MEMORANDUM

  竹内まりやの 「駅」

◆ 竹内まりやに「駅」という曲がある。ある雨の日、帰宅ラッシュ時の駅で、2年前に別れた男性をふと見かけるが、声をかけることができない。同じ電車に乗って、となりの車輌からその彼をそっと見ているうちに、いろいろなことが思い出されて胸が熱くなる。同じ駅で降り、人ごみに彼を見失う。といった内容の歌詞。

♪ 今になって あなたの気持ち
  はじめてわかるの 痛いほど
  私だけ愛してたことも

  竹内まりや 「駅」(作詞:竹内まりや)

◇ 歌詞の中で、「今になってあなたの気持ち初めて解るの・・・私だけ愛してた事も」と、ありますが、私だけがあなたを愛してたのか、私だけを愛してくれてたのか。夜も寝られません。
www.oikake.net/artists/Takeuchi_Mariya/bbs/

◆ そう言われて歌詞を読み直すと、ずいぶんとあいまいな(というか舌足らずな)歌詞で、こんなことに悩むひとがいてもおかしくない。大学の授業でこの歌詞を取り上げ、学生にその解釈を質問してみた先生がいる。

◇ 女性の主人公が、電車で昔の恋人が一つ隣の車両にいるのを見かけるという内容の歌で出てくる一節ですが、「私だけ愛してた」というのはどういう意味だと考えればいいでしょうか。例年、文法論の授業で取りあげて意味関係を聞いていたのですが、大体四十~五十人程度の中で十人程度は、
  私だけが彼を愛していた。
という解釈でした。つまり、恋人としてつきあっていたが、本当に愛していたのは私の方だけで彼は愛してくれていなかった、という意味です。結局、本当の愛を得られなかったというつらさと切なさが伝わってくるという内容になります。これを「片思い」解釈と呼ぶことにしましょう。
 一方、こちらが多数派になるのですが、もう一つの解釈というのが、
  彼は私だけを愛していた。
という解釈です。この場合、彼の周囲に複数の女性が存在していて、結果的に「私」は身を引いたというか、彼と別れた。しかし、今になって考えてみれば、実は彼が本当に愛していたのは「私」だけであった。当時の「私」はそれを悟らず、自分も好きだったが運命のいたずらで結局別れることになった、と、まあ、こういう内容になるのではないかと思います。こちらの方は「私だけを愛していた」のにすれ違いがあったということで、「すれ違い」解釈と呼ぶことにしましょう。
 「片思い」解釈をとるか「すれ違い」解釈をとるかは、個人の自由であるわけですが、どうしてまったく別の解釈が出てくるのか、は文法の議論の対象です。

森山卓郎 『表現を味わうための日本語文法』(岩波書店, p.20-21)

◆ この先生の日本語自体があれこれ気にならないでもないが、それはさておき、さらにはこの歌の解釈でも「電車で昔の恋人が一つ隣の車両にいるのを見かける」というのは明らかな誤読だろうけれど、それもさておき、学生の4、5人にひとりが「片思い解釈」派であるという。このけっして少なくない割合については、さておいてはいけないだろう。でも、時間がないので、これもさておいて・・・。

◆ (ワタシは、文章の解釈には、たいていの場合、正解があると思っているので、それを安易に「個人の自由」に還元してしまう風潮には異を唱えたい。この場合も、「片思い解釈」などというのはオカシイということを書こうと思っていたのだが、そもそも歌詞自体があやふやで、「片思い解釈」でもオカシクナイかと思い直して、続けるのをやめにした。「駅」というタイトルもよくないと思う。)

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