MEMORANDUM
2005年07月


◆ 鎌倉には、丸ポストが多いような気がする。赤い円筒形のなつかしいポスト。ステキなデザイン。郵便差出箱一号丸型。鎌倉に丸ポストが多いのは、たまたまだろうか? それとも、だれか 「鎌倉には丸ポストが似合う」 と言って、新しいポストに変えるのに反対したひとでもいたのだろうか? あるいは、思い過ごしで、ホントはそれほど多くないのかもしれない。

あじさいポスト

あじさいポストに手紙を出したら、
わたしのへたくそな字も、
湿った空気にしっとり濡れて、
すこしは読みやすくなるかしら。

あじさいポストに手紙を出したら、
わたしのつたない文章も、
花の香りがほのかに染みて、
ちょっとはすてきになるかしら。

あじさいポストに手紙を出したら、
気のいい郵便屋さんがやってきて、
楽しそうに口笛を吹きながら、
わたしの手紙をはこんでくれる。

そうして、あなたのもとに届くころには、
梅雨もすっかり明けていることでしょう。

◆ いったなにを書いているのやら!

◆ 銭湯に行って風呂から上がると、テレビになんの番組かはしらないが草間彌生が出ていたので、ちょっと観てから帰ろうと思ったら、どこからか手が伸びてきてチャンネルを変えられた。今度は古館が出ていて、アルカイダではなくて、IRLの可能性もありますね、などと言っている。ロンドンのはなしらしい。それにしても、なんなんだ、IRLってのは! チャンネルを変えたひとはもうとっくに帰ってしまった。ワタシもそそくさと帰り支度をすることにした。

◆ キライなものに対しては、沈黙するのが最良の対処法であることを重々承知しつつも、酔っ払ってしまっているときには、そういうわけにもいかなくなる。

♪ 涙の数だけ強くなれるよ
  アスファルトに咲く花のように

  岡本真夜 「TOMORROW」(作詞:岡本真夜・真名杏樹)

◆ ふだん部屋では、ビールしか飲まないのに、いまはたまたまウィスキーを飲んでいて、すこしカラダが熱い。鼻歌なども歌ってしまう。で、ふと口をついて出てしまったのが、岡本真夜の「TOMORROW」。この歌がワタシの口から漏れ出てしまった原因について、あれこれ考えてみるのも一興であるけれども、この詮索はやめておくことにして、いきなりだが、ワタシはこういった「がんばれソング」が好きではない。酒の勢いでいえば、大キライである。というのも (と書いて、しばらく考え込むはめになるわけだが)、その手の歌にはあまりに細部が抜け落ちているからである。

◆ このアスファルトに咲く花はいったいどんな種類の花なのか? アスファルトを突き破って成長する植物は、強いというコトバのたんなる比喩以外のなにものであるのか? アスファストをいとも簡単に隆起させ、堂々と花を咲かせる植物の生命力を、われわれはホントに賞賛しているのだろうか? ともすれば、美的ではないという理由によって、排除する側にわれわれは立つのではないだろうか? (脈絡が飛ぶのは酔っ払いの習性として許していただきたいが、)花を愛で、それをカメラに収めるアマチュアカメラマンは無数にいるだろうけれど、アスファルトからやっとの思いで顔を出し、花を咲かせることに成功したものたちに、気がつき、あえてそれにファインダーを向け、価値あるものとしてシャッターを押すにいたるひとがどれぐらいいるのだろうか?

◆ ワタシはアスファルトに咲く花がキライである。引っこ抜きたいとさえ思う。そもそも花はアスファルトの上に咲くべきではない。そこにどうしても花が咲かねばならないというのなら、まずやらなければならないのは、それを強さだと思ってしまうことではなく、そこからアスファルトを剥がすことだろう。

♪ 名前も知らなかったけれど
  あの日僕に笑顔をくれた
  誰も気づかないような場所で
  咲いてた花のように

  SMAP 「世界に一つだけの花」(作詞:槇原敬之)

◆ 「TOMORROW」 にもまして、キライなのは、SMAP の「世界に一つだけの花」 で、こうしたコトバのつらなりはあまりにも空虚ではないか? 好きになったものに対しては、すこしでも知識を得たいと思うのが、自然ではないだろうか? 名前がわからなければ、調べればいいではないか? 好きなひとの名を知りたいと思わないひとなどどこにいるだろう? この歌は花屋の情景を歌ったかのようであるけれども、この歌詞を作った槇原敬之は、じっさいに花屋に行き、花を買ったことがあるのだろうか? どうもアタマのなかだけの花屋に思えてならない。

♪ 頑張って咲いた花はどれも
  きれいだから仕方ないね

◆ などというのなら、なにも花屋に行く必要がないではないか? それこそ 「アスファルトに咲く花」 を手折って持ち帰ればいい。花屋に行って、花を買うつもりなら、どうしたって選択をしなければいけない (花屋の花を全部買うほどの余裕があれば別だが)。

♪ 困ったように笑いながら
  ずっと迷ってる人がいる

◆ なぜこの人は笑っているのだろう? 困ってしまうのはむしろ店員のほうではないか? 「どのような花をお探しですか?」 「それがよくわからないんです」

◆ 近年いろいろと花を歌った(ように思える)歌がヒットしたけれども、どれもじっさいの花を歌っているようには思えない。サクラを歌った歌があれこれあっても、みなアタマのなかに咲いているだけではないのか? それに比べれば、すこし以前の歌は、「シクラメンのかほり」にせよ、「(このカッコのなかを埋めるべき歌が思いつかない、ご教示を請う。思い浮かぶのは、アグネス・チャンの「ひなげしの花」とか中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」とか原田知世の「ダンデライオン」とかチューリップの「サボテンの花」とかマイナーなうたばかり)」にせよ、もうすこし具体性があったように思う (花の名前を明示するということが問題なのではない)。

♪ バラが咲いた バラが咲いた 真赤なバラが
  淋しかった ぼくの庭に バラが咲いた

  マイク真木 「バラが咲いた」(作詞:浜口庫之助)

◆ これはマイク真木の「バラが咲いた」であるが、こんな単純な歌詞の歌でも、「花が咲いた」ではなく、「バラが咲いた」と歌うことによって、かろうじて救われているようにワタシには思える。

◆ 6月30日、千葉県山武郡大網白里町大網。郊外のコンビニの駐車場はとんでもなく広い。仕事途中に立ち寄ったコンビニの入口付近に犬が一匹寝そべっていた。あたりを見回すと、停まっているクルマはほかに一台。しかし、そのひとの飼い犬ではなさそうである。店内には中年の女性の店員さんがひとり。缶コーヒーを買って、その店員さんに尋ねてみた。

◇ 近所の犬ですか?

◆ その店員さんは、にこっと笑って、ひとこと。

◇ じゃじゃまるくん。

◆ 会話としては、ひどく舌足らずなように思えるかもしれないが、これで十分だった。「そうなのよ、おとなりのオウチで飼ってる犬で、じゃじゃまるって名前なの。放し飼いにしてるから、いつも、こっちに遊びに来てるの。かわいいでしょ?」というぐらいの内容を、たったひとことで言ってしまうとは、すごいひとである。支払いをすませ、外に出て、しばらくじゃじゃまるくんの相手をし、写真を撮り、そろそろ出発しようかとしたときに、もう一度店内のほうをのぞいてみると、さっきの店員さんがこちらを見て、ニコニコしている。軽く会釈をして、再び仕事に向かった。

◆ 名前を知ろうが知るまいが、その犬の愛らしさに変わりはないけれど、やっぱり名前がわかると親しみが増す。いつかまた近くに行くことがあったら、この広い駐車場のあるコンビニに寄ってみることにしよう。そうして、じゃじゃまるくんに会えるといい。

◆ コンビニの店員との会話については、以前べつのハナシを書いた(「トイレ、ありますか?」)。

◆ 金物屋はだれでも知っているだろう。荒物屋は知らないひともいるかもしれない。では、際物屋はどうだろう?

