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◆ いっぱんにも、年をとるにつれ、読書のテンポは遅くなるのではないかと思う。どうしても「ひっかかり」が多くなる。若いころはなにも知らないから、ほとんどただ本に従っていればよくて、なにも考えないから、それで読むのが速い。年をとると、あたまのなかに雑多な知識がふえて、あれやこれやにひっかかってしまう。それだから速くは読めない。そのことに気がついてから、だいぶ気が楽になった。ゆっくりと読む。不都合はなにもない。 ◆ みっか京都にいて、いちど京阪電車で深草を過ぎた。そのとき電車のなかで読んでいたのが、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの1冊『三浦半島記』で、鎌倉時代の鎌倉に、源頼朝が鶴岡八幡宮を造営しようとしたときのこと。 ◇ このあたり、まだ関東の文化は、心もとなかった。頼朝が構想するような巨大構造物を建てる棟梁がいなかった。ところが、 ◆ 深草と浅草を対比してみたことなどなかった。せっかくだから深草駅の写真だけでも撮っておこうかと思ったが、もう深草を過ぎていた。《Wikipedia》から画像を借りる。ついでに、文章も読む。
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◇ 思わぬことに、夫人の靖枝さんから、三浦大根のふるまいをうけた。私は不敏なことに、三浦大根という名さえ知らなかった。 ◆ 大阪人の司馬遼太郎が三浦大根を知らなくても不思議はない。ためしに、ワタシもネットの国語辞書を引いてみたが、出ていない。《野菜果物辞典》というサイトを見ると、 ◇ 〔野菜果物辞典〕 昭和初期に神奈川県三浦郡で生まれた品種。中央がズングリした大根で肉質がきめ細かく、加熱すると甘みが出る。おでんにいい。 ◆ とあって、急におでんが食べたくなる。《三浦市農協》のサイトも見てみると、 ◇ 〔三浦市農協〕 大正14年に三浦産のダイコンが「三浦ダイコン」と正式に命名されて以来、三浦特産の冬ダイコンとして長年にわたって名声を維持してきました。しかし、昭和54年に大型20号台風が三浦地域を襲い、三浦ダイコンが大きな被害を受けたのを契機に、「青首ダイコン」が三浦のダイコンの座を取って替るようになりました。甘みと小振りなサイズが消費者ニーズに合い、台風被害後のまき直しでも威力を発揮したことや、三浦ダイコンに比べ栽培が容易で多収、軽量で作業が省力化されるという生産者側にとっても好ましいことなどから、わずか2~3年で切り変わってしまいました。現在は99%が青首ダイコンになっています。 ◆ なるほど。ここで、三浦大根だと思って載せた写真がふつうの青首大根であることに気がついて、あわてて写真を差しかえたのだった。あぶない、あぶない。 ◇ 〔食の時間〕 そもそも三浦大根は、昔から三浦で生産されていたねずみ大根(高円坊大根)と練馬大根をかけ合わせて作られた。 ◆ そういえば、「練馬大根発祥の地」というような記念碑も練馬のどこかで見て写真に撮った記憶があるのだが、すぐには探し出せそうもない。そのうち、見つかったら、練馬大根のことも調べてみよう。その前に、おでん、おでん。 |
◆ 三浦大根で、「ハマの番長」と呼ばれるプロ野球選手を思い出した。横浜ベイスターズの投手、三浦大輔。こどものころに、「三浦大根」とあだ名された過去もあるのではと思ったが、奈良県の出身だそうで、その可能性はほとんどないだろう。せっかくなので、《三浦大輔オフィシャルブログ「ハマの番長」》を覗いてみたら、内容はさておき、改行だらけなのに驚いた。たとえば、 ◇ 本… 〔4行アキ〕 読みながら… 〔3行アキ〕 40分間… 〔3行アキ〕 半身浴で… 〔3行アキ〕 めっちゃ… 〔3行アキ〕 汗かいた! 〔3行アキ〕 マンガやけどね・・・・ 〔4行アキ〕 ヨ・ロ・シ・ク!! ◆ てな具合。「ヨ・ロ・シ・ク!!」というのが決め台詞なようだ。三浦大根にかぎらず、有名人(芸能人)のブログは、こんな改行だらけの書き方が流行っているらしい。 ◇ こないだテレビで矢口真里さんが言ってたんですが、アメブロでブログを書いているタレントさんは、PVを稼いでランキングを上げるためにたくさん改行を入れるようにしているそうです。そうするとケータイで見たときにたくさんページ分割されてアクセス数が上がるんだそうです。 ◆ PV(ページビュー:ページごとにカウントされるアクセス数)が増えると、なにかいいことでもあるんだろうか。きっとあるんだろうなあ、どうでもいいけど。個人的には、「改行だらけ」のだらけた気分が好きではないが、ひとそれぞれ。それでケッコウ毛だらけネコ灰だらけ。 |
