MEMORANDUM
2009年10月


◆ いっぱんにも、年をとるにつれ、読書のテンポは遅くなるのではないかと思う。どうしても「ひっかかり」が多くなる。若いころはなにも知らないから、ほとんどただ本に従っていればよくて、なにも考えないから、それで読むのが速い。年をとると、あたまのなかに雑多な知識がふえて、あれやこれやにひっかかってしまう。それだから速くは読めない。そのことに気がついてから、だいぶ気が楽になった。ゆっくりと読む。不都合はなにもない。

◆ みっか京都にいて、いちど京阪電車で深草を過ぎた。そのとき電車のなかで読んでいたのが、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの1冊『三浦半島記』で、鎌倉時代の鎌倉に、源頼朝が鶴岡八幡宮を造営しようとしたときのこと。

◇  このあたり、まだ関東の文化は、心もとなかった。頼朝が構想するような巨大構造物を建てる棟梁がいなかった。ところが、
「武州(武蔵)の浅草にいます」
 と、いった者がいる。
 武蔵は、一様に草深かった。
 そういう状態を、普通名詞では深草という。
 その対語が、浅草かと思える。町屋があつまり、小規模ながら町であるというさまから、浅草が地名になったのではないか。浅草は浅草寺(せんそうじ)の門前町なのである。
 大きな伽藍のそばには、それを修復する宮大工が住んでいるものだが、浅草にもそういう人物がいた。
 その匠(たくみ)が、いそぎ鎌倉によばれた。

司馬遼太郎 『三浦半島記 街道をゆく42』(朝日文芸文庫,p.91-92)

◆ 深草と浅草を対比してみたことなどなかった。せっかくだから深草駅の写真だけでも撮っておこうかと思ったが、もう深草を過ぎていた。《Wikipedia》から画像を借りる。ついでに、文章も読む。

◇ この駅のホーム屋根の柱は「深草」に合わせて『深緑色』に塗られている。
ja.wikipedia.org/wiki/深草駅

◆ なるほど。気がつかなかった。ああ、そういえば、そもそも(この画像にも写っている)京阪電車の車体の色が、淡い緑と濃い緑のツートンカラーだから、これは「浅草色」に「深草色」(だろうか?)。でも浅草の色といったら、やっぱり赤だろうなあ。雷門のある浅草寺も赤いし、都営浅草線の電車も浅草駅も赤いし。

◆ 司馬遼太郎の『三浦半島記』から、もうひとつ。

◇  思わぬことに、夫人の靖枝さんから、三浦大根のふるまいをうけた。私は不敏なことに、三浦大根という名さえ知らなかった。
「東京にはあります。三浦から来るんです」
 この紀行をはじめる前、木下秀男氏に教えられた。八百屋などに、わざわざ “三浦大根” と明示されている場合もあるという。
 念のために、小学館の『日本国語大辞典』をひくと、ちゃんと出ていた。

司馬遼太郎 『三浦半島記 街道をゆく42』(朝日文芸文庫,p.51)

◆ 大阪人の司馬遼太郎が三浦大根を知らなくても不思議はない。ためしに、ワタシもネットの国語辞書を引いてみたが、出ていない。《野菜果物辞典》というサイトを見ると、

〔野菜果物辞典〕 昭和初期に神奈川県三浦郡で生まれた品種。中央がズングリした大根で肉質がきめ細かく、加熱すると甘みが出る。おでんにいい。
www.yasaiyasai.com/item/52_125.html

◆ とあって、急におでんが食べたくなる。《三浦市農協》のサイトも見てみると、

〔三浦市農協〕 大正14年に三浦産のダイコンが「三浦ダイコン」と正式に命名されて以来、三浦特産の冬ダイコンとして長年にわたって名声を維持してきました。しかし、昭和54年に大型20号台風が三浦地域を襲い、三浦ダイコンが大きな被害を受けたのを契機に、「青首ダイコン」が三浦のダイコンの座を取って替るようになりました。甘みと小振りなサイズが消費者ニーズに合い、台風被害後のまき直しでも威力を発揮したことや、三浦ダイコンに比べ栽培が容易で多収、軽量で作業が省力化されるという生産者側にとっても好ましいことなどから、わずか2~3年で切り変わってしまいました。現在は99%が青首ダイコンになっています。
www.ja-miurashi.or.jp/tokusan/daikon.htm

◆ なるほど。ここで、三浦大根だと思って載せた写真がふつうの青首大根であることに気がついて、あわてて写真を差しかえたのだった。あぶない、あぶない。

〔食の時間〕 そもそも三浦大根は、昔から三浦で生産されていたねずみ大根(高円坊大根)と練馬大根をかけ合わせて作られた。
www.keikyu.co.jp/webnagisa/06_01/food.html

◆ そういえば、「練馬大根発祥の地」というような記念碑も練馬のどこかで見て写真に撮った記憶があるのだが、すぐには探し出せそうもない。そのうち、見つかったら、練馬大根のことも調べてみよう。その前に、おでん、おでん。

◆ 三浦大根で、「ハマの番長」と呼ばれるプロ野球選手を思い出した。横浜ベイスターズの投手、三浦大輔。こどものころに、「三浦大根」とあだ名された過去もあるのではと思ったが、奈良県の出身だそうで、その可能性はほとんどないだろう。せっかくなので、《三浦大輔オフィシャルブログ「ハマの番長」》を覗いてみたら、内容はさておき、改行だらけなのに驚いた。たとえば、

◇ 本… 〔4行アキ〕 読みながら… 〔3行アキ〕 40分間… 〔3行アキ〕 半身浴で… 〔3行アキ〕 めっちゃ… 〔3行アキ〕 汗かいた! 〔3行アキ〕 マンガやけどね・・・・ 〔4行アキ〕 ヨ・ロ・シ・ク!!
ameblo.jp/daisuke18/entry-10353214788.html

◆ てな具合。「ヨ・ロ・シ・ク!!」というのが決め台詞なようだ。三浦大根にかぎらず、有名人(芸能人)のブログは、こんな改行だらけの書き方が流行っているらしい。

◇ こないだテレビで矢口真里さんが言ってたんですが、アメブロでブログを書いているタレントさんは、PVを稼いでランキングを上げるためにたくさん改行を入れるようにしているそうです。そうするとケータイで見たときにたくさんページ分割されてアクセス数が上がるんだそうです。
blog.fkoji.com/2009/01292319.html

◆ PV(ページビュー:ページごとにカウントされるアクセス数)が増えると、なにかいいことでもあるんだろうか。きっとあるんだろうなあ、どうでもいいけど。個人的には、「改行だらけ」のだらけた気分が好きではないが、ひとそれぞれ。それでケッコウ毛だらけネコ灰だらけ。

◆ 司馬遼太郎の『三浦半島記』から、さらにひとつ。

◇  青砥伝説を、すこしつづける。
 藤綱は、もと無名の人だった。その苗字が依って来る青砥という在所は、いまの東京都域の武蔵国葛飾郡に青があり、またいまの横浜市緑区にも青砥がある。
 明治期に活躍した歴史家久米邦武(1839~1931)などは、藤綱そのものが実在しなかったともいう。しかし『結城文書』には鎌倉の”引付番”としてその名があるというから、にわかなことは言いがたい。

