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◇ "Ich weiß, daß ich nichts weiß." - Socrates
◇ このギリシア文字のベータみたいなのは、エスツェットというんだ。エスツェットはもともとはエス(s)とツェット(z)がくっついてできた文字 なんだけど、現代ドイツ語では ss と同じだと考えていいんだ。だから、タイプライターやメールなどでエスツェットの文字が出せないときは ss で代用することもあるんだよ。なおエスツェットは小文字しか存在しないから、大文字で書く必要があれば、SS を使うんだ。 ◆ このエスツェットがあれば、意味はわからなくても、それがドイツ語であることだけはわかるというわけ。 ◇ エスツェットを書くと 「ああ,ドイツ語を勉強しているな」 と自己満足に浸る(?)ことができます。しかし1998年からのドイツ語正書法改正でエスツェットの役割は減少しました。 ◆ 「ドイツ語正書法改正」 について知ったのは数日前のこと。1月28日、立川市錦町のとあるマンションのごみ置き場に捨ててあった『エクセル独和辞典』(郁文堂)を持ち帰って、ぼんやり眺めていると、帯に 「新正書法完全対応」 とあった。 ◇ 1998円8月にドイツ語の新しい正書法が施行されました。従来の正書法は、今後とも誤りとはみなされませんが、2005年までの移行期間を経た後、廃止されます。 ◆ この新正書法によって、従来の書き方とはなにが変わるのかというと、たとえば、 ◇ 同じ発音でも違う文字を使うということはドイツ語でもしばしば起こることです。この文字の使い方に関する変更はたくさんあるのですが、私たちにもっとも身近なものは ss と ß の問題です。 // これまで [s] の音は基本的には ß でつづられ、母音にはさまれて前の母音が短い場合のみ ss でつづるという面倒なものでした。ですから、müssen という助動詞は主語が ich の時には後ろの母音がなくなるので muß とつづらなければなりませんでした。逆に、Fluß の複数形は Flüsse というように書き換えなければなりませんでした。 // 新しい規則では、長い母音、二重母音の後の ß 以外はやめようということになりました。そうすると、müssen のような場合、変化して後ろに母音がなくなったからと言って、muß と書く必要がなくなりました。また、これまでの Fluß は Fluss と最初から書かれるようになったわけです。そうすると、おなじみの接続詞daßもdassとつづられることになります。 // いいことだらけみたいですが、そうでもありません。この規則でも相変わらず、wissen は主語が ich や er のときは二重母音に変わるので weiß とつづらなければなりません。また、Straße, Maße のような語にも ß は残ります。 ◆ というわけで、冒頭のソクラテスの「わたしはわたしが知らないということを知っている」という一文は、新正書法にしたがって、今後はこう書かれることになる・・・ ◇ "Ich weiß, dass ich nichts weiß." - Socrates ◆ ・・・はずだが、ことはそう簡単には運んではいないようで、 ◇ ノーベル文学賞受賞者ギュンター・グラスは一歩進んで、自分の文章が新正書法に沿って教科書に公表されることを拒否している。マルティン・ヴァルザーも 「これからも自分の思い通りに(旧正書法に従って)書く」 と主張。正書法改革を 「官僚の暇つぶし」 と呼んでいる。 ◇ 正書法改革法(Rechtschreibreform)がドイツ国内で一律に発効する見通しがなくなった。 // 改革法に基づいて新正書法が始まるまであと2週間となったが、バイエルン州とノルトライン・ヴェストファーレン州は、各州首相会議(Ministerpräsidentenkonferenz)の決定を無視する形で、新正書法の導入はしないとの声明を出し、関係筋を驚かせた。 ◆ などなど、前途は多難な様子。 |
◇ 21日未明から東海、関東地方南部を中心に降り始めた雪は、同日夜になっても続いた。東京・大手町では同日午後5時に9センチの積雪を記録。都心部で9センチの積雪があったのは98年1月15日に16センチを観測して以来で、8年ぶりの大雪となった。
◆ おともだちのめめさんが「身辺雑記」に「雪だるま」の思い出を書いていた。 ◇ 翌日は入学試験という日に、真っ白なぼた雪が、こんこんと降り、ふかふかと積もった。風邪をひいては、と言う母をなだめて、家の前の坂道を何度か往復して、自分の背丈と同じくらいの雪だるまをつくった。(ついでに、まじめに雪かきもした) 鼻とほっぺたとおでこと指とをまっかっかにした、いい年の娘を呆れ顔で玄関で迎えた母は、みかんをふたつ持っていた。「・・・これを眼にしなさい。」 雪でできてたって、だるまはだるまなんだから、明日の入試を考えたら両目を入れときなさい、と。
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◆ 年が明け、さらにはその12分の1が過ぎても、ワタシのアタマは正月休みのままいっこうに働こうとしない。そんなぐうたらなアタマだけれども、よく観察すると、一日のなかではそれなりの濃淡があるようで、たとえば風呂屋からの帰り道には、ややアタマがさえているような気がしないでもない。だから、そんなときには、ちょっと遠回りをしてから家に帰ったりもする。 ◆ ・・・というようなコトを銭湯から帰る道すがらぼんやりと考えていたら、もう家の前に着いた。今日は寒いから、遠回りはよそう。 ◆ 風が吹いている ◆ さえたアタマがしたことがコレ。ワタシは詩人だろうか? ほんとに風が強い。 |
