であるのこぎり屋根の織物工場が点在します。のこぎり屋根は北側の天窓からの柔らかい光が場内の手作業に適しており、また織機の音を拡散できることから、織物工場として明治~昭和初期に数多く建設されました。 ◆ そんなわけだから、この文章を読んで初めて、なるほどなるほど、ノコギリ屋根にする理由がちゃんとあったんだな、と納得し、ほんとうに桐生は織物の町だったんだな、とあらためて理解をする。 ◆ 知らない町をぼけっと散歩をするのが好きで、なにも知らずに町をぶらぶらするのは、それはそれでとても楽しい。それとはべつに、知らない町を訪れたあとで、家に帰ってゆっくりとその町のことを調べるのも、それはそれでまた別の楽しみがある。 |
◇ ぎおんしんこう【祇園信仰】 牛頭天王(ごずてんのう)および素戔嗚尊(すさのおのみこと)に対する信仰。災厄や疫病をもたらす御霊(ごりよう)を慰め遷(うつ)して平安を祈願するもので、主として都市部で盛んに信仰された。祇園祭・天王(てんのう)祭・蘇民(そみん)祭などの名で各地で祭りが行われる。また、津島神社の津島祭も同系列の信仰とされる。 ◆ ちょっとまえに「祇園」のハナシを書いたとき(「狭山の祇園」「木更津の祇園」)、祇園信仰のことも多少調べてみたけど、辞書的記述を越える範囲のことはワタシには難しすぎて(複雑すぎて)よくわからないので、続きを書けずにほったらかしにしてある。ただ、なぜだか牛頭天王という神様が気になって仕方がない。 ◇ 〔Wikipedia〕 明治維新の神仏分離によって、日本神話のスサノオを仏教信仰に組み込んだ牛頭天王は徹底的に弾圧された。天台宗の感神院祇園社は廃寺に追い込まれ、八坂神社に強制的に改組された。全国の牛頭天王を祀る祇園社、天王社は、スサノオを祭神とする神社として強制的に再編された。 ◆ 牛頭天王のこともちょっと調べてみたが、これまたやっぱり、ワタシにはすんなりと理解できないので、ほったらかし。ただ、さいきん、たまたま立ち寄った神社の説明板にたまたま「牛頭天王」の名前を見かけると、なんだかウレシイ。なんにも知らないのに妙なものである。
◆ スサノオの「嗚」が「鳴」になってたり、ミコトの「尊」が「尋」になってたり、説明板ひとつ書くのも楽じゃない。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈ですっかり姿を消してしまったという牛頭天王。復活する日は来るんだろうか。 |
◆ 「いすみ市」が「夷灊市」だったらということを夢想しているうちに、ヤヤコシイ漢字を使った市名に「塩竈市」があるのを思い出した。《Yahoo!知恵袋》にこんな質問。 ◇ 宮城県「しおがま市」の漢字表記は、旧字体を用いて「塩竈市」とするのが正式なのですか? 郵便局配布の郵便番号簿には、そのように記載されています。難しい漢字ですね。 ◆ たしかに難しい漢字だが、「竈」はふつうには「カマド」と読まれる字で、「釜」の旧字体であるわけではない。まったく別の漢字である。その点では、「塩釜」と書くのは、たとえば「塩鎌」と書くのと同じくらいにおかしいはずだが、カマドは「釜戸」とも書かれることがあるので、強弁すれば、「塩釜」の「釜」は「釜戸」の「戸」を省略したもの、という説明も成り立つだろうか。塩竈市は、 ◇ 〔Wikipedia〕 「塩釜市」と表記されることも多く、塩竈市内にある市以外の機関の名称の多くは「塩釜」になっており(郵便事業の支店も塩釜支店である。なお、杜の都信用金庫は塩竈営業部である)、JRの駅名でも「塩釜」(塩釜駅,本塩釜駅など)であるが、釜は所謂「ナベ・カマ」の「かま」であり、竈は釜をのせる「かまど」のことなので、字義が異なる。
◇ 〔塩竈市:「竈」の字の書き方〕 塩竈市役所で作成する公文書においては、「塩竈」を使用することになっています。ただし、市民の方、あるいは他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解釈して受理することとしています。 ◆ とりあえず「しおがま市」に変更される気配はなさそうだ。 |
