MEMORANDUM
2006年02月


◇ "Ich weiß, daß ich nichts weiß." - Socrates

◆ ワタシはドイツ語についてはなにも知りはしないが、これがドイツ語であることは知っている。というのも、文中に 「ß」 があるからで、

◇ このギリシア文字のベータみたいなのは、エスツェットというんだ。エスツェットはもともとはエス(s)とツェット(z)がくっついてできた文字 なんだけど、現代ドイツ語では ss と同じだと考えていいんだ。だから、タイプライターやメールなどでエスツェットの文字が出せないときは ss で代用することもあるんだよ。なおエスツェットは小文字しか存在しないから、大文字で書く必要があれば、SS を使うんだ。
www.lang.osaka-u.ac.jp/~tsuda/kouza/kouza01.html

◆ このエスツェットがあれば、意味はわからなくても、それがドイツ語であることだけはわかるというわけ。

◇ エスツェットを書くと 「ああ,ドイツ語を勉強しているな」 と自己満足に浸る(?)ことができます。しかし1998年からのドイツ語正書法改正でエスツェットの役割は減少しました。
www.law.kyushu-u.ac.jp/~taiki/materials/lektion0.html

◆ 「ドイツ語正書法改正」 について知ったのは数日前のこと。1月28日、立川市錦町のとあるマンションのごみ置き場に捨ててあった『エクセル独和辞典』(郁文堂)を持ち帰って、ぼんやり眺めていると、帯に 「新正書法完全対応」 とあった。

◇ 1998円8月にドイツ語の新しい正書法が施行されました。従来の正書法は、今後とも誤りとはみなされませんが、2005年までの移行期間を経た後、廃止されます。
『エクセル独和辞典』(郁文堂, p.985)

◆ この新正書法によって、従来の書き方とはなにが変わるのかというと、たとえば、

◇ 同じ発音でも違う文字を使うということはドイツ語でもしばしば起こることです。この文字の使い方に関する変更はたくさんあるのですが、私たちにもっとも身近なものは ss と ß の問題です。 // これまで [s] の音は基本的には ß でつづられ、母音にはさまれて前の母音が短い場合のみ ss でつづるという面倒なものでした。ですから、müssen という助動詞は主語が ich の時には後ろの母音がなくなるので muß とつづらなければなりませんでした。逆に、Fluß の複数形は Flüsse というように書き換えなければなりませんでした。 // 新しい規則では、長い母音、二重母音の後の ß 以外はやめようということになりました。そうすると、müssen のような場合、変化して後ろに母音がなくなったからと言って、muß と書く必要がなくなりました。また、これまでの Fluß は Fluss と最初から書かれるようになったわけです。そうすると、おなじみの接続詞daßもdassとつづられることになります。 // いいことだらけみたいですが、そうでもありません。この規則でも相変わらず、wissen は主語が ich や er のときは二重母音に変わるので weiß とつづらなければなりません。また、Straße, Maße のような語にも ß は残ります。
www.human.mie-u.ac.jp/~inokuchi/german/invitation/language/rechtschreibung.html

◆ というわけで、冒頭のソクラテスの「わたしはわたしが知らないということを知っている」という一文は、新正書法にしたがって、今後はこう書かれることになる・・・

◇ "Ich weiß, dass ich nichts weiß." - Socrates

◆ ・・・はずだが、ことはそう簡単には運んではいないようで、

◇ ノーベル文学賞受賞者ギュンター・グラスは一歩進んで、自分の文章が新正書法に沿って教科書に公表されることを拒否している。マルティン・ヴァルザーも 「これからも自分の思い通りに(旧正書法に従って)書く」 と主張。正書法改革を 「官僚の暇つぶし」 と呼んでいる。
www.ohnichi.de/Fukugan/shinnseihohou.htm

◇ 正書法改革法(Rechtschreibreform)がドイツ国内で一律に発効する見通しがなくなった。 // 改革法に基づいて新正書法が始まるまであと2週間となったが、バイエルン州とノルトライン・ヴェストファーレン州は、各州首相会議(Ministerpräsidentenkonferenz)の決定を無視する形で、新正書法の導入はしないとの声明を出し、関係筋を驚かせた。
tovalis.or.tv/auslese/Bayern%20und%20Nordrhein-Westfalen%20fuehren%20Rechtschreibreform%20nicht%20ein.htm

◆ などなど、前途は多難な様子。

◇ 21日未明から東海、関東地方南部を中心に降り始めた雪は、同日夜になっても続いた。東京・大手町では同日午後5時に9センチの積雪を記録。都心部で9センチの積雪があったのは98年1月15日に16センチを観測して以来で、8年ぶりの大雪となった。
www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060122k0000m040010000c.html

◆ 1月21日、めずらしく東京に雪が降り積もった日、新宿区新宿花園公園。女の子がせっせと雪玉を転がしている。それを両親が微笑んで見ている。しばらくその風景を遠くから眺めたあと、写真を撮ろうかと思ったときには、雪玉転がしも一段落してしまっていた。その家族に近づいて、写真を撮ってもいいですか、とお願いすると、また女の子が雪玉を転がしてくれた。だから、これはちょっとヤラセの写真。公園は地面が土なので、9センチぐらいの積雪では、雪玉を転がすとすぐに土がひっついてきてしまう。これでは真っ白な雪だるまを作るのは難しい。

◆ おともだちのめめさんが「身辺雑記」に「雪だるま」の思い出を書いていた。

◇ 翌日は入学試験という日に、真っ白なぼた雪が、こんこんと降り、ふかふかと積もった。風邪をひいては、と言う母をなだめて、家の前の坂道を何度か往復して、自分の背丈と同じくらいの雪だるまをつくった。(ついでに、まじめに雪かきもした) 鼻とほっぺたとおでこと指とをまっかっかにした、いい年の娘を呆れ顔で玄関で迎えた母は、みかんをふたつ持っていた。「・・・これを眼にしなさい。」 雪でできてたって、だるまはだるまなんだから、明日の入試を考えたら両目を入れときなさい、と。
04.members.goo.ne.jp/home/meme_dans_le_metro/diary/a/261.htm

◆ 2日後、1月23日、藤沢市鵠沼海岸。雪だんごを見た。そうして考える。もしも、めめさんが入試の前日に作ったものが雪だるまではなくて、雪だんごだったら? お母さんもさぞかし困ったことだろう。だって、雪でできてたって、だんごはだんごなんだから、どうにも目がない。そうして、めめさんのその後の人生も少しは違ったものに……

◆ 年が明け、さらにはその12分の1が過ぎても、ワタシのアタマは正月休みのままいっこうに働こうとしない。そんなぐうたらなアタマだけれども、よく観察すると、一日のなかではそれなりの濃淡があるようで、たとえば風呂屋からの帰り道には、ややアタマがさえているような気がしないでもない。だから、そんなときには、ちょっと遠回りをしてから家に帰ったりもする。

◆ ・・・というようなコトを銭湯から帰る道すがらぼんやりと考えていたら、もう家の前に着いた。今日は寒いから、遠回りはよそう。

◆ 風が吹いている
  音を立てている
  華原朋美みたい
  ヒューヒュー!

◆ さえたアタマがしたことがコレ。ワタシは詩人だろうか? ほんとに風が強い。

◆ 風呂屋の帰り道にはアタマがさえる、ということを書いているときに、寺田寅彦の文章を思い出したけれど、朋ちゃんのヒューヒューのあとにつなげるのもむずかしくて、あたらに書く。

◇ 「三上(さんじょう)」という言葉がある。枕上(ちんじょう)鞍上(あんじょう)厠上(しじょう)合わせて三上の意だという。「いい考えを発酵させるに適した三つの環境」 を対立させたものとも解釈される。なかなかうまい事を言ったものだと思う。しかしこれは昔のシナ人かよほど暇人でないと、現代では言葉どおりには適用し難い。 // 三上の三上たるゆえんを考えてみる。まずこの三つの境地はいずれも肉体的には不自由な拘束された余儀ない境地である事に気がつく。この三上に在(あ)る間はわれわれは他の仕事をしたくてもできない。しかしまた一方から見ると非常に自由な解放されたありがたい境地である。なんとならばこれらの場合にわれわれは外からいろいろの用事を持ちかけられる心配から免れている。肉体が束縛されているかわりに精神が解放されている。頭脳の働きが外方へ向くのを止められているので自然に内側へ向かって行くせいだと言われる。
寺田寅彦 『路傍の草』(青空文庫

◆ この三上、ワタシにとってはどうかというと、まず枕上は除外。すぐ寝てしまうからだ。厠上は多少、当てはまる。以前はトイレで本を読むということはしなかったけれど、最近はけっこう利用している。とはいえ、枕上にしても厠上にしても、それが意味をなすのは家族で広い家に住んでいる場合のように思われるから、六畳一間に一人暮らしをしている人間にとっては、さしたる効果はないだろう。もともと狭い空間である。どこにいてもたいした違いはないし、だれがじゃまするわけでもない。

◆ だから、残るのは鞍上だけだが、競馬は好きでも乗馬の趣味があるわけではないから、これはワタシの場合、「バス上」 に置き換える必要がある。「電車上」 でも 「トラック上」 でもいいかもしれないが、「バス上」 が一番しっくりくる。それも夜のバス。お気に入りは左の最前列の一人がけの座席。だれにも視界をさえぎられないところ。始発から乗るのでかならず座れる。仕事で適度に疲れたからだを、そこに落ち着けて三十分ほどのんびりと過ごす。あまりに道路が空いていると、すっとばすバスの運ちゃんもいるから、適当に渋滞していたほうがいい。早く着きすぎてもつまらない。乗車して発車までのあいだは本を読んだりもするけれど、動き出してからは適度な振動ですぐにうつらうつらして、あとは夢心地。といって、完全に寝てしまうわけでもない。窓のそとは夜だから、刺激も少ない。そんな状態が一番心地よい。あれこれ勝手にアタマが働き出すのは、そんなとき。アナタはいかが?