きは-もの (名) 際物 其用ヰルベキ節節の際(キハ)に賣出ス商物。(雛祭ノ雛人形、盆祭ノ燈籠ノ類)
大槻文彦 『言海』 (ちくま学芸文庫,p.394)

◆ 6月23日、千葉県東金市東金。九十九里バス、八鶴湖入口の下には安崎際物店前の文字。ワタシはここで際物店なるものをはじめて目にしたのだった。ウチに帰ってから、「際物店」 で検索してみると、驚いたことに、この安崎際物店がトップに表示されている。

◇ 正・三・五月人形・盆提灯・花環専門店 創業明治元年
homepage2.nifty.com/yasuzakisosai/honten.html

◆ 続けてみていくと、小林際物店(千葉県千葉市)、田内際物店(千葉県柏市)、内海際物店(茨城県猿島郡境町)、小川際物店(千葉県山武郡九十九里町)、小林際物店(茨城県水戸市)、一瀬堂際物店(静岡県浜松市)・・・、どうも地域にかたよりがある。あるところにはあるし、ないところにはない。これ以上知ろうとすると、どうしても地域の歴史に首を突っ込む必要がある。面倒なのでやめておこう。もちろん際物店と屋号につかない際物屋さんも多いだろうし、取り扱う際物を一部に限定すれば、人形店、葬祭店などと名乗ることにもなるだろう。以下は東大阪市の株式会社清月人形のサイトから。

◇ 当社は、夏期、玩具花火を小売販売しています。人形屋が花火を扱う事に、疑問をお持ちの方も居られるかとは思いますが、これは、人形屋というものが、元来、際物屋であったことを思えば、説明がつきます。年末から正月にかけて破魔弓・羽子板を扱い、三五の節句ではお雛様・鎧兜、そして夏には花火を扱うというわけです。その時期に合ったものを商品とする際物屋は、人形屋の本来の姿であり、原点です。ゆえに当社は、開業以来、玩具花火の販売を続けてきました。
www.seigetsu-ningyo.co.jp/main/hanabi10.htm

◆ 以下は東京都台東区の有限会社木村由一商店のサイトから。

◇ 東京の下町、蔵前の手作り和凧専門店でございます。おひな様から鯉幟の季節に代わり店先には大小の鯉幟が泳いでいます。夏祭り・運動会用の白扇子・赤扇子日の丸扇子も用意しております。当店は際物屋と言われ、四季折々の商品を陳列致します。秋口には奴凧、正月飾り、春にはひな人形、ミニおひな様、鎧兜、鯉幟、夏は扇子・うちわ・提灯・ガラス細工・ 昔の懐かしいおもちゃも扱っております。
www.tako.shop-site.jp/

《Wordorigins.org》 というサイトがあって、

◇ This site is devoted to the origins of words and phrases, or as a linguist would put it, to etymology. Etymology is the study of word origins. (It is not the study of insects; that is entomology.)
www.wordorigins.org/

◆ そのなかの 「discussion board」 をときどき見ているが、最近のトピックに “Grandma - Why must we use this term?” というのがあった。その 「トピ主」 がいうには、

◇ Most of us call our mothers "mom" or "mommy" when young, or "mother." Only people from the hills like the Walton's called their mom's "ma." So, why do we insist on using the term Grandma instead of Grandmother or Grandmom? My grandchildren refer to me as grandmother which seems formal but more respectful than grandma.
p098.ezboard.com/fwordoriginsorgfrm1.showMessage?topicID=12472.topic

◆ かいつまんで言えば、アメリカでは、母親を、ふつう 「マム」 とか 「マミー」、あるいは 「マザー」 と呼ぶのに、祖母にたいして、「グランマザー」 とか 「グランマム」 ではなく、「グランマ」 と呼ぶのはどうしてか? トピ主は、彼女自身3人の孫がいるらしいが、どうも杓子定規なひとで、母を 「マム」 と呼ぶなら、祖母は 「グランマム」、「マミー」 なら 「グランマミー」 といったふうに、きちんと対応していないのが気になるらしい。母親をふつう「マ」とは呼ばないのだから、祖母を 「グランマ」 と呼ぶことは筋が通らない、そう主張しているようでもある。トピ主によれば、母親のことを 「マ」 と呼ぶなんてのは、「ウォルトン家の人々」 みたいな山奥出身の田舎者だけ、ということになる。

◇ I am not the first (or last) younger grandparent who cringes at the sound of the word grandma. Sorry, but the word sounds hick to me. Yes, I am from a big city where the word is used frequently.
Ibid.

◆ 広いアメリカで、こんな発言をすれば、ハナシがややこしくなるのは必定。The Dictionary of American Regional English (DARE) にリストアップされた “grandma” のヴァリアントは以下のとおり(DaveWilton の引用による)。

◇DARE has an extensive entry on "grandma" and its variants:

/ gran(d)maw / is found chiefly in the South, Midlands, and West.

/ gramma / is scattered, but chiefly found in the North, North Midlands, and West.

/ grammaw / is chiefly Midlands, but also found with some frequency in the South and West.

/ gram(s) / is North and North Midlands.

/ grammamma /, / gran(d)mam(m)a /, and / gran(d)momma / is chiefly found in the South, South Midlands, and among African Americans.

/ grammom /, / gran(d)mom /, / gran(d)ma('a)m /, / grandmahm /, and / grandmum / are clustered in the Central Atlantic states.

/ grannie / and / granny / are widespread.

/ grammy / is chiefly North and North Midlands.

/ grammammy /, / gran(d)mammy /, and /gran'maamy / are chiefly South and South Midlands.
Ibid.

◆ アメリカ映画で 「おばあちゃん」 が登場したら、なんて呼ばれているか確認してみるとおもしろいかも?

◆ 先のエントリー「わたしのグランマ」で引用した、

◇ Only people from the hills like the Walton's called their mom's "ma."
(母を「マ」と呼んでいたのは、ウォルトンのような山間部出身者だけ。)

p098.ezboard.com/fwordoriginsorgfrm1.showMessage?topicID=12472.topic

◆ という一文の、the Walton とは何かというと、The Waltons というテレビ番組があって、

The Waltons was a television series about the lives of a family who lived in the Blue Ridge Mountains of Virginia. John and Olivia Walton, the parents, lived with their seven children on Walton's Mountain. Their home was also shared by John's parents. John and his father, Zeb, together ran a lumber mill from the home.
www.geocities.com/TelevisionCity/2792/walton2.htm

◇ The show ran on CBS from 1972 to 1981./ The family, consisting of Olivia and John Walton and their seven children, struggles to live a decent life during the Great Depression and the Second World War (roughly from the early 1930s to the mid-1940s in the continuity of the series).
en.wikipedia.org/wiki/The_Waltons

◆ 舞台は “the Great Depression” (大恐慌) から第二次世界大戦にかけてのヴァージニア州の山間部。家族はウォルトン夫妻(ジョンとオリヴィア)と7人のこども、それからジョンの両親。11人家族。かなり人気のあった番組のようで、放映当時大学生だったファンのひとりは、つぎの日のテストのことなんてどうでもよかった、と。

◇ It didn't matter if I had a test on Friday, the Walton family always got an hour of my devoted attention on Thursday night.
users.galesburg.net/~atkins/waltons.html

◆ ワタシは観たことがないので、よくわからないが、『大草原の小さな家』 みたいな家族ドラマだろうか。ちなみに、『大草原の小さな家』 (Little House On The Prairie) は、

◇ 1870年代後半のアメリカ中西部で暮らすインガルス一家の家族ドラマ。
www.fmstar.com/mdb/tvdrama/prairie.html

Little House On The Prairie was an American one-hour dramatic television program that aired on the NBC network from 1974 to 1982.
en.wikipedia.org/wiki/Little_House_on_the_Prairie

◆ と、あれこれ調べているうちに、The Waltons も日本で放映されたことがあるということを知った。邦題は 『わが家は11人』。なーんだ!

◇ サナダ虫が「真田紐」から名前ができたといっても、今の若い人はそのわけを知らない。それで、僕は「サナダ虫」をもっと若い人に知ってもらおうと思って、新しく、「きしめん虫」と名前を変えて発表した。 / ところがである。その日から僕のところにジャンジャンと抗議の電話が鳴り続いたのだ。すべて名古屋からだった。
藤田紘一郎 『獅子身中のサナダ虫』 (講談社,p.61)

◆ 「若い人」 ではないけれど、ワタシも真田紐なんて知らない。

さなだ-ひも (名) 眞田紐 〔天正ノ頃、信州ノ眞田氏、刀ノ柄(ツカ)ヲ巻キ始メタルヨリイフト云、或云、眞田幸村、高野山ニ居テ織リ始メタリト、或ハ、狹之機(サノハタ)の約ニテ、古ノ狹織(サオリ)ノ帶ナドノ遣ナラムトイフハイカガ〕 木綿絲ニテ、扁(ヒラタ)ク厚ク組ミ作レル紐、大抵、縞(シマ)ニ打ツ、或ハ、幅ヲ廣ク打チテ、男帶ナドトス、又、絹絲ヲ交フルモアリ。
大槻文彦 『言海』 (ちくま学芸文庫,p.550)

◆ 長野県小県郡の 《真田町公式ホームページ》 によれば、真田紐の用途について、

◇ 古くは刀の下げ緒・たすき・行商の荷紐・男の帯・はてはランプの芯など日常的に広く使われました。 // 近年まで長野県の小県地方で体育の授業で使用された(下駄スケート)を足にくくりつけるのにも使用されたので、団塊の世代あたりには記憶があるかもしれません。/ 現代では陶器などの箱紐に使われるくらいで、
www.sanada.or.jp/contents/column/himo/sanadahimo.html

◆ 「下駄スケート」 の写真も上記サイトより (この写真、スケート靴の下に敷いてある新聞の記事もスケート関連である)。写真の説明には、「実際は足袋を履いた上に真田紐で縛っていた」 とある。

◆ 真田といえば、NHKの人形劇 『真田十勇士』(1975.4.7~1977.3.25) が懐かしい。辻村ジュサブロウの人形。

◆ きしめん、真田紐、サナダムシ。たしかに 「さなだムシ」 を 「きしめんムシ」 と呼ぶのはあんまりだと思うから、「きしめん」 を 「サナダムシめん」 と呼んではどうか? これもやっぱりあんまりだから、「真田紐」 を 「きしめん紐」 と呼ぶことにしよう。これなら問題はなさそう? 問題もないけど、必要もない?