◆ たわむれに「灊」で検索してみると、森鴎外が出てきた。 ◇ 河は上総(かづさ)の夷灊川(いしみがは)である。海は太平洋である。 ◇ 〔Wikipedia〕 清澄山系の東方の勝浦市上植野に源を発し、数多くの渓流をあわせ複雑に蛇行しながら北流した後、大多喜町付近でその流れを東折し、いすみ市岬町和泉で太平洋に注ぐ。 ◆ たまたま見つけた森鴎外の文章、せっかくだから、全部読んだ。自伝的回想を軸にした短編。鴎外とおぼしき「白髪の主人」が別荘近くの海辺を散歩している。じっさい鴎外は夷隅川が外房の海に注ぐ河口近く、夷隅郡東海村字日在(ひあり)(現在のいすみ市日在)に鴎荘という名の別荘を持っていたそうで、散歩から戻った「主人」は、別荘の居間で、 ◇ 自分がまだ二十代で、全く処女のやうな官能を以て、外界のあらゆる出来事に反応して、内には嘗(かつ)て挫折したことのない力を蓄へてゐた時の事であつた。自分は伯林(ベルリン)にゐた。 ◆ と、留学時代の回想にふけり始める。回想といっても、こむずかしい哲学的なハナシが続くので、ワタシにはあまりおもしろくはない。だいぶとばして、留学から帰朝する場面。 ◇ シベリア鉄道はまだ全通してゐなかつたので、印度(インド)洋を経て帰るのであつた。一日行程の道を往復しても、往きは長く、復(かへ)りは短く思はれるものであるが、四五十日の旅行をしても、さういふ感じがある。未知の世界へ希望を懐(いだ)いて旅立つた昔に比べて寂しく又早く思はれた航海中、籐の寝椅子に身を横へながら、自分は行李にどんなお土産を持つて帰るかといふことを考へた。 ◆ 航海の途中、寄港したスリランカ(セイロン)でつい買ってしまった「青い鳥」。船に戻ると、そのカゴの鳥を見た船員からフランス語で声をかけられる。「Il ne vivra pas !」(その鳥はじきに死ぬよ)。すでにだいぶ弱っているのを売りつけられたのだろうか。
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◆ 森鴎外『妄想』から、二度目の引用。 ◇ 自分は錫蘭(セイロン)で、赤い格子縞の布を、頭と腰とに巻き附けた男に、美しい、青い翼の鳥を買はせられた。籠を提(さ)げて舟に帰ると、フランス舟の乗組貝が妙な手附きをして、「Il ne vivra pas !」と云つた。美しい、青い鳥は、果して舟の横浜に着くまでに死んでしまつた。それも果敢(はか)ない土産であつた。 ◆ これを読んで、乗組員が乗組「貝」になっていることに気がつくひとはどれくらいいるものだろうか? もともとの底本の誤植なのか入力ミスなのかは調べないとわからないが、手入力ではなく、本をスキャンしてOCRソフトで読み取ると、どうしても校正がおろそかになってこうした間違いが多くなる。「乗組貝」で検索すると、国会の議事録など46件がヒットした。そのひとつが、《東北文庫 web 物語伝承館》に収録された夏堀正元「下北半島紀行」。
◆ この文章を読むと、ちょっと不思議な気分になる。「員」が「貝」に間違って読み取られたというだけのことなのに、それが鉄道員や国会議員ではなく、たまたま(船の)乗組員であったことで、貝との親和性が生まれてしまう。ここからあとはワタシの「妄想」だが、難破した船の乗組員の死体が、漂いながらしだいに白骨化していき、ついには貝になって海底の岩にへばりつく。ひとり、またひとり、貝になる乗組員が増えていき、仏ガ浦の断崖はますます白さを増していく。 ◇ どうしても生まれかわらねばならないのなら、私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い岩にへばりついて何の心配もありませんから。