◇ 初めての土地で、バスに乗ることはとても勇気のいることです。
www.geocities.jp/jdy07317/1021.html

◆ まったくその通り。というのも、路線を把握するだけでも苦労することが多いのに加えて、

◇ そのバスが 「前乗り」 か 「後乗り」 か。「整理券」 か 「均一料金」 か。均一料金ならいくらか。今、さいふにいくらの小銭があるか。
Ibid.

◆ といったことをあれこれ乗車前に考えておく必要があるからで、そういったことが面倒だから、すこし時間がかかっても電車に乗り、駅から目的地まで歩くというひともおられるかと思う。

◆ で、小銭のハナシ。ワタシのいつも乗るバスは均一料金の前乗りで、ワタシのお気に入りの座席は(先に書いたように)左側の最前列なので、乗客と運転手とのやりとりが逐一目にはいるのだが、昨日も始発のバスターミナルでこんなことがあった。

◇ 乗客:(一万円札を出しながら)これ、両替して。
運転手:一万円は両替できないんですが。
乗客:じゃあ、どうすりゃいいんだよ。
運転手:次回お乗りいただいたときに、2回分お支払いください。
乗客:そうなの。ちゃんと書いとかなきゃわかんないだろ。(と言って、そのまま乗車)

◆ 乗客は50がらみの中年男性。これはしばしば見かける光景で、小銭のない乗客にたいする運転手の対応も、この運転手の場合のように、次回に2回分払ってもらうようにするというのが、もっぱらで、おそらくバス会社のマニュアルにはそう書かれているのだろう。でも、なかには、他の乗客に 「1万円分、両替できるかたはおられませんか」 とアナウンスする運転手がいたり、「とりあえずあるだけの小銭を払ってください」 と言う運転手がいたりもして、きちんと料金を払って乗車しているものとしては、規定の料金を徴収するのにそれぐらいの努力をしてもらわないとすっきりしない。まして、この乗客の場合は、始発から乗るわけだから、乗車前にどこかで両替してきてもらうようにお願いしてもなんの問題はないと思うのだが。

◆ バスに乗るには小銭が必要というのは、常識の範囲内ではないのだろうか? それとも、2chで見かけたこんな感覚のひとが増えているのか?

◇ なんで金払って乗るのに、へこへこ媚びにゃいかんのだ。金貰って乗客運ぶのが仕事だろ、なんで釣り銭用意しとくくらい気が付かないの?
yasai.2ch.net/company/kako/990/990679479.html

◆ 車掌がいるなら釣りを用意しておくのが当然かもしれないけれど、ワンマンカーの運転手は運転に専念してもらいたい、と客として思う。

◇ バスに乗るには220円。財布には1万円札と100円ちょっとしかない。車内で1万円札の両替はできないから、コンビニで何か買ってくずそう。そう思ってコンビニでお茶を買ったのだが、財布を見ると小銭がぴったり出せることがうれしかったのか普通にそれを出していた。おかげでもう1度いらないものを買ってバスを1本逃した。きっとコンビニに入った時点で安心してしまったことが今回の敗因だろう。
new-cocts.269g.net/article/1383371.html

◇ 今日はバスに乗る為の小銭が無かったので、行きがけに万札を崩してから行かなくてはならなかった。コンビニに入ったところまでは良かったけど、そのまま雑誌を読んでしまい、バスが着たらお金を崩す事無く乗りそうになってしまう始末。コンビニに戻ってもどうにか発車に間に合ったけど、慌てたぁ。
yoffy.dyndns.org/2004/11/post_65.html

◆ こんなエピソードを読んでほっとする、というのもなんだか悲しい。

◆ 一昨日のスポーツ新聞に、クマが出た。

◇ 黒い影が木立の間でぬっと動いた。ぎょっとして立ち止まると、こっちを向いた。真っ黒だ、クマか。冗談じゃない、風呂に入りに来たぐらいで食われてはたまらない。サラリーマン稼業を生き延びて、定年まで残り4カ月。こんなところでクマ死にできるか。
「59歳後藤新弥のスポーツ&アドベンチャー」(『日刊スポーツ』2006年2月5日付)

◆ なにもわざわざ引用するほどでもないけれど、行きがかり上つい引用してしまったのは、標高2150メートルにある八ヶ岳の本沢温泉の露天風呂をめざした編集委員の記事の一部だが、いくらんでも 「クマ死に」 はないだろう。とても定年まで残り4カ月の記者が書く文章とは思えない。さらには 「黒い影」 がクマではなくて、カモシカだったというオチまでついて、続きを読む気が失せた。その代わりに、別なことを思い出した。

◆ 以前ここで 「熊旅館」 のハナシを書いた。その後、ある本を読んでいたらそこにも熊旅館が出てきたので、そのことを書こうと思って忘れていたのを思い出した。去年の夏、新潟発小樽行フェリーの船内で読んだ堀田善衛の 『ミシェル 城館の人 第三部 精神の祝祭』(集英社文庫)がその本で、三部作の第一部も第二部も読んでないのに、なぜかしら第三部だけが手元にあって、旅支度をしていたときに、たまたま目について旅行カバン(といってもデイパックだが)に放り込んだ。ミシェルというのは、『エセー』 で名高いミシェル・ド・モンテーニュのことで、第三部では、モンテーニュも旅に出る。

◇ われわれのミシェルは、一五八〇年六月二十二日に彼の城館を出て、北東フランス、ドイツ、スイス、オーストリアを経てイタリアへの、十七ヵ月にもわたる旅に出た。
堀田善衛 『ミシェル 城館の人 第三部 精神の祝祭』(集英社文庫,p.7)

◆ この旅の記録は後年発見され 『旅日記』 として出版されるにいたったが、ドイツのバイエルン地方のケンプケンで、熊旅館に泊まったことが記されている。堀田善衛訳を引用すれば、

◇ 〈町の大きさはサント・フォアくらいで、美しく人口も多く、にぎやかで立派な家が多い。われわれは 「熊屋(ウルス)」 に泊まった。まったくきれいな宿屋である。この宿では、わが国の上流の家でも滅多に見られないような、各種の大きな銀盃が出された。〉
Ibid.,p.56

◆ また、ローマでも、

◇ 一行は、はじめ熊屋(ウルス)なる宿に泊まり、十二月二日に、に、サン・アンジェロ橋の袂にあるスペイン人の家に部屋を借りている。
Ibid.,p.97

◆ 書きたかったのはこれだけ。熊旅館が16世紀後半のヨーロッパにもあちこちにあった、ということを知ってうれしかったというわけ。参考までに 『旅日記』(Journal de Voyage)の当該箇所を原文で。

◇ KEMPTEN, trois lieues, une ville grande corne Sainte-Foi, très belle & peuplée & richemant logée. Nous fumes à l’Ours, qui est un très beau logis. On nous y servit de grands tasses d’arjant de plus de sortes, (qui n’ont usage que d’ornemant, fort labourées & semées d’armoiries de divers Seigneurs), qu’il ne s’en tient en guiere de bones maisons.
humanities.uchicago.edu/orgs/montaigne/h/lib/JV1.PDF

◇ ROME, trante milles. On nous y fit des difficultés, come ailleurs, pour la peste de Gennes. Nous vinmes loger à l’Ours, où nous arrestames encore lendemein, & le deuxieme jour de décembre primes des chambres de louage chés un Espaignol, vis-à-vis de Santa Lucia della Tinta.
Ibid.

