◇ というのも、案内役の老人が、道すがら、人肉をじつはまちがえて自分も食ったことがあると告白したからだ。それに分厚い皮膚のその老人が、残留日本兵は単に飢えをしのぐためにのみあれを食べたのではなく、うまかったから食いつづけたのではないか、としごく陽気な調子で私にほのめかしたからだ。桜肉の話でもするように。 ◆ たまたま読んだ文庫本の一節から、ついうっかり、カニバリズム(人肉食)の方向へ流れていきそうになるのを押しとどめて、アタマのなかを「桜肉」へと切り替える。幸運なことに、つづけて読んだ小説にも桜肉。 ◇ 「吉原のほうに桜肉のおいしい店があるのよ、せっかくだからそこで食べて帰ろうか?」 ◆ 吉原で桜肉といえば、中江しかない。 ◇ 明治三十八年(1905)の創業以来、私たちで四代目となります。浅草吉原ではたった一軒だけ残った桜鍋の店として、数少ない東京の郷土料理「桜鍋」と桜肉の文化を、こだわりを持って守り続けてまいります。 ◆ 店の前を通ったことしかないが、建物自体にとんでもない風格があって、右隣の天ぷら伊勢屋と並んだ風景は見ているだけでおなかがいっぱいになる。 ◇ 関東大震災後に建てられ、太平洋戦争のときの東京大空襲にも奇跡的に焼け残り、現在まで80年以上頑張っている店舗です。 ◆ なぜ馬肉を桜肉と呼ぶのかについては、《中江》のサイトに諸説が紹介されているが、《語源由来辞典》のいうように、 ◇ 江戸時代には獣肉を食べることが禁じられており、そのまま呼ぶことがはばかられたため、猪の肉を「牡丹(ぼたん)」、鹿の肉を「紅葉(もみじ)」と呼んでいたように、馬肉にも植物系の名前をつけようとしたことが基本としてあったと思われる。 ◆ もともと馬肉を食べることがタブー(禁忌)であったがゆえに、「桜肉」という隠語が必要とされたので、桜は美しいけれども、桜肉はけっして美称ではない。 ◆ それなら、とまた考えてしまう。人肉にはどのような隠語が用意されているのだろうか? 梅だろうか? いや、「梅肉」というコトバはすでにある。薔薇だろうか? これでは、「バラ肉」に聞こえる。あれこれ赤い花を思い浮かべてみて、すっかり疲れてしまう。もう肉はたくさんで、あっさりしたものが欲しくなる。そんなときには、「桜雑炊」がいいかもしれない。 |
このページの URL : | |
Trackback URL : |