◇ 〔河北新報〕 新球団創設から5年、プロ野球パ・リーグの東北楽天ゴールデンイーグルスがきのう、クライマックスシリーズ(CS)に進む3位以内を決めた。宿敵西武ライオンズを直接対決で突き放しての初のAクラス。東北の多くの野球ファンとともに、喜びに浸りたい。 ◆ 「日刊スポーツ」に楽天の4番、山崎武司の手記が載っていた。 ◇ 5年前は、それこそ、子供のころテレビで見ていた「レッドビッキーズ」みたいだったもん。悔しいのか悔しくないのか分からなかったよね。負けても「また明日」みたいな。最近は、選手に悔しさが出てきたのが、いい傾向。 ◆ 親切なことに「レッドビッキーズ」の説明もある。 ◇ 昭和50年代にテレビ朝日系列で放送されたテレビドラマ。石ノ森章太郎の原作で主人公は林寛子が演ずる女子高生の江咲令子。野球好きが高じて少年野球チーム「レッドビッキーズ」の監督に就任し、初回0-30のデビュー戦から優勝にまでのし上がる奮闘ぶりを描いた。「ビッキ」とは東北地方の方言でカエル。劇中に流れた「ビッキービッキー赤ガエル♪ 車にひかれてヒキガエル」の歌は、当時の小学生の間で流行した。78年1月から12月まで放送された「がんばれ!」シリーズと、80年8月から82年3月まで放送された「それゆけ!」シリーズがある。 ◆ ビッキといえば、北海道に彫刻家の砂澤ビッキ(1931-1989)がいる。 ◇ 〔あさひかわ新聞〕 一九八九年(平成元年)、五十七歳で夭折したビッキは、一九三一年(昭和六年)、旭川市近文(現緑町)に生まれた。父トアカンノ、母ベアモンコロ。先住民アイヌの血を引く。本名は恒雄。ビッキとは、アイヌ語で蛙(カエル)のこと。子ども時代の愛称だという。彼は終生、この名前を愛して使い続けた。 |
◇ 足もとの草の上にマンゴーがころがっているのが見えた。熟れて樹から落ちたばかりのもののようだ。 ◆ こういうことってよくあるよな、と思う。たとえば・・・・・・ |
◇ というのも、案内役の老人が、道すがら、人肉をじつはまちがえて自分も食ったことがあると告白したからだ。それに分厚い皮膚のその老人が、残留日本兵は単に飢えをしのぐためにのみあれを食べたのではなく、うまかったから食いつづけたのではないか、としごく陽気な調子で私にほのめかしたからだ。桜肉の話でもするように。 ◆ たまたま読んだ文庫本の一節から、ついうっかり、カニバリズム(人肉食)の方向へ流れていきそうになるのを押しとどめて、アタマのなかを「桜肉」へと切り替える。幸運なことに、つづけて読んだ小説にも桜肉。 ◇ 「吉原のほうに桜肉のおいしい店があるのよ、せっかくだからそこで食べて帰ろうか?」 ◆ 吉原で桜肉といえば、中江しかない。 ◇ 明治三十八年(1905)の創業以来、私たちで四代目となります。浅草吉原ではたった一軒だけ残った桜鍋の店として、数少ない東京の郷土料理「桜鍋」と桜肉の文化を、こだわりを持って守り続けてまいります。 ![]() ![]() ![]() ◆ 店の前を通ったことしかないが、建物自体にとんでもない風格があって、右隣の天ぷら伊勢屋と並んだ風景は見ているだけでおなかがいっぱいになる。 ◇ 関東大震災後に建てられ、太平洋戦争のときの東京大空襲にも奇跡的に焼け残り、現在まで80年以上頑張っている店舗です。 ◆ なぜ馬肉を桜肉と呼ぶのかについては、《中江》のサイトに諸説が紹介されているが、《語源由来辞典》のいうように、 ◇ 江戸時代には獣肉を食べることが禁じられており、そのまま呼ぶことがはばかられたため、猪の肉を「牡丹(ぼたん)」、鹿の肉を「紅葉(もみじ)」と呼んでいたように、馬肉にも植物系の名前をつけようとしたことが基本としてあったと思われる。 ◆ もともと馬肉を食べることがタブー(禁忌)であったがゆえに、「桜肉」という隠語が必要とされたので、桜は美しいけれども、桜肉はけっして美称ではない。 ◆ それなら、とまた考えてしまう。人肉にはどのような隠語が用意されているのだろうか? 梅だろうか? いや、「梅肉」というコトバはすでにある。薔薇だろうか? これでは、「バラ肉」に聞こえる。あれこれ赤い花を思い浮かべてみて、すっかり疲れてしまう。もう肉はたくさんで、あっさりしたものが欲しくなる。そんなときには、「桜雑炊」がいいかもしれない。 |
◆ 外人、外人、外人、と書いていたら、ヘンな感じになってきた。タト人、タト人、タト人、のような、といってもうまく伝わらないだろうが、なんというか、「外」という漢字がワタシのなかでちょっと壊れてしまったらしい。その意味がよくわからなくなり、「ガイ」という音もどこかへ行ってしまって、かろうじて「そと」とは読むことができたけれども、その「そと」がいつのまにか「タト」になってしまって、タト、タト、タト。いったい「たと」とはなんだろう? そんなばかげたことがときどき起こって、自分にすこし腹をたてる。しっかりしろよな。でも、ほんとうは、そのふわっとした感じがあんがい気持ちよかったり。似たようなハナシをどこかで書いたような気もする。 ◇ 子供の頃に「短い」という字の偏と旁(つくり)を、よく逆に書いた。書いてみると、どこかおかしい。また逆に書いたか。そう思って、偏と旁を ◆ 似たようなひとがいるのを知って、ちょっと安心。 |
![]() ![]() ◆ ユーミンの「海を見ていた午後」で有名なレストラン「ドルフィン」。左は、2004年5月8日。右は《YouTube》にアップされていたものの背景で、いつのものかはわからない。見比べると。営業時間が1時間ちがう。アップしたひとは、夫婦ともどもユーミンの大ファンだそうで、 ◇ 妻との思い出の曲です。大阪から6時間。ついに来ました。偶然か店内で「海を見ていた午後」がかかった時は妻は泣いてしまいました。 ◆ ワタシの場合は、仕事で店の前を通りかかっただけなので、とくに泣く理由はない。 ♪ 山手のドルフィンは 静かなレストラン ◆ 三浦といえば、しばらくまえに「三浦大根」のハナシも書いたが、今回は、三浦岬。さて、いきなりだが、 ◇ 海を見ていた午後の歌詞に「三浦岬」とありますが、三浦半島はあっても三浦岬はありませんね。 ◆ そう、地図に三浦岬という岬はない。岬はないが、三崎ならある。よくしらないが、語源的には同じものだろうか。 ◇ 大体「三浦岬」なんて言う岬はないので、北原白秋が如く「三浦三崎」としたかったのを間違って表記してしまったのだろうとずっと信じて疑わなかった。 ◆ けれど、三浦三崎は半島の西側南方にあって、ドルフィンのある横浜側からは、晴れていようが、山がじゃましてけっして見えない。 ◇ もし三浦三崎の間違いだとすると、三浦半島中央部には標高200m程度の山が連なっており、根岸の標高50m位のドルフィンから三崎は見えないハズ。 ◆ 三浦半島を三浦岬と表現したという可能性もあるだろう。 ◇ 岬の大規模なものを半島と称するが、その先端や側部に突出した部分が岬である。 ◆ 大きな池を湖と呼ぶようなものだが、岬と半島のあいだに絶対的な基準があるわけではなさそうだ。むかしは大陸と呼ばれていたヨーロッパも、いまではせいぜいが亜大陸で、ヨーロッパ半島と呼ぶひとも多いし、岬と呼ぶひとまでいるのだから、それほど大きくはない三浦半島を三浦岬と呼んでもなんらさしつかえはないだろう。けれど、ドルフィンからは三浦半島自体が見えないらしい。ほとんど半島の付け根に位置しているというのに、開いた窓の方角が違うらしい。 ◇ 手を上げて、ウェイターを呼び止めた。「三浦岬はどこですか?」「はあ?」 何だ、このウェイターは? 「ドルフィン」といえば、三浦岬を知ってるのが常識だろう。勉強不足だな! そう憤慨していると、「三浦岬ですか? 三浦半島のことだったら、横須賀があるのが三浦半島ですから、方角が全然違いますよ」とウェイターが答えてくれた。