MEMORANDUM

  体言止め

♪ 乾いた空に続く坂道 後ろ姿が小さくなる
  岡村孝子「夢をあきらめないで」(作詞・作曲:岡村孝子,1987)

♪ 夕焼けに小さくなる くせのある歩き方
  原田知世/松任谷由実「ダンデライオン~遅咲きのたんぽぽ」(作詞・作曲:松任谷由実,1983)

◆ 似たような情景を歌ったこれらの歌詞の後者のほうを、先に「俳句的味わいがある」と書いて、じっさいに俳句にすれば、どのようなものになるだろうかと、散歩の途中に考えてみたが、俳句の作法も知らないし、才能もないようなので、

◇ 夕焼けに 遠ざかるひとの 歩き方

◆ ぐらいしか思いつかなかった。ちなみに「夕焼け」は夏の季語だそうだ。デキはともかく、俳句をひねっているうちに、「夕焼けに小さくなる くせのある歩き方」の一行が「俳句的」だなと感じた理由のひとつが、「体言止め」にあったのだと気がついた。気がついたが、「体言止め」とはなんなのかについてあまり理解していないことにも気がついた。ちょっと国語の復習をしてみよう。

(1)◇ 〔緑ブタ先生の高校受験国語の時間ですよ〕 体言止め・・文末を体言(名詞)で止めること。
・ 塔の上なる一ひらの雲」
※ 詩・短歌では使うが、俳句では当然のため「体言止め」とは言わない。

www.geocities.jp/simootiaihonnpo2/joron/hyougen/hyougen

◆ さいごの文は、俳句ではいちいち「体言止め」だと指摘するのもバカらしくなるほど「体言止め」が多用されている、と理解する。

(2)◇ 【体言止め】 和歌・俳諧などで、句の最後を体言で終えること。言い切った形にしないために、余情・余韻をもたせることができる「新古今集」に多く使われ、その特徴の一つとなっている。名詞止め。
三省堂『大辞林』

◆ なるほど、以下に例示される2つの和歌も(たまたまなのか)「新古今集」からだ。

(3)◇ 〔国語の散歩道〕   ○心なき身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行法師)
「『夕暮れ』は名詞ですね。名詞で終わらせる表現技法を『体言止め』といいます。」
と習ったのではないでしょうか。でも、それが何だというのでしょう。なぜ教えられたのか、それを考えてみたいと思います。
 最初から複雑な短歌だとわからなくなってしまうので、もっと簡単な文で考えてみましょう。
  ○光る海。
  ○海が光る。
 上が体言止めの文、下が動詞で終わる文です。だいぶイメージが違うのではないでしょうか。
 体言止めだと、絵や写真のように、そこにその景色がポンと置かれるような感じでしょうか。一方、「海が光る」だと、「光る海」よりもなんだか力強いというか、生々しいというか、そんな感じがしませんか?
〔中略〕
 体言止めは、写真芸術に似ています。主観を抑えて「ことがら」だけを相手に見せることで、聞き手・読み手の心を揺さぶるわけです。大げさに言えば、読み手がどのような人生を歩んできたか、どのような経験をしてきたかによって、そこにわき起こる感情も違ってくるのかもしれません。
  ○夕立の雲も止まらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声(新古今和歌集、式子内親王)

members2.jcom.home.ne.jp/amei/nihongo/taigendome.html

◆ ↑の説明は、よくわかる。「絵や写真のように、そこにその景色がポンと置かれるような感じ」というのは、なるほどなと思う。それに対して、『大辞林』の「言い切った形にしないために、余情・余韻をもたせることができる」というのは、ワタシにはピンとこない。これら2つの説明は、正反対のことを言っているようにも思える。「体言止め」といっても、いくつか種類があるのではないか? それとも、観点が異なるからか?

(4)◇ 〔くろねこ@国語塾〕 〔「体言止め」とは〕どんなんかと言うと、とにかく名詞・代名詞でぴたっと文が終わること。例えば、この例の『古池や 蛙飛び込む 水の音』は、普通の文やったらどうやって終わる?」
 生徒「『水の音がした』?」
 「そうそう、『音がした』とか『水の音が聞こえた』とか。でも、この俳句がそれで終わったら、ちょっとカッコ悪いよな。『古池や 蛙飛び込む 水の音がした』では、だらしない感じがしてしまう。ここを『音』でぽん、と止めるから、エエ感じが残るんやね。この“残ったエエ感じ”のことを難しい言葉で『余韻』って言うねん。

toto.cocolog-nifty.com/kokugo/2007/06/post_4c94.html

◆ これなどは『大辞林』の説明に沿った文例だと思うが、ワタシは「古池や 蛙飛び込む 水の音」が中途半端である(言い切っていない)ようにはまったく感じないので、「古池や 蛙飛び込む 水の音がした」に変換する意味がよくわからない。そもそも、これは「『普通』の『文』」ではない(「普通」でもないし「文」でもない)と思う。