◆ この写真を見て、電子レンジの上のネコに注目するひとが多いかもしれないが、引越屋はそうではない。ネコの下の電子レンジを見て、「ああ、この年代モノの電子レンジは重いんだよな」 と考えて、仕事でもないのに、すっかり憂鬱になるのである。「おまけにネコまで載ってらぁ!」

◆ 「ふるさとの味 蛍」 という店の看板があった。ふるさとの味とあるからには、郷土料理屋に間違いないだろう。日本のどこかに蛍を食べる地方があるのだろうか? うまいとも思えないが・・・。

◇ 蛍を生で食うのはやめましょう! 口の中が光って気持ち悪い。
www.bea.hi-ho.ne.jp/oyayubihime/bbs/list35.shtml

◆ まさかとは思ったが、やはりあるのだろうか? 生で食べてはいけないそうだ。では、から揚げにでもするのか?

◇ ある男性が旅先のホテルの窓から飛び交う蛍を見ていたのですが突然、幽霊のような女の人が浮かび上がり蛍を指に取りそのまま食べてしまい、男性の顔を見て不気味な笑みを浮かべその男性が驚いて腰を抜かしてしまった・・・
www.threeweb.ad.jp/~elephant/tuiseki/os/drama04-06.html

◆ だから、生で食ったらイカンちゅうのに! これは、横溝正史の 『真珠郎』 のハナシだそうで・・・。

◇ 勝手に増えているものがある。

◆ と始まるような文章をふと読み始めて、この読み始めた文章のジャンルは何かと訊かれたら、ワタシなら小説と答えると思う。つづけて、

◇ たとえば、毎週月曜日の化学の時間に使っている席の、机の落書きとか。

◆ と書かれているのをみて、なおさらそう思う。主人公は高校生か大学生。そのあとにいったいどんな筋書きが待っているのだろう。〔とここまでを、去年の11月23日に書いた。〕

◆ そして、その机の落書きはドラえもんであったりする。この文章の作者は、これは日記だと主張しているが、それはそれでかまわない。小説のような日記があって、困ることなどなにもない。というか、それはじっさいに日記なので、小説のような気がしたのは、たんなるワタシの印象にすぎない。同じ作者は、最近こう書いている。

◇ 朝のうちに日記を書こうとするとこんなにつまらないのである。まだ何もしていないからだ。

◆ 思わず笑みがこぼれる。日記であることは間違いない。間違いないが、ふつうの日記作者なら、「まだ何もしていないからだ」 などとは書き足したりはしまい。そんな余裕はないだろうと思う。ネットで無数のひとが私的な日記を公開しているが、覗き見趣味でなければ、他人が読んでおもしろい日記というのは、そうそうあるものではない。もちろん、日記というのは、他人をおもしろがらせるために書くわけでもないのだろうから (そのへんはワタシにはよくわからない)、頼まれたわけでもないのに他人の日記を読んで、おもしろくないなどというのは、勝手な言い草だろう。でもどうせ読むなら、日記はおもしろいほうがいい。そして、たいていの場合、日記がおもしろいかどうかの境界には、作者が他者を意識 (内なる他者であってもかまわない) しているかどうか、いいかえれば 「他者への配慮」 という問題が根底に横たわっているように思えるのだが・・・。どうもハナシがむずかしくなってしまった。

◇ 父が自らプライバシーを放棄したかのような大声で電話をしているのでとてもうるさい。電話越しの相手に向かって話しているのではなく、電話と話しているのかもしれない。電話は耳が遠いのかもしれない。いや、それとも家全体と会話をしようと試みているのであろうか。自室にいてドアを閉めているのに「居間と」会話を楽しもうとしているのだろうか…。

◆ いずれにせよ、こんな日記を読むのは、とても愉しい。引用した文章はいずれも 《MANBOU'S WEBSITE》 の 「翻車魚の不毛日記」 から。

◆ 先日スポーツ新聞の芸能欄を読んでいたら、こんな記事が目についた。電子版から再録すると、

◇ シンガー・ソングライター福山雅治(36)が15日、鳥取県内にある「植田正治写真美術館」の開館10周年展覧会の内覧会に出席した。福山は著名写真家の植田さんから強く影響を受け、写真家として本格的に活動し始めた。
www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-050716-0001.html

◆ そもそも福山雅治が音楽活動のほかに、写真もやっていて、「テレビ朝日の公式カメラマンとして00年シドニー五輪、04年アテネ五輪に参加。個展を開くなど写真家としても活動中」 であることも初めて知ったが、それはさておき、気になったのは (福山雅治とはまったく関係ないことだが)、「内覧会」 というコトバである。ワタシにとって内覧会というコトバは、これまで (仕事がら) 新築マンションなどの住宅とのつながりでしかイメージされておらず、この記事で美術展覧会にも用いられるのを知って、このコトバにたいするイメージに多少の修正を余儀なくされた。《goo 辞書》 で 「内覧会」 を引くと、

◇ 限定された人に対して,何かを披露する会の総称。新規店舗が正式開店に先駆けてマスコミや関係者などを招いて行う見学会や,建築業者が新築住宅に購入者を招いて行う完成披露会など。
三省堂提供「デイリー 新語辞典+α」より

◆ とあり、もともとは不動産関連の用語で、それが美術界にも転用されたのではないかと思うが、違うかもしれない。ワタシが美術展の内覧会にあたるコトバとしてこれまで知っていたのは、「ヴェルニサージュ」 (vernissage) というフランス語だった。

◇ 「ヴェルニサージュ」ということばは、文字どおりには油絵の仕上げとしてニスをかけることを意味するのだが、それがしばしば、展覧会がオープンする直前、アトリエから会場に絵をもちこんで行なわれたところから転じて、展覧会開幕前の内示日ないし初日を指すようになり、現在でもこの意味で用いられているらしい。
www.museum.pref.mie.jp/miekenbi/hillwind/hill_htm/hill65_4.htm

◆ らしい、は不要で、実際に用いられている。

◇ A vernissage (varnishing, from French), also known as a preview or private view, is the ceremonial start of an art exhibition. It is usually a social event that people attend to show up, strolling around with glasses of free sparkling wine and canapés, talking to artists about the works in the exhibition.
en.wikipedia.org/wiki/Vernissage

◆ なるほど、シャンパンとカナペを目当てにやってくるひとも多いかもしれなくて、

◇ フォトグラファーの Exposition (展覧会) がパリ3区の小さな会場で行なわれました。この日は Vernissage (ヴェルニサージュ)、オープニングの日だったのでシャンパンを期待しつつのお出かけです。
3soleils.blog3.fc2.com/blog-entry-99.html

◆ 最後に、《The Digital Artist》 の 「Art and Design Dictionary」 でみつけた Vernissage のほどよい説明。ターナーの逸話は有名。

◇ A private showing, preview, or opening of an art exhibition -- an event marking the start of an exhibition. This word was used with increasing frequency in the United States in the last decade of the 20th century. Vernissage has its roots in the old practice of setting aside a day before an exhibition's opening for artists to varnish and put finishing touches to their paintings -- a tradition that reportedly dates to at least 1809, when it was instituted by England's Royal Academy of Arts. One famous member of the Academy, Joseph Mallord William Turner (English, 1775-1851), was notorious for making major changes to his paintings on this day. English speakers originally referred to this day of finishing touches simply as "varnishing day," but sometime around 1912 we also began using the French term "vernissage" (literally, "varnishing").
www.thedigitalartist.com/Dictionary/vernissage.shtml

◇ 自然発生のゲンジボタルは青森まで、ヘイケボタルは北海道でも見られる。
allabout.co.jp/travel/drive/subject/msub_hotaru.htm

◆ 北海道ではホタルを見たことがなかった。そもそもホタルが生息していることも知らなかった。ゲンジではなくヘイケなのが残念だが、それでもホタルがいるらしい。ヘイケボタルの分布はサハリン、シベリア東部にまで及ぶという。とはいえ、基本的にホタルは熱帯の昆虫なので、

◇ ゲンジボタルの場合は北上して分布をひろげたが、ブラキストン線 (津軽海峡) はついに越えられなかったのである。しかしヘイケボタルの場合は、耐寒限界温度がより低く、北海道をさらに北上し、シベリアにまで達することができたと考えるべきなのである。
矢島稔 『昆虫誌』 (東書選書,p.14)

