◇ 中野駅北西、環七通り沿いの大新横丁という一郭に以前一年ばかり部屋を借りていたことがある。中野駅に出かけるときには環七に沿って歩く。するとなんだか犬猫病院、ペット美容院がいやに目立つような気がした。思いすごしだろう。でも、待てよ、もしかするとお犬様のご威光がいまだに輝いているしるしかもしれないぞ。
種村季弘 『江戸東京《奇想》徘徊記』 (朝日新聞社,p.166)
◆ なるほど。ワタシは中野区に十年近くも住んでいながら、歴史にはとんと疎いので、犬公方徳川五代将軍綱吉の 「生類憐みの令」 を中野に結びつけてみることなど一度もなかった。
◇ 貞享二年 (1685)、五代将軍綱吉の 「生類憐みの令」 発布以後、思い上がった野犬どもが江戸市中をわが物顔に跋扈した。そこで幕府は収拾策として、東大久保に二万五千坪、中野に三十万坪の犬小屋を確保してお犬様を収容した。中野には十一万頭が収容され、一日十匹あたり白米三升、味噌五百匁、干鰯(ほしか)一升が食いぶちであった。飼育料は年間三万六百両 (今の二十億円ほど) にも及んだという。
Ibid.
◆ これらの数字、ワタシの理解の範囲を超えていて、ちょっと想像できない。
◇ その跡地に戦中は音に聞こえたかの陸軍中野学校、戦後は警察大学校、中野区役所が建った。なにしろ三十万坪である。往時は中野一帯がお犬様のパラダイスだったのではあるまいか。
Ibid.
◆ 写真は中野区役所の片隅。十一万頭いたお犬様、いまではそれがたったの5匹(+仔犬2匹)!