◇ 〔Wikipedia〕 なお、丸刈りにすればBouz割引が適用され、1000円で鑑賞可能。これは、出征を前に丸刈りにする場面があることから来ている。 ◆ こんな企画を思いつくのはどんなひとだろう。 |
《東北文庫 web 物語伝承館》に、こんな文章。 ◇ 恐山の地名は元来はアイヌ語のウシヨロ(内湾の意といふ、然らば大湊を指すのであらう。恐山は実に大湊の背後にある)からウソリに転訛し、再転訛してオソリ、オソレとなつたのが、やがて地の印象と結びついてその音を恐の字に当てたのであらう。従つて旧くはこれを宇曽利(うそり)山と記したものもある。 ◆ あっ、と思った。「忍路(おしょろ)」と同じだったんだ。 ![]() ![]() ◇ 下北半島の不気味な火山、恐山は恐ろしさのための恐れ山と考えられがちですが、麓の大湊あたりに宇曾利という地名があり、宇曾利の後ろの山で宇曾利山であったわけです。北海道では函館の古名がウソリで、アイヌ語で入江の奥の波静かな所を意味しています。 ◇ 〔むつ市観光協会〕 恐山は、藩政時代には宇曽利山(うそりやま)と書かれていました。また、その昔、下北地方を宇曽利郷と呼んでいたこともあったようです。このウソリは、アイヌ語のウショロ(入江とか、湾という意味)に由来していて、これがさらに転化してオソレ(恐)になったものとみられています。 ◇ 〔小樽學:地名探索〕 忍路はアイヌ語のウシヨロ=湾からきているといわれ、江戸時代にはヲショロ・ヲシヨロなどと書かれていました。1869(明治2)年忍路郡が設置されています。忍路村は1906(明治39)年4月桃内村・蘭島村・塩谷村と合併して二級町村塩谷村となり、忍路郡唯一の村でしたが、1958(昭和33)年4月に塩谷村が小樽市に併合されて消滅、忍路郡も廃止されました。 ◆ 最後の埼玉県行田市の旧町名は忍(おし)町と読む。これらの説が正しいかどうかを判断する能力はワタシにはないのが残念。忍路と恐山。「忍」と「恐」の字が似ているのも、おもしろい。恐山の画像はおともだちの rororo さんのブログからこっそり拝借。 |
◆ 森鴎外『妄想』から、三度目の引用。 ◇ 自分は錫蘭(セイロン)で、赤い格子縞の布を、頭と腰とに巻き附けた男に、美しい、青い翼の鳥を買はせられた。籠を提(さ)げて舟に帰ると、フランス舟の乗組貝〔ママ〕が妙な手附きをして、「Il ne vivra pas !」と云つた。美しい、青い鳥は、果して舟の横浜に着くまでに死んでしまつた。それも果敢(はか)ない土産であつた。 ◆ ドイツからの帰途、セイロン(スリランカ)で、現地人に青い鳥を押し売りされた森鴎外。そういえば、ちょとまえに読んだ「馬面」の成島柳北の『航西日乗』にもこんな記述。これもセイロン(錫狼)。 ◇ 唯(た)だ土人狡猾(こうかつ)無恥、人に迫て物を売り、囂々(ごうごう)蚊蜹(ぶんぜい)の如くなるは極めて厭(いと)ふ可し。土産数種を買ひ、黄昏(こうこん)舟中に還る。 ◆ 外国人観光客に「蚊蜹」(カやブヨ)みたいにブンブンとまとわりついて、押し売りまがいにしつこく土産物を売りつけるのは、なにもスリランカにかぎったことではないが、鴎外も柳北もけっきょくなにかしら買わされてしまっているのが、おかしい。柳北がマルセイユ行きのフランス船でセイロンのゴールに立ち寄ったのは、1872(明治5)年。マルセイユからフランス船に乗った鴎外がセイロンに立ち寄ったのは、1888(明治21)年。『航西日乗』の校注者の注によれば、 ◇ イギリス船の寄港地がコロンボであったのに対して、フランス郵船はスリランカ南部のゴールに寄った。 ◆ ということだから、鴎外が寄港したセイロンの港もゴールだったのだろうか。