◆ 風呂屋の帰り道にはアタマがさえる、ということを書いているときに、寺田寅彦の文章を思い出したけれど、朋ちゃんのヒューヒューのあとにつなげるのもむずかしくて、あたらに書く。 ◇ 「三上(さんじょう)」という言葉がある。枕上(ちんじょう)鞍上(あんじょう)厠上(しじょう)合わせて三上の意だという。「いい考えを発酵させるに適した三つの環境」 を対立させたものとも解釈される。なかなかうまい事を言ったものだと思う。しかしこれは昔のシナ人かよほど暇人でないと、現代では言葉どおりには適用し難い。 // 三上の三上たるゆえんを考えてみる。まずこの三つの境地はいずれも肉体的には不自由な拘束された余儀ない境地である事に気がつく。この三上に在(あ)る間はわれわれは他の仕事をしたくてもできない。しかしまた一方から見ると非常に自由な解放されたありがたい境地である。なんとならばこれらの場合にわれわれは外からいろいろの用事を持ちかけられる心配から免れている。肉体が束縛されているかわりに精神が解放されている。頭脳の働きが外方へ向くのを止められているので自然に内側へ向かって行くせいだと言われる。 ◆ この三上、ワタシにとってはどうかというと、まず枕上は除外。すぐ寝てしまうからだ。厠上は多少、当てはまる。以前はトイレで本を読むということはしなかったけれど、最近はけっこう利用している。とはいえ、枕上にしても厠上にしても、それが意味をなすのは家族で広い家に住んでいる場合のように思われるから、六畳一間に一人暮らしをしている人間にとっては、さしたる効果はないだろう。もともと狭い空間である。どこにいてもたいした違いはないし、だれがじゃまするわけでもない。 ◆ だから、残るのは鞍上だけだが、競馬は好きでも乗馬の趣味があるわけではないから、これはワタシの場合、「バス上」 に置き換える必要がある。「電車上」 でも 「トラック上」 でもいいかもしれないが、「バス上」 が一番しっくりくる。それも夜のバス。お気に入りは左の最前列の一人がけの座席。だれにも視界をさえぎられないところ。始発から乗るのでかならず座れる。仕事で適度に疲れたからだを、そこに落ち着けて三十分ほどのんびりと過ごす。あまりに道路が空いていると、すっとばすバスの運ちゃんもいるから、適当に渋滞していたほうがいい。早く着きすぎてもつまらない。乗車して発車までのあいだは本を読んだりもするけれど、動き出してからは適度な振動ですぐにうつらうつらして、あとは夢心地。といって、完全に寝てしまうわけでもない。窓のそとは夜だから、刺激も少ない。そんな状態が一番心地よい。あれこれ勝手にアタマが働き出すのは、そんなとき。アナタはいかが? |
◇ 初めての土地で、バスに乗ることはとても勇気のいることです。 ◆ まったくその通り。というのも、路線を把握するだけでも苦労することが多いのに加えて、 ◇ そのバスが 「前乗り」 か 「後乗り」 か。「整理券」 か 「均一料金」 か。均一料金ならいくらか。今、さいふにいくらの小銭があるか。 ◆ といったことをあれこれ乗車前に考えておく必要があるからで、そういったことが面倒だから、すこし時間がかかっても電車に乗り、駅から目的地まで歩くというひともおられるかと思う。 ◆ で、小銭のハナシ。ワタシのいつも乗るバスは均一料金の前乗りで、ワタシのお気に入りの座席は(先に書いたように)左側の最前列なので、乗客と運転手とのやりとりが逐一目にはいるのだが、昨日も始発のバスターミナルでこんなことがあった。 ◇ 乗客:(一万円札を出しながら)これ、両替して。 ◆ 乗客は50がらみの中年男性。これはしばしば見かける光景で、小銭のない乗客にたいする運転手の対応も、この運転手の場合のように、次回に2回分払ってもらうようにするというのが、もっぱらで、おそらくバス会社のマニュアルにはそう書かれているのだろう。でも、なかには、他の乗客に 「1万円分、両替できるかたはおられませんか」 とアナウンスする運転手がいたり、「とりあえずあるだけの小銭を払ってください」 と言う運転手がいたりもして、きちんと料金を払って乗車しているものとしては、規定の料金を徴収するのにそれぐらいの努力をしてもらわないとすっきりしない。まして、この乗客の場合は、始発から乗るわけだから、乗車前にどこかで両替してきてもらうようにお願いしてもなんの問題はないと思うのだが。 ◆ バスに乗るには小銭が必要というのは、常識の範囲内ではないのだろうか? それとも、2chで見かけたこんな感覚のひとが増えているのか? ◇ なんで金払って乗るのに、へこへこ媚びにゃいかんのだ。金貰って乗客運ぶのが仕事だろ、なんで釣り銭用意しとくくらい気が付かないの? ◆ 車掌がいるなら釣りを用意しておくのが当然かもしれないけれど、ワンマンカーの運転手は運転に専念してもらいたい、と客として思う。 ◇ バスに乗るには220円。財布には1万円札と100円ちょっとしかない。車内で1万円札の両替はできないから、コンビニで何か買ってくずそう。そう思ってコンビニでお茶を買ったのだが、財布を見ると小銭がぴったり出せることがうれしかったのか普通にそれを出していた。おかげでもう1度いらないものを買ってバスを1本逃した。きっとコンビニに入った時点で安心してしまったことが今回の敗因だろう。 ◇ 今日はバスに乗る為の小銭が無かったので、行きがけに万札を崩してから行かなくてはならなかった。コンビニに入ったところまでは良かったけど、そのまま雑誌を読んでしまい、バスが着たらお金を崩す事無く乗りそうになってしまう始末。コンビニに戻ってもどうにか発車に間に合ったけど、慌てたぁ。 ◆ こんなエピソードを読んでほっとする、というのもなんだか悲しい。 |