◆ ブラキストン線とは、ご存知のかたも多いだろうが、

◇ 英国の学者ブラキストンが明治時代、「北海道と本州の生物分布が明らかに違う」として、津軽海峡に“生物境界線”を提唱した。これがブラキストン線だ。端的に言うと、日本では、ヒグマ、キタキツネは北海道にしか生息せず、ツキノワグマ、ホンドギツネは本州にいて北海道にはいない、という具合だ。
www.toonippo.co.jp/photo_studio/insects/choucho/shijimi/column25.html

◆ もう少し例をあげれば、

◇ ブラキストン線は、ニホンザル・ツキノワグマ・ニホンカモシカ・モグラ科などの北限、ヒグマ・クロテン・ナキウサギ・シマリスなどの南限となっている。
www.eic.or.jp/ecoterm/index.php?act=view&serial=2340

◆ といった具合。

◆ 先に 「ゲンジではなくヘイケなのが残念だが」 と書いてしまったが、そもそも源氏も平家も北海道とはなんの関係もないので、なにも残念がる必要はない。ただ北海道には各地に義経伝説が残されていたりもするので、どちらかといえば、平家よりは源氏のほうが北海道に似つかわしいかと思ったまでのハナシ。

◇ 生涯を通して報われることの少ない悲劇の若武者への熱い思いは、 "義経は、ひそかに平泉を出て北へ向った"という伝説を今に伝えています。青森から船で津軽海峡を渡り、北海道各地に足跡を残しながら、ついには大陸にわたり、ジンギスカンとなったという壮大なロマンにまで発展しています。
www.akiku.com/hokkaido/yoshitsu.html

◆ ヨシツネははたしてブラキストン線を越えたのかどうか?

◆ 7月16日、昼。渋滞の奥多摩街道をトラックで走っている。FMラジオからは 『黒猫のタンゴ』 が流れ出す。赤信号で停車する。ふと歩道に目をやると、黒猫が一匹、すたすた歩いている! ちらりとこちらを見て、にやりと笑う。

◆ 7月16日、夜。仕事が終わって、東急田園都市線の車内。最相葉月の 『青いバラ』 を開く (12日に青い薔薇を見たので、気になって、図書館で借りてきた本)。数ページに目を通したあと、ガラガラの車内を見渡す。相互乗り入れのため、車輛は東武のもの。すわっていたのは車輛の端の三人掛けロングシートのドア寄り。このロングシートの反対の端が車輛の端で、その車輛の端の壁面には、「京成バラ園」の広告! 線路は東急、車輛は東武、広告は京成 (と、これはどうでもいい)。

◆ こんな 「たまたま」 に囲まれて毎日を生きている。なんとしあわせなことだろう。

◆ 『黒ネコのタンゴ』 のことをちょっと調べてみたら、ちょっとではすまなくなった。以下メモ書き(おっと、ここはもともとメモなのだった)。

◇ 当時わずか7歳だった皆川おさむが1969年 (昭和44年) に歌ったこの 「黒ネコのタンゴ」 は200万枚以上の大ヒットを記録しました。みおだみずほさんによって新たな日本語の詩がつけられたこの曲は、元々はイタリアで毎年行われている「ゼッキーノ・ドーロ」という子供のための音楽コンテストの入賞作品だそうです。
www.worldfolksong.com/songbook/masterpiece/kuroneko.htm

◆ オリジナルはイタリア。ゼッキーノ・ドーロ (Zecchino d'oro) 入賞作品。

◇ 「ちんちんぽんぽん」 はイタリアのゼッキーノ・ドーロという子供たちの音楽コンテストで第14回(1972)に入賞した曲で 「cin cin pon pon」 という題名で汽車が近くを通る歌です。どうみてもチンチンと聞こえるので和訳を変えてしまったということみたい。第11回は有名な 「黒猫のタンゴ」 原題:「Vorevo un gatto nero (黒猫が欲しかったのに)」です。2曲とも原曲も聞いてみるとなかなかかわいい曲です。
www.yomiuri.co.jp/komachi/reader/200407/2004070500183.htm

◆ 「ちんちんぽんぽん」 の原題が 「cin cin pon pon」 だったとは! 以下、イタリア語の歌詞の一部。

◇ Volevo un gatto nero, nero, nero,
 mi hai dato un gatto bianco
 ed io non ci sto più.
 Volevo un gatto nero, nero, nero,
 siccome sei un bugiardo
 con te non gioco più.
 (黒、黒、黒猫がほしかったのに、
  白猫をくれるだなんて
  あんまりじゃないか。
  黒、黒、黒猫がほしかったのに、
  キミはうそつきだから
  もういっしょに遊ばないよ)

 www.filastrocche.it/nostalgici/canzoni/volevo.htm

◇ ところで、フィンランドの日本の音楽について少々。ふだんこちらで日本の曲を耳にすることはほとんどないのだが、フィンランドの30代以上の人には馴染みの日本の歌が2曲ある。それは、「上を向いて歩こう」 と 「黒猫のタンゴ」。「上を向いて歩こう」 はやはり 「スキヤキ」 という題名で60年代に爆発的に人気が出て、そのあと何度も、フィンランド人歌手がそのカバーを歌っている。 / 「黒猫のタンゴ」 は日本で売れたすぐ後、フィンランドでも子供の歌手がフィンランド語で歌い、人気が出たそうだ。
www.shinshu.co.jp/lensai/finland/fin101_105.html

◆ フィンランドでも・・・。

◇ この曲を知っていると世代がばれるが、日本で一世を風靡したこの曲が、世界のタンゴを紹介するタンペレ・ラジオの番組で紹介された。歌詞もフィンランド語に翻訳され、かわいらしい声の男の子が歌っているのは、原曲と同じである。歌詞の中に 「日本から . . . 」 という部分があり、「そんなのあったっけ」 と家内と一緒に首をかしげたが、曲後の紹介でも日本のタンゴ曲と紹介されていた。 / 実はこの曲ムスタン・キッサン・タンゴ(日本語の曲名の直訳)は、来フィン早々にスーパーで適当に購入した童謡のカセットに、私が好きになった 「ミナ・ソイタン . . .」 の2つ前の曲として集録されており、頻繁に聞いていたのだが、「 日本から . . . 」 はない。たぶん、番組用に歌詞を一部変更したのだと思うが、故国の曲が紹介されることは、なぜか誇らしいから不思議だ。
www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/1825/980202.html

◆ フィンランド語のタイトルは、「ムスタン・キッサン・タンゴ」 (Mustan kissan tango)。以下、歌詞の一部 (訳はできません)。

◇ Hei, tanssi kissa tango, tango, tango,
 nyt mustan kissan tanssi sen ikioma on!
 Soi mustan kissan tango, tango, tango,
 se japanista lensi tänne meillekin.
 La-la-la-la-la-la, lal-la!

www.angelfire.com/la3/meeri/20laulut.htm

◆ さらには、フランスでも、韓国でも・・・。以下、次回。

◇ 「黒猫のタンゴ」 はもともとイタリアの曲に日本詞をつけたもの。それを聴いたフランス人がオケもそっくり真似、フランス人の子供にフランス語で歌わせ、ヒット。オリジナル・ヴァージョンとして皆川おさむのレコードがフランスでも発売になったらしい。
www.psychopla.net/pgf.text9.html

◆ フランス語ヴァージョンは、「Je veux vivre tango」 というタイトルで、Eric Berda という子どもが歌っている。歌詞はまったくつまらない。両親があれこれうるさいとガキが不平を言っているだけ。

◇ Moi je veux vivre tango tango tango
 Mais mon père et ma mère sont toujours après moi
 Moi je veux vivre tango tango tango
 Vraiment ils exagèrent
 Ah quels parents j'ai là
 La la la la la la la
 (タンゴのように生きたいよ、タンゴ、タンゴ、
  でも、パパとママがうるさくて、
  タンゴのように生きたいよ、タンゴ、タンゴ、
  ああ、なんて両親をもっちゃったんだろう、
  ラ、ラ、ラ・・・)

www.paroles.net/chansons/34684.htm

◆ 猫は出てこない。なので、当然なことながら、

◇ Il manque les Miou de la version japonaise dans la VF,
(フランス語のには日本語ヴァージョンのニャーオがないですね、)

www.bide-et-musique.com/song/887.html

◆ どうもこの 「ニャーオ」 がないとものたりない。

◇ sur la pochette japonaise il y a la photo d'une petite fille. c'est elle qui faisait les miaulements de chat ? :-D
(日本のジャケットには、女の子の写真があるけど、ネコの鳴き声を出してるのはこの子かな? :-D)

www.bide-et-musique.com/song/4067.html

◆ ううん、それはB面の「ニッキ・ニャッキ」を歌ってる置鮎礼子だよ! というわけで、フランスではあまり流行らなかったらしい。

◆ あと、デンマーク語ヴァージョンも見つけた。「Min Kat Den Danser Tango」というタイトル。これにはネコが出てくる。意味はわからない。参考まで。

◇ Min kat den danser tango, tango, tango
 Og den er meget dygtig,
 Ja, tænk dig bare at,
 Min kat den danser tango, tango, tango
 Og så´ den verdens sødeste lille missekat.