(5)◇ 〔マンガの修辞学:名詞止め(別名:体言止め)〕 〔「体言止め」は〕名詞が、文の最後に来る。それはつまり、名詞以降の「動詞・助動詞」が省略されるということです。そこで、省略された語が何なのかを探っていくうちに、省略部分の意味を埋め合わせる部分を想像していくことになります。これが「余情」ということです。
members3.jcom.home.ne.jp/balloon_rhetoric/example/nominal-phrase.html

◆ なんとなくわかってきた(書きながら考えているので、こういう書き方になる)。上に見られるような、「体言止め」には「余韻」とか「余情」があるといった説明は、「体言止め」が(述語などを欠いた)「不完全な文」だと考えることからくるのだろう。

(6)◇ 〔Wikipedia:文〕 文(ぶん)とは、一つの完結した言明を表す言語表現の単位である。基本的には主語と述語(一方が省略されることもある)からなる。
ja.wikipedia.org/wiki/文

◆ 「文」がそのようなものだとすれば、なるほど「体言止め」は「不完全な文」だということになるだろう。しかし、コトバがすべて「文」の形を取らなければならないということもない。なんでもいいが、たとえば「東京特許許可局」というコトバに対して、これは「なにかが省略されている不完全な文」であり、このコトバには「余韻」「余情」が感じられる、というようなひとがいたら、ちょっとどうかしているのではないか?

◆ 収拾がつかなくなってきたので、ハナシを、先に引用した「よくわかる」説明に戻すと、

(3)◇   ○光る海。
  ○海が光る。
 上が体言止めの文、下が動詞で終わる文です。だいぶイメージが違うのではないでしょうか。
 体言止めだと、絵や写真のように、そこにその景色がポンと置かれるような感じでしょうか。一方、「海が光る」だと、「光る海」よりもなんだか力強いというか、生々しいというか、そんな感じがしませんか?

◆ この「光る海」と「海が光る」の対比は、(すべてではないにしても)ある種の「体言止め」をうまく説明しているようにワタシには思われる。「夕焼けに小さくなる くせのある歩き方」の「歩き方」のあとになにか省略されていると考えることには無理があると思うが、「くせのある歩き方が夕焼けに小さくなる」へはスムーズに変換できるだろう。そうなると、これは一種の「倒置法」ではないかという気もして、《教えて!goo》の、

◇ ちょっと今更この年で聞くのも恥ずかしいんですけど、倒置法と体言止めっていっしょなんですか?なんか見た感じ同じにみえるんですけど、どなたか、ここが違うってところを知っていたら教えてください。
oshiete.goo.ne.jp/qa/378505.html

◆ という質問者と同じことを質問したくなるが、その回答は、予想通りに「全然違います」だったりするので、質問しないで、自分で考えることにする。

◆ (しばらく考えた結果)要するに、ある種の「体言止め」には「倒置法」に基づくものもあるということなのだろう。「海が光る」を「倒置」した「光る、海が」から「が」を取れば、「体言止め」である「光る海」になる。

◆ とはいえ、どうして「が」を取るのか?、と聞かれても答えられないので、「倒置法」に基づくと説明はあまり説得力がないかもしれない。この種の「体言止め」というのは、英語でいえば、(関係詞を用いた)「先行詞+形容詞節」という表現に近い感じがする(「The sea is sparkling.」→「the sea which is sparkling」)。

◆ そうして、こうした「体言止め」が「絵や写真のように、そこにその景色がポンと置かれるような感じ」がするのは、さいごに置かれた「体言(名詞)」がそれにかかるすべてのコトバをまとめあげ、いわば「額縁」として機能するからだろうと思う。また、「体言止めは、写真芸術に似ています」というコトバにはたんなる比喩を越えた関連があるとも思うが、もう少しじっくり考えてみることにしよう。

◆ ついでながら、岡村孝子の「夢をあきらめないで」の

♪ 心配なんてずっとしないで 似てる誰かを愛せるから

◆ という一行は、どうにも不気味で、かなり怖い。

〔補遺〕◆ (5)の《マンガの修辞学》には「体言止め」とはべつに「名詞提示」という分類項目もあった。

(7)◇ 〔マンガの修辞学:名詞提示〕 似たようなレトリックとして、「体言止め(名詞止め)」というものがあります。「名詞提示」も「体言止め(名詞止め)」も、ともに名詞だけがポツンと置かれることによって効果をしめすというところは似ています。しかし、この2つは異なります。「名詞提示」は、ただ名詞を置いて並べたもので、そのうしろに特に省略した言葉が見当たらないものです。その点で、「体言止め(名詞止め)」とは区別されます。
members3.jcom.home.ne.jp/balloon_rhetoric/example/noun-presentation.html

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