◆ 一昨日のスポーツ新聞に、クマが出た。 ◇ 黒い影が木立の間でぬっと動いた。ぎょっとして立ち止まると、こっちを向いた。真っ黒だ、クマか。冗談じゃない、風呂に入りに来たぐらいで食われてはたまらない。サラリーマン稼業を生き延びて、定年まで残り4カ月。こんなところでクマ死にできるか。 ◆ なにもわざわざ引用するほどでもないけれど、行きがかり上つい引用してしまったのは、標高2150メートルにある八ヶ岳の本沢温泉の露天風呂をめざした編集委員の記事の一部だが、いくらんでも 「クマ死に」 はないだろう。とても定年まで残り4カ月の記者が書く文章とは思えない。さらには 「黒い影」 がクマではなくて、カモシカだったというオチまでついて、続きを読む気が失せた。その代わりに、別なことを思い出した。
◇ われわれのミシェルは、一五八〇年六月二十二日に彼の城館を出て、北東フランス、ドイツ、スイス、オーストリアを経てイタリアへの、十七ヵ月にもわたる旅に出た。 ◆ この旅の記録は後年発見され 『旅日記』 として出版されるにいたったが、ドイツのバイエルン地方のケンプケンで、熊旅館に泊まったことが記されている。堀田善衛訳を引用すれば、 ◇ 〈町の大きさはサント・フォアくらいで、美しく人口も多く、にぎやかで立派な家が多い。われわれは 「熊屋(ウルス)」 に泊まった。まったくきれいな宿屋である。この宿では、わが国の上流の家でも滅多に見られないような、各種の大きな銀盃が出された。〉 ◆ また、ローマでも、 ◇ 一行は、はじめ熊屋(ウルス)なる宿に泊まり、十二月二日に、に、サン・アンジェロ橋の袂にあるスペイン人の家に部屋を借りている。 ◆ 書きたかったのはこれだけ。熊旅館が16世紀後半のヨーロッパにもあちこちにあった、ということを知ってうれしかったというわけ。参考までに 『旅日記』(Journal de Voyage)の当該箇所を原文で。 ◇ KEMPTEN, trois lieues, une ville grande corne Sainte-Foi, très belle & peuplée & richemant logée. Nous fumes à l’Ours, qui est un très beau logis. On nous y servit de grands tasses d’arjant de plus de sortes, (qui n’ont usage que d’ornemant, fort labourées & semées d’armoiries de divers Seigneurs), qu’il ne s’en tient en guiere de bones maisons. ◇ ROME, trante milles. On nous y fit des difficultés, come ailleurs, pour la peste de Gennes. Nous vinmes loger à l’Ours, où nous arrestames encore lendemein, & le deuxieme jour de décembre primes des chambres de louage chés un Espaignol, vis-à-vis de Santa Lucia della Tinta. ◆ 16世紀のフランス語がネットで読めるというのにも驚いた。 |
◇ 彼等はすべて著しく無智であったが、親切で鷹揚で、狡猾懶惰(らんだ)な我々中年の兵士をかばってよく働いてくれた。彼等は体力を調節して使うことを知らず、病に遇うとすぐ斃(たお)れた。 ◆ 引越屋はもちろん兵士ではなく生命の危機にさらされることがあるわけでもないので、深刻さにおいてかなりの程度の差があるけれども、この文章にはまったく頷かされる。 ◆ ワタシの働くのはトラックが十台にも満たない小さな引越屋だが、最近は作業員の募集をすると、集まるのはきまって四十代で、それはそれで昨今の景気を反映していたりもするのだろうが、いかんせんみな体が動かない。四十を過ぎて慣れない力仕事に応募してきたそれぞれのさまざまな事情についてはいろいろと同情しないわけではないし、作業にしても手を抜こうとしているわけではないと信じもするが、彼等はすでに 「体力を調節して使うこと」 を全身で身につけており、ややもするとそれが 「狡猾懶惰」 に見えもするのだ。気がつくと姿が見えないことがある。探すと自主的に休憩をとっている。もう少しで休憩にしようと思っていたのに。ふだんは休憩を入れないところだが、彼の体力を考慮して、もう少しで休憩にしようと思っていたのに。 ◆ それにしても若者はどこにいるのだろう。「体力を調節して使うことを知らず」、われわれのいうがままに体力の限界まで作業をして 「すぐ斃れた」 若者たちは。そんな彼らには、「ちょっと休んでていいよ」 と優しく言ってやることもできたのだが・・・。 ◆ かくいうワタシも四十代で、「狡猾懶惰」 になる日もそう遠くないだろうと思う。 |