司馬遼太郎 『三浦半島記 街道をゆく42』(朝日文芸文庫,p.119)

◆ 京成線に青砥(あおと)という駅があるが、その所在地は東京都葛飾区青戸。青砥と青戸、「砥」と「戸」の漢字表記の違いについては、

◇ 地域の有力権力者・青砥藤綱公に絡む地名なのだが、砥の字が読みづらかったので、当て字的な「青戸」という名前が使われることによって読みやすくしたという説が有力。
www4.machi.to/bbs/read.cgi/tokyo/1204148319/

◆ というように、ワタシも青砥が本来の表記で、青戸は当て字だと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。

◇ 寛政七年(1795)に著された地誌『四神地名録』(古川辰著)に青戸の表記が二通りあることを地元の古老に尋ねた回答が記されています。「砥の字はかくに六ツかしく、悪筆などにてはよめかねる文字故に、かきよき戸の字に書し候」とあり、この頃すでに「青砥」という表記も行われていたことが分かります。その理由は、書くのが難しく悪筆の者の手になると読みづらいので「戸」の文字を用いるようになったというのです。しかし、歴史的には前後関係が逆で、戸の字の方が古くから用いられているようなので、この説をにわかに信ずることはできません。むしろ、鎌倉時代の幕臣・青砥左衛門藤綱の事跡が、江戸時代の大衆読み物にしばしば採り上げられた結果、藤綱がこの地に居住したとの俗説が生まれ、これに因んで「青砥」と表記するようになったのだと思われます。
www4.machi.to/bbs/read.cgi/tokyo/1204148319/

◆ 《Wikipedia》によると、

◇ 青戸は古文献において「青津」「大戸」「大津」などと記されることもあり、表記が青戸に定着して以後もしばらく「おおと」と発音されていた。このことからも解るとおり、この地は古来、大きな港を抱えた土地であったようである。
ja.wikipedia.org/wiki/青戸

◆ また、『東京地名考』(朝日新聞社会部編)によると、

◇  地名は、古今を通じ青戸である。京成電鉄の駅名・青砥の文字は「むかしから公称として使われたことは一度もない」と『葛飾区史』も念を押す。
 「村名の起りは青砥左衛門の城跡に御座候」と青戸村名主が慶応四年(1868)に記しているように、鎌倉幕府の名判官・青砥藤綱が晩年をこの地で過ごしたと地元で信じられていた。滑川(鎌倉)に落とした銭十文を五十文使って捜させた逸話で名高い人物で、駅名は藤綱による。青戸=青砥説は、地名の類似から、また葛西城を藤綱の居宅跡と誤り伝えたことから生じたらしく、いまだに混乱があるそうだ。

朝日新聞社会部編 『東京地名考』(朝日文庫,下巻,p.85)

◆ というわけで、素人としては、にわかなことは言いがたい。とりあえず、横浜の青砥の写真を探しているところ。

◆ 「ひれかつコーヒー」は、いったいどんな味がするのだろう? コーヒーの上に大きなヒレカツ。コーヒーカップが小さすぎて、収まりきれずにカップからはみでている。あるいは、大きなヒレカツを無惨にも細切れにして、コーンスープのクルトンよろしく、コーヒーの上に極小の角切りヒレカツが浮かんでいる。あるいは、ヒレカツのエキスを抽出して、コーヒーに隠し味として混ぜてある。そんな風に「ひれかつコーヒー」をあれこれ想像してみるのは、とても楽しい。おいしいかどうかは別にして。

◆ 「ひれかつコーヒー」は、もしかすると、ふつうのヒレカツにコーヒーベースのソースをかけたものかも、と思いもしたが、それでは、ひれかつコーヒーではなくて、「コーヒーひれかつ」になってしまうのでは、という気がしてアマタのなかで却下した。これはカレーライスとライスカレーみたいなハナシで、どうも日本語では後ろにくるコトバが基準になるようだ。

◆ 東急田園都市線に池尻大橋という駅があって、どこにそんな橋があるのだろうと思ったことがあるけれど、そんな名前の橋はいくら探しても見つからない(と思う)。池尻という地名と大橋という地名があって、それをつなぎ合わせたのが「池尻大橋」という駅名なのだった。《Wikipedia》の「駅名の由来」によると、

◇ 玉川線時代には世田谷区池尻町に「玉電池尻」、目黒区上目黒に「大橋」、それぞれの電停があった。このほぼ中間地点に設置されたことから「池尻大橋」の名称とされた。「池尻大橋」という名の橋は存在せず、いわゆる複合駅名である。なお、その後目黒区側の地名は玉川通りを境に大橋二丁目と東山三丁目に分かれている。開業直前までは「大橋池尻」駅となる予定で、実際に自動券売機で発売される乗車券の試刷りがプレス発表されたものには「大橋池尻」と印字されていた。
ja.wikipedia.org/wiki/池尻大橋駅

◆ 《Wikipedia》は項目によって出来不出来の差が大きいが、こういった記述はうれしい。もし、駅の名が「大橋池尻」だったら、「池尻大橋」というありもしない橋のことなど考えずにすんだだろう。

◆ ここはのんちゃんチ。赤いテントシートに「のんちゃん」と書いてあるから、すぐわかる。ついでにスナックもやってるかもしれないけど、ここはのんちゃんチ。焼きそばも売ってるかもしれないけど、それでもここはのんちゃんチ。もうおばあちゃんかもしれないけど、のんちゃんは死ぬまでのんちゃんだから、ここはやっぱりのんちゃんチ。

◆ のんちゃんチのとなりには、みぃちゃんチ、そのとなりにはあっこちゃんチ。それから、ふぅちゃんチにかずちゃんチ。みんななかよく軒をならべてる。青、緑、黄色、それからまた赤、色とりどりのテントシートには、それぞれ「みぃちゃん」「あっこちゃん」「ふぅちゃん」「かずちゃん」とひらがなで書かれてる。そんな街があったら楽しい。

♪ 八百屋のみぃちゃんにも お医者さんちのあっこちゃんにも
  静かに夜は来る みんなの上に来る
  甘ったれのふぅちゃんにも 鼻ったれのかずちゃんにも
  静かに夜は来る みんなの上に来る

  矢野顕子 『ごはんができたよ』(作詞:矢野顕子)

◆ そうそう、「スナック三姉妹」なんてのもあった。お気に入りの写真のひとつ。こちらは「五月」「お竜」「富士」と漢字もはいって、だいぶ大人っぽい。ちょっと気軽にははいれない。

◆ しばらく会ってないけど、のんちゃんは、元気かなあ?