www.korsgaard-kristensen.dk/sangtekster/bornesange/M/minkatdendansertango.htm

◇ 中野駅北西、環七通り沿いの大新横丁という一郭に以前一年ばかり部屋を借りていたことがある。中野駅に出かけるときには環七に沿って歩く。するとなんだか犬猫病院、ペット美容院がいやに目立つような気がした。思いすごしだろう。でも、待てよ、もしかするとお犬様のご威光がいまだに輝いているしるしかもしれないぞ。
種村季弘 『江戸東京《奇想》徘徊記』 (朝日新聞社,p.166)

◆ なるほど。ワタシは中野区に十年近くも住んでいながら、歴史にはとんと疎いので、犬公方徳川五代将軍綱吉の 「生類憐みの令」 を中野に結びつけてみることなど一度もなかった。

◇ 貞享二年 (1685)、五代将軍綱吉の 「生類憐みの令」 発布以後、思い上がった野犬どもが江戸市中をわが物顔に跋扈した。そこで幕府は収拾策として、東大久保に二万五千坪、中野に三十万坪の犬小屋を確保してお犬様を収容した。中野には十一万頭が収容され、一日十匹あたり白米三升、味噌五百匁、干鰯(ほしか)一升が食いぶちであった。飼育料は年間三万六百両 (今の二十億円ほど) にも及んだという。
Ibid.

◆ これらの数字、ワタシの理解の範囲を超えていて、ちょっと想像できない。

◇ その跡地に戦中は音に聞こえたかの陸軍中野学校、戦後は警察大学校、中野区役所が建った。なにしろ三十万坪である。往時は中野一帯がお犬様のパラダイスだったのではあるまいか。
Ibid.

◆ 写真は中野区役所の片隅。十一万頭いたお犬様、いまではそれがたったの5匹(+仔犬2匹)!

◆ 今年4月のニュースをいまごろ知った。イタリアの現代版 「生類憐みの令」 のハナシ。

◇ [ローマ 22日 ロイター] イタリアのトリノでは、一日に少なくとも3回はペットに散歩をさせないと、飼い主には500ユーロ(6万5千円)の罰金刑を課せられる法律が議会で承認される。 / また、ペットの毛を染めたり、見た目を良くする為など犬の尻尾を切断したりといった動物の体の切断も理由は何であれ、新しい法律では禁止される。 / 地元ラ・スタンパ紙では「トリノでは自分の犬をケバケバにすることを禁止することになる」と伝えている。 / イタリア全土では、すでにペットをいじめたり捨てたりすることは、一年以下の懲役と1万ユーロ(130万円)の罰金になるが、トリノの新しい法律では、より詳細に違反が定められている。 / 例えば、犬が散歩する時は、自転車に乗りながらではなく、人間は歩いて連れて行かなくてはならない。そして「この場合も、動物をあまり疲れさせ過ぎてはならない」と記載されている。
www.excite.co.jp/News/odd/00081114219182.html

◆ この法律の条文をを詳しく読んだわけでもないので、よくわからないけれど、

◇ 【誰が3回って数えんねん? 被害犬からバウリンガルで事情聴取するんかなあ?】 // 【じゃあ、私の近所のスクーターで散歩してるオッちゃんなんか懲役かな?】
blog.goo.ne.jp/shomajin/e/290c37ca5e53bcb37a93e686bcbe6720

◆ といった疑問があれこれ湧いてくるのも当然なことだ、と思ったり、

◇ 人間の都合で毛を染めたり尻尾を切ったり、人間の都合で吼えてうるさいイヌの声帯を取ったり、マンションのフローリングが傷つくからと、爪を切るんじゃなくて、生えて来ないように抜いちゃったりとか、度を越えた行為を禁止するという事には賛成しますがね。
samikuri.exblog.jp/2595751

◆ といった感想を読んで、おいおい、日本では爪を抜いたりしてるんかい、それなら、日本でもこの法律が必要であるなあ、と思ったり。

◆ ところで、引用記事でよくわからないのが、「トリノでは自分の犬をケバケバにすることを禁止することになる」 という箇所。犬をケバケバにするってなに? 気になったので、原文を引っぱり出して読んでみると、

◇ Rome, Italy (Reuters) - Dog owners in Turin will be fined up to $650 if they don’t walk their pets at least three times a day, under a new law from the city’s council. / People will also be banned from dyeing their pets’ fur or “any form of animal mutilation” for merely aesthetic motives such as docking dogs’ tails, under the law about to be passed in the northern Italian city. / “In Turin it will be illegal to turn one’s dog into a ridiculous fluffy toy,” the city’s La Stampa daily reported. / Italians can already be fined up to 10,000 euros and spend a year in prison if found guilty of torturing or abandoning their pets, but Turin’s new rules go into much greater detail. / Dogs may be led for walks by people on bicycles, the rules say, “but not in a way that would tire the animal too much.”
www.msnbc.msn.com/id/7601359/

◆ ケバケバのところは、“to turn one’s dog into a ridiculous fluffy toy” となっていて、これは、「飼い犬をこっけいなヌイグルミ (fluffy toy) にしてしまうこと」 といった意味。つまり、生き物である犬をヌイグルミみたいにおもちゃ扱いするな、と言っているわけ (たぶん)。

◆ おともだちの皐月さんが 「マンションには住めない」 と題して、こんなことを書いている。

◇ 一人暮らしを始めてから、一度も、 「マンション」 (もちろん賃貸) に住んだことがない。エレベーターが苦手なので。だから、今まで、高くて三階建て程度の 「アパート」、という前提でしか、物件を探さなかった。 // 自分の住む場所に辿り着くのに、密室経由絶対、なんて、なんだかぞっとしてしまうのは、どうしてだか、昔からずっとあって。今住んでいるところも、全部で10世帯以下の、小さな建物。 / あの背の高い、オートロックなどのついた、奇妙な匂いのする建物は、どうも、自分の住処としては、馴染まない。「密室経由」、これが。多分ずっと苦手なままだと思う。怪我をしても、なんとかなるかもしれない、2階。みたいな場所に住み続けると思います。
www.doblog.com/weblog/myblog/22297/1637140

◆ マンション、エレベーター、階段、オートロック。これらのことがらいついては、引越屋として書きたいことが無数にあるけれども、それはまたの機会に書くことにして、ごく一般的に、思いついたことを少々。

◆ 智恵子は 「東京には空がない」 といったが、バシュラールは 「パリには家がない」 という。

◇ A Paris il n'y a pas de maisons. Dans des boîtes superposées vivent les habitants de la grand'ville:
(パリには家がない。この大都会の住人たちは、積み重ねられた箱のなかに住んでいる。)

Gaston Bachelard, La poétique de l'espace (PUF, p.42)

◆ バシュラールに言わせれば、「ほんとの家」 には、地下室や屋根裏部屋といった垂直性の要素が不可欠なので、それらをもたない家を「家」 と呼ぶことはできなくて、それは箱である。その箱のなかにさらにいくつか水平の仕切りを設けるとマンションの家ができあがる。

◇ Les édifices n'ont à la ville qu'une hauteur extérieure. Les ascenseurs détruisent les héroïsmes de l'escalier. On n'a plus guère de mérite d'habiter près du ciel. Et le chez soi n'est plus qu'une simple horizontalité.
(都会のビルにはうわべの高さがあるばかり。エレベーターは階段のもつ英雄的な性格の数々を台無しにしてしまう。空の近くに住もうがもうなんの利点もない。もはや 「我が家」 といっても、たんなる水平のひろがり以上のものではない。)

Ibid.

◆ 田舎者の戯言であるかもしれない。「そんなこと言ったって、都心に一軒家なんて買えないじゃないの!」 という抗議の声が聞こえてきそうなので、この辺にしておこう。

◆ どちらでもいいが、とにかくどちらか選ばなければいけない。そんなときがある。

◇ たしかメルボルンでだったと思うが、人通りの激しい通りで向こうから来た人とすれちがおうとして、わたしがその人の右側に歩を進めると、その人も同じ方向に歩を進めたので、わたしたちはあやうくぶつかりそうになってしまった。そのとき、この紳士は、わたしがあわてて 「アイム・ソーリー」 を言ったのに、無言のまま、「一体こいつは何て歩き方をするのかねえ」 といった面持ちでわたしを見、頭をふりながらすれちがっていった。これは、わたしには意外だったし、合点がいがなかった。わたしの何がいけなかったのか、と思った。唯一考えられるのは、わたしがその紳士の右側に歩を進めたことぐらいである。自動車じゃあるまいし、どっち側を通り抜けようが大した問題じゃないではないか。ところが、これが問題だったのである。 / 今度ニューヨークヘ行ってためしてみたのだが、(少なくともニューヨークでは) 人と人がすれちがうとき、おたがいの左側を通る傾向があり、ぶつかりそうな切羽つまった状況ではとくに、人は無意識的に左側ヘターンするようだ。これは、日本で育った者が示す歩行運動のバターンとはまるっきり逆だ。
粉川哲夫 『都市の記憶』 (創林社,p.18)

◆ そうだろうか? 日本でも、左によけるひとの方が多いような気がしていたのだが・・・。少なくともワタシはそうしていて、とくに問題に思ったことがない。これは、ワタシが左利きだからだろうか?