どうやら三浦岬というものはないらしい。 ◆ 三浦半島自体が見えないのだったら、これ以上なにを考えても無駄になるが、つづける。 ◇ 「晴れた午後には遠く三浦岬も見える♪」はずなんだが、なんと目の前にマンションが二軒あって、完全に景色を遮断している、いったいどこの不動産屋がこんなボンクラなことをやりやがったのか知らんが残念無念。この店に限らず、最近マンションが毒キノコのようにボコボコ生えてきているからせっかくの景色が見えねぇじゃねぇかという場所が多々あり、なんとかして欲しい。そうそう、なんども三浦半島に行っているけれど、三浦岬という岬はないです、三浦半島や観音崎じゃゴロがわるいから三浦岬にしたんでしょう。 ◇ あなたを思い出すレストラン「山手のドルフィン」から海を眺めていると、晴れた午後には遠く「三浦岬」も見える・・・と歌われているが、「三浦岬」なんていう岬はなく、彼女の説明ではこれは「観音崎」が正解であるものの、「観音崎」では響きが悪く、せっかくの歌詞も台無しになるとやらで「三浦岬」に変えたそうだ。なるほど、曲の流れからして、はるかかなたの水平線に「三浦岬」がそのまま思い浮かぶようだ。でも、「観音崎」さんには大変すまないことをしたと謝っており、このへんがユーミンらしくて、僕は好きなのだが。 ◆ 直前の情報にしたがえば、歌詞の三浦岬とは三浦半島の岬のひとつである観音崎のことであるらしい。この場合、三浦岬は「三浦(半島にあるひとつの)岬」ということになるのだろう。そういえば、とまた、べつなことを思い出した。「知床旅情」である。 ♪ 知床の岬に はまなすの咲くころ ◆ 「知床旅情」の歌詞にある「知床の岬」とは、いったいどこのことだろう? 知床半島を大きな岬に見立てたものだろうか? それとも、知床半島の先端にある知床岬のことだろうか? それとも、知床半島のとある岬という意味なのだろうか? ああ、白夜は明けないが、もう朝だ。こんなことばかり考えていると、きっと「ピリカが笑う」にちがいない。 |
◆ 自伝的なものを読むのが好きだ。さいきん読んだのが、大橋巨泉『巨泉 人生の選択』(講談社文庫)といかりや長介『だめだこりゃ』(新潮文庫)。どちらもブックオフの100円本。いかりや長介の本から、趣味について。 ◇ 「全員集合」の時期は、ネタ作りに追いまくられて、いわゆる趣味というものはながくもてなかった。 |
◆ いかりや長介の自伝『だめだこりゃ』から。 ◇ そして吾妻橋を渡れば、そこはもう浅草である。親父はよく橋を渡っては、浅草六区へ映画や寄席を見に行ったり、お目当ての点取り嬢がいるビリヤード場に顔を出したりしていた。点取り嬢なんて、いまの人は知らないだろう。ビリヤードは台の脇にある大きなソロバンみたいなやつでスコアをつけるのだけど、点数が入るたびに、その点取り嬢が「二点~」なんて可愛らしい声を出してソロバンの玉を動かす。美形の点取り嬢がいるかどうかで、その店の客の入りも違ったのだ。 ◆ これは、いかりやが子どものころのことだから、戦前のはなしである。この「点取り嬢」、いつごろまでいたものだろう。以下は、1959年ごろのことのようだ。 ◇ 〔磯田和一『国分寺物語』〕 かくいう僕もビリヤード屋の点取り嬢(今は見かけなくなったが、昔は玉突き屋には客のゲーム中、点を取って読み上げてくれる女性が居た)に片想いをして、けっこう通い始めたのである。ゲーム代がないときでも、さいとう氏を探しているふりを装って店を訪ね、氏を待っているような態度で1時間でも2時間でもそこに居て、その子をチラチラ眺めたり、点数を読み上げる声をうっとりしながら聞いていたものだった。 ◆ あとはというと、じつは「点取り嬢」で検索しても、ほとんどヒットしない。ほぼ同じ意味のことばとしては「ゲーム取り」(こちらは女性にかぎらない)ということばもあるようで、これなら、そこそこの数がヒットする。「ゲーム取り」の方が一般的だったのだろう。 ◇ 〔南川泰三の隠れ家日記〕 僕は玉撞き屋の息子として生まれ、玉の音を聞いて育った。その頃の玉突き屋はもうもうとした煙草の煙と、酒の匂いが充満していた。そんな中で僕たち姉弟は小学生の頃から審判をやらされた。