〔河北新報〕 新球団創設から5年、プロ野球パ・リーグの東北楽天ゴールデンイーグルスがきのう、クライマックスシリーズ(CS)に進む3位以内を決めた。宿敵西武ライオンズを直接対決で突き放しての初のAクラス。東北の多くの野球ファンとともに、喜びに浸りたい。
www.kahoku.co.jp/shasetsu/2009/10/20091004s01.htm

◆ 「日刊スポーツ」に楽天の4番、山崎武司の手記が載っていた。

◇ 5年前は、それこそ、子供のころテレビで見ていた「レッドビッキーズ」みたいだったもん。悔しいのか悔しくないのか分からなかったよね。負けても「また明日」みたいな。最近は、選手に悔しさが出てきたのが、いい傾向。
「日刊スポーツ」(2009年10月4日付2面)

◆ 親切なことに「レッドビッキーズ」の説明もある。

◇ 昭和50年代にテレビ朝日系列で放送されたテレビドラマ。石ノ森章太郎の原作で主人公は林寛子が演ずる女子高生の江咲令子。野球好きが高じて少年野球チーム「レッドビッキーズ」の監督に就任し、初回0-30のデビュー戦から優勝にまでのし上がる奮闘ぶりを描いた。「ビッキ」とは東北地方の方言でカエル。劇中に流れた「ビッキービッキー赤ガエル♪ 車にひかれてヒキガエル」の歌は、当時の小学生の間で流行した。78年1月から12月まで放送された「がんばれ!」シリーズと、80年8月から82年3月まで放送された「それゆけ!」シリーズがある。
Ibid.

◆ ビッキといえば、北海道に彫刻家の砂澤ビッキ(1931-1989)がいる。

〔あさひかわ新聞〕 一九八九年(平成元年)、五十七歳で夭折したビッキは、一九三一年(昭和六年)、旭川市近文(現緑町)に生まれた。父トアカンノ、母ベアモンコロ。先住民アイヌの血を引く。本名は恒雄。ビッキとは、アイヌ語で蛙(カエル)のこと。子ども時代の愛称だという。彼は終生、この名前を愛して使い続けた。
www.eolas.co.jp/hokkaido/kitashin/column/2007/0123.html

◆ 京都市交通局の磁気カード型乗車券は「トラフィカ京カード」。このあいだ使ったのが、これ。レッサーパンダ。「コズエ」というらいい。なかなかかわいい。岡崎の動物園に寄ろうかも思ったが、時間がなかった。

〔京都市動物園〕 市バス・地下鉄専用トラフィカ京カード「コズエ」が発売されました。人気者だったレッサーパンダの「コズエ」が平成21年4月16日に亡くなりました。多くの皆様に愛されてきた「コズエ」を記念して製作したものです。
www5.city.kyoto.jp/zoo/news/20090611-885.html

◇ 足もとの草の上にマンゴーがころがっているのが見えた。熟れて樹から落ちたばかりのもののようだ。
 ふと見上げた樹に沢山のマンゴーが実っていた。私は嬉しくなり、落ちているマンゴーを拾った。ここにも、あそこにも……。
 部屋に持ってかえって冷蔵庫の中にいれてくといいな……。私は本を脇の下に挟み、両手いっぱいのマンゴーを拾った。
 そのままさらに緩いスロープを下っていった。海の近くの樹蔭に入って、このうちのいくつかをたべてみようと思ったからだ。
 歩いていくとさらに沢山落ちているのが見えた。私は両手の中のマンゴーを眺め、手の中のものよりもっと熟れていそうなのをいくつか取りかえた。
 さらに斜面を下っていくと、足もとに落ちている数がもっと増えてきた。そして林の中の、巨大なマンゴーの樹の下で足もと一面に熟れたそいつが落ちているのを見て、私は両手のマンゴーをそっと捨てた。

椎名誠 「クックタウンの一日」(『土星を見るひと』所収,新潮文庫,p.77)

◆ こういうことってよくあるよな、と思う。たとえば・・・・・・

〔共同〕 「東京の足」山手線が10月で命名100周年を迎えることを記念し、JR東日本は7日、昭和30年代まで走っていた当時の車両を模した焦げ茶色の電車1編成の走行を始めた。運行は12月4日まで。山手線は明治42年10月に当時の鉄道院が、品川-赤羽の品川線など3路線を合わせて命名した。環状運転が始まったのは、大正14年11月。今回復活した旧型電車の色は「ぶどう色2号」といい、昭和30年代まで使われていた。JR東日本の担当者は「タイムトラベル感覚で楽しんでほしい」と話している。
sankei.jp.msn.com/life/trend/090907/trd0909071702005-n1.htm

◆ この記事をどこかで読んで、しばらく山手線に乗る機会もなかったので忘れていたが、先日、ひさしぶりに乗った山手線が、たまたま、この「焦げ茶色」の電車だったので、このニュースのことを思い出した。乗車後しばらくして、こんな会話が聞こえてきた。会話は主は若い女性たちらしい。

◇ 「なんで、この電車、こんな色なの?」
「やっぱり、明治だからじゃない?」

◆ この会話を耳にして、ワタシは「明治だから」という意味がよくわからなかった。というか、明治を明治時代のことだと理解して、明治時代は山手線の車両の色が「焦げ茶色」だったということを、なぜ若い女性が知っているのか、ということが気になったのだが、あかの他人の若い女性に聞く勇気もないので、そのまま渋谷で電車を降りた。降りてから気がついた。乗っていた電車の色は、明治時代の車両の色でもあったのかもしれないが、それよりも、どうみても、「明治製菓」のチョコレート色だった。なんだ、そういうことだったのか。

〔マイコミジャーナル〕 JR東日本は7日、山手線にチョコレート色のラッピング車両を登場させた。1909年に「山手線」と名付けられてから100周年の記念企画で、当時の塗装を再現したとのこと。該当車両はE231系の11両1編成で、12月4日まで運行される。なお、同車両はチョコレート色にちなみ、チョコレートメーカーの明治製菓とタイアップしている。
journal.mycom.co.jp/news/2009/09/08/002/index.html

◆ こちらの記事を先に読んでおくべきだった。この電車に乗って「タイムトラベル」できるひとは、チョコレートを食べたくなるひとよりも少ないだろうと思う。

  桜肉

◇ というのも、案内役の老人が、道すがら、人肉をじつはまちがえて自分も食ったことがあると告白したからだ。それに分厚い皮膚のその老人が、残留日本兵は単に飢えをしのぐためにのみあれを食べたのではなく、うまかったから食いつづけたのではないか、としごく陽気な調子で私にほのめかしたからだ。桜肉の話でもするように。
辺見庸 『反逆する風景』(講談社文庫,p.27)

◆ たまたま読んだ文庫本の一節から、ついうっかり、カニバリズム(人肉食)の方向へ流れていきそうになるのを押しとどめて、アタマのなかを「桜肉」へと切り替える。幸運なことに、つづけて読んだ小説にも桜肉。

◇ 「吉原のほうに桜肉のおいしい店があるのよ、せっかくだからそこで食べて帰ろうか?」
 青山ほたるのマンションを出てすぐに、ゆうこが言った。駅へ向かおうとしていた亮介は足を止め、「桜肉って、なんだよ?」とふり返った。
「桜肉も知らないの? 馬肉よ。馬肉すき焼きがおいしい店が吉原にあるのよ」
 ゆうこが呆れたように首をふって、駅のほうへ向かっていた亮介の手を引っ張る。

