◆ 司馬遼太郎の『三浦半島記』から、さらにひとつ。
◇ 青砥伝説を、すこしつづける。
藤綱は、もと無名の人だった。その苗字が依って来る青砥という在所は、いまの東京都域の武蔵国葛飾郡に青戸があり、またいまの横浜市緑区にも青砥がある。
明治期に活躍した歴史家久米邦武(1839~1931)などは、藤綱そのものが実在しなかったともいう。しかし『結城文書』には鎌倉の”引付番”としてその名があるというから、にわかなことは言いがたい。
司馬遼太郎 『三浦半島記 街道をゆく42』(朝日文芸文庫,p.119)
◆ 京成線に青砥(あおと)という駅があるが、その所在地は東京都葛飾区青戸。青砥と青戸、「砥」と「戸」の漢字表記の違いについては、
◇ 地域の有力権力者・青砥藤綱公に絡む地名なのだが、砥の字が読みづらかったので、当て字的な「青戸」という名前が使われることによって読みやすくしたという説が有力。
www4.machi.to/bbs/read.cgi/tokyo/1204148319/
◆ というように、ワタシも青砥が本来の表記で、青戸は当て字だと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。
◇ 寛政七年(1795)に著された地誌『四神地名録』(古川辰著)に青戸の表記が二通りあることを地元の古老に尋ねた回答が記されています。「砥の字はかくに六ツかしく、悪筆などにてはよめかねる文字故に、かきよき戸の字に書し候」とあり、この頃すでに「青砥」という表記も行われていたことが分かります。その理由は、書くのが難しく悪筆の者の手になると読みづらいので「戸」の文字を用いるようになったというのです。しかし、歴史的には前後関係が逆で、戸の字の方が古くから用いられているようなので、この説をにわかに信ずることはできません。むしろ、鎌倉時代の幕臣・青砥左衛門藤綱の事跡が、江戸時代の大衆読み物にしばしば採り上げられた結果、藤綱がこの地に居住したとの俗説が生まれ、これに因んで「青砥」と表記するようになったのだと思われます。
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◆ 《Wikipedia》によると、
◇ 青戸は古文献において「青津」「大戸」「大津」などと記されることもあり、表記が青戸に定着して以後もしばらく「おおと」と発音されていた。このことからも解るとおり、この地は古来、大きな港を抱えた土地であったようである。
ja.wikipedia.org/wiki/青戸
◆ また、『東京地名考』(朝日新聞社会部編)によると、
◇ 地名は、古今を通じ青戸である。京成電鉄の駅名・青砥の文字は「むかしから公称として使われたことは一度もない」と『葛飾区史』も念を押す。
「村名の起りは青砥左衛門の城跡に御座候」と青戸村名主が慶応四年(1868)に記しているように、鎌倉幕府の名判官・青砥藤綱が晩年をこの地で過ごしたと地元で信じられていた。滑川(鎌倉)に落とした銭十文を五十文使って捜させた逸話で名高い人物で、駅名は藤綱による。青戸=青砥説は、地名の類似から、また葛西城を藤綱の居宅跡と誤り伝えたことから生じたらしく、いまだに混乱があるそうだ。
朝日新聞社会部編 『東京地名考』(朝日文庫,下巻,p.85)
◆ というわけで、素人としては、にわかなことは言いがたい。とりあえず、横浜の青砥の写真を探しているところ。