◆ 16世紀のフランス語がネットで読めるというのにも驚いた。

  FURYO

◆ 大島渚監督 『戦場のメリークリスマス』 がふと観たくなって、レンタルDVDでも借りようかと思ったが、あいにく近くのレンタル屋には置いてなかったので、それではと、ネットショッピングなど一度もしたことないのに、あれこれ調べていると、見つけたのがこれ、フランス版のDVD。タイトルはなぜだか 『FURYO』。

◇ 坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」を発見。ところが仏語タイトルが「FURYO」・・・。ふりょう?不良?はて?
members.jcom.home.ne.jp/michikowolf/trip/20020210.htm

◇ 戦メリのイタリア語タイトルが、「FURYO」であった。不良だと思うが、なぜだ?
kpd.cside.com/italy/ir6.html

◆ フランスのみならずイタリアでも 『FURYO』。要するに英語圏(『Merry Christmas Mr. Lawrence』)以外はみんな 『FURYO』 ということらしい。

◇ 封切りは1983年。ボクは大学生。友達と二人でヨーロッパ一周貧乏旅行をしている最中で、スペインのバルセロナで 「FURYO」(俘虜)というポスターがあちこちに貼ってあったのをよく覚えています。「Merry Christmas Mr. Lawrence」 というわかりやすい英題名があるのに、なぜわざわざ 「俘虜」 という難しい名前で封切るのか、とても不思議に思ったなぁ。
www.satonao.com/cinema/christmas.html

◆ そうそう、FURYO は不良ではなく俘虜なのだった。浮虜ではないよ。

◇ 大島渚監督の 「戦場のメリークリスマス」 は、フランスでは、何故かFURYOと題されていた。始めは 「不良」 のことかと思ったが、映画館の前のポスターをよく見ると、漢字で 「浮虜」 と書かれていた。どうしてよりスタンダードな日本語のHORYO、すなわち 「捕虜」 にしなかったのか一瞬疑問に思ったが、よく考えるとフランス人はHの文字を発音しない。従ってHORYOは当然 「オリョ」 となってしまうので、音声学的見地から同義語の 「浮虜」(FURYO)が選ばれたのであろう。
www.res.kutc.kansai-u.ac.jp/~kamei/senmeri.htm

◆ 「音声学的見地から」 云々は、まったく関係がないと思うけど、そもそもタイトルを日本語から選んだのはどうしてかなあ? 原作で furyo がキーワードになってるんだろうか? まあ、フランス語でしゃべる David Bowie を見てもしようがないから、フランス版の 『FURYO』 を購入するのはやめにして、代わりに原作の Laurens van der Post, The Seed and the Sower を購入してみようか・・・と思ったり。

◇ 俘虜とは一般に捕えられた兵士であり、ただ祖国へ帰る日を待って暮していると考えられている。しかし私の見たところによれば、俘虜は 「兵士」 でもなければ 「待っている」 わけでもない。彼等は既に戦闘力がないという意味で兵士ではなく、俘虜収容所の生活の必要は彼等に 「待つ」 ことを許さない。彼等は生きなければならぬ。
大岡昇平 『俘虜記』(新潮文庫, p.146)

◆ FURYO と聞いて思い浮かぶのは、ワタシの場合、大岡昇平の 『俘虜記』 を措いてほかにはない。そもそも 「俘虜」 というコトバを知ったのがこの本からであり、それ以降にしても、このコトバにどこかで出会ったという記憶がほとんどない。書評は苦手なので一切を省略するが、一読をお薦めする。

◇ 飛魚が航海の友であった。彼等は群をなして、舷側から飛び立ち、我々の期待より少し長く飛んで着水した。多分鮪(まぐろ)であろう、長さ一間以上の巨大な紡錘形の魚が、驚いたように、左舷百米ばかり先の海面から、半身を垂直に突き出し、また没し、また突き出して、片眼で我々を窺うようにしながら、どこまでも随いて来た。
Ibid., p.441

◆ 昭和二十年十二月、大岡昇平は、レイテ島での約十ヵ月におよぶ収容所生活を終え、復員船信濃丸にて約二千の俘虜ともども日本に帰還した。

◇ 彼等はすべて著しく無智であったが、親切で鷹揚で、狡猾懶惰(らんだ)な我々中年の兵士をかばってよく働いてくれた。彼等は体力を調節して使うことを知らず、病に遇うとすぐ斃(たお)れた。
大岡昇平 『俘虜記』(新潮文庫, p.54)

◆ 引越屋はもちろん兵士ではなく生命の危機にさらされることがあるわけでもないので、深刻さにおいてかなりの程度の差があるけれども、この文章にはまったく頷かされる。

◆ ワタシの働くのはトラックが十台にも満たない小さな引越屋だが、最近は作業員の募集をすると、集まるのはきまって四十代で、それはそれで昨今の景気を反映していたりもするのだろうが、いかんせんみな体が動かない。四十を過ぎて慣れない力仕事に応募してきたそれぞれのさまざまな事情についてはいろいろと同情しないわけではないし、作業にしても手を抜こうとしているわけではないと信じもするが、彼等はすでに 「体力を調節して使うこと」 を全身で身につけており、ややもするとそれが 「狡猾懶惰」 に見えもするのだ。気がつくと姿が見えないことがある。探すと自主的に休憩をとっている。もう少しで休憩にしようと思っていたのに。ふだんは休憩を入れないところだが、彼の体力を考慮して、もう少しで休憩にしようと思っていたのに。

◆ それにしても若者はどこにいるのだろう。「体力を調節して使うことを知らず」、われわれのいうがままに体力の限界まで作業をして 「すぐ斃れた」 若者たちは。そんな彼らには、「ちょっと休んでていいよ」 と優しく言ってやることもできたのだが・・・。

◆ かくいうワタシも四十代で、「狡猾懶惰」 になる日もそう遠くないだろうと思う。

◆ 古い木造アパートに住んでいるので、ネズミに出くわしたこともしばしば。屋根裏で運動会の音を聞くならまだしも、夜更けに台所から物音がして、なにかしらと、寝ぼけまなこで灯りをつけると、逃げ遅れたネズミと目が合ってしまう、なんてのは、あまり気持ちがいいものではない。さいわい、ここ数年は見かけない。音も聞かない。どこへ行ったのだろう。もしかすると、台所の隅にでも転がっているかもしれない。こわくて掃除ができない。

◆ 「ねずみにひかれる」 というコトバがある。イメージを伴いやすいコトバであるようで、

◇ ねずみにひかれる? 巨大なねずみにぺちゃんこに踏みつぶされる? はたまた、ねずみの大群の大移動にバッタリ対峙してしまう? そんなおかしな場面を想像した私は、意味するところがわからずに、ぽかんとしてしまいました。
www.pref.gunma.jp/kenbun/2003/1121.html

◇ イメージ的には、家にコロンと一人で寝ていると、その上をネズミがチュチュチュッと大量に通っていくような感じだったので。
blog.goo.ne.jp/riringa/e/6de88c4c4e6376f531a26c87abc9a493

◇ 私は笑っているミッキーマウスに車で轢かれてしまう事を頭で想像していたので可笑しくなったのですが、
morningtea.exblog.jp/i17/

◇ 子供の私は、車にひかれると言うように、何だか巨大なねずみに「ひかれる」んだと思ってました。
daisenpai.exblog.jp/79984

◇ 初めて「ねずみにひかれる」という言葉を聞いたとき、インディ・ジョーンズに出てきそうな大量の鼠が身体の上を走り抜けていく(轢かれる)光景が浮かびました。ねずみが物を引いていくなんて、これっぽっちも思い浮かばなかったよ。それにしても、怖い言葉だね。
bona.tea-nifty.com/amanogawa/2004/10/post_19.html

◆ 大量のネズミ、あるいは巨大なネズミに「轢かれる」というイメージは強い印象を残す。ねずみに「轢かれる」のではなく「引かれる」のだとわかったあとでも、こうしたイメージは消え去ることはなく、おそらくは、このコトバを聞くたびに、エコーのように脳裏に反響し続けることだろう。

◆ おともだちの霧さんが書いている。

◇ 「ねずみにひかれんごて」
私が一人で夜更かしをするときなどに、祖父母がそう声をかけて床に着くことがあった。
(中略)
今は、母がよく口にする。
「ねずみにひかれんとよ」

01.members.goo.ne.jp/home/fog_horn/diary/a/808.html

◆ ねずみにひかれる、というコトバは、このようにカギカッコつきで使われてこそ生き生きする。カギカッコに封じ込められたさまざまな人間の思い。なつかしい人の声の調子がよみがえる。

◆ 文学作品から探してみると、

◇ 「浅吉さん、弱い人ね、もう少し強くならないと、鼠に引かれちまいますよ」
中里介山 『大菩薩峠 他生の巻』 (青空文庫

◇ 「商売に出たら最後、途中で酔っぱらって、三日も四日も家へ寄りつきゃアしない。この極道者めがッ! お母(ふくろ)なんか、鼠に引かれてもかまわないっていうのかい」
林不忘 『丹下左膳 日光の巻』 (青空文庫

◆ 『大菩薩峠』 に 『丹下左膳』 か、すごいな、これは。

◆ 井上靖の 『しろばんば』 にも印象的なカギカッコがあるらしい。

◇ この作品を愛するもう一つの理由が、この小説の女主人公と言っても過言ではない、おぬい婆ちゃの存在である。自分も洪作同様お婆ちゃん子として育ったため、こういう人物には特に深い共感と懐かしさを感じる(『銀の匙』 の伯母さんや 『楡家の人々』 のばあやなどもそうである)。「婆ちゃが鼠に引かれるで、あすになったら、早く帰っておいで。」 というおぬい婆ちゃの言葉があるが、こういう言葉も自分にはどうにも懐かしく、祖母を思い出してしまう(今はこういう言い方は無くなってしまったかもしれないが)。
homepage.mac.com/nsekine/SYW/book/b067.html