◆ これはゴール入港の場面。このときも、現地人は乗船客にわんさかとまとわりついて、洗濯(澣衣)の注文を取るものやら、土産(土宜)を売りつけるものやら、宿の呼び込みをするものやら、さわがしいことこのうえない。まあ、港やら駅やら観光客が集まるところは多かれ少なかれそんなものだろう。日本もかつてそんな時代があっただろう。森繁久彌の『駅前旅館』のような。 ◆ 写真の灯台が、柳北が見たものと同じであるかどうかは、まだ調べてない。 |
◆ 「裸の大将」として有名な放浪画家の山下清は、1961(昭和36)年、ヨーロッパに(放浪ではなく)旅行に出かけた。その(放浪記ではなく)旅行記を読んだ。そのはじめ。 ◇ ぼくはこんどヨーロッパへ旅行することになったので、そのわけはというと、ずっと前に八幡学園をとびだしてから、あっちこっちを歩きまわって、二十なん年のあいだに日本のくにの五分の一くらい見学してしまった。 ◆ いや、冒頭から、おもしろい。「ほんとうのことをいうと、ぼくはいまでも、自分のいきたいところへぶらりとでかけるのは、そんなに悪いことでないような気がするのですが」という本音の差し挟み方がなんとも絶妙である。それから、「放浪の癖」が治ったわけもこの文章から透けて見えるようだ。有名になってしまったので、放浪しようにも、「すぐつかまってしま」って放浪が現実的に不可能になってしまい、また「日本国中ほとんど歩いてしまった」ので、とくに放浪したくなるような場所が日本にはもうなくなってしまった。つまりは放浪に飽きてしまったということなのだろう。放浪の癖が治りきっていなかったときに、八幡学園長に宛てに「もう放浪はしません」と約束した文章がある(昭和29年4月11日付)。こんなのだ。 ◇ 僕は毎日々々ふらふらして 遠い所迄歩いて行って るんぺんをして居るのは自分でもるんぺんと言う事はよくないと言うのは知っていて るんぺんをしているのは自分のくせか病気だろうと思うので 毎日ふらふらして歩くのはくせか病気だから くせか病気は急になおら無いからだんだんと其のくせをなおそうと思って居るので今年一ぱいるんぺんをして 来年からるんぺんをやめようと思って 学園の先生とそうだんをしたので 幾らくせでもなほそうと思えば今からでもすぐ其のくせがなおると言はれたから 今度からるんぺんをするのを思いきってやめようと思います ◆ 「くせか病気」はすぐには治らないから、じょじょに治したい、とは見事な理屈である。これを本音に言い換えると、もう少し放浪をしたいから、「今年一ぱいるんぺんをして」、放浪をやめるのは来年からにしたい、それまで待ってほしい、ということになる。なんとも憎めない。山下清は、「外む省」で渡欧の手続きをしているときに、この約束の文書(「ちかいのことば」)のことを思い出す。 ◇ 「とにかく、式場先生が全部の責任をもってくださるわけですね」といわれて、先生がぼくのために、山下清の全部の責任をもつという書るいをかいたので、ぼくはずっと前にやたらに放浪に出かけているとき、もうけっして放浪はしませんというちかいのことばを書かされたことを思い出した。ぼくはそのちかいを書いてから、じきにまた放浪してしまったが、先生ははかせだから約束をやぶることはできないので、ぼくはヨーロッパへいくことができる。 ◆ ああ、やっぱり! あれは「書かされた」ものだったのね。だから、「じきにまた放浪してしまった」。放浪という「くせか病気は急になおら無い」。ただ治るのをじっと待つしかない。 ◇ 昭和十五年、ぼくの十八才のときにはじまったぼくの放浪のくせは、なかなか治らないようで、昭和二十九年と三十年は、いくらとめようとしてもとめられないので、出てしまった。ぼくの放浪はどうしてもがまんできないことがあるので、病気かもわからないと思ったほどだ。 ◆ 「放浪よ、サヨナラ」か。山下清のコトバをもう一度、つぶやいてみる。「ほんとうのことをいうと、ぼくはいまでも、自分のいきたいところへぶらりとでかけるのは、そんなに悪いことでないような気がするのですが」。どうなのだろう? |