◇ 人とぶつかりそうになった時とっさの判断が必要なんだけど、これが、どうも右ききの人と反対によけちゃうみたい。と言うことは、向かい合ってよけようとしたら、鏡合わせのように同じ方向に動いちゃうのだ。これが、同じ右きき同士ならきっと上手くすれ違えると思うんだけど、パントマイムの鏡の演技みたいに同じ方向によけてしまって何度相手の人に怒鳴られたことだろう… 肩どつかれた事もありました。悲しい… わざとじゃないんです。でも、無意識によける方向ってあるじゃないですか。
yookyooky.jugem.cc/?eid=66

◆ あるいは、地域によって違いがあるのかもしれないが、よくわからない。そういえば、北海道で暮らし始めて初めての冬。雪が積もり、歩道の幅が狭くなる。正面から来たひととすれ違うのがやっとの幅になる。そんな季節がやってきて、ワタシのような内地出身者にはわからないけれども、道産子ならだれでも知っている、そんな雪の歩道を歩くさいの暗黙のルールのようなものがあるのではと心配になって、地元出身の友人に聞いてみたことがある。そしたら、「そんなルールはなにもないよ」という答え。それで、少しは気が楽になったが、じっさいに雪の歩道でひととすれ違うときには、やはり緊張してしまうもので、なんの構えもなしに歩けるようになるのに、なおしばらくの時間を要した。

◇ 幽鬼めいた螢の火は、今も夢の中にまで尾を曳ゐているやうで、 
谷崎潤一郎 『細雪』

◆ 6月16日、湯河原。ホタルをひさしぶりに見た。小学校以来のことだから、ほとんど初めてのようなものだ。骨休めに温泉にでもと、湯河原へ行った。東海道線湯河原駅で降り、改札を出ると、「ほたるの宴」 と書かれた立看板が目にはいった。温泉以外になんの計画も立てていなかったので、ホタルが見られるとは降って湧いたような幸運だな、と思ったのもつかの間、よく読むと、期日が 「6月1日(水)~6月15日(水)」 と記してあった。なんだ昨日までじゃないか! まったくのぬかよろこび。今度はなんだか損した気分。そうなると、あちこちに目につく立看板が恨めしい。終わったんなら、さっさと撤去すればいいのに、とやつあたり。しかし、どさまわりのホタルでもないかぎり、期日が昨日までだからって、さっさとよそに行ってしまうわけもあるまいに。そう毒づきながら、もう一度立看板の日付を確認してしまう自分が情けない。すると、あら不思議、幸運がふたたび降って湧いた。立看板にはいつのまにか「6月19日(日)迄開催期間延長となりました」と書かれたシールがペタリ! 最初に見たのはシールを貼り忘れた立看板だったらしい。情けないほどしつこい性格でよかった。

◇ 水の清らかな湯河原ならではの初夏のイベント! 毎夜万葉公園の水際に、源氏蛍が舞い踊ります。万葉公園の蛍は、幼虫まで万葉公園内の“ほたる小屋”で飼育され、3月中旬湯河原小学校2年生の手によって放流、その後自然発生しています。その他、藤木川、千歳川・新崎川沿いにも天然のホタルが数多く生息し、ほたる発生期間中には、湯河原町全体で、ほたるを楽しむ事が出来ます。
www.yugawara.or.jp/hotaru.htm

◆ というわけで、旅館に荷を降ろし、そそくさと風呂に入り、そそくさと夕食を食べ、いそいそと 「ほたるの宴」 が行われている万葉公園へと出かけた。心配だった雨もほとんど止んでいた。暗い公園内の散策路を歩いて行くと、さらに暗い一画に、ホタルが音もなく飛び交っているのが見えた。この世のものとも思われぬなんとも名状しがたい美しい光景だった。

◆ 先に 「ホタルが音もなく飛び交っているのが見えた」 と書いた。たしかにワタシは何の音も聞かず、そのあまりの静寂が印象に残りもしたのだが・・・。

◇ あたり一帯に飛びはじめた光の乱舞は想像を絶するもので、むしろあまりの数に不気味にすら思えた。光が光をよび、それが一つの塊りになって飛ぶさまは異様であり、これを亡霊だと信じた昔の人たちの想いも決して不自然とは思えなかった。暗闇のために遠近感をあまり感じない光の渦の中に身を置いていると、本当は何の音もしていないのに翅音を感じ、それが迫ってくるような錯覚にとらわれた。
矢島稔 『昆虫誌』 (東書選書,p.8)

◇ 蛍って飛ぶときに羽音もさせないのが不思議です。
ameblo.jp/milty/entry-10002279846.html

◇ この時見たホタルは眩しいほどに光り、工事現場のように一定に点滅し、すぐ近くを飛んでいるのに羽音がぜんぜんしなくて、まるで地球外生命体の様なのです。
yuichi77.blog9.fc2.com/blog-entry-39.html

◇ ホタルと静寂感は似合うのだが、羽音がまるで聞こえないのは不思議。あれだけの大きさの虫がホバリング状態で浮遊しているんだから羽はかなり激しく振動させているハズだ。蚊でさえ耳元で飛ばれるとブ~ンとうるさいのに。もっとも今晩は私たちより少し離れた川面でせいぜい10匹程度が飛んでいるに過ぎないので音が聞こえなくても別段不思議はないのだが、これが何千匹と群舞しても静かなのだろうか?
www.pairhat.jp/mokuji/hotaru2.htm

◇ 近くまで来た時に今日こそ羽音を確認してやろうと思うのだが、まだ果たさず。蚊でさえブ~ンとうるさいのに、どうして蛍は静かなのか。熱くない光とともに音のしない飛翔も謎である。
www.pairhat.jp/mokuji/hotaru2003-1.htm

◇ 時々光りながら一匹が飛ぶと、つられるように後数匹が一緒に飛んでいます。じっとしていると羽音も聞こえます。長い間暗闇で蛍を見ていると、眼が暗闇に慣れてきて、蛍が飛びながら光っているとその下の木々が蛍の光で薄っすらと照らされるのまで判ります。
www.bea.hi-ho.ne.jp/~reika/daiary2001-06.htm

◇ 点滅をしながら飛ぶときに、かすかに音がして、あたかも線香花火のような具合に尻の火が燃えるような錯覚が起きます。これは、もちろん羽音でしょう。
www.geocities.jp/hirai_kjp/twin_RingSide.html

ホタルの飛ぶ時に出る羽音って結構大きいのにはビックリしました。カナブンでも飛んできたかと思うほど大きい音がするんですよね。(多分メスの羽音だと思うけど…)
www.interq.or.jp/hot/kkk/mag2/22gou/mag2-022-01.html

◇ ちょっぴり雰囲気をこわすようなことを言うなら。螢の羽音。ヘイケボタルの数倍の大きさがあるゲンジボタルは、コガネムシに匹敵する羽音がするそうだ。あの光を間近で見てみたいとも思うのだが、そんな羽音がするのではと、ちょっと苦笑いしたり。
www.2mk.org/ADGA/diary/?date=20000625

◇ ホタルは飛んでいるときより草や木の葉に止まっている時の方が多いようです。あまり飛ぶことは上手くありません。飛んでいるところをささやうちわで簡単に捕まってしまうのですから。/ そのわけは、硬いはねの下に隠されている飛ぶためのはねにあります。同じ甲虫類でも、カブトムシなどは硬いはねの下に大きく折りたたみ込まれた立派な飛翔用のはねが用意されているのに、ホタルの折りたたみはほんのわずかで上のはねとほとんど変わらない長さです。だから、飛んでいるところを見ると羽音が高く、けっこう真剣にはねを動かしているのに、そのわりには飛ぶのが遅いのです。
www2.gol.com/users/nekopapa/hotaru/genji/genji-33.htm

◇ ある夜、私はその螢を、螢ぶくろの花の一輪ごとに一つずつ入れ、薄紙を花の口にはってから電灯を消し、暗い中でぼうっと明滅する青い大きな明りを眺めて、この思いつきを自分ながら感心していた。 / けれど、やがて螢を放してやると、たちまちブーンブーンとびっくりするような高い羽音を立てて飛びめぐり、人魂のように明滅するのが、何だか不気味だった。
野尻抱影 『星三百六十五夜(下)』 (中公文庫,p.16)

◆ ・・・ホタルの羽音は意外に大きいものらしい。

◆ 東京に二十年近くも住んでいるのに、七月のお盆にはいっこうに慣れないから、ブログやなんかでいわゆる 「東京盆」 のハナシをあれこれ読んでも、まったくの他人事である。

◇ 東京はお盆 (新暦) である。13日には迎え火をたいた。16日に送り火をたくまでは、仏壇飾りに仏様用の食事 (小さな器にご飯・汁と三菜を盛ったもの) のほかに、(先祖の霊が) 来る日はだんご、滞在中はそうめん、(あの世に) 帰る日は塩むすびを供えるのだと祖母に教わった。その祖母も向こうの人となってしまい、現在はめでたく帰省中である (おかへり♪)。
ishiko.way-nifty.com/ytmlog/2005/07/post_2db1.html

◆ が、しかし、これに続けて、《祖母は確か、盆に帰ってくる先祖の魂のことを 「おひょろさま」 と呼んでいた》 と書いてあるのを読んで、ガゼン興味がわいた。

◇ この言葉は、子どもには非常に怖かった。夜中のお雛様も怖いが、夜中に見る盆の祭壇も怖い。しかもそこにいるのは 「おひょろさま」 である。その言葉から、火の玉がひょろひょろと飛んでいる様子を頭に浮かべたものだ。だから夜中に目を覚ますことがないよう、盆は一生懸命目を閉じて眠った覚えがある。
Ibid.