◆ 残念ながら、ワタシ自身はこのコトバがじっさいに発話されるのを一度も聞いたことがない。だからカギカッコのついたこれらのコトバがうらやましくて仕方がない。

  鵠沼

◆ いつだって、ひまつぶしにはこと欠かない。

◆ 2月1日12時37分、藤沢市鵠沼橘。早めに客のアパートに着いたが、食事中で不在。小雨のなか辺りを散歩するも、これといって見るものはなし。だから、あれこれ考えた。鵠沼橘、べつに読めなくてもどうということはないが、くげぬまたちばな、と読む。

◆ たちばな。そういえば、京都の実家からほど遠くないところに橘という女子大学があった。・・・あった、のだが、いつのまにか(2005年4月かららしい)男女共学になり、京都橘大学と校名変更されていた。・・・のをいま知った。

◆ くげぬま。鵠沼をどうして 「くげぬま」 と読むのかというと、

◇ 「鵠沼」 は、かつて 「久久比奴末」 とも書かれ、「くぐいぬま」 と呼ばれたものが訛ったという説があります。「くぐい」 とはハクチョウの古称とされますから、白鳥の飛来した沼地というほどの意味でしょう。「鵠沼」 の語は、12世紀=平安末期の 「天養記」 に書かれたのが最初だとされます。
homepage3.nifty.com/kurobe56/k5/riyuu1.htm

◆ くぐいは白鳥のことであるというのがもっぱらの説で、オンライン辞書を見ても、

くぐい【鵠】 《「くくい」とも》 白鳥(はくちよう)の古名。
『大辞泉』(小学館)

◆ とある。けれども、くぐいをコウノトリ(鸛)だとする意見もあるようで、貝原益軒の 『大和本草』 (1709)によれば、

(ハクテウ) 鸛ヨリ形大ナリ。肉多ク、味好ク、性ツヨシ。別類ナシ。本草ヲ見ルニ、今ノ白鳥ト云鳥ハ鵠ナリ。然ルニ順和名ニ鵠ノ字、コフト訓シ、又、久々比(クヾヒ)ト訓ス。誤レリ。クヾヒトハコフノ事。コフハ鸛ナリ。鵠ニアラズ。鵠ハ白鳥ナリ。鵠ニカウノ音アル故、アヤマリテ鵠ヲコフトヨミ、クヾヒト訓セシナルヘシ。芥子ハカラシナルヲ、ケノ音故誤ツテケシトヨムカ如シ。鵠ノ字ヲ和名抄アヤマリテコウトヨミ、クヾヒト訓スルヲ、今ノ人見テ、クヽヒヲ白鳥ナリトヲモヘリ。クヽヒハ白鳥ニ非スコウナリ。
www.lib.nakamura-u.ac.jp/kaibara/yama/pdf/y15.pdf

◆ 原文に適宜句読点を施した。「事」の字は別の字体(に似た「古+又」)で書かれていたが、表示できないので改めた。性ツヨシ、とはなんだろう。精力がつくということだろか? ひまつぶしは尽きない。

◆ 結婚するなら、生涯ひとりのひとと添い遂げたい。などと柄にもなく思ってしまったのは、

57歳男が「一夫多妻」女性10人と同居 東京都東大和市の無職男性(57)が結婚と離婚を繰り返し、離婚した女性を含む20代~50代の女性10人、乳児1人と同市内の民家で集団生活をしていることが25日、分かった。
www.nikkansports.com/ns/general/f-so-tp0-060125-0011.html

◆ というニュース記事を目にしたからで、同時に何人もひとを愛するエネルギーは(残念ながら)ワタシにはない。うらやましいとも思わない。

◆ 鵠は白鳥のことだと書いたが、中国では天鵝とも言うようだ。

 名詞:動物名。鳥綱雁形目。體形似雁而較大,頸長,腳短。行走不便,但在水中能迅速划行,姿態優雅。能高飛,且鳴聲洪亮。俗稱為天鵝。
c35ba7af.hinet.to/

◇ 天鵝是屬於鳥綱、雁形目、雁鴨科的大型水禽,天鵝常棲息於河川湖沼
旁,採食水草為生,牠們的身態優美,以優雅的長頸為特色,常成為許多藝術創作的題材,俄羅斯作曲家柴可夫斯基的「天鵝湖」,便是著名的例子。天鵝嚴格實行一夫一妻制,夫妻形影不離,比翼雙飛,并肩遨游,是鳥類中最典型的模範夫妻。

tw.knowledge.yahoo.com/question/index?qid=1405120812477

◆ 俄羅斯はロシア、柴可夫斯基はチャイコフスキー。そうして、白鳥は一夫一妻制を厳格に守っているという。

◇ 黑天鵝一生嚴守一夫一妻制,若一方死亡,另一方則不食不眠,一意殉情,所以人們把黑天鵝比喻成忠貞愛情的象征。
past.people.com.cn/BIG5/shenghuo/80/106/20020618/755763.html

◆ 黑天鵝は 「黒い白鳥」、つまりはコクチョウ(Black Swan)のことで、オーストラリアに分布している(この記事は観光案内の一部なのだった)が、これまた白黒の違いかかわりなく、一夫一妻制で、もし一方が死ねば、もう一方は食わず眠らず、ついには死んでしまう、とか。ホントかどうかは知らないけれど、こういうのをオシドリ夫婦と呼ぶが、

◇ 鳥類の場合、一夫一妻と言っても、生涯同じ相手と添い遂げる種はイヌワシやハクチョウなどむしろ少ない。仲良し夫婦の代名詞、オシドリも繁殖期にはカップルで行動する一夫一妻だが、冬の間は群れで生活し、翌年は別の相手を見つける。
www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazenazo05_05.html

◆ 以下、おまけ。

◇ 「おしどり夫婦」 というのは、どんな夫婦ですか?意味が分からないのです。GOOの国語辞典で調べても駄目でした。母に聞くと、「知らんけど、にわとりの夫婦のことかもしれん。」 と言っておりました。
oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=350824

◆ ホリエモンは、中学時代に 「父の勧めで早朝の新聞配達のアルバイトをし」 ていたそうだ。当時を知る新聞販売店の関係者によれば、

◇ 「一般紙・スポーツ紙合わせて六、七種類あったんですが、七十軒分、すべての組み合わせを一日で覚え、二年間誤配がなかった。」
『週刊文春』(2月2日号, p.32)

◆ と、こんな記事を引用したくなったのは、ワタシも中学生で新聞配達をしていたからで、高校生なら新聞少年も少なくないだろうが、中学生というのは珍しいのではと思ったのだった。ワタシの場合は、中学1年のクラスメイトに販売店経営者の息子がおり、そのツテで始めることにしたのだが、中学校では基本的にアルバイトが許されておらず、なにか特別な許可が必要だった記憶がある。担任の理解もあったのだろう。始めてからは、雨の日にはユウウツになりもし、寝坊もよくしたけれども、それが日常の一部になってしなえば、とくに止める理由も見あたらずに、高校を卒業して地元を離れるまで続けた。

◆ さきに三上(さんじょう)のことを書いたが、新聞配達のときの 「自転車上」 というのも、なかなかのお気に入りだった。早朝の一時間、まだ眠っている街を自転車で走るというのは気持ちのいいものだった。澄んだ空気と静けさのなか、じゃまするもののないもない場所で、自転車を漕いでいると、自然とあれこれ考えが浮かんだ。中学生の考えることだから、たいしたことではなかったろうが、ちょっとは 「哲学的」 なものだったかもしれない。憶えているのは、その内容ではなくて、そのときの気持ちのよさだ。五感で考えているような、そんな気持ちのよさだ。

◆ 人ごみは嫌いだけれど、街は好き。そんなタイプの人間に、新聞配達の仕事はぴったりだった。ひとりぼっちであることには変わりないにしても、部屋のなかにひとりでいるよりは、街のなかでひとりでいるほうがいい。心身ともども、そのほうがいい。

◆ (まったく関係がないが、犬の散歩は朝したほうがいい。人犬ともども、そのほうがいい。ちかごろは夜中に犬の散歩をしているひとを見かけることが多いものだから。)

◆ 新聞配達の仕事というのは、ポストに(あるいはドアの隙間に、あるいはシャッターの下に)新聞を入れるだけだから、その家のひとと顔を合わせることはめったにない。だから、その家にどんなひとが住んでいるのかもほとんど知らない。でも、ポストに入れた直後に、玄関を開ける気配が背後ですることはままあって、そんな時には、ああ待ってたんだな、と思う。だから、寝坊したときには、ちょっと心苦しい。待ちきれずに、玄関の前に顔を出してたりもするのだから。おそくなってごめんなさい。新聞配達でひとに会うというのは、たいていはそんな具合だから、できればだれとも会いたくない。でも、6年間にほんの数回、例外があった。一度は、玄関で待っていた 「おばさん」 にリンゴをもらった。一度は、「おじさん」 にご祝儀袋にはいった千円をもらった。こどもだから、そんなものをもらっていいものやら、悩みもしたが、そのときのうれしかったことといったら!