◆ 山下清のヨーロッパ旅行記からもうひとつ。とはいえ、まだヨーロッパには着かない。その前にアラスカのアンカレッジ。ああ、なつかしい。 ◇ 〔Wikipedia〕 1990年ごろまで(冷戦時代)は、西側の航空機はソビエト連邦領空の通過をほとんど許可されなかったため、日本・ヨーロッパ間の航空便の経由地として頻繁に使用されていた。日本人をターゲットにしたうどん屋まであったが、現在では旅客便にはあまり使用されていない。 ◇ 〔Wikipedia〕 ソ連崩壊により、1990年代初頭には全ての北極圏経由北周りヨーロッパ線がシベリア上空経由の航路へとシフトされ、現在、旅客便としてこの路線を運航する航空会社はなくなった。しかし、アンカレッジ国際空港ターミナルのうどん屋の味とともにこの路線を懐かしむ人は今も多い。 ◆ 山下清は、アンカレッジで「飛行機がガソリンをつめるあいだ、飛行場にある建物に入って食事をすることにした」とは書いているが、残念ながら、うどんを食べたとの記述はない。まだうどん屋はなかったのかもしれない。それはさておき、アンカレッジで家族に絵はがきを書き、「六月十日」と日付けをつけたら、 ◇ 今日は六月九日だといわれた。そんなはずはないので、六月九日のよる羽田を出発して一ばんたった朝だから十日にきまっていると思ったら、アラスカではまだ九日で、どういうわけかというと、どこでも朝とひるとばんがあるのに、地球はまるいので場所によって朝のくる時間がちがってくるので、朝が午後七時ではぐあいがわるいので、どこの国でも朝を午前にしている。それで算数にくわしい人がいろいろ計算して、地球のいろいろの国の日と時間をきめてあるので、ぼくのように頭のよわい人間は、人がきめたことにしたがうしかないのかもしれない。 ◆ ワタシも「算数にくわしい人」ではないので、じつのところ、国際日付変更線というようなことを正確に理解できている自信がない。ほんとうに引用したかったのはつぎの段落で、 ◇ 世の中にはいろいろぼくにはのみこめないことが多いので、のみこめないことはなんべんもききなおして、のみこめるようにしているのに、なんべんきいてものみこめないこともある。そういうときはしかたがないので、のみこめないことにちかづかないようにするか、わかりやすいところをさがして、でかけていく。 ◆ 理解できないことは理解できるようにできるだけの努力をする。けれど、それでも理解できなかったときには、いさぎよく理解することをあきらめる。なんと見事な人生の知恵だろう。もう少し続けると、 ◇ こんどのヨーロッパでも、いきなりのみこめないことにぶつかってしまって、六月九日が二度くるのは、ぼくの時計がちゃんと動いていて九日の夜から十時間以上もたっているのにまだ九日だというのは、とてもわからない。これは裸になってはいけないの世の中のきめになっているようなもので、そこからにげだせないなら、だまっていうことをきくことにするので、ぼくはだまってはがきの六月十日という日づけを、九日にかきなおした。 ◆ 「そこからにげだせないなら、だまっていうことをきくことにするので、ぼくはだまってはがきの六月十日という日づけを、九日にかきなおした」。これには脱帽。ちょっと文章が上手すぎやしないか。もちろん、文章力の問題ではないのだろう。山下清は、こんなふうに、つねに世の中の常識と格闘していたのだろう。たとえば、熱海温泉で、 ◇ ぼくは金をだしてこんなに温泉へ入る人が大ぜいいるのはどういうわけか、よくわからない。辰造(弟)は働く人が疲れるので温泉へ入りにくるのだと教えてくれたので、家のなかや風呂にいる人の顔をみたがだれもそう疲れたような顔をしていなかった。疲れて温泉へくるならばみんな休んでいるか寝ていそうなものだが、パチンコをしたり、ピンポンをしたり、玉をついたりして遊んでいる。宿屋にいても酒をのんでさわいでいるので、あれでは疲れがなおらないでかえって疲れるのではないかと心配になって、女中さんにもきいてみたが、温泉へきて寝てばかりいる人はひとりもいないと教えてくれた。