◆ キライなものに対しては、沈黙するのが最良の対処法であることを重々承知しつつも、酔っ払ってしまっているときには、そういうわけにもいかなくなる。 ♪ 涙の数だけ強くなれるよ ◆ ふだん部屋では、ビールしか飲まないのに、いまはたまたまウィスキーを飲んでいて、すこしカラダが熱い。鼻歌なども歌ってしまう。で、ふと口をついて出てしまったのが、岡本真夜の「TOMORROW」。この歌がワタシの口から漏れ出てしまった原因について、あれこれ考えてみるのも一興であるけれども、この詮索はやめておくことにして、いきなりだが、ワタシはこういった「がんばれソング」が好きではない。酒の勢いでいえば、大キライである。というのも (と書いて、しばらく考え込むはめになるわけだが)、その手の歌にはあまりに細部が抜け落ちているからである。 ◆ このアスファルトに咲く花はいったいどんな種類の花なのか? アスファルトを突き破って成長する植物は、強いというコトバのたんなる比喩以外のなにものであるのか? アスファストをいとも簡単に隆起させ、堂々と花を咲かせる植物の生命力を、われわれはホントに賞賛しているのだろうか? ともすれば、美的ではないという理由によって、排除する側にわれわれは立つのではないだろうか? (脈絡が飛ぶのは酔っ払いの習性として許していただきたいが、)花を愛で、それをカメラに収めるアマチュアカメラマンは無数にいるだろうけれど、アスファルトからやっとの思いで顔を出し、花を咲かせることに成功したものたちに、気がつき、あえてそれにファインダーを向け、価値あるものとしてシャッターを押すにいたるひとがどれぐらいいるのだろうか? ◆ ワタシはアスファルトに咲く花がキライである。引っこ抜きたいとさえ思う。そもそも花はアスファルトの上に咲くべきではない。そこにどうしても花が咲かねばならないというのなら、まずやらなければならないのは、それを強さだと思ってしまうことではなく、そこからアスファルトを剥がすことだろう。 ♪ 名前も知らなかったけれど ◆ 「TOMORROW」 にもまして、キライなのは、SMAP の「世界に一つだけの花」 で、こうしたコトバのつらなりはあまりにも空虚ではないか? 好きになったものに対しては、すこしでも知識を得たいと思うのが、自然ではないだろうか? 名前がわからなければ、調べればいいではないか? 好きなひとの名を知りたいと思わないひとなどどこにいるだろう? この歌は花屋の情景を歌ったかのようであるけれども、この歌詞を作った槇原敬之は、じっさいに花屋に行き、花を買ったことがあるのだろうか? どうもアタマのなかだけの花屋に思えてならない。 ♪ 頑張って咲いた花はどれも ◆ などというのなら、なにも花屋に行く必要がないではないか? それこそ 「アスファルトに咲く花」 を手折って持ち帰ればいい。花屋に行って、花を買うつもりなら、どうしたって選択をしなければいけない (花屋の花を全部買うほどの余裕があれば別だが)。 ♪ 困ったように笑いながら ◆ なぜこの人は笑っているのだろう? 困ってしまうのはむしろ店員のほうではないか? 「どのような花をお探しですか?」 「それがよくわからないんです」 ◆ 近年いろいろと花を歌った(ように思える)歌がヒットしたけれども、どれもじっさいの花を歌っているようには思えない。サクラを歌った歌があれこれあっても、みなアタマのなかに咲いているだけではないのか? それに比べれば、すこし以前の歌は、「シクラメンのかほり」にせよ、「(このカッコのなかを埋めるべき歌が思いつかない、ご教示を請う。思い浮かぶのは、アグネス・チャンの「ひなげしの花」とか中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」とか原田知世の「ダンデライオン」とかチューリップの「サボテンの花」とかマイナーなうたばかり)」にせよ、もうすこし具体性があったように思う (花の名前を明示するということが問題なのではない)。 ♪ バラが咲いた バラが咲いた 真赤なバラが ◆ これはマイク真木の「バラが咲いた」であるが、こんな単純な歌詞の歌でも、「花が咲いた」ではなく、「バラが咲いた」と歌うことによって、かろうじて救われているようにワタシには思える。 |
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中島みゆきさんの歌で、ひまわり、というのもあります。
かなり、好きな歌です。