◆ などなど、思い出すことあれこれ。そしたら、なんという偶然だろう、今朝5時50分、おともだちの 《みたにさん》 が書いていた。

◇ 新聞屋さんにチョコを新聞受けに用意しておいたけど、今朝は新聞がまだきません。遅いぞ。あ、もしかしてチョコ持ちきれないで一回置きに行ってるとか?
01.members.goo.ne.jp/home/ckmtn/diary/200601.html

◆ それにしても早起きだね。全国の新聞少年に代わりまして、遅れたお詫びとチョコのお礼を。ありがとうとごめんなさい!

◆ おともだちのタネさんは、こうした光景を見ると、「サムボロ」 が出るそうだ。

◆ 1月20日午後4時、横浜市青葉区市ヶ尾町。仕事が終わって、現場近くの電線には無数(というほどでもないか)のムクドリ。この日は撮るほどのものがほかにはなにもなかったので、まあムクドリでもということで、見上げてカメラを構えると、上から次々と落ちてくる。地面にポタポタ音がする。白っぽいフンの波状攻撃。かすり傷ひとつ負わずにすんだのはさいわい。

◆ タイミングよく、『週刊文春』 の竹内久美子 「ズバリ、答えましょう」 という質問コーナーにこんな質問が。

◇ Q: 長野県に単身赴任して三年目ですが、今年も 「あの鳥」 が夕方群をなして電線に止まっています。以前、出張先の会津若松でも 「あの鳥」 を見ました。 / 秋になると出現する 「あの鳥」 は何ですか。どうして夕方のみ決まった電線に止まるのですか。もう一五年も住んでいる自宅の小田原にはいません。(四六歳、男)
『週刊文春』(2月2日号, p.122)

◆ この答えはどう考えてもひとつしかない。小田原にもいないはずはない。

◇ A: 夕方、群をなして電線に止まる鳥・・・・・・。 / ハトもカラスも夕方に電線に止まります。でも、わざわざ質問しておられるところを見ると、こういう超メジャーな鳥ではないですね。 / それはもしかすると、ムクドリではないでしょうか。
Ibid.

◆ もしかしないでも、ムクドリにまちがいない。「超メジャー」 とはいえないにしても、ムクドリはじゅうぶんに 「メジャー」 な鳥で、好き嫌いは別にしても、「あの鳥」 あつかいはムクドリにいささか失礼だろう。

◇ 午後6時過ぎの近鉄奈良駅前。どこからともなくやってきたムクドリの大群が、空を黒く埋め尽くします。 / <住民> 「すずめ?つばめ?何でこんなにおるの?」 「ワチャチャチャチャチャと来る」
mbs.jp/voice/special/200509/19_891.shtml

◆ スズメやツバメやハトやカラスなどの 「超メジャー」 な鳥以外は名前も知らない? こういうひとにかぎって芸能人の名前はいやというほど覚えていたりするのだが。ムクドリは、

◇ 都会でも一年中ごくふつうに見られる鳥。黒っぽい体で、顔の白とくちばしのオレンジ色が目立ちます。声はあまり心地よいものではなく、何千羽という大群で街路樹に止まって気味悪がられることもあります。
www.bekkoame.ne.jp/~sibutaka/nature/html/birds/mukudori_j.html

◆ また、『週刊文春』 の同じ号の 「私のリビング」 というコーナーでは、作家の庄野潤三が、

◇ 「一日二回の散歩が、わたくしはとても愉しみなんです。(中略) その散歩から戻ると、このソファに一時間ほど腰かけてね、ぽかぁんと庭を眺めたりしているわけです。季節ごとの花や、それから、四十雀やメジロ、野鳥が来るんですよ」
『週刊文春』(2月2日号, p.10)

◆ と云っている。これはまあ、インタビューをまとめた人の責任だろうが、「四十雀やメジロ、野鳥が」 とはなんともケッタイな列挙の仕方である。シジュウカラとメジロ以外はみな野鳥ということか。ここは 「シジュウカラやメジロなどの野鳥が」 と書いてもらわないとどうにも落ち着かないが、これはムクドリとは関係がない。また、庄野潤三がシジュウカラとメジロ以外の野鳥を知らないというわけでもあるまい。

  結露

◆ 大地震に見舞われればひとたまりもないような木造アパートに住んでいる身にとっては、まったくの他人事であることのひとつに、「結露」 というコトバがあって、ときおり冬場のマンションに出かけて結露という現象を見かけると、「ああ、家が汗をかいている」 などと思ってしまい、そのすぐあとに、古代人のようなアニミズム的発想にわれながら恥入りもするのだが、当の住人にとっては、たんに対策を講じるべき物理的問題であるかもしれない。

◇ 結露問題は、いつも不動産屋さんを悩ます原因の一つです。入居者側から言わせると、建物の構造が悪いから結露が出ると言う事になるし、大家側に言わせると、他の部屋からは結露は出ていないので、入居者の使用の仕方が悪いと言う事になる。
www.rals.net/sapporo/torable/ketsuro.htm

◆ 結露の責任の所在をめぐる攻防については、ワタシは不動産屋さんではないので、なんの関心もないけれども、結露にたいする人間の感情については、多少の関心がないでもない。たとえば、

◇ 窓ガラスがまるで汗をかいたように水滴でじっとり・・・ なんとも不快な結露の代表例ですね。
 house.biglobe.ne.jp/magazine/bk/widevariety/09/

◆ といった文章に見られるような、結露にたいする不快感というもの。その起源はいったいどこにあるのだろう? 「窓ガラスがまるで汗をかいたように水滴でじっとり」 しているから不快であるというのなら(これはワタシの発想とたいして変わりがない)、人間のかく汗がそもそも不快なものであるということが前提になっているわけだろうけど、「・・・ですね」 と同意を求められても、ワタシは困る。ワタシは、少なくとも自分の汗を不快だとは思っておらず、そのことから、自分の汗も他人の汗も同じではないかと思ってしまうので、さらに拡げて、部屋の汗を不快だと単純に思う思考回路ができてはいない。たんに、この部屋は 「どうしたんだろう?」 と思うだけである。

◆ いや、実をいえば、結露の問題にとどまらず、マンションに住みたいというひとびとの思考のすべては、あれやこれやのことごとを考えるにつけ、ワタシの想像力の限界をはるかに超えている、ということをいまさらながらにいちいち思い知らされるので、やはりワタシは古代人なのであるなあ、と自嘲気味につぶやいてみたり。

◇ 【パリ10日】 複数の相手とフレンチキスをすると髄膜炎になるリスクが4倍近く高くなると警告する論文が14日のバレンタインデーを前に英国医学ジャーナル(BMJ)オンライン版に出た。髄膜炎は命にもかかわる恐れのある病気。〔AFP=時事〕
news.goo.ne.jp/news/jiji/geino/20060210/060210000538.l61gb7qh.html

◆ 髄膜炎というのがどういった病気かよく知らないけれども、複数の他人と唾液の交換をすれば、感染症に罹患する確率が高くなるのは当然のハナシで、これはなにも髄膜炎に限らないだろう。

◇ Although most sexually-transmitted diseases are not transmitted by kissing, the exchange of saliva in a French kiss may increase the chances of catching an orally transmitted disease. Mononucleosis, a disease spread through saliva, is often colloquially refered to as "the kissing disease."
en.wikipedia.org/wiki/Tongue_Kiss

◆ アメリカのコロンビア大学が 《Go Ask Alice!》 という健康質問サイトを開設していて、そこに寄せられたフレンチキスにかんする質問がおもしろい。“Dear Alice” で始まる3つの質問を紹介すると、

◇ (1) Hey, okay, well I french kissed this guy and I didn't use my tongue. Are girls supposed to use their tongues? If so, which way does it go??
(えーと、あの、あたしはカレとフレンチキスしたんだけど、舌は使いませんでした。女の子って舌を使うものなの? そうだとしたら、どうすればいいの??)
(2) I am a fourteen-year-old male, and I would like to know how to french kiss.
(ぼくは14才です。フレンチキスのやり方を教えてください。)
(3) I am fourteen and I have never really frenched a guy!! I have kissed like open mouth but not french. I was reading an article the other day in a mag (embarrassing moments) and this girl forgot to swallow her spit and when they pulled away it was like a big line of spit forming from both of their mouths. I was wondering if they were inexperienced or if they just forgot to swallow. I also have another question. My friend is going out with this guy and he always clanks teeth and bites her tongue and I'm hoping I won't be like that. How can you prevent it? Thank you so much.
(あたしは14才。じつはまだフレンチしたことがありません!! 口を開けてのキスはしたことがあるけど、フレンチじゃないんです。このまえ雑誌である記事を読んでたら、びっくり。その女の子はツバを飲みこまずにいて、口をはなしたら、ふたりの口と口のあいだにツバが太い糸みたいに一本の線でつながってたんですって。まだなれてないからかな。それとも飲みこまなかったからかな。もうひとつ質問。ともだちのカレは、いつも歯をカチカチいわせて彼女の舌をかんでしまうそうなんです。わたしはそうならないようにしたいです。どうすればいいですか。よろしくお願いします。)

www.goaskalice.columbia.edu/1352.html

◆ Alice の回答もおもしろいけれども、長くなるので割愛。それにしても、やはりアメリカは進んでいるなあと感心。日本では、《藤田徳人監修:恋愛科学研究所》 というサイトにこんな質問が。