そういえばぼくも熱海へきてもねていないで弟と町へでたり、ピンポンをしたりして遊んだので、温泉は疲れをなおしたり病気をなおすところではないようにみえた。もう一度温泉へくるわけを辰造にきいたら「清ちゃんは何でもわけをきくが、どんなことでもみんなわけがあるとはかぎらない、温泉だって来る人はいろいろ人によってちがうのだからそうはっきりはわからない」といわれて、そういうものかと、もうきくのはあきらめました。 ◆ 似たようなハナシはいくらでもあるが、アンカレッジから熱海に戻ってしまって、またヨーロッパへ飛び立つのにはいささか疲れたので、この辺でやめにする。 |
◇ じつは私は、ものごとの理解が遅いんです。こんな本を書いたりしているから、早いと思う人もいるでしょうが、いまでも他人のいったことを、一年間考えたりするんです。だから、ただいま現在のことを、あれこれ議論するような会議は、徹底的に苦手です。その場の議論についていけないんです。だから会議では意見をいわなくなる。教授会で意見をいったのは、十三年のなかで一回だけですからね。なにしろ一年考えて、それからやっと返事できるんですから。蛍光灯もいいところです。 ◆ 似たようなことを川上弘美もエッセーに書いてたなあ、と思って、本棚を探してみる。たいていの場合、つぎつぎと本をひっくり返してみて、それでもなかなか見つからなくって、そのうちに関係のないページを熱心に読み始めてしまって、あげくになにかを探していたことさえ忘れてしまうことになるのだが、今回はすぐに見つかった。見つかったのだが、読みなおしてみると、これがあまり似ていない。 ◇ 頭の廻(めぐ)りが、悪い。 ◆ いや、やっぱりちょっとは似ているか? すぐにはわからない。その答えを出すのに、ワタシの場合、どれくらいの時間がかかるのだろう? |
◆ 「まつり」のための描かれたかわいい絵がたくさん並べて展示されていた。こういうのを見るのは好きなので、ひとつひとつ見ていった。そしたら、ふと疑問がわいた。 ![]() ![]() ◆ 「まつり」は「祭り」なのに、「こおり」はどうして「氷り」じゃなくて「氷」なんだろう? ◇ 氷は「氷り」と送り仮名を使わないのに、祭には「祭り」と送り仮名を使うしで、年寄は迷ってしまう。 ◆ ワタシも迷ってしまう。「年寄」に「り」はいらないのだろうか? 文部科学省サイトに「送り仮名の付け方」というページがあって、「現代の国語を書き表す場合の送り仮名の付け方のよりどころ」を親切に示してくれているので、それを見ると、「通則4」のところに、 ◇ 本則 活用のある語から転じた名詞及び活用のある語に「さ」,「み」,「げ」などの接尾語が付いて名詞になったものは,もとの語の送り仮名の付け方によって送る。 ◆ とあって、その例に「祭り」も挙げられている。ただし、例外があって、「次の語は,送り仮名を付けない」と書かれている。どれどれ。 ◇ 謡 虞 趣 氷 印 頂 帯 畳 卸 煙 恋 志 次 隣 富 恥 話 光 舞 折 係 掛(かかり) 組 肥 並(なみ) 巻 割 ◆ ああ、あった。ここにしっかり「氷」があった。氷は例外だから、送り仮名をつけない、と。なるほど。でも、これらの語が例外とされているのはどうして? などと考え始めると、またキリがなくなるが、 ◇ この「送り仮名の付け方」は、科学・技術・芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。 ◆ ということらしいので、お言葉に甘えて、とりあえず、あまり気にしないことにしておこう。それにしても、例外のなかに、どうして「祭」も入れとかなかったんだろう? |
◆ 知らなかったが、朝日新聞紙上で去年、読者が選ぶ「日本の終着駅ベスト10」といったような企画があったらしい。