吉田修一 『東京湾景』(新潮文庫,p.191)

◆ 吉原で桜肉といえば、中江しかない。

◇ 明治三十八年(1905)の創業以来、私たちで四代目となります。浅草吉原ではたった一軒だけ残った桜鍋の店として、数少ない東京の郷土料理「桜鍋」と桜肉の文化を、こだわりを持って守り続けてまいります。
www.sakuranabe.com/

◆ 店の前を通ったことしかないが、建物自体にとんでもない風格があって、右隣の天ぷら伊勢屋と並んだ風景は見ているだけでおなかがいっぱいになる。

◇ 関東大震災後に建てられ、太平洋戦争のときの東京大空襲にも奇跡的に焼け残り、現在まで80年以上頑張っている店舗です。
www.sakuranabe.com/contents/musiam/

◆ なぜ馬肉を桜肉と呼ぶのかについては、《中江》のサイトに諸説が紹介されているが、《語源由来辞典》のいうように、

◇ 江戸時代には獣肉を食べることが禁じられており、そのまま呼ぶことがはばかられたため、猪の肉を「牡丹(ぼたん)」、鹿の肉を「紅葉(もみじ)」と呼んでいたように、馬肉にも植物系の名前をつけようとしたことが基本としてあったと思われる。
gogen-allguide.com/sa/sakuraniku.html

◆ もともと馬肉を食べることがタブー(禁忌)であったがゆえに、「桜肉」という隠語が必要とされたので、桜は美しいけれども、桜肉はけっして美称ではない。

◆ それなら、とまた考えてしまう。人肉にはどのような隠語が用意されているのだろうか? 梅だろうか? いや、「梅肉」というコトバはすでにある。薔薇だろうか? これでは、「バラ肉」に聞こえる。あれこれ赤い花を思い浮かべてみて、すっかり疲れてしまう。もう肉はたくさんで、あっさりしたものが欲しくなる。そんなときには、「桜雑炊」がいいかもしれない。

◇ 74 :2008/12/16(火) 09:18:20 町屋の五十番ってどう?
76 :2008/12/16(火) 10:46:48 >>74 五十番は最高のCP店だったが、残念ながらもうないのだよ!! チャーハンラーメン、レバニラ、焼肉ライス、カツ丼、タンメン、もやしそば・・・ あ~っ、また行きたかったな~っ!!

gimpo.2ch.net/test/read.cgi/ramen/1227978021/

◆ 2004年2月1日と2007年2月27日、町屋の五十番には二度行った。写真の記録によると、二度目はレバニライタメライスを食べたようだ(昼間から瓶ビールも飲んでいたようだ)。一度目の写真によると(つまり3年間値上がりしていなかったとしたら)、これで400円。残念ながら、三度目はない。

◇ 354 :2008/05/29(木) 07:37:27 五十番が店じまい。ん~っ、残念。 長い間ありがとう!!
372 :01:45:32 >>354 本当か?材料・燃料高についに負けたのか。あるいはおばちゃんがギブアップしたのだろうか。過去には値上げしても必ず値下げがあったがな。だからあの価格なのだが。
376 :2008/06/05(木) 07:13:58 >>372 おじちゃんは「もう、やっていけない。」と云ってたな~っ。あの価格で、あの量だからね。

gimpo.2ch.net/test/read.cgi/ramen/1200758934/

◆ 店内の写真をしげしげと見ている。給水器に貼り紙があって、拡大してみると、

◇ お水は御自由にどうぞう

◆ と書いてあった。

◆ 横浜市中区、「滝ノ上旭台町内会案内板」の一部を列挙すると、こうなる。

◇ 外人、外人、外人。外人、外人、陳、浅野。西村、柳、新田、谷口、上村。長谷川。野原。外人、外人、外人、外人。

◆ 外人がいっぱいだ。かなり驚く。なぜ外人なのだろう。なぜ外国人ではないのか、ということではない。どうして名前を書かないのだろう?

◇ 太田、太田。ハリントン、岩永、佐々木、根上、外人、鍋島。加藤、山本。空地、外人。

◆ ハリントンは外人だろうか? 空地は人名だろうか?

◇ 石川、石川、空地、ドルフィン、アパートメント。

◆ ドルフィンなら知ってる。外人の名前じゃなくって、ユーミンの「海を見ていた午後」の歌詞に出てくるレストランの名前。

♪ 山手のドルフィンは 静かなレストラン
  晴れた午後には 遠く三浦岬も見える

  荒井由実 「海を見ていた午後」(作詞:荒井由実,1974)

◆ 外人、外人、外人、と書いていたら、ヘンな感じになってきた。タト人、タト人、タト人、のような、といってもうまく伝わらないだろうが、なんというか、「外」という漢字がワタシのなかでちょっと壊れてしまったらしい。その意味がよくわからなくなり、「ガイ」という音もどこかへ行ってしまって、かろうじて「そと」とは読むことができたけれども、その「そと」がいつのまにか「タト」になってしまって、タト、タト、タト。いったい「たと」とはなんだろう? そんなばかげたことがときどき起こって、自分にすこし腹をたてる。しっかりしろよな。でも、ほんとうは、そのふわっとした感じがあんがい気持ちよかったり。似たようなハナシをどこかで書いたような気もする。

◇ 子供の頃に「短い」という字の偏と旁(つくり)を、よく逆に書いた。書いてみると、どこかおかしい。また逆に書いたか。そう思って、偏と旁を
いま書いたものと左右逆にしてみる。ますますおかしい。両方の字を比べてじっと眺めているうちに、どちらも「短」いという字に見えなくなる。

養老孟司 『涼しい脳味噌』(文春文庫,p.54)

◆ 似たようなひとがいるのを知って、ちょっと安心。

◆ ユーミンの「海を見ていた午後」で有名なレストラン「ドルフィン」。左は、2004年5月8日。右は《YouTube》にアップされていたものの背景で、いつのものかはわからない。見比べると。営業時間が1時間ちがう。アップしたひとは、夫婦ともどもユーミンの大ファンだそうで、

◇ 妻との思い出の曲です。大阪から6時間。ついに来ました。偶然か店内で「海を見ていた午後」がかかった時は妻は泣いてしまいました。
www.youtube.com/watch?v=ar_twSQbTlc

◆ ワタシの場合は、仕事で店の前を通りかかっただけなので、とくに泣く理由はない。

♪ 山手のドルフィンは 静かなレストラン
  晴れた午後には 遠く三浦岬も見える

  荒井由実 「海を見ていた午後」(作詞:荒井由実,1974)

◆ 三浦といえば、しばらくまえに「三浦大根」のハナシも書いたが、今回は、三浦岬。さて、いきなりだが、

◇ 海を見ていた午後の歌詞に「三浦岬」とありますが、三浦半島はあっても三浦岬はありませんね。
minkara.carview.co.jp/userid/375088/blog/8720944/