◇ ディープキスの仕方を教えて下さい。フレンチキスは経験あるのですが今度ディープキスをするかもしれないのでなるべく詳しく知りたいです。[~14歳]
www.so-net.ne.jp/renaikagaku/hdic/1.htm

◆ そうそう、日本でフレンチキスというと、唇への軽いキスだと誤解しているひとも多いようで、桜井亜美(小説家らしい)も、

◇ 最初は軽いフレンチキス。相手が乗ってきて 「ここだ!!」 と思ったら濃厚なディープ・キス。
webmagazine.gentosha.co.jp/ami/vol65_20030215.html

◆ と書いているが、それはさておき、さきほどの質問にたいする回答はというと、

◇ 私も詳しくは知りませんし、誰にも教わったことがありません。とにかく歯があたらないように唇で歯を覆い、そして自分の舌と相手の舌をからめればいいと思います。
www.so-net.ne.jp/renaikagaku/hdic/1.htm

◆ ああ、がっかりさせるじゃないか! アメリカでは、フレンチキスの仕方にこんなアドバイス(tip)が。

◇ Don't forget to breathe.
(息をするのを忘れるな)

teenadvice.about.com/cs/kissing/ht/frenchkissht.htm

◆ 2月20日、南青山。とある飲食店の引越作業をした。

◇ 私たち 「Immigarant's Cafe」 は、外国人スタッフが接客するアジアンダイニング(レストラン)です。
www.immigrantscafe.com/aoyama/aoyama_about.html

◆ 店名を明かしては 「とある」 と書いた意味もないが、写真はこの店の看板で、

◇ AMERICAN STYLE SERVICE 米国式接待
  ENGLISH SPEAKING STAFF 米語話従業員

◆ などと、怪しげな中国語で書いてある。アメリカを米国と書くのは日本語で、中国語では美国と書く。《小駒勝美の漢字こぼれ話》 では、

◇ この 「米国」、中国では通じません。じつは中国でもアメリカはメリケンの略なのですが、メリケンを 「美利堅」 と書くので、アメリカは 「美国」 です。美しい国なんて変な気がしますが意味から考えると 「米国」 というのもずいぶん妙です。米よりも 「麦国」 じゃないか、と思うのは僕だけでしょうか。
book.shinchosha.co.jp/shoushin/kanji_ichiran/kanji0107.html

◆ と、これはべつに怪しくないが、《おでかけ.US》 では、

◇ ちなみにアメリカを表す漢字として日本では江戸末期から明治初期までは 「米利堅」 が使われていました。よく時代劇などで耳にする 「メリケン」 です。その後 「亜米利加」 が使われるようになりました。省略形では 「亜」 は 「亜細亜」 を連想するので、「亜」 を取り次の 「米」 を使って 「米国」 となりました。中国でも同様の漢字が使われていましたが1900年の義和団事件でアメリカが中国を助けたことへの感謝の印として 「米国」 と同じ発音となる 「美国」 (メイグオ)が使われるようになりました。台湾や香港ではアメリカの正式名称として 「美利堅合衆国」 が使われています。
www.odekake.us/index/topic_states_of_america.htm

◆ 義和団事件云々というのがとっても怪しい。また、台湾旅行者のハナシでは、

◇ 紀念本堂の1階の中央通路に、蒋介石が生前乗用した二台のキャデラックが展示されていて、説明に 「美国」 という文字が書かれてあった。現地ガイドさんに 「美国とはどこの国?」 と尋ねられて、車がキャデラックだから 「アメリカでしょう」 と誰かが答えると、「当時、台湾の人にとってアメリカは憧れの国、美しい国だった。だから「美」なんです。日本がアメリカを「米国」と呼ぶのはわけが分かりませんね」 と博識ぶりを披露してくれる。
www.asahi-net.or.jp/~mf4n-nmr/taipei.html

◆ また、韓国を旅行すると、

◇ 韓国の町中を歩いていたら 「美人会話」 という看板をたびたび見かけることがあると思います。それが漢字で書いてあったり、ハングルで書いてあったりしますが、漢字の場合、もしかしたら 「美人」 と 「会話」 という言葉についつられて変な想像を膨らませる男性の方もいらっしゃるかと思います。そういう方々の楽しい空想に水を差すようで大変恐縮ですが、ここでいう 「美人」 というのは実は 「米国人(アメリカ人)」 のことを指しています。韓国でも昔は、日本と同じでアメリカを 「米国」 と書いていたのですが、朝鮮戦争のとき、多くのアメリカ青年たちが韓国で命を落としてまで助けてくれたことに感謝する意味で 「米」 と読みが同じである 「美」 に変わりました。したがって、「美人会話」 というのは、米国人が教える英会話のことです。ですから、ほんの出来心でお店に入ったら、筋肉ムキムキの男性 「美人」 に英会話を習わされる羽目になるかもしれないので、くれぐれもご注意を!
www.city.saito.miyazaki.jp/ civic/pdfs/0309/0309hiroba.pdf

◆ これまた、朝鮮戦争云々というのがとっても怪しい。まあいいか。

◆ 美国のことを書いたついでに、ほかの国のことも少し。日本語でフランスを漢字で書けば、仏蘭西(仏国)、ドイツは独逸(独国)、イタリアは伊太利(伊国)となるが、中国語では、それぞれ、法蘭西(法国)、徳意志(徳国)、意大利(意国)と表記する。では、ロシア(露西亜)はどうかというと、俄羅斯(俄国)となる。

◇ 日本では 「露」 と略すロシアを、中国では 「俄羅斯(オロス)」 の略で 「俄国」 というのはちょっとびっくりです。
book.shinchosha.co.jp/shoushin/kanji_ichiran/kanji0107.html

◆ 日本でも、かつてロシアをオロシヤと読んでいたことがあったのいうのは、井上靖の 『おろしや国酔夢譚』 でつとに知られていることだろうが、

◇ あの国を 「おろしあ」 と呼ぶのは日本だけでなく、モンゴル語、満洲語、中国語、朝鮮/韓国語、つまり北東アジアの主要言語に共通していることなのです。モンゴル語や満洲語では 「オロス」、それを中国語では 「俄羅斯」 と音訳しました。だから現代中国語では 「俄国」 がロシアを意味します。で、この表記法は朝鮮半島にも持ち込まれたので、朝鮮/韓国語でも漢字でこの国を表すときには 「俄国」(アーグク)となります(「露」 あるいは 「魯」 というのは日本独自の表記です。中国や朝鮮半島では、おそらく通用しないと思われます)。
glin.jp/arc/arc.cgi?N=82

◆ では、なぜロシアをオロシヤと呼ぶのか?

◇ 「おろしや」 という言葉は,ロシアに 「お」 を付けたものと聞きました。では,なぜ,「お」を付けたんでしょう? 「おあめりか」 とか 「おいぎりす」 とは言わないですよね(「おふらんす」 は言うか……)。辞書を見ても載っていないので、ご存知の方、教えてください。
oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=173677

◆ 「おろしや」 の 「お」 は 「おフランス」 の 「お」 とはもちろん違うけれども、たしかに辞書にその理由までは記されていない(と思う)。

◇ 我々の祖先は、この国と最初に接したとき、それを 「おろしゃ」 と呼んだ。Rossiya は素直に耳を傾ければ 「オロシャ」 と聞こえるからである。その後、この国の呼称は魯西亜、露西亜、ロシヤさらにはロシアへと変遷した。外務省令によるとは言え、英語の Russia が決定的な影響を与えたものと思われる。
www.aichi-pu.ac.jp/for/~kshiro/orosia1.html

◆ そう聞こえたから。なんとステキな説明だろう。Rossiya (Россия) の語頭の R (Р) は 「巻き舌」の R なので、

◇ 江戸時代はロシアのことを 「おろしあ」 と言っていた。ロシア語で 「ラッシーヤ」 と発音する時、はじめの巻き舌の音を聞いていると、あいまいな「お」という母音が、軽く聞こえるような気がしないでもない。
plaza.rakuten.co.jp/tocochiyo/diary/200511140001/

◆ 発音するときにも、軽く適当に曖昧な母音をつける感じで、「(オ)ロシヤ」 と言えば、ロシア語っぽくなるかも。

◇ ロシア語といえば、巻き舌の“r”。「ルルルル・・・」 とべらんめえで言えなくて苦労する外国人は多い(はーい)。
f4.aaa.livedoor.jp/~russianr/essay/lang.htm

◆ ワタシは巻き舌に苦労したという記憶はないが、それ以前にロシア語を学んだ記憶もない。

美國選手柯恩獲得銀牌,俄羅斯選手史露茲卡雅摘下銅牌。
tw.news.yahoo.com/060224/215/2vtzc.html

◆ アメリカ(美國)のコーエン(柯恩)が銀、ロシア(俄羅斯)のスルツカヤ(史露茲卡雅)が銅。そして、「金牌」 (金メダル)を獲得したのは 「二十四歲的荒川靜香」。

◇ 「うそついたらハリセンボン飲ます」と言いますが、これは針を千本なのか、魚のハリセンボンなのか気になります。説得力のある説明求ム!
www.hatena.ne.jp/1020235225

◆ えっ? この質問を読んで、絶句するのはワタシだけだろうか? 針を千本にきまってるじゃないか? けれど、ワタシも気になった。もしかして魚のハリセンボンだったのか、と思ったわけではなくて、魚のハリセンボンかもしれない、と思っているひとが意外に多いのではないか、ということが気になった。

◇ ♪ゆっびきり げんまん……♪の歌の「ハァリセェンボンノォーマス」のところの「ハリセンボン」は「針千本」でしょうか、それとも「ハリセンボン」という魚でしょうか?(ふつうに考えると「針千本」だと思うけど、気になって……)
homewww.osaka-gaidai.ac.jp/~koyano/kenkyuuseika/yuutaro03.html

◆ ふつうに考えると針を千本。なのにどうして気になるのか? 常識がゆらいでいるのだろうか?