◆ 半数以上のひとが稚内駅を選んでいるとは、すごい人気だな。2位以下はというと、 ◇ 2位 枕崎駅(JR指宿枕崎線・鹿児島県枕崎市)、3位 志布志駅(JR日南線・鹿児島県志布志町)、4位 根室駅(JR根室本線・北海道根室市)、5位 函館駅(JR函館本線・北海道函館市)、以下門司港駅(JR鹿児島本線・北九州市門司区)、長崎駅(JR長崎本線・長崎県長崎市)、夕張駅(JR石勝線・北海道夕張市)、三厩駅(JR津軽線・青森県三厩村)、奥多摩駅(JR青梅線・東京都奥多摩町) ![]() ![]() ◆ という順。なるほど。ほとんどが、北海道か九州だな。えっ、3位に志布志駅? それで、正月に行った志布志の写真の整理をまだやってなかったことに気がついた。いまから、こっそり駅の写真だけでもアップしておくか。10位の奥多摩駅は、都民の人口の多さを物語っているのだろう。しかし、5位に函館駅はあるけれど、青森駅がないなあ。どうしてだろう。青森駅はもはや終着駅ではないのだろうか。函館は、終着駅というよりも始発駅のイメージのような気がする。 ♪ はるばるきたぜ 函館へ ◆ ああ、これは「函館の女」にはるばる会いに来た歌だったから、やっぱり終着駅なのか。それにしても、「終着駅は始発駅」という歌の歌詞。どこが舞台かと思ったら、これまた青函連絡船。しかし、これは「駅」なのだろうか。船の駅? 連絡船だから「駅」でいいのか。 ◆ 以前、「さいはての駅」という記事も書いた。 |
◆ 似たような写真を見つけると、つい並べてみたくなる。 ![]() ![]() ![]() ◆ で、並べてみた。いずれも登録有形文化財で、文化庁の《文化遺産オンライン》の記載にしたがえば、 (左)滋賀大学経済学部講堂(旧彦根高等商業学校講堂):1924、木造2階建、瓦葺。 ◆ 大学の講堂といえば、東大の安田講堂(1925)、早稲田の大隈講堂(1927)あたりが有名だろうが、東大も早稲田も講堂が建てられたとき、すでにれっきとした大学だった。それにたいして、写真の3つの大学はいずれも戦後の学制改革で誕生した新制大学で、講堂が建てられたときには、まだ大学ではなかった。それぞれの前身には興味深いものがある。信州大学に繊維学部があるということ、その繊維学部が上田市にあるということ、群馬大学の工学部が前橋市ではなく桐生市にあるということ、これらのことをワタシは知らなかった。知らずに上田市と桐生市を訪れ、そこに国立大学の学部があることを知って、かなり驚いた。ワタシはたまたま友人が進学したので知っていたが、滋賀大学の経済学部が大津市ではなく彦根市にあることを知っているひとはそう多くないだろうと思う。 |
◆ 映画「喜びも悲しみも幾年月」の同名の主題歌の歌詞。 ◇ 昔、子供の頃の私は、「おいら岬」と言う岬が実在すると思ってました。 何県なのか??そんな疑問がありました。この歌を聞いて思ったのは私だけでしょうか?? ◇ 「おいら岬の灯台守りよ」という唄い出しなのだけれども、わたしはこの歌詞をずっと、「おいら岬」という地名の場所があるのだと思っていて、「おいら岬」の灯台の歌だということにしていた。「おいら岬」はきっと、北海道の人里離れた北の果てにあって、吹雪と荒波の吹きよせる苛酷な土地なのだ。そこで暮らす灯台守りはたいへんだよ、と。 ◇ 映画と歌がはやっていた頃、小学生の弟から「おいら岬ってどこにあるの?」と訊かれたことがありました。半年ぐらい弟は「おいら岬」のあだ名でよばれました。 ◇ 歌いだしの「おいら岬の燈台守は」という歌詞を、わたしはずっと「おいら岬」というどこかにある実在の岬の名前だとばかり思っていたのだが」(私の中では「生良岬」とでも書くのかと勝手に想像していた)、TVのモニター画面に映し出される歌詞は「俺ら岬の」であった。 ◇ 日本のどこかの「おいら岬」って岬の灯台守と思っていたのでありますね。ところが「おいら」は一人称でありまして。俺ら岬の灯台守~だったんですね。 |