◆ そう、地図に三浦岬という岬はない。岬はないが、三崎ならある。よくしらないが、語源的には同じものだろうか。

◇ 大体「三浦岬」なんて言う岬はないので、北原白秋が如く「三浦三崎」としたかったのを間違って表記してしまったのだろうとずっと信じて疑わなかった。
ameblo.jp/kaiji-exp/entry-10155437938.html

◆ けれど、三浦三崎は半島の西側南方にあって、ドルフィンのある横浜側からは、晴れていようが、山がじゃましてけっして見えない。

◇ もし三浦三崎の間違いだとすると、三浦半島中央部には標高200m程度の山が連なっており、根岸の標高50m位のドルフィンから三崎は見えないハズ。
plaza.rakuten.co.jp/okadataicho/diary/200906290000/

◆ 三浦半島を三浦岬と表現したという可能性もあるだろう。

◇ 岬の大規模なものを半島と称するが、その先端や側部に突出した部分が岬である。
小学館「日本大百科全書」

◆ 大きな池を湖と呼ぶようなものだが、岬と半島のあいだに絶対的な基準があるわけではなさそうだ。むかしは大陸と呼ばれていたヨーロッパも、いまではせいぜいが亜大陸で、ヨーロッパ半島と呼ぶひとも多いし、岬と呼ぶひとまでいるのだから、それほど大きくはない三浦半島を三浦岬と呼んでもなんらさしつかえはないだろう。けれど、ドルフィンからは三浦半島自体が見えないらしい。ほとんど半島の付け根に位置しているというのに、開いた窓の方角が違うらしい。

◇ 手を上げて、ウェイターを呼び止めた。「三浦岬はどこですか?」「はあ?」 何だ、このウェイターは? 「ドルフィン」といえば、三浦岬を知ってるのが常識だろう。勉強不足だな! そう憤慨していると、「三浦岬ですか? 三浦半島のことだったら、横須賀があるのが三浦半島ですから、方角が全然違いますよ」とウェイターが答えてくれた。どうやら三浦岬というものはないらしい。
pocket-park.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_77e5.html

◆ 三浦半島自体が見えないのだったら、これ以上なにを考えても無駄になるが、つづける。

◇ 「晴れた午後には遠く三浦岬も見える♪」はずなんだが、なんと目の前にマンションが二軒あって、完全に景色を遮断している、いったいどこの不動産屋がこんなボンクラなことをやりやがったのか知らんが残念無念。この店に限らず、最近マンションが毒キノコのようにボコボコ生えてきているからせっかくの景色が見えねぇじゃねぇかという場所が多々あり、なんとかして欲しい。そうそう、なんども三浦半島に行っているけれど、三浦岬という岬はないです、三浦半島や観音崎じゃゴロがわるいから三浦岬にしたんでしょう。
app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/143640/139051/14247443

◇ あなたを思い出すレストラン「山手のドルフィン」から海を眺めていると、晴れた午後には遠く「三浦岬」も見える・・・と歌われているが、「三浦岬」なんていう岬はなく、彼女の説明ではこれは「観音崎」が正解であるものの、「観音崎」では響きが悪く、せっかくの歌詞も台無しになるとやらで「三浦岬」に変えたそうだ。なるほど、曲の流れからして、はるかかなたの水平線に「三浦岬」がそのまま思い浮かぶようだ。でも、「観音崎」さんには大変すまないことをしたと謝っており、このへんがユーミンらしくて、僕は好きなのだが。
www11.plala.or.jp/ejichan/sub47.html

◆ 直前の情報にしたがえば、歌詞の三浦岬とは三浦半島の岬のひとつである観音崎のことであるらしい。この場合、三浦岬は「三浦(半島にあるひとつの)岬」ということになるのだろう。そういえば、とまた、べつなことを思い出した。「知床旅情」である。

♪ 知床の岬に はまなすの咲くころ
  「知床旅情」(作詞:森繁久弥)

◆ 「知床旅情」の歌詞にある「知床の岬」とは、いったいどこのことだろう? 知床半島を大きな岬に見立てたものだろうか? それとも、知床半島の先端にある知床岬のことだろうか? それとも、知床半島のとある岬という意味なのだろうか? ああ、白夜は明けないが、もう朝だ。こんなことばかり考えていると、きっと「ピリカが笑う」にちがいない。

◆ 2009年8月15日、京都市伏見区。京阪バス「小栗栖」バス停。明智光秀が農民に竹槍で刺し殺されたといわれているところ。さて、

◇ 素朴な疑問ですが、「おぐるす」or「おぐりす」、どっちが本物の発音なのですか?
dairoku.s60.xrea.com/kakolog/part07.html

◆ 漢字を基準にすると、「おぐりす」と読むのが「本物の発音」ということになって、「おぐるす」はその訛りということになるのだろうが、そうではない。もともとの漢字が当て字なので、本来は「おぐるす」。たとえば、歴史作家・桐野作人のブログに、

〔膏肓記〕 小栗栖は現在、「おぐりす」と現地では読んでいるようだが、『明智軍記』には「おぐるす」とルビが振ってあることを説明する。
dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-629.html

◆ とあって、『明智軍記』などもちろん読んだことはないけれども、そういうことなのだろう。人名でも、栗栖さんは、「くりす」さんと「くるす」さんの二通りの読み方がある。

栗栖 赳夫(くるす たけお、1895年7月21日 – 1966年5月10日)は、昭和期の政治家・銀行家。元大蔵大臣・経済安定本部総務長官。
ja.wikipedia.org/wiki/栗栖赳夫

栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年2月27日 - 2004年7月19日)は、日本の広島県呉市出身の海軍軍人、陸上自衛官。第13代陸上幕僚長、第10代統合幕僚会議議長。
ja.wikipedia.org/wiki/栗栖弘臣

◆ まあ、どっちでもいいんだけど、個人的には「おぐるす」の方がなじみがあって、「おぐりす」と聞くと、なんだかリスが浮かんできて、からだが「こそばく」なる。行政による地名の読みも「おぐりす」で統一されているようだし、しばらくすると「おぐるす」と言うひともいなくなってしまうのだろうが、いまのところは「おぐるす」と言っても笑われはしないだろう。

◇ 京阪バスの車内放送がカセットテープだったころはオグルスといってました。
dairoku.s60.xrea.com/kakolog/part07.html

◇ 北海道羅臼町の知床半島先端付近で9月下旬、ヒグマがテントの中の食料を食い荒らした。環境省釧路自然環境事務所は、知床岬へのトレッキング利用の自粛要請を決めた。「クマが人の食料の味をしめた可能性がある」との判断からだ。〔中略〕 今回の被害は9月25日、知床岬の手前約5キロの「念仏岩」と呼ばれる地点であった。クマがテントの一部をツメで破り、レトルトカレー、コーンスープの素などを食い荒らしたという。道外の女性がテントを置いて、徒歩で知床岬までを往復している間の出来事だった。