◇「嘘ついたらハリセンボン飲ます」という言葉がありますが、この「ハリセンボン」というのが引っかかり気になりました。フグの種類のハリセンボンなのか、針が千本なのかと。万が一嘘をついたとき、どちらも飲むのには痛そうで大変なことですよね。そこで、いくつかの図書館に行き調べてみました。童謡の本や図鑑を調べましたが求めているものがありません。何週間か悩んだ結果、諦めました。
www.iam.u-tokyo.ac.jp/news/news/news_27.pdf

◆ 何週間も悩んだとは、どうも冗談ではなさそうだ。

◇ 「指きりげんまん嘘ついたらハリセンボン飲ますー指切った」 ハリセンボンなんて飲めやしない。嘘なんてつくもの。こんな歌誰が作ったんだよ。実際に守るやつなんて居ない。あほらしい。馬鹿だね。
s.freepe.com/std.cgi?id=textpj&pn=04

◆ 針を千本か魚のハリセンボンかと悩む心理の根底には、どうも実行可能かどうかという点が重要なポイントであるらしい。リアリティの問題。でも、同じように考えるなら、針を千本飲むことも実際に不可能とはワタシには思えないが・・・。

◇ この「針千本」ってフグのハリセンボンなんでしょうか。それとも「針を千本」なんでしょうか。前者ならまだ出来ない事も無いかなって思いますが、後者は・・・。明らかに拷問でしょ。嘘吐くだけで針を千本も飲まされるって。そんな事言われたら確かに誰も嘘吐けません。
vavi.prof.shinobi.jp/Latest?4

◇ ♪指きりげんまん 嘘ついたら 針千本飲~ます。でも嘘くらいで針千本なんて、尋常じゃないですよね。もし死んじゃったら、殺人罪で逮捕されちゃいますね。針千本じゃなくて、魚のハリセンボンのことかな(そんなわけない)。
www.chugoku-np.co.jp/okonomi/communication/O304091505.html

◆ さらには、ウソをつくことの罰が不当に厳しいものであることへの不満。ウソをついたくらいで・・・。

◇ 一本30円くらいの縫い針でも、千本なら、3万円もしますから、うそをつかれて、約束を破られた上に、この経済的負担、しかも、針を飲んだために胃に穴が開いたとして治療費でも請求されたら、これは、まさに踏んだり蹴ったりです。(笑)
west-village.main.jp/music2005/6-mawa/myukigafuruhini.html

◆ (笑)って、ワタシには笑えない。治療費を請求されてもワタシなら払わない。

◆ ワタシには、これらすべてがわからない。世の中はずいぶんと変わってしまったようだ。こどものころ、千本もの針を飲まされる光景をリアルに思い浮かべることは、それほど困難なことだったろうか? なにぶん遠いむかしのことだから、はっきりとは思い出せないけれども、地獄絵巻のような光景が思い浮んで、あのとき確かにすこしは恐怖したのではなかったろうか? 痛覚が微妙に反応し、確かに痛いと感じなかっただろうか? あるいは、これはワタシのウソだろうか? いまどきのこどもに、ウソをつくと針を千本飲まなきゃいけないのよ、と言ったところで、そのこどもの感覚がなんの反応も示さないのだったら、このオドシ文句になんの価値があるだろう? だったら、より現実的に「ウソついたら、おこづかい半分にする」とでも言ったほうがいいのかもしれない。

◇ 韓国の指切りは「針千本」なんて残酷な罰則はありません。その話をするとみんなこわーいって驚きます。こちらは指切りしながら、親指同士ではんこ(トジャン)を押します。それが約束を破らないという証拠です。
www.netlaputa.ne.jp/~tokyo3/yubikiri.html

◆ コワイと驚くこどもは日本では絶滅してしまっただろうか?

◇ 約束といえば、昔の子供は、「指切り、拳万、うそついたら針千本のます」と言って、互いに小指を曲げて、引っかけ合い、なにかの約束を確かめ合ったものです。パソコン・ゲームに夢中の今の子供には、そんな仕草は、忘れられ、なんのことだか、わからないでいるに違いありません。約束の故に「指を切る」とか、「針千本のます」といった、むごたらしいことは、人権尊重の今の世、まったく通用しませんが、約束の大切さを知らしめる一つの比喩、教訓としては役立つかもしれません。
www.tomoshibi.or.jp/radio/june2005/20.html

◆ ついでに、こんなおばあちゃんも絶滅したかも?

◇ 小さい頃、ばぁちゃんと約束事をすると、必ずゆびきりさせられてた。子供心に『針千本』が怖くて、約束を守れなかったら泣いて「『針千本』ごわ゛い゛~~」と、約束を破った自己申告をした。
cookpad.com/gingin222/diary/?ym=200303

◇ はりせんぼんのます、の「はりせんぼん」とは、裁縫に使う針を千本ということではなく、あのとげとげのついたフグみたいな、へんてこりんでミョ-ちくりんな魚の「ハリセンボン」のことだと、テレビでさかなチャンが言っていたが‥いったいいつ誰が、その針がちょうど千本であると数えたのだろうか。もし針の数が千本でなかったら、数えた人はウソツキ呼ばわりされ、それこそ「ハリセンボン」飲まされてしまったにちがいない。皮肉なことだ‥
groups.msn.com/5q3cnjt6d1gbaje1o3eahnkct5/112.msnw

◆ そりゃ、さかなチャンは魚の味方、魚至上主義者だもの。で、ハリセンボンの針の数、ホントはいくつ?

◇ なんと、数えた人がいました。そのときは370本くらいでした。ハリセンボンのハリは、だいたい300~500本と言われています。
www.jade.dti.ne.jp/~zardoz/fishs/06.html

◇ 「ハリセンボン」の名前の由来は、その姿からなのですが、実際の棘の数を数えた方がいるらしく、365~375本と、ちょうど1年間の日数と同じくらいだそうです。
www.fcnc.jp/syoukai/craft/harisenbon.html

◆ 400程度の数を数えたくらいで、なにも驚くことはないだろう。ものも10分もかかるまい。ハリセンボンではないが、マンボウのメスは卵を一度に3億個も産むという。これを実際に数えるとすれば、1秒で10個数えるとしても、3000万秒、約10年かかる。これなら驚いてもよいと思うが。似たようなのに、千手観音。

◇ 千手観音にあった人で、一番最初に手の数を数えた人はえらい。「1,2,3,4・・・うーん千本ですな」ってめっちゃ冷静。それまでは「手いっぱいあるやつ」って呼ばれてたんやろな。
www.geocities.jp/osm993/diary1.htm

◆ これもぜんぜんエラクない。

◇ 「先日、千手観音像を見る機会がありました。見ていて思ったのですが、千手観音は「千の手」と書いて「せんじゅかんのん」と読むのに、私が見た千手観音像は1000本の手はなく、せいぜい数十本でした。そこで、千手観音像の手の数について調べてみてください」
www.nhk.or.jp/kochi/johoichi/kaiketsu/kq_0531.html

◆ せいぜい数十本! 正確に数えると、

◇ 本当に千本の手を付けた作例も有りますが、42本の手で代用する作例が多く、有名な京都の三十三間堂の場合も、42本です。中央の合掌手(本手)の外の40本を25本の代表とし、千本の手として表現します。
www1.cts.ne.jp/~butuzou/sennjyu.html

◇ 観音様の手の数を数えますと42本あります。そのうちの2本は薬の入った器をお持ちですから、残りの使える手は40本です。観音様は1本の手で25通りのことが出来るといわれていますので、全部合わせると1000本。ですから千手観音というわけですが、これはもちろん無数、数限りないことを言い表しており、千住観音様は数限りない人を救っていらっしゃるのです。
www.kumakanren.com/magazine_terakoya/Number_120.html