◆ おひょろさま! なんとイメージ豊かなコトバだろう。いくぶんひょうきんでもあるが、肉体をもたないものを表すのに、これ以上に最適なコトバは容易には思いつかない。

◇ 「おひょろさま」 とは、恐らく、お精霊様 (おしょうろさま) のことであろうが、僕が子供の頃は、「おひょろさま」 は独特な雰囲気を持った、そして、日常に密着した、こころの儀式だった。
ameblo.jp/nagayoshi/entry-10002863247.html

◆ しかし、この 「おひょろさま」、Google でもほとんどヒットしないのがやや不思議。そんな疑問はさておき、引用を続けると、

◇ 「おひょろさま」 のほかにもう1つ、「のんのさま」 という言葉がある。祖母の言動からすると、それは (仏壇にいる) 仏様のことらしい。盆に帰ってくるのは「おひょろさま」だが、普段、仏壇にいるのは 「のんのさま (のんのさん)」で、よそから頂いた初物の果物などは、まずは 「のんのさんにあげて」、しばらくして下げたものを家族で食べるのだ。
ishiko.way-nifty.com/ytmlog/2005/07/post_2db1.html

◆ 「おひょろさま」 も 「のんのさま」 もワタシにはなじみのないコトバだけれど、「まんまんさん」 ならよく知っている。

◇ ハナは おしょうがつに おとうさんとおかあさんと いっしょに みずほのおばあちゃんちに いきました。なぜ、おばあちゃんちと よぶかというと もう おじいちゃんはいないからです。おばあちゃんちに いったら きんぴかのタンスをあけて 「ちーん!」して 「まんまんさん、あっ」 ってやります。そのとき 「いただきます」 のときと おなじように てをあわせます。そのきんぴかのタンスのなかに おじいちゃんは いるのだそうです。おじいちゃんは ハナより ちいさいみたいです。
www.ohchi-gun.or.jp/novel_14/44.htm

◆ ワタシも子どものころ、「きんぴか」 ではなかったけれども、仏壇の前で、手を合わせ、意味もわからず、「まんまんさん、あん」 と言ったものだった。

◇ 京都生まれ、京都育ちの私です。「まんまんちゃんあん」 は、仏さんにお祈りする時使います。「まんまんちゃん」→まんまんさん、つまり仏さんの意味で、「あん」は拝みながら最後に言ってました。たぶん 「ハイ」 とか 「うん」 とか、そういう言い回しだと思います。よくお婆ちゃんに言ってもらってました。方言って良いですよね^^
www.fururu.net/user/taka3/20040414093211

◆ でも、「まんまんさん」 って不思議なコトバは、どこから来たのかな?

◇ 主に西日本だが、仏様 (仏陀ではなく故人の方) を「まんまんさん」と呼んだり、手を合わせるときにそう唱えたりする地域がある。「南無阿弥陀仏」 を真似た幼児語だと思われる。
www.sam.hi-ho.ne.jp/~shuno/speech/031123.htm

◇ 「まんまん」 とは、お経の 「なんまいだ」 つまり 「南無阿弥陀仏」のこと。「なむあみだぶつ」 と唱えるだけで、死後、極楽へ導いてくれる阿弥陀如来。転じて仏様の意。近畿などでの言い方。まんまんちゃんにあんしてき。まんまんさんが見てるで。中国、四国などでは 「のんのんさん」。
cgi.members.interq.or.jp/osaka/inside/osakaben/bunpou.html

◆ 阿弥陀如来のこと? では、もともとは浄土真宗系のコトバなのかな? まあ、そんなことはどうでもいい。「まんまんさん」 ほかいろんな呼び名があるようだけれど、それはとりもなおさず、死んだおばあちゃんであり、おじいちゃんのこと。

◇ 「なんなさん」 の他にも、「なんなんさん」、「のんのさん」、「のんのんさん」、または「まんまんさん」、「まんまいちゃん」 などなど、仏壇は全国各地で実にさまざまな呼称で呼ばれていることが判明しました。私はなんと呼んでるかなあ、ということを考えてみたんだけどさー。我が家に仏壇が導入されたのは父が死んだときでありまして、その仏壇はただいま母の家にあるわけなのですが、母の家を訪れた際にその仏壇をなんと呼んでいるか、といいますと、「おじーちゃん」 と呼んでいる気がするんだよねえ。
homepage1.nifty.com/meimei/nikki/2002/nikki200212.htm

  

(名) 水鳥、形、鴉ニ似テ、色黒クシテ、背、肩ハ、微茶(ウスチヤ)色を帶ブ、喙(クチ)、長クシテ、末少シ曲レリ、蹼(ミズカキ)甚ダ廣ク、能ク水ニ沒シテ魚ヲ捕ル、畜ヒテ鵜飼ニ用ヰル。古名、シマツドリ。鸕鷀
大槻文彦 『言海』 (ちくま学芸文庫,p.236)

◆ ウ (鵜) はカラス (鴉) に似てるといえば似てる。それともカラスがウに似てるのか? だから、「鵜の真似をする烏」 ということわざがあって、

◇ 〔姿が似ているからといって烏が鵜のまねをして魚を捕ろうとすると水におぼれることから〕 自分の能力を考えないで、他人のまねをする者、またまねをして失敗することのたとえ。烏が鵜の真似。
「goo 辞書」三省堂提供「大辞林 第二版」より

◆ しかし、どう考えても、カラスのほうがスマートで利口にみえる。こんなことわざを鵜呑みにしてはいけない。ワタシがカラスなら、ウの捕った魚を横取りすることだろう。実際、鵜飼でニンゲンに獲物を横取りされているではないか。

◇ 水上ではかなり体を沈めた状態で浮いている、というかもともと浮力があまりないため体の半分以上が沈んでいる。水中を自由に泳ぎ回るにはそのほうが都合が良いが、水上から飛び立つのに少し難儀をしなくてはいけない。
homepage2.nifty.com/takibi_club/bird/u-2.html

◆ 離陸のために水面を走っているさまは、まるで人力飛行機のようで、ひやひやする。陸に上がると、いつも羽を広げている。

◇ 潛水後常站在岸邊或樹上,展開雙翼曝曬羽毛。
taiwanbird.fhk.gov.tw/org/03dbase/date_a73/date_a73_word.htm

◇ 周囲に威嚇しているのかなと思っていましたが、
nyoro123.hp.infoseek.co.jp/kawau.html

◆ そんなことはなく、実際は、びしょ濡れになった羽を乾かしているだけである。そうしないと、飛べない。なさけない鳥である。

◇ 1987年の夏、東京で豪雨だった日、たくさんのカワウが路上でもがいているのが発見されたそうだ。なんと空を飛んでいる途中で雨にあたり、もともと油の少ない羽毛をもつカワウはビショ濡れになり、下に落下したらしい。そんなことでいいのか?! カワウよ!え?
homepage2.nifty.com/pnk/toribue/tori/kawau.htm

◆ まあ、どこかの首相なら、「鳥もいろいろ」 というかもしれない。ペンギンなんて墜落することすらできないのに、映画に出演してる。鵜が主演の映画がそのうち上映されるとも思えないが、魚を捕ることにかけてはだれにも負けない。

◇ 快速潜泳在水中用尖端带钩的嘴捕捉鱼类。
◇ 快速潛泳在水中用尖端帶鉤的嘴捕捉魚類。
www.kepu.net.cn/gb/lives/animal/class/cls202.html

◆ よくわからないが、なんだかすごそうではないか? とにかく長くて先が少し鉤状になったクチバシがいかにもできるという気がする。また4本の指に大きく広がったミズカキがいかにもできるという気がする。この手のミズカキはペリカン目の鳥の特徴で、そもそも「鵜」の字は中国ではペリカンを指し、ウには 「鸕鷀(鶿)」(ロジ)の字を用いる。現在の分類でカワウやウミウはペリカン目ウ科に属するが、中国語で書けば、「鹈形目鸬鹚科」、あるいは 「鵜形目鸕鶿科」。とにかく、