◆ ああ、知床半島だ、知床岬だ! もちろん、その場に居合わせていれば、のんきに「知床旅情」など歌ってはいられなかっただろう。なにしろ場所が「念仏岩」だ、念仏を唱えるほかない。それにしても、ヒグマがカレーやコーンスープに「味をしめる」とは。どこの製品だったのか、ちょっと気になる。はちみつははいっていたのだろうか? そのうち、「知床のヒグマも選んだ○○印のおいしいカレー」なんて宣伝文句で売りに出されるかも。あるいは、ヒグマ印のコーンスープなんてのができはしないか。そういえば、二十年以上前にもこんな事件があった。

◇ 北海道・知床半島の根室側海岸にあたる羅臼町トビニタイ、漁業・鹿又清澄さん(当時69歳=以下同様)宅は、自動車道路に面した二階建ての一軒家である。1986(昭和61)年の9月15日深夜、小用に起きた妻コノエさん(68)は台所で手を洗って寝室に戻った。そのほんの1、2分後、いま通ってきたばかりの台所で、ガラガラーンと大きな音がした。
本多勝一 『きたぐにの動物たち』(朝日文庫,p.297)

◆ 不意にヒグマが訪問したのだった。1時間近く台所にいたらしい。ヒグマはそこでなにをしていたか?

◇  台所は荒らされてはいたものの、ヒグマとも思えぬようなやり方に、鹿又さん一家や親類の人々は驚かされた。流し台にあった魚の食べカスなどの生ゴミには全く手をつけず、あたかも冷蔵庫を最初から目指して来たかのように扉が開かれている。
 倒れた音がしたのは電子レンジだった。そして、サシミや揚げ物などの皿が冷蔵庫から取り出され、食べたあとの皿も割れもしないで6、7枚重ねてあったという。
 さらに、一升瓶に特級酒が3分の1ほどあったのだが、倒れて空にされ、床にこぼれた形跡もなく、ヒグマが飲んだに違いないとも。梅干しとピーマンは嫌いらしく手つかず。メロンは表面の薄い皮だけきれいに残し、ほとんど芸術的ともいえる器用な食べ方だった。

Ibid., p.299-300

◆ この事件があったとき、ワタシは札幌に住んでいたが、このニュースを新聞で読んで(テレビだったか?)妙に感心した記憶がある。ほろ酔い気分で帰っていったヒグマ。いや、ヒグマのことだ、3合くらいでは水を飲んでいるようなものか。一升瓶が「倒れて空にされ」とあるが、倒して飲んだのではなく、飲んで空にしてから倒したのだという気もする。まるで空になったお銚子を(空だということを示すために)倒すみたいに。人間なら「お銚子、もう1本!」というところを、ヒグマはこともなげにいうだろう、「一升瓶、もう1本!」。いくら待っても、だれも持ってこないので、「では、帰るとするか」と、しようがなく引き上げる。どうでもいいことが気になる。ヒグマが飲み干した特級酒の銘柄はなんだったろうか? あるいは、増毛の国稀だったら、ちょっとおもしろい。もっとおもしろいのが、鹿又さん宅のその後。

◇ 今日の宿は、「ライダーハウス・熊の入った家」。1000円也。変な名前ですが、家族が寝ている間にヒグマが押し入って勝手に冷蔵庫を開けてあさりまくり、一升瓶のお酒も空にしていったという、すごい過去を持つ宿です。事件のあった昭和61年当時は新聞などでもかなりとりあげられたらしく、当時住んでいた家が今も隣に立っていて、熊の爪あとのついた冷蔵庫などもそのまま保存されていました。
homepage3.nifty.com/komy/starthp/subpage09.html

◆ これには、ヒグマもびっくりだろう。またやってくるかもしれない。今度はお客さんとして。お詫びがてらに、鮭でも背負って。なあ、山親爺。写真は「千歳サケのふるさと館」のヒグマの親子。そういえば、鹿又さん宅に来たのも親子グマだったらしい。

◇ 足跡などで調べると、外にもう一頭子グマがいたらしい。冷蔵庫にあった生ラーメンが持ち出され、その子グマが食べた跡があった。
本多勝一 『きたぐにの動物たち』(朝日文庫,p.299)

◆ 北海道に行けば、どこにでもヒグマはいる。ワタシも知床で見かけたことがある。たしか乙女の滝に行く途中、「朝夕、熊出没注意」の看板のあったところ。遠くに見えただけだったので恐くもなかったが、親子熊だった。昼間だった。

◆ もしヒグマに会いたいなら、温泉がいい。運がよければ、玄関で出迎えてくれることだろう。左、 三笠市・湯の元温泉。右、当別町・中小屋温泉。

◆ かつて「クイズダービー」という人気のクイズ番組があって(1976年1月3日 - 1992年12月19日)、司会は大橋巨泉(のち徳光和夫)。レギュラー解答者のひとりに漫画家のはらたいら(1943年3月8日 - 2006年11月10日)がいた。はらは驚異の正答率を誇り、「宇宙人」と呼ばれた。で、《Wikipedia》の「クイズダービー」の項に、こんなことが書いてあった。

◇ 「マンホールの蓋」が正解の問題のときに「マンホール」と書いたはらに対して、巨泉は「『マンホールの蓋』と『マンホール』は全くの別物です!」と指摘して不正解としていた。
ja.wikipedia.org/wiki/クイズダービー

◆ 「マンホールの蓋とマンホールは全くの別物です」と言う巨泉は細かすぎるだろうか?

◆ なにがきっかけか忘れたが、あちこちの町でマンホールの蓋の写真を撮るようになって、さいしょはそれに「マンホール」というキャプションをつけていたのだが、あるときから「マンホールの蓋」と書くようになった。どこかのサイトのマンホールの蓋の写真に、きちんと「マンホールの蓋」と書いてあったのを見て、とつぜん、ああ、あれは「マンホール」ではなくて、「マンホールの蓋」だったんだな、ということに気がついた。もちろん、「マンホールの蓋」の「の蓋」を省略して「マンホール」と呼んでいるひともいるだろうし、それはそれで間違いというにはあたらないだろう。けれど、ワタシの場合は違った。ワタシは、それまで「マンホールの蓋」を「マンホールそのもの」だと思っていたのである。そう思って疑いもしなかった。マンホールというのは地下に掘られた穴である、というあたりまえのことに気づいていなかった。「氷山の一角」ということばもあるが、「マンホールの蓋」もそのようなものであるということに気づいていなかった。マンホールの蓋の下にある地下世界のことなどいちども想像したことがなかったから、マンホールの蓋にすぎないものをマンホールそのものだと勘違いしていたのである。もちろん、日常われわれが目にするのはマンホールの蓋だけなので、その蓋をマンホールというものなのだと思っていてもなんの支障もないけれど、「マンホール」ではなくて「マンホールの蓋」と書くことで、すこしはマンホールそのものが透けてみえるような気もする。それ以降、マンホールの蓋を外して工事をしている現場があると、のぞいてみたりもするようになった。べつにのぞいてみても、おもしろいことはなにもないのだが。

