◆ 「裸の大将」として有名な放浪画家の山下清は、1961(昭和36)年、ヨーロッパに(放浪ではなく)旅行に出かけた。その(放浪記ではなく)旅行記を読んだ。そのはじめ。 ◇ ぼくはこんどヨーロッパへ旅行することになったので、そのわけはというと、ずっと前に八幡学園をとびだしてから、あっちこっちを歩きまわって、二十なん年のあいだに日本のくにの五分の一くらい見学してしまった。 ◆ いや、冒頭から、おもしろい。「ほんとうのことをいうと、ぼくはいまでも、自分のいきたいところへぶらりとでかけるのは、そんなに悪いことでないような気がするのですが」という本音の差し挟み方がなんとも絶妙である。それから、「放浪の癖」が治ったわけもこの文章から透けて見えるようだ。有名になってしまったので、放浪しようにも、「すぐつかまってしま」って放浪が現実的に不可能になってしまい、また「日本国中ほとんど歩いてしまった」ので、とくに放浪したくなるような場所が日本にはもうなくなってしまった。つまりは放浪に飽きてしまったということなのだろう。放浪の癖が治りきっていなかったときに、八幡学園長に宛てに「もう放浪はしません」と約束した文章がある(昭和29年4月11日付)。こんなのだ。 ◇ 僕は毎日々々ふらふらして 遠い所迄歩いて行って るんぺんをして居るのは自分でもるんぺんと言う事はよくないと言うのは知っていて るんぺんをしているのは自分のくせか病気だろうと思うので 毎日ふらふらして歩くのはくせか病気だから くせか病気は急になおら無いからだんだんと其のくせをなおそうと思って居るので今年一ぱいるんぺんをして 来年からるんぺんをやめようと思って 学園の先生とそうだんをしたので 幾らくせでもなほそうと思えば今からでもすぐ其のくせがなおると言はれたから 今度からるんぺんをするのを思いきってやめようと思います ◆ 「くせか病気」はすぐには治らないから、じょじょに治したい、とは見事な理屈である。これを本音に言い換えると、もう少し放浪をしたいから、「今年一ぱいるんぺんをして」、放浪をやめるのは来年からにしたい、それまで待ってほしい、ということになる。なんとも憎めない。山下清は、「外む省」で渡欧の手続きをしているときに、この約束の文書(「ちかいのことば」)のことを思い出す。 ◇ 「とにかく、式場先生が全部の責任をもってくださるわけですね」といわれて、先生がぼくのために、山下清の全部の責任をもつという書るいをかいたので、ぼくはずっと前にやたらに放浪に出かけているとき、もうけっして放浪はしませんというちかいのことばを書かされたことを思い出した。ぼくはそのちかいを書いてから、じきにまた放浪してしまったが、先生ははかせだから約束をやぶることはできないので、ぼくはヨーロッパへいくことができる。 ◆ ああ、やっぱり! あれは「書かされた」ものだったのね。だから、「じきにまた放浪してしまった」。放浪という「くせか病気は急になおら無い」。ただ治るのをじっと待つしかない。 ◇ 昭和十五年、ぼくの十八才のときにはじまったぼくの放浪のくせは、なかなか治らないようで、昭和二十九年と三十年は、いくらとめようとしてもとめられないので、出てしまった。ぼくの放浪はどうしてもがまんできないことがあるので、病気かもわからないと思ったほどだ。 ◆ 「放浪よ、サヨナラ」か。山下清のコトバをもう一度、つぶやいてみる。「ほんとうのことをいうと、ぼくはいまでも、自分のいきたいところへぶらりとでかけるのは、そんなに悪いことでないような気がするのですが」。どうなのだろう? |
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