◆ おともだちの霧さんが書いている。 ◇ 「ねずみにひかれんごて」 ◆ ねずみにひかれる、というコトバは、このようにカギカッコつきで使われてこそ生き生きする。カギカッコに封じ込められたさまざまな人間の思い。なつかしい人の声の調子がよみがえる。 ◆ 文学作品から探してみると、 ◇ 「浅吉さん、弱い人ね、もう少し強くならないと、鼠に引かれちまいますよ」 ◇ 「商売に出たら最後、途中で酔っぱらって、三日も四日も家へ寄りつきゃアしない。この極道者めがッ! お母(ふくろ)なんか、鼠に引かれてもかまわないっていうのかい」 ◆ 『大菩薩峠』 に 『丹下左膳』 か、すごいな、これは。 ◆ 井上靖の 『しろばんば』 にも印象的なカギカッコがあるらしい。 ◇ この作品を愛するもう一つの理由が、この小説の女主人公と言っても過言ではない、おぬい婆ちゃの存在である。自分も洪作同様お婆ちゃん子として育ったため、こういう人物には特に深い共感と懐かしさを感じる(『銀の匙』 の伯母さんや 『楡家の人々』 のばあやなどもそうである)。「婆ちゃが鼠に引かれるで、あすになったら、早く帰っておいで。」 というおぬい婆ちゃの言葉があるが、こういう言葉も自分にはどうにも懐かしく、祖母を思い出してしまう(今はこういう言い方は無くなってしまったかもしれないが)。 ◆ 残念ながら、ワタシ自身はこのコトバがじっさいに発話されるのを一度も聞いたことがない。だからカギカッコのついたこれらのコトバがうらやましくて仕方がない。 |
◆ 結婚するなら、生涯ひとりのひとと添い遂げたい。などと柄にもなく思ってしまったのは、 ◇ 57歳男が「一夫多妻」女性10人と同居 東京都東大和市の無職男性(57)が結婚と離婚を繰り返し、離婚した女性を含む20代~50代の女性10人、乳児1人と同市内の民家で集団生活をしていることが25日、分かった。 ◆ というニュース記事を目にしたからで、同時に何人もひとを愛するエネルギーは(残念ながら)ワタシにはない。うらやましいとも思わない。 ◆ 鵠は白鳥のことだと書いたが、中国では天鵝とも言うようだ。 ◇ 鵠 名詞:動物名。鳥綱雁形目。體形似雁而較大,頸長,腳短。行走不便,但在水中能迅速划行,姿態優雅。能高飛,且鳴聲洪亮。俗稱為天鵝。 ◇ 天鵝是屬於鳥綱、雁形目、雁鴨科的大型水禽,天鵝常棲息於河川湖沼 ◆ 俄羅斯はロシア、柴可夫斯基はチャイコフスキー。そうして、白鳥は一夫一妻制を厳格に守っているという。 ◇ 黑天鵝一生嚴守一夫一妻制,若一方死亡,另一方則不食不眠,一意殉情,所以人們把黑天鵝比喻成忠貞愛情的象征。 ◆ 黑天鵝は 「黒い白鳥」、つまりはコクチョウ(Black Swan)のことで、オーストラリアに分布している(この記事は観光案内の一部なのだった)が、これまた白黒の違いかかわりなく、一夫一妻制で、もし一方が死ねば、もう一方は食わず眠らず、ついには死んでしまう、とか。ホントかどうかは知らないけれど、こういうのをオシドリ夫婦と呼ぶが、 ◇ 鳥類の場合、一夫一妻と言っても、生涯同じ相手と添い遂げる種はイヌワシやハクチョウなどむしろ少ない。仲良し夫婦の代名詞、オシドリも繁殖期にはカップルで行動する一夫一妻だが、冬の間は群れで生活し、翌年は別の相手を見つける。 ◆ 以下、おまけ。 ◇ 「おしどり夫婦」 というのは、どんな夫婦ですか?意味が分からないのです。GOOの国語辞典で調べても駄目でした。母に聞くと、「知らんけど、にわとりの夫婦のことかもしれん。」 と言っておりました。 |
◆ ホリエモンは、中学時代に 「父の勧めで早朝の新聞配達のアルバイトをし」 ていたそうだ。当時を知る新聞販売店の関係者によれば、 ◇ 「一般紙・スポーツ紙合わせて六、七種類あったんですが、七十軒分、すべての組み合わせを一日で覚え、二年間誤配がなかった。」 ◆ と、こんな記事を引用したくなったのは、ワタシも中学生で新聞配達をしていたからで、高校生なら新聞少年も少なくないだろうが、中学生というのは珍しいのではと思ったのだった。ワタシの場合は、中学1年のクラスメイトに販売店経営者の息子がおり、そのツテで始めることにしたのだが、中学校では基本的にアルバイトが許されておらず、なにか特別な許可が必要だった記憶がある。担任の理解もあったのだろう。始めてからは、雨の日にはユウウツになりもし、寝坊もよくしたけれども、それが日常の一部になってしなえば、とくに止める理由も見あたらずに、高校を卒業して地元を離れるまで続けた。 ◆ さきに三上(さんじょう)のことを書いたが、新聞配達のときの 「自転車上」 というのも、なかなかのお気に入りだった。早朝の一時間、まだ眠っている街を自転車で走るというのは気持ちのいいものだった。澄んだ空気と静けさのなか、じゃまするもののないもない場所で、自転車を漕いでいると、自然とあれこれ考えが浮かんだ。中学生の考えることだから、たいしたことではなかったろうが、ちょっとは 「哲学的」 なものだったかもしれない。憶えているのは、その内容ではなくて、そのときの気持ちのよさだ。五感で考えているような、そんな気持ちのよさだ。 ◆ 人ごみは嫌いだけれど、街は好き。そんなタイプの人間に、新聞配達の仕事はぴったりだった。ひとりぼっちであることには変わりないにしても、部屋のなかにひとりでいるよりは、街のなかでひとりでいるほうがいい。心身ともども、そのほうがいい。 ◆ (まったく関係がないが、犬の散歩は朝したほうがいい。人犬ともども、そのほうがいい。ちかごろは夜中に犬の散歩をしているひとを見かけることが多いものだから。) ◆ 新聞配達の仕事というのは、ポストに(あるいはドアの隙間に、あるいはシャッターの下に)新聞を入れるだけだから、その家のひとと顔を合わせることはめったにない。だから、その家にどんなひとが住んでいるのかもほとんど知らない。でも、ポストに入れた直後に、玄関を開ける気配が背後ですることはままあって、そんな時には、ああ待ってたんだな、と思う。だから、寝坊したときには、ちょっと心苦しい。待ちきれずに、玄関の前に顔を出してたりもするのだから。おそくなってごめんなさい。新聞配達でひとに会うというのは、たいていはそんな具合だから、できればだれとも会いたくない。でも、6年間にほんの数回、例外があった。一度は、玄関で待っていた 「おばさん」 にリンゴをもらった。一度は、「おじさん」 にご祝儀袋にはいった千円をもらった。こどもだから、そんなものをもらっていいものやら、悩みもしたが、そのときのうれしかったことといったら! ◆ などなど、思い出すことあれこれ。そしたら、なんという偶然だろう、今朝5時50分、おともだちの 《みたにさん》 が書いていた。 ◇ 新聞屋さんにチョコを新聞受けに用意しておいたけど、今朝は新聞がまだきません。遅いぞ。あ、もしかしてチョコ持ちきれないで一回置きに行ってるとか? ◆ それにしても早起きだね。全国の新聞少年に代わりまして、遅れたお詫びとチョコのお礼を。ありがとうとごめんなさい! |
◆ 大地震に見舞われればひとたまりもないような木造アパートに住んでいる身にとっては、まったくの他人事であることのひとつに、「結露」 というコトバがあって、ときおり冬場のマンションに出かけて結露という現象を見かけると、「ああ、家が汗をかいている」 などと思ってしまい、そのすぐあとに、古代人のようなアニミズム的発想にわれながら恥入りもするのだが、当の住人にとっては、たんに対策を講じるべき物理的問題であるかもしれない。 ◇ 結露問題は、いつも不動産屋さんを悩ます原因の一つです。入居者側から言わせると、建物の構造が悪いから結露が出ると言う事になるし、大家側に言わせると、他の部屋からは結露は出ていないので、入居者の使用の仕方が悪いと言う事になる。 ◆ 結露の責任の所在をめぐる攻防については、ワタシは不動産屋さんではないので、なんの関心もないけれども、結露にたいする人間の感情については、多少の関心がないでもない。たとえば、 ◇ 窓ガラスがまるで汗をかいたように水滴でじっとり・・・ なんとも不快な結露の代表例ですね。 ◆ といった文章に見られるような、結露にたいする不快感というもの。その起源はいったいどこにあるのだろう? 「窓ガラスがまるで汗をかいたように水滴でじっとり」 しているから不快であるというのなら(これはワタシの発想とたいして変わりがない)、人間のかく汗がそもそも不快なものであるということが前提になっているわけだろうけど、「・・・ですね」 と同意を求められても、ワタシは困る。ワタシは、少なくとも自分の汗を不快だとは思っておらず、そのことから、自分の汗も他人の汗も同じではないかと思ってしまうので、さらに拡げて、部屋の汗を不快だと単純に思う思考回路ができてはいない。たんに、この部屋は 「どうしたんだろう?」 と思うだけである。 ◆ いや、実をいえば、結露の問題にとどまらず、マンションに住みたいというひとびとの思考のすべては、あれやこれやのことごとを考えるにつけ、ワタシの想像力の限界をはるかに超えている、ということをいまさらながらにいちいち思い知らされるので、やはりワタシは古代人なのであるなあ、と自嘲気味につぶやいてみたり。 |
◇ 【パリ10日】 複数の相手とフレンチキスをすると髄膜炎になるリスクが4倍近く高くなると警告する論文が14日のバレンタインデーを前に英国医学ジャーナル(BMJ)オンライン版に出た。髄膜炎は命にもかかわる恐れのある病気。〔AFP=時事〕 ◆ 髄膜炎というのがどういった病気かよく知らないけれども、複数の他人と唾液の交換をすれば、感染症に罹患する確率が高くなるのは当然のハナシで、これはなにも髄膜炎に限らないだろう。 ◇ Although most sexually-transmitted diseases are not transmitted by kissing, the exchange of saliva in a French kiss may increase the chances of catching an orally transmitted disease. Mononucleosis, a disease spread through saliva, is often colloquially refered to as "the kissing disease." ◆ アメリカのコロンビア大学が 《Go Ask Alice!》 という健康質問サイトを開設していて、そこに寄せられたフレンチキスにかんする質問がおもしろい。“Dear Alice” で始まる3つの質問を紹介すると、 ◇ (1) Hey, okay, well I french kissed this guy and I didn't use my tongue. Are girls supposed to use their tongues? If so, which way does it go?? ◆ Alice の回答もおもしろいけれども、長くなるので割愛。