◆ そもそも、考えてみると、穴というのは不思議なものだ。マンホールの蓋を外して写真を撮ったとして、写るのは「マンホールの壁」であったり「マンホールの床」であったりして、「マンホールそのもの」を写すことは可能かどうか。穴について考え始めるとキリがなさそうなので、とりあえず蓋をする。

◆ ああ、上の画像の説明を忘れていた。左:彦根市の白鳥。中:岐阜市の鵜。右:府中市の雲雀(ひばり)。たまたま、鳥づくし。

◆ 自伝的なものを読むのが好きだ。さいきん読んだのが、大橋巨泉『巨泉 人生の選択』(講談社文庫)といかりや長介『だめだこりゃ』(新潮文庫)。どちらもブックオフの100円本。いかりや長介の本から、趣味について。

◇ 「全員集合」の時期は、ネタ作りに追いまくられて、いわゆる趣味というものはながくもてなかった。
 一時期、カメラに凝ったが、正確にはカメラの付属品を集めることに執着しただけだった。ものすごく長い1200ミリの望遠レンズとか、接写用のレンズだとか。全然その効果的な使い方なんかもわかってなかったが、少ない自由時間で何か夢中になれることといえば、カメラ屋に行ってレンズを買うことくらいだった。ニコンのありとあらゆるレンズを、使いもしないのに買い漁った。結局、使うこともなく、集めることに飽きて手放した。こんなものじゃ本当の趣味とはいえない。
 本当に夢中になったのは、アフリカだった。

いかりや長介 『だめだこりゃ』(新潮文庫,p.194)

◆ 以下、アフリカのはなしが続く。「こんなものじゃ本当の趣味とはいえない」。なんとマジメなひとだったんだろう、と思う。

◇ サケやニシンにくらべたら、イカは発生学的に「下等」といえるかもしれない。「海のウジムシ」などという綽名(あだな)もある。奇妙なことに、それを扱う人間も下等だと見るような偏見があった。網走あたりでは、サケ・マス成金とイカのシオカラ成金とでは見られる目がちがった。サケ・マスの方は「たいしたもんだ」。イカの方は「なんだ、シオカラか」――
本多勝一 『きたぐにの動物たち』(朝日文庫,p.258)

◆ 漁業にかぎらず、農業でも、ほかの職業でも、このような「奇妙なこと」はあるのだろう。引越の仕事でも、似たようなことがあって、たとえばマンションの管理人などは、そのマンションが高級であればあるほど、管理人も引越屋にたいして尊大で横柄な態度を示す傾向があるように思える。自分が住んでるわけでもないのに。いや、イカのはなしだった。

◆ 網走はいざしらず、函館はイカの天国だ。街中にイカがあふれている。イカがいっぱい。そういえば、イカは1杯(いっぱい)2杯(にはい)と数えるのだったっけ。

◆ さいごのは「イカール星人」。だめだこりゃ。

◆ いかりや長介の自伝『だめだこりゃ』から。

◇ そして吾妻橋を渡れば、そこはもう浅草である。親父はよく橋を渡っては、浅草六区へ映画や寄席を見に行ったり、お目当ての点取り嬢がいるビリヤード場に顔を出したりしていた。点取り嬢なんて、いまの人は知らないだろう。ビリヤードは台の脇にある大きなソロバンみたいなやつでスコアをつけるのだけど、点数が入るたびに、その点取り嬢が「二点~」なんて可愛らしい声を出してソロバンの玉を動かす。美形の点取り嬢がいるかどうかで、その店の客の入りも違ったのだ。
いかりや長介 『だめだこりゃ』(新潮文庫,p.18)

◆ これは、いかりやが子どものころのことだから、戦前のはなしである。この「点取り嬢」、いつごろまでいたものだろう。以下は、1959年ごろのことのようだ。

〔磯田和一『国分寺物語』〕 かくいう僕もビリヤード屋の点取り嬢(今は見かけなくなったが、昔は玉突き屋には客のゲーム中、点を取って読み上げてくれる女性が居た)に片想いをして、けっこう通い始めたのである。ゲーム代がないときでも、さいとう氏を探しているふりを装って店を訪ね、氏を待っているような態度で1時間でも2時間でもそこに居て、その子をチラチラ眺めたり、点数を読み上げる声をうっとりしながら聞いていたものだった。
www5d.biglobe.ne.jp/~mangaya/kokubunji-9.htm

◆ あとはというと、じつは「点取り嬢」で検索しても、ほとんどヒットしない。ほぼ同じ意味のことばとしては「ゲーム取り」(こちらは女性にかぎらない)ということばもあるようで、これなら、そこそこの数がヒットする。「ゲーム取り」の方が一般的だったのだろう。

〔南川泰三の隠れ家日記〕 僕は玉撞き屋の息子として生まれ、玉の音を聞いて育った。その頃の玉突き屋はもうもうとした煙草の煙と、酒の匂いが充満していた。そんな中で僕たち姉弟は小学生の頃から審判をやらされた。審判と言えば格好がいいがなあに、ゲーム取りと言って玉が正しく当たるごとに「2テ~ン、4テ~ン・・」と数えるのだ。客は大抵、金を賭けていたから「当たった、当たってない」と騒ぎになり、襟首を捕まれて台の周りを引きづり回されたことがあった。
taizonikki.exblog.jp/1088174/

〔古代裂つれづれ草(松本芒風)〕 一台に一人づつ、二十歳まえの若い娘が、「ゲーム取り」とゆう役目をつとめた。頭の働きが良く、得点を美声で呼び上げる能力が必要だった。白玉が敵の白玉に当たると2点。赤玉に当たると3点で、ゲームに勝つときは3点でおわる規則だったから、ゲーム取りの娘の「8(5)点ゲン(げーむ)53,323,23とゆう声が、ゲーム台の、彼方此方で美しく響いた。ゲーム取りの娘は紅、白粉の化粧はしなかったが、年は16、番茶も出花で、結構美しい娘もいた。当然のごとく、それを餌食にしょうとする、町の狼共もいて町は、おそろしい処であった。
www.netlaputa.ne.jp/~yume539/kire/hauku426.htm

◇ 「しつかりおやんなさいよ」――ゲーム取りのおきみちやんが眼で怒鳴る。
 まづ、煙草を一ぷく。
 ――いつうつ…………なゝあつ…………とおお…………十三…………十六…………
 おれは時間を空費してゐる。

岸田國士 『玉突の賦』(青空文庫

◆ それぞれのはなしの年代を特定するのは、面倒だからやめておく。いずれにしても、「むかし」のはなし。そういえば、先日、京都で古いビリヤード屋を見かけた。ここにも、そのむかし、「点取り嬢」やら「ゲーム取り」がいたものだろうか。