◆ 40を数えるだけなら、これはもう、1分もかかるまい。ハリセンボンにハナシを戻そう。

◇ さて、「指切り拳万 嘘ついたらハリセンボン飲ます 指切った」という文句があるが、子供同士の約束で、指切りをする時の文句。実際、ハリセンボン飲ましたら…。…実は美味い! 沖縄では「アバサー」と呼ばれ、愛されているほど。おいしい魚で、フグの仲間だ。しかも、毒が無いので、フグよりも食べやすい。というわけで、嘘ついて、ハリセンボンを飲ませてもらうのもいいと思います。
plaza.rakutenco.jp/kazu03/2011

◆ なんだ、おいしいのか。そうそう、冒頭のかわいいハリセンボンのイラストは貝原益軒『大和本草』より。かわいくないこちらは、《ウィキメディア・コモンズ》より。剥製。標本。これはちょっと飲み込みたくない。くれぐれもウソはつかないように。

◆ ハワイのことをワイハと言ったりする、おともだちのタネさんは、もしかすると、ネタの逆さ言葉かもしれない、とふと思った。

◇ 永田氏は、疑惑を 「ガセネタ」 と断じた小泉首相に 「ガセとはどんな意味か」とただした。「辞書で調べてみますとね」 と切り出した小泉首相は 「ガセは偽物、ネタは商品。転じてインチキな情報のこと」 「人騒がせ、お騒がせの 『がせ』 と解説する辞書もある」 と、2度も説明。
www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060218-0001.html

◆ だれが(まさか本人ではあるまい?)どんな辞書を引いてみたのかしらないが、オンライン辞書では、

がせねた 《「がせ」 は偽物、「ねた」 は材料の意の 「たね」 の逆さ読み》 偽の情報。また、いんちき商品。
『大辞泉』(小学館)

がせねた 〔「がせ」 はにせものの意、「ねた」 は 「たね(種)」 の倒語〕 でたらめな情報。
『大辞林』(三省堂)

◆ とある。「逆さ読み」 に 「倒語」、これは 「逆さ言葉」 のほうがより一般的かもしれない。

【逆さ言葉】 言葉の音節の順序を逆にしたり、一語を途中で切り、そこで上下を入れ替えたりしていう語。「たね」 を 「ねた」、「はまぐり」 を 「ぐりはま」、「月の鏡」 を 「鏡の月」 という類。隠語あるいは戯れにいう。
『大辞林』(三省堂)

《小林祥次郎の発掘・日本のことば遊び》(日国.NET)には、さまざまな 「さかさことば」 が取り上げられていて、そこには、

◇ 子供のころに、「テブクロの反対は何だ」 と言って、ロクブテと答えさせ、相手を六つたたく遊びをなさったかたが多いと思います。
www.nikkoku.net/ezine/asobi/asb19_01.html

◆ といった懐かしいコトバや、

◇ タバコをモクと言うのは、かつては煙がモクモク出るからと思っていましたが、雲の倒語であるそうです。煙を雲に見立てたのです。
www.nikkoku.net/ezine/asobi/asb19_02.html

◆ といった、なるほどそうだったのか、というコトバが出ていてたのしい。逆さ言葉というと、ナオンとかパツキンとかパイオツとかビーチクとか、まったくお下品なコトバしか浮かばないワタシは深く反省されられる。

◆ 動物園に動物を見に行くひとの割合に比べれば、植物園に植物を見に行くひとの割合はかなり少ないのではないか、と思うけれども、どうだろう。では、なにをしに行くのだ、というひとはちょっとアマタが固すぎる。たいていは、よく晴れた日曜日の朝、今日はなにも予定がないことに思い当たると、それではあまりにもっいない気がして、では植物園にでも行こうか、と散歩がてらに出かけるのである。運がよければ、キタキツネに出会えるかもしれない。北大植物園元園長・辻井達一氏の 『日本の樹木』(中公新書)はながらくワタシの愛読(新)書だったが、最近その続編が出ているのを本屋で見つけ、さっそく購入して、ぱらぱらページをめくっていると、

◇ 私は火事が好きで(と言っては火事に遭われた方には申し訳ないが)、昔から火事となると気になってよく出かけた。
辻井達一 『続・日本の樹木』(中公新書, P.128)

◆ という文章に出くわした。樹木の本を読むのは、なにも樹木のことを知りたいためばかりではない。

◇ 大きな声では言えないけれど、無性に、火事が好きだ。夜空を焦がす炎や、ちょろちょろ燃え立つ焚き火や、風の中の花火など見ていると、火と最初に出会った幼児の頃を思い出す。縁戚の印刷所が火を出して、親に現場へ連れて行かれた。家を出たときから、大きな火柱の立つのが遠くに見えた。近づくにつれ、熱と匂いが、激しくなる。狂乱の人々の横顔を、赤い炎が映し出す。恐ろしさと、美しさが、判別できぬほどないまぜになって、何度も夢に出現し、小便をちびったものだ。
okuno.masakatu.org/bishop.html?index.bp+//haiku/07.2004+1089641492

◆ 火事が好きなひとは意外と多いようで、たとえば、坂口安吾と福田恆存。

◇ 熱海大火後まもなく福田恆存に会ったら、
「熱海の火事は見物に行ったろうね」
 ときくから、
「行ったとも。タンノウしたね。翌日は足腰が痛んで不自由したぐらい歩きまわったよ」
「そいつは羨しいね、ぼくも知ってりゃ出かけたんだが、知らなかったもので、実に残念だった」
 と、ひどく口惜しがっている。この虚弱児童のようなおとなしい人物が、意外にも逞しいヤジウマ根性であるから、
「君、そんなに火事が好きかい」
「あゝ。実に残念だったよ」
 見あげたヤジウマ根性だと思って、私は大いに感服した。

坂口安吾 『安吾巷談』(青空文庫

◆ 森茉莉と立川談志。

◇ 茉莉は若い頃の談志に逢って対談している。近くで火事があったと聞いて茉莉が談志に 「火事好きですか?」 と尋ねたら、談志は目をめいっぱい見開いて 「だあい好き」 と答えたそうだ。
www.morimari.net/roman/maridokkiri.htm

◆ 佐山一郎。

◇ 火事と喧嘩は江戸の華という位で、不謹慎ながら、どちらも嫌いなほうではありませんでした。あれは小学生の頃だったか、出動中の消防士に自由ケ丘の沿道から声援を送ったら、暫くして 「カーン、カーン」 と鐘を打ち鳴らしながらのご帰還。真っ赤な車のステップに立つ頼もしげな兄ィが 「さっき『頑張って!』と励ましてくれたのは君だよね。有り難う」。ますます消防ファンになったものです。
diary.nttdata.co.jp/diary2005/12/20051202.html

◆ だれかのダンナさん。

◇ 昨日、夜中の2時に火事があり、サイレンが聞こえて来た時点で、すでに目はキラキラ。トイレに行くフリをして、家を出て火事現場をウットリと見ている。
1028.269g.net/article/260643.html

◆ だれかのお父さん。

◇ ちゃきちゃきの江戸っ子(のフリして実は関西人)の我が父は、遠くで消防車のサイレンが鳴る度に、『それっ!火事だ!』と2階のベランダに飛び出し、ベランダから見えない時には自転車ですっ飛んで見に行ったもんです。(車だと現場近くまで行けないからだそうで)
www.mm-m.ne.jp/mzbar/cocktail/020927.html

◆ あるいは、消防士さん?

◇ 消防士志望のA君の面接での話。 試験官「消防を志願した理由を教えてください」緊張のあまりまい上がっていたA君のとっさの答え A君:「か、か、火事が好きだからです」放火魔もびっくりの名回答に時間が止まり、空気が重くのしかかったそうです。ちなみに彼は立派な消防士としてがんばっているそうです。
deai.com/n.k?BI=d1&ID=LYXAB795

◆ もちろん、

◇ 消防士は火事が好きで消防士になったわけではない。被災者に同情して、火事を消す仕事を選んだのだろう。警察官は、殺人や泥棒をやりたくて警察官になったわけではない。被害者に同情して、防犯や捜査活動に従事している。 / 軍人だっておなじだよ。戦争が好きで、兵隊になったわけではない。紛争や戦争の被害を防止するのが職務だよ。
masa-kagawa.cocolog-nifty.com/yasasii_hikari/2005/05/post_a037.html

◆ と考えるひとも当然いるわけだが・・・、どうだろう?

◆ ひょっとすると日本人はみんな火事が好き?

◇ 先日、テレビで田中角栄の元秘書早坂氏が、おもしろいことを言っていました。「日本人というのは火事が好きで、火事だと聞くと、一目散に飛び出して行く。走って行く群集の一人をつかまえ、火事はどこだい?と聞くと、さあ知らねえよ、と答える」。
www.k3.dion.ne.jp/~mura310/akarenga/2001/akarenga0101.html

◆ 現場に駆けつけたことはないけれど、ワタシもたぶん好きだと思う。とはいえ、火事好きにもさまざまなタイプがあるだろう。火そのものを(あるいは火と水の戦いを)見るのが好きだとか、極限状況に興奮するとか、消防車のサイレンに心が高揚するとか、たんなる野次馬根性だとか・・・