それにしても、やはりアメリカは進んでいるなあと感心。日本では、《藤田徳人監修:恋愛科学研究所》 というサイトにこんな質問が。 ◇ ディープキスの仕方を教えて下さい。フレンチキスは経験あるのですが今度ディープキスをするかもしれないのでなるべく詳しく知りたいです。[~14歳] ◆ そうそう、日本でフレンチキスというと、唇への軽いキスだと誤解しているひとも多いようで、桜井亜美(小説家らしい)も、 ◇ 最初は軽いフレンチキス。相手が乗ってきて 「ここだ!!」 と思ったら濃厚なディープ・キス。 ◆ と書いているが、それはさておき、さきほどの質問にたいする回答はというと、 ◇ 私も詳しくは知りませんし、誰にも教わったことがありません。とにかく歯があたらないように唇で歯を覆い、そして自分の舌と相手の舌をからめればいいと思います。 ◆ ああ、がっかりさせるじゃないか! アメリカでは、フレンチキスの仕方にこんなアドバイス(tip)が。 ◇ Don't forget to breathe. |
◇ 私たち 「Immigarant's Cafe」 は、外国人スタッフが接客するアジアンダイニング(レストラン)です。 ◆ 店名を明かしては 「とある」 と書いた意味もないが、写真はこの店の看板で、 ◇ AMERICAN STYLE SERVICE 米国式接待 ◆ などと、怪しげな中国語で書いてある。アメリカを米国と書くのは日本語で、中国語では美国と書く。《小駒勝美の漢字こぼれ話》 では、 ◇ この 「米国」、中国では通じません。じつは中国でもアメリカはメリケンの略なのですが、メリケンを 「美利堅」 と書くので、アメリカは 「美国」 です。美しい国なんて変な気がしますが意味から考えると 「米国」 というのもずいぶん妙です。米よりも 「麦国」 じゃないか、と思うのは僕だけでしょうか。 ◆ と、これはべつに怪しくないが、《おでかけ.US》 では、 ◇ ちなみにアメリカを表す漢字として日本では江戸末期から明治初期までは 「米利堅」 が使われていました。よく時代劇などで耳にする 「メリケン」 です。その後 「亜米利加」 が使われるようになりました。省略形では 「亜」 は 「亜細亜」 を連想するので、「亜」 を取り次の 「米」 を使って 「米国」 となりました。中国でも同様の漢字が使われていましたが1900年の義和団事件でアメリカが中国を助けたことへの感謝の印として 「米国」 と同じ発音となる 「美国」 (メイグオ)が使われるようになりました。台湾や香港ではアメリカの正式名称として 「美利堅合衆国」 が使われています。 ◆ 義和団事件云々というのがとっても怪しい。また、台湾旅行者のハナシでは、 ◇ 紀念本堂の1階の中央通路に、蒋介石が生前乗用した二台のキャデラックが展示されていて、説明に 「美国」 という文字が書かれてあった。現地ガイドさんに 「美国とはどこの国?」 と尋ねられて、車がキャデラックだから 「アメリカでしょう」 と誰かが答えると、「当時、台湾の人にとってアメリカは憧れの国、美しい国だった。だから「美」なんです。日本がアメリカを「米国」と呼ぶのはわけが分かりませんね」 と博識ぶりを披露してくれる。 ◆ また、韓国を旅行すると、 ◇ 韓国の町中を歩いていたら 「美人会話」 という看板をたびたび見かけることがあると思います。それが漢字で書いてあったり、ハングルで書いてあったりしますが、漢字の場合、もしかしたら 「美人」 と 「会話」 という言葉についつられて変な想像を膨らませる男性の方もいらっしゃるかと思います。そういう方々の楽しい空想に水を差すようで大変恐縮ですが、ここでいう 「美人」 というのは実は 「米国人(アメリカ人)」 のことを指しています。韓国でも昔は、日本と同じでアメリカを 「米国」 と書いていたのですが、朝鮮戦争のとき、多くのアメリカ青年たちが韓国で命を落としてまで助けてくれたことに感謝する意味で 「米」 と読みが同じである 「美」 に変わりました。したがって、「美人会話」 というのは、米国人が教える英会話のことです。ですから、ほんの出来心でお店に入ったら、筋肉ムキムキの男性 「美人」 に英会話を習わされる羽目になるかもしれないので、くれぐれもご注意を! ◆ これまた、朝鮮戦争云々というのがとっても怪しい。まあいいか。 |
◆ 美国のことを書いたついでに、ほかの国のことも少し。日本語でフランスを漢字で書けば、仏蘭西(仏国)、ドイツは独逸(独国)、イタリアは伊太利(伊国)となるが、中国語では、それぞれ、法蘭西(法国)、徳意志(徳国)、意大利(意国)と表記する。では、ロシア(露西亜)はどうかというと、俄羅斯(俄国)となる。 ◇ 日本では 「露」 と略すロシアを、中国では 「俄羅斯(オロス)」 の略で 「俄国」 というのはちょっとびっくりです。 ◆ 日本でも、かつてロシアをオロシヤと読んでいたことがあったのいうのは、井上靖の 『おろしや国酔夢譚』 でつとに知られていることだろうが、 ◇ あの国を 「おろしあ」 と呼ぶのは日本だけでなく、モンゴル語、満洲語、中国語、朝鮮/韓国語、つまり北東アジアの主要言語に共通していることなのです。モンゴル語や満洲語では 「オロス」、それを中国語では 「俄羅斯」 と音訳しました。だから現代中国語では 「俄国」 がロシアを意味します。