◇ 水中で魚を追いつめるその潜水能力は大したもので、魚たちには恐れられている。
www.owlet.net/06-fukurou/2002-0101.html

◆ のだそうで、どれくらいの潜水能力があるのかというと、

◇ 通常潛水深度為水面下1~3公尺,時間為30~45秒,有時則潛水達9.5公尺深,潛水時間也有達71秒之記錄。
taiwanbird.fhk.gov.tw/org/03dbase/date_a73/date_a73_word.htm

◆ 公尺はメートル。この水中での鵜のパフォーマンスを目にすれば、どこかの首相も、おそらく 「感動した」 というにちがいない。

◇ 日本のものだけだと思っていた鵜飼が、海外でもおこなわれていたことには驚きであった。
www2.aasa.ac.jp/people/kanare/pdf/sotsuron/2103.pdf

◆ とは、卒業論文のテーマに 「長良川の鵜飼」 を選んだ学生の感想。鵜飼は日本ののみならず、中国でも行われているし、

◇ 十六世紀末から十七世紀初めにかけて、鵜飼がヨーロッパで一時期スポーツとして流行した。その流行はイギリスとフランスの宮廷でほど同時に起こった。
ベルトルト・ラウファー 『鵜飼 - 中国と日本』 (小林清市訳,博品社,p.5)

◆ そうだが、あとは知らない。日本と鵜飼と中国の鵜飼ではいろいろ違う点もあるらしくて、

◇ 日本で鵜飼に使うウはカワウよりウミウが一般的。中国ではもっぱらカワウを用い、日本のように紐を用いず、ウを自由に泳がせて漁をする。
www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6084/tikubusima.htm

◇ 頸を縛ることは中国鵜飼でも同じであるが、中国では縄で繫がず自由に放して魚を獲らせる。これに対し日本鵜飼ではウを一羽ごと長さ3m余りの細縄で繫いで使う違いがある。
web-japan.org/nipponia/nipponia31/ja/animal/animal01_3.html

◇ ウにある程度の行動の自由を許している点において、より人道的でスポーツマンシップにかなっている。ことに自由こそが、健全なスポーツを培う。日本の方法も、外見的にはスポーツのように見えるが、少なくとも現在の時点では、スポーツとはいえない。
ベルトルト・ラウファー,op.cit., p.72

◆ あと、中国では昼間にやるけど、日本では夜に篝火を焚いてやるとか。日本では冬季は休業だけれど、中国ではほとんど一年中行われるので、鵜の寿命が短いとか。日本の鵜は鮎しか捕らないけど、中国の鵜はなんでも捕るとか。そんなことがあちこちに書いてありましたが、ホントかどうかは責任もてません。

◆ またまた鵜のハナシ。

◇ 徒歩鵜には、海鵜のほかに川鵜も使った。海鵜は五、六メートルも深く潜るが動作は鈍い。川鵜はそれほど深くは潜れないが、動きはすばらしい。それらの習性を知って巧みに利用したのである。一方海鵜と川鵜を交配させて 「ひこまる」 と呼ぶ鵜をつくりさえした。これは、鵜飼にとっては最上の鵜とされている。この交配で海鵜の要素が強くかかると大きくてまじめ、川鵜の要素が強いと、小さいがすばしこい鵜が生まれる。「ひこまる」 はウグイスのようなよい声を出し、羽や嘴の模様も他の鵜とちがう。
谷川健一 『続 日本の地名』 (岩波新書,p.57)

◇ 長良川鵜飼の長老、杉山要太郎さんによると、鵜飼で最上とされるのは、「ヒコマル」 というウであり、声も美しいうえ、捕魚能力が高い。これはウミウとカワウの雑種だというが、現在鵜匠の家に一羽も飼われていないので、どういうウなのか、私はまだ見る機会に恵まれない。めったに手に入らないウだというから、"幻のウ" ということらしい。
可児弘明 『鵜飼』 (中公新書,1966,p.16)

◆ この 「ひこまる」 というのが気になる。ほんとにカワウとウミウの雑種が存在したのだろうか? ネットで調べてもよくわからない。「ひこまる」 について唯一みつかったのは、長良川の鵜飼のハナシで、

◇ 鵜のすべてに名前を付けている訳ではありませんが、鵜匠は最もほれこんだ鵜を 「彦丸」 と呼んでいます。それほど鵜匠たちは、鵜と強いきずなで結ばれているのです。
chubu.yomiuri.co.jp/shiawase/cho/cho_0405.html

◆ 「彦丸」 か、なんとも気になる。もしかして、こんなマンガに載ってないかな?

◇ 木曽川うかいを漫画で紹介した『飛翔の舞』が発売されています。この本の作者は市内在住の漫画家、土屋慎吾さん。実在の職員である4人の鵜匠が登場し、日本や中国の鵜飼や鵜飼の豆知識を解りやすく紹介しています。物語は、鵜の背中に鵜匠が乗って冒険するなどフィクションも織り交ぜて構成。鵜匠と鵜の深いきずなをテーマにした感動的なストーリーが展開されています。
www.inuyama.gr.jp/special/ukai/hisyo.html

◆ 1000円だそうで。

◆ もうひとつだけ鵜のハナシ。チェンバレンの 『日本事物誌』 からの引用をこれまで何度か原文でしたけれども、これはなにも英語でこの本を読んだということではなくて、訳本を拾い読みして、おもしろそうな箇所があれば、その箇所を原本と照らし合わせているだけのハナシで、たいしたことはない。チェンバレンの英語はワタシにはやや難しい。というわけで、今回は日本語訳からの引用。

◇ グレゴリー氏はさらに言っている。--漁師たちは、この鳥をとても大事に飼うので、夏には、気持ちよく過せるように蚊帳を吊ってやるほどである! --はたしてそれほど極端な心づかいを受けているかどうか、著者は個人的には保証できない。実は、涼しい季節はずれのときだけ、この鳥を見た (そして、悲しいかな! 味もみた) のだが、彼らは漁師の家の籠の中でぶらぶらと毎日を送っていた。
チェンバレン 『日本事物誌 1』 (高梨健吉訳,東洋文庫,p.133)

◆ グレゴリー氏がだれなのか、なんてことはどうでもよくて、ワタシがこの文章で惹かれるのはただ一箇所。なんというユーモアだろう。鵜の姿も見たけど味もみた、とは! やはり焼き鳥にしたのだろうか。こういう箇所に出会うと、原文が読みたくなる。さっそく見てみると、

◇ Mr. Gregory further says that the fishermen take such care of the birds that they provide them with mosquito-nets during the summer, in order to minister to their comfort! We cannnot personally vouch for such an extreme fo solicitude, having seen (and alas! smelt) the birds only during the cool off-season, which they idle away in baskets in the fishermen's houses.
Basil Hall Chamberlain, Japanese Things, (Tuttle, p.105)

◆ 見てみたが、よくわからない。問題の 「そして、悲しいかな! 味もみた」 のところは、“and alas! smelt”。smell に味見をするなんて意味があるのだろうか? 鵜を間近で見たので、嗅ぎたくもない臭いまで嗅いでしまった、ということでは? それ以上はワタシにはわからない。万が一、これが誤訳だったら、そこに惹かれたワタシはなんだかなあ!

◆ ちなみに、英語でウは「cormorant」。ラテン語の “corvus marinus” つまり 「海のカラス」 に由来するとか。

◇ The word Cormorant is derived from the French which is derived from the Latin "Corvus marinus," or Sea Crow.
www.stephencresswell.com/birds11.html

◆ なんでもいいのだけれど、たとえば、『人間の証明』 で有名になった西條八十の詩 「帽子」 の一節、

◇ 母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?

◆ で、この詩人がもし、帽子というコトバを知らなかったら、どうだろう? たぶん、

◇ 母さん、僕のあの、えーと、頭に被る、夏は暑いから、なくてはならない、いろんな種類があるけど、僕のは麦わらを編んだやつで、母さんのはもっとおしゃれだけど、あれがあると涼しい、わかるかな? えっ、わからない? まあいいや、とにかく、あの、あれはどうしたでせうね?

◆ ということになって、詩にならなくなる。そんなこともあるかもしれない。と、そんなことを考えてしまったのは、ある本を読んでいて、

◇ 昔、小学校で予餞会をしたとき、教室を飾るために薄いピンク色の薄紙を重ねてつくったしわくちゃの花を思い出した。
最相葉月 『青いバラ』 (小学館,p.108)

◆ という一文に出くわしたからで、予餞会というなつかしいコトバに惹かれもするが、それはさておき、この 「しわくちゃの花」 にはそもそも名前がないのだろうか?

◇ 先生、わたしのあの、昔、小学校で予餞会をしたとき、教室を飾るために薄いピンク色の薄紙を重ねてつくったしわくちゃの花、あれはどうしたでせうね?

◆ としか言うことができないなら、あれは、あの 「しわくちゃの花」 は、永遠に詩になることもないだろう。そう思うと、すこし悲しくなる。