◆ 「舳」という漢字はなんて読むか? えっ? 答えが書いてあるって? 「みよし」? それはそうなんだけど、聞きたかったのは、この字にはいろいろ読み方があるけれど、ぱっと見たときになんて読むか、ってこと。えっ? こんな漢字は初めて見た? そんなひとはほっといて、「へさき」か「みよし」か。「へさき」は「舳先」とも書く。「みよし」と読むひとは、海釣りが好きなひとかなあ、と思ったり。いや、釣りが好きな知り合いが「みよし」やら「とも」やら言ってたもので。「舳」は、船の前の部分、船首のこと。船の後の部分、船尾は「艫」。これは「とも」としか読まないようだ。「舳」という漢字。「舟」の部分は「ふね」のかたちをしてるんだろう。「由」の部分も前(上だけど)を向いてる感じがする。だったら、いっそのこと、「とも」の漢字も旁(つくり)を「甲」にして、「舟甲」という字にすれば、ペアになってわかりやすかったのに。そうなってない。

♪ なんでだろ~ なんでだろ~

◆ 「舳」といえば、能登半島輪島の50キロ沖に舳倉島(へぐらじま)。輪島市海士町(あままち)という住所が示すように、海女(あま)で知られる。

◆ 気がつけば、もう10月も下旬で、酉の市も近い。浅草田圃の鷲神社でも準備が進んでいる。先に、船の前後を舳艫というということを書いたが、では船の左右はなんというか。左舷右舷がふつうだろうが、これではここでハナシが終わってしまうので、べつな言い方として、「とりかじ」「おもかじ」。ほんらいはそれぞれ、船が左に進路をとること、右に進路をとることを意味するが、船の左右の意味でも使う。釣具メーカーのダイワのサイトの《DAIWA:釣り用語事典》から、

〔DAIWA:釣り用語事典〕 おもかじ(面舵):船の右舷。(左舷は、取舵)
all.daiwa21.com/fishing/dyfc/dictionary/

◆ 釣り人のグログからの用例をひとつ。

◇ 右のおじさん、激しくシャクル。浮いたビシは艫に流れる。私とオマツリ。左のおじさん、ひたすら送り込む。船が流された時にビシ置いてかれる。私とオマツリ。うーん、シュールだ。今日は釣りにならないぞっ♪ しかも、船中本命の上がった様子無し(結局面舵大艫で1) 他は黒鯛が面舵の舳で少し上がった位、取り舵はまったくのダンマリで納竿でした。
86ta093.blog.so-net.ne.jp/2006-05-31

◆ シャクル、ビシ、オマツリに納竿など、独自な用語たっぷりなのが、たのしい。わからない語は《DAIWA:釣り用語事典》で調べることにして、「面舵の舳」は「船の右側前方」ということ。

◆ この「面舵」と「取(り)舵」の語源はというと、こんな説が知られている。

〔独立行政法人 航海訓練所〕 「おもかじ(面舵)、いっぱい!」テレビ等でよく聞く船の用語の一つですね。これは、操船のときのオーダーの1つで『舵を右に一杯にきりなさい』という意味です。一杯というのは、通常最大舵角の約35度まで舵をきることです。逆に左に曲がりたいときは、面舵にたいして“ 取舵(とりかじ)” というようになります。この呼び方は、十二支に由来しています。船首方向を12時の子(ね・ネズミ)として時計方向に十二支を配置すれば、右側の3時方向は卯(う、ウサギ)、左側の9時方向は酉(とり)になります。そこで右側を卯面(うも)と呼び、左側を酉(とり)と呼ぶようになりました。そのことより、卯面(右)に舵をきることを“面舵”(おもかじ)、酉(左)に舵をきることを“取舵”(とりかじ)になりました。
www.kohkun.go.jp/knowledge/navigation/kihon/kihon_5.html

◆ あれこれ調べて、これがいちばんわかりやすいと思ったので引用したが、ほんとうは、もっとややこしいハナシらしくて、

〔通信用語の基礎知識〕 面舵の名前の由来は、和船で用いられていたコンパスにある。コンパスには十二支(逆針)が描かれていた。逆針なので北になる子の方向に船首を向けると、左舷方向は卯となる。そのため、左に舵を取ることを「卯面舵(うむかじ)」と呼んでいた。これが転化して「面舵」となった。
www.wdic.org/w/GEO/面舵

〔日本財団図書館:船の科学館ものしりシート〕 日本語で行われる操船号令の「おもかじ」と「とりかじ」も、この十二支によって生まれました。航海用としては逆針で、西を表わす右舷正横(うげんせいおう)が酉、東を表わす左舷(さげん)正横が卯であったので、右舷を酉の側・左舷を卯の側としました。舵柄(かじづか)を右へ取るときは「酉の舵」=「とりかじ」、左へ取る時は「卯面舵(うむかじ)」転じて「おもかじ」となったといわれています。
nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/contents/071.htm

◆ 船の仕組みについて詳しくないので、よくわからないままつづけると、ハナシの順序としては、(むかしの船では)船を右に向けるには左に舵を取る必要があって、そのためにコンパスも左右が逆になった「逆針」のものを用いていたということを、あいだにひとつはさむ必要があるらしい。けれども、結局はほぼ同じことになって、面舵というのは右に進路を取ることである。ただ、その場合、右舷が酉、左舷が卯となって、ほんらいの方位とは逆になる(ということらしい)。(時間切れ、つづきはそのうち)

◆ 2003年2月19日の「PhotoDiary」を編集しなおした。編集前、この写真には「生きている」というタイトルと、

◇ 帰りのバスには狂女。無言のバス内での一人舞台。彼女が降りてしばらくのち、運転手がこう云った。「御迷惑をおかけしました。運転手よりお詫び申し上げます」。なんと見事なアナウンス。それにしても、これも黒猫のせいか? 写真の色までなんだかおかしい。

◆ という文章が添えてあった。そんなことがあったのだろう。もちろん、憶えてはいない。なんとなくなら、ああ、そんなこともあったな、という気がしないでもない。

◆ 「狂女」などということばを使ってもいいものかどうか。とにかく、仕事帰りのバス(渋谷駅発中野駅行)の車内でのできごと。どこかのバス停で、とある女性が乗車してきた。年は30ぐらいだったか、60すぎだったか、まったく記憶にないので、書くことができない。その女性が、みな疲れておしだまっている乗客を挑発するかのように、大声でなにやらぶつくさひとり言をいい始める。なにを言っていたのかも記憶にないので、書くことができないが、休むことなく、「呪い」のことばをがなりてている。乗客はあいかわらずおしだまったままだが、空気がややピリピリしてきているようでもある。だれもが「早く降りてくれないか」と願っていたことだろう。こんな緊張感にいつまで耐えねばならないのか。もしかしたら、バスを乗り換えたひともいるかもしれない。とはいえ、長距離バスではないから、もう少しの辛抱だ。どこかのバス停でその女性が下車する。とたんに、バスのなかの空気が緩んで、バスの運転者がこう言った。「御迷惑をおかけしました。運転手よりお詫び申し上げます」。

◆ そのようなことがあったのだろう。その日、バスを降り、ウチに帰って、パソコンで「PhotoDiary」の編集をしたときに、そのことを書いておきたくなったのだろう。黒猫とはなんの関係もないのに、そのことをそこに書いておいた。「生きている」という思わせぶりなタイトルはネコにたいしてのものだったか、バスの女性にたいするものだったか。それも憶えてはいないのだが。