で、この表記法は朝鮮半島にも持ち込まれたので、朝鮮/韓国語でも漢字でこの国を表すときには 「俄国」(アーグク)となります(「露」 あるいは 「魯」 というのは日本独自の表記です。中国や朝鮮半島では、おそらく通用しないと思われます)。 ◆ では、なぜロシアをオロシヤと呼ぶのか? ◇ 「おろしや」 という言葉は,ロシアに 「お」 を付けたものと聞きました。では,なぜ,「お」を付けたんでしょう? 「おあめりか」 とか 「おいぎりす」 とは言わないですよね(「おふらんす」 は言うか……)。辞書を見ても載っていないので、ご存知の方、教えてください。 ◆ 「おろしや」 の 「お」 は 「おフランス」 の 「お」 とはもちろん違うけれども、たしかに辞書にその理由までは記されていない(と思う)。 ◇ 我々の祖先は、この国と最初に接したとき、それを 「おろしゃ」 と呼んだ。Rossiya は素直に耳を傾ければ 「オロシャ」 と聞こえるからである。その後、この国の呼称は魯西亜、露西亜、ロシヤさらにはロシアへと変遷した。外務省令によるとは言え、英語の Russia が決定的な影響を与えたものと思われる。 ◆ そう聞こえたから。なんとステキな説明だろう。Rossiya (Россия) の語頭の R (Р) は 「巻き舌」の R なので、 ◇ 江戸時代はロシアのことを 「おろしあ」 と言っていた。ロシア語で 「ラッシーヤ」 と発音する時、はじめの巻き舌の音を聞いていると、あいまいな「お」という母音が、軽く聞こえるような気がしないでもない。 ◆ 発音するときにも、軽く適当に曖昧な母音をつける感じで、「(オ)ロシヤ」 と言えば、ロシア語っぽくなるかも。 ◇ ロシア語といえば、巻き舌の“r”。「ルルルル・・・」 とべらんめえで言えなくて苦労する外国人は多い(はーい)。 ◆ ワタシは巻き舌に苦労したという記憶はないが、それ以前にロシア語を学んだ記憶もない。 ◇ 美國選手柯恩獲得銀牌,俄羅斯選手史露茲卡雅摘下銅牌。 ◆ アメリカ(美國)のコーエン(柯恩)が銀、ロシア(俄羅斯)のスルツカヤ(史露茲卡雅)が銅。そして、「金牌」 (金メダル)を獲得したのは 「二十四歲的荒川靜香」。 |
◆ そりゃ、さかなチャンは魚の味方、魚至上主義者だもの。で、ハリセンボンの針の数、ホントはいくつ? ◇ なんと、数えた人がいました。そのときは370本くらいでした。ハリセンボンのハリは、だいたい300~500本と言われています。 ◇ 「ハリセンボン」の名前の由来は、その姿からなのですが、実際の棘の数を数えた方がいるらしく、365~375本と、ちょうど1年間の日数と同じくらいだそうです。 ◆ 400程度の数を数えたくらいで、なにも驚くことはないだろう。ものも10分もかかるまい。ハリセンボンではないが、マンボウのメスは卵を一度に3億個も産むという。これを実際に数えるとすれば、1秒で10個数えるとしても、3000万秒、約10年かかる。これなら驚いてもよいと思うが。似たようなのに、千手観音。 ◇ 千手観音にあった人で、一番最初に手の数を数えた人はえらい。「1,2,3,4・・・うーん千本ですな」ってめっちゃ冷静。それまでは「手いっぱいあるやつ」って呼ばれてたんやろな。 ◆ これもぜんぜんエラクない。 ◇ 「先日、千手観音像を見る機会がありました。見ていて思ったのですが、千手観音は「千の手」と書いて「せんじゅかんのん」と読むのに、私が見た千手観音像は1000本の手はなく、せいぜい数十本でした。そこで、千手観音像の手の数について調べてみてください」 ◆ せいぜい数十本! 正確に数えると、 ◇ 本当に千本の手を付けた作例も有りますが、42本の手で代用する作例が多く、有名な京都の三十三間堂の場合も、42本です。中央の合掌手(本手)の外の40本を25本の代表とし、千本の手として表現します。 ◇ 観音様の手の数を数えますと42本あります。そのうちの2本は薬の入った器をお持ちですから、残りの使える手は40本です。観音様は1本の手で25通りのことが出来るといわれていますので、全部合わせると1000本。ですから千手観音というわけですが、これはもちろん無数、数限りないことを言い表しており、千住観音様は数限りない人を救っていらっしゃるのです。 ◆ 40を数えるだけなら、これはもう、1分もかかるまい。ハリセンボンにハナシを戻そう。 ◇ さて、「指切り拳万 嘘ついたらハリセンボン飲ます 指切った」という文句があるが、子供同士の約束で、指切りをする時の文句。実際、ハリセンボン飲ましたら…。…実は美味い! 沖縄では「アバサー」と呼ばれ、愛されているほど。おいしい魚で、フグの仲間だ。しかも、毒が無いので、フグよりも食べやすい。というわけで、嘘ついて、ハリセンボンを飲ませてもらうのもいいと思います。