審判と言えば格好がいいがなあに、ゲーム取りと言って玉が正しく当たるごとに「2テ~ン、4テ~ン・・」と数えるのだ。客は大抵、金を賭けていたから「当たった、当たってない」と騒ぎになり、襟首を捕まれて台の周りを引きづり回されたことがあった。 ◇ 〔古代裂つれづれ草(松本芒風)〕 一台に一人づつ、二十歳まえの若い娘が、「ゲーム取り」とゆう役目をつとめた。頭の働きが良く、得点を美声で呼び上げる能力が必要だった。白玉が敵の白玉に当たると2点。赤玉に当たると3点で、ゲームに勝つときは3点でおわる規則だったから、ゲーム取りの娘の「8(5)点ゲン(げーむ)53,323,23とゆう声が、ゲーム台の、彼方此方で美しく響いた。ゲーム取りの娘は紅、白粉の化粧はしなかったが、年は16、番茶も出花で、結構美しい娘もいた。当然のごとく、それを餌食にしょうとする、町の狼共もいて町は、おそろしい処であった。 ◇ 「しつかりおやんなさいよ」――ゲーム取りのおきみちやんが眼で怒鳴る。
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◇ 〔DAIWA:釣り用語事典〕 おもかじ(面舵):船の右舷。(左舷は、取舵) ◆ 釣り人のグログからの用例をひとつ。 ◇ 右のおじさん、激しくシャクル。浮いたビシは艫に流れる。私とオマツリ。左のおじさん、ひたすら送り込む。船が流された時にビシ置いてかれる。私とオマツリ。うーん、シュールだ。今日は釣りにならないぞっ♪ しかも、船中本命の上がった様子無し(結局面舵大艫で1) 他は黒鯛が面舵の舳で少し上がった位、取り舵はまったくのダンマリで納竿でした。 ◆ シャクル、ビシ、オマツリに納竿など、独自な用語たっぷりなのが、たのしい。わからない語は《DAIWA:釣り用語事典》で調べることにして、「面舵の舳」は「船の右側前方」ということ。
◇ 〔独立行政法人 航海訓練所〕 「おもかじ(面舵)、いっぱい!」テレビ等でよく聞く船の用語の一つですね。これは、操船のときのオーダーの1つで『舵を右に一杯にきりなさい』という意味です。一杯というのは、通常最大舵角の約35度まで舵をきることです。逆に左に曲がりたいときは、面舵にたいして“ 取舵(とりかじ)” というようになります。この呼び方は、十二支に由来しています。船首方向を12時の子(ね・ネズミ)として時計方向に十二支を配置すれば、右側の3時方向は卯(う、ウサギ)、左側の9時方向は酉(とり)になります。そこで右側を卯面(うも)と呼び、左側を酉(とり)と呼ぶようになりました。そのことより、卯面(右)に舵をきることを“面舵”(おもかじ)、酉(左)に舵をきることを“取舵”(とりかじ)になりました。 ◆ あれこれ調べて、これがいちばんわかりやすいと思ったので引用したが、ほんとうは、もっとややこしいハナシらしくて、 ◇ 〔通信用語の基礎知識〕 面舵の名前の由来は、和船で用いられていたコンパスにある。コンパスには十二支(逆針)が描かれていた。逆針なので北になる子の方向に船首を向けると、左舷方向は卯となる。そのため、左に舵を取ることを「卯面舵(うむかじ)」と呼んでいた。これが転化して「面舵」となった。 ◇ 〔日本財団図書館:船の科学館ものしりシート〕 日本語で行われる操船号令の「おもかじ」と「とりかじ」も、この十二支によって生まれました。航海用としては逆針で、西を表わす右舷正横(うげんせいおう)が酉、東を表わす左舷(さげん)正横が卯であったので、右舷を酉の側・左舷を卯の側としました。舵柄(かじづか)を右へ取るときは「酉の舵」=「とりかじ」、左へ取る時は「卯面舵(うむかじ)」転じて「おもかじ」となったといわれています。 ◆ 船の仕組みについて詳しくないので、よくわからないままつづけると、ハナシの順序としては、(むかしの船では)船を右に向けるには左に舵を取る必要があって、そのためにコンパスも左右が逆になった「逆針」のものを用いていたということを、あいだにひとつはさむ必要があるらしい。けれども、結局はほぼ同じことになって、面舵というのは右に進路を取ることである。ただ、その場合、右舷が酉、左舷が卯となって、ほんらいの方位とは逆になる(ということらしい)。(時間切れ、つづきはそのうち) |