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◆ ハワイのことをワイハと言ったりする、おともだちのタネさんは、もしかすると、ネタの逆さ言葉かもしれない、とふと思った。 ◇ 永田氏は、疑惑を 「ガセネタ」 と断じた小泉首相に 「ガセとはどんな意味か」とただした。「辞書で調べてみますとね」 と切り出した小泉首相は 「ガセは偽物、ネタは商品。転じてインチキな情報のこと」 「人騒がせ、お騒がせの 『がせ』 と解説する辞書もある」 と、2度も説明。 ◆ だれが(まさか本人ではあるまい?)どんな辞書を引いてみたのかしらないが、オンライン辞書では、 ◇ がせねた 《「がせ」 は偽物、「ねた」 は材料の意の 「たね」 の逆さ読み》 偽の情報。また、いんちき商品。 ◇ がせねた 〔「がせ」 はにせものの意、「ねた」 は 「たね(種)」 の倒語〕 でたらめな情報。 ◆ とある。「逆さ読み」 に 「倒語」、これは 「逆さ言葉」 のほうがより一般的かもしれない。 ◇ 【逆さ言葉】 言葉の音節の順序を逆にしたり、一語を途中で切り、そこで上下を入れ替えたりしていう語。「たね」 を 「ねた」、「はまぐり」 を 「ぐりはま」、「月の鏡」 を 「鏡の月」 という類。隠語あるいは戯れにいう。 ◆ 《小林祥次郎の発掘・日本のことば遊び》(日国.NET)には、さまざまな 「さかさことば」 が取り上げられていて、そこには、 ◇ 子供のころに、「テブクロの反対は何だ」 と言って、ロクブテと答えさせ、相手を六つたたく遊びをなさったかたが多いと思います。 ◆ といった懐かしいコトバや、 ◇ タバコをモクと言うのは、かつては煙がモクモク出るからと思っていましたが、雲の倒語であるそうです。煙を雲に見立てたのです。 ◆ といった、なるほどそうだったのか、というコトバが出ていてたのしい。逆さ言葉というと、ナオンとかパツキンとかパイオツとかビーチクとか、まったくお下品なコトバしか浮かばないワタシは深く反省されられる。 |
◆ 動物園に動物を見に行くひとの割合に比べれば、植物園に植物を見に行くひとの割合はかなり少ないのではないか、と思うけれども、どうだろう。では、なにをしに行くのだ、というひとはちょっとアマタが固すぎる。たいていは、よく晴れた日曜日の朝、今日はなにも予定がないことに思い当たると、それではあまりにもっいない気がして、では植物園にでも行こうか、と散歩がてらに出かけるのである。運がよければ、キタキツネに出会えるかもしれない。北大植物園元園長・辻井達一氏の 『日本の樹木』(中公新書)はながらくワタシの愛読(新)書だったが、最近その続編が出ているのを本屋で見つけ、さっそく購入して、ぱらぱらページをめくっていると、 ◇ 私は火事が好きで(と言っては火事に遭われた方には申し訳ないが)、昔から火事となると気になってよく出かけた。 ◆ という文章に出くわした。樹木の本を読むのは、なにも樹木のことを知りたいためばかりではない。 ◇ 大きな声では言えないけれど、無性に、火事が好きだ。夜空を焦がす炎や、ちょろちょろ燃え立つ焚き火や、風の中の花火など見ていると、火と最初に出会った幼児の頃を思い出す。縁戚の印刷所が火を出して、親に現場へ連れて行かれた。家を出たときから、大きな火柱の立つのが遠くに見えた。近づくにつれ、熱と匂いが、激しくなる。狂乱の人々の横顔を、赤い炎が映し出す。恐ろしさと、美しさが、判別できぬほどないまぜになって、何度も夢に出現し、小便をちびったものだ。 ◆ 火事が好きなひとは意外と多いようで、たとえば、坂口安吾と福田恆存。 ◇ 熱海大火後まもなく福田恆存に会ったら、 ◆ 森茉莉と立川談志。 ◇ 茉莉は若い頃の談志に逢って対談している。近くで火事があったと聞いて茉莉が談志に 「火事好きですか?」 と尋ねたら、談志は目をめいっぱい見開いて 「だあい好き」 と答えたそうだ。 ◆ 佐山一郎。 ◇ 火事と喧嘩は江戸の華という位で、不謹慎ながら、どちらも嫌いなほうではありませんでした。あれは小学生の頃だったか、出動中の消防士に自由ケ丘の沿道から声援を送ったら、暫くして 「カーン、カーン」 と鐘を打ち鳴らしながらのご帰還。真っ赤な車のステップに立つ頼もしげな兄ィが 「さっき『頑張って!』と励ましてくれたのは君だよね。有り難う」。ますます消防ファンになったものです。 ◆ だれかのダンナさん。 ◇ 昨日、夜中の2時に火事があり、サイレンが聞こえて来た時点で、すでに目はキラキラ。トイレに行くフリをして、家を出て火事現場をウットリと見ている。 ◆ だれかのお父さん。 ◇ ちゃきちゃきの江戸っ子(のフリして実は関西人)の我が父は、遠くで消防車のサイレンが鳴る度に、『それっ!火事だ!』と2階のベランダに飛び出し、ベランダから見えない時には自転車ですっ飛んで見に行ったもんです。(車だと現場近くまで行けないからだそうで) ◆ あるいは、消防士さん? ◇ 消防士志望のA君の面接での話。 試験官「消防を志願した理由を教えてください」緊張のあまりまい上がっていたA君のとっさの答え A君:「か、か、火事が好きだからです」放火魔もびっくりの名回答に時間が止まり、空気が重くのしかかったそうです。ちなみに彼は立派な消防士としてがんばっているそうです。 ◆ もちろん、 ◇ 消防士は火事が好きで消防士になったわけではない。被災者に同情して、火事を消す仕事を選んだのだろう。警察官は、殺人や泥棒をやりたくて警察官になったわけではない。被害者に同情して、防犯や捜査活動に従事している。 / 軍人だっておなじだよ。戦争が好きで、兵隊になったわけではない。紛争や戦争の被害を防止するのが職務だよ。 ◆ と考えるひとも当然いるわけだが・・・、どうだろう? ◆ ひょっとすると日本人はみんな火事が好き? ◇ 先日、テレビで田中角栄の元秘書早坂氏が、おもしろいことを言っていました。「日本人というのは火事が好きで、火事だと聞くと、一目散に飛び出して行く。走って行く群集の一人をつかまえ、火事はどこだい?と聞くと、さあ知らねえよ、と答える」。
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