MEMORANDUM
2011年02月


  河童

◇ 河童を知らない日本人はいない。外国人でも、日本に留学した経験のあるひとならば、かならず河童の洗礼をうける。およそ目本にいてこれを知らないひとは、まずいないといえる。
大野芳『河童よ、きみは誰なのだ』(中公新書,まえがき)

◆ 断言されると、不安になる。ワタシは日本人で日本にいるけれど、はたして河童を知っているのかどうか。とりあえず、芥川龍之介の『河童』を読んだことがあるので、これを「Kappa」と発音することだけは知っているが、そのあとは、ほとんどなにも知らない。

  うご

◆ ひらがなで「うご」。うご? うごうご? ウゴウゴルーガ? うこん? うんこ? うど? うろ? アタマのなかに怪しげなコトバがぞろぞろうごめいて、ああ、羽後か!、きっと羽後のことなんだろうな、と思い至るまでにしばらく時間がかかった。では「酔っとこ」というのは、なんだろう? 羽後の方言? ひょっとして、ひょっとこ? なワケはないんだけど、朝の九時ではどうにも確かめようがない。

◆ 去年の11月15日、こんな葉っぱを拾った。調べてみると、ナンキンハゼの葉っぱだった。これは間違いない。というのも、

〔このきなんのき〕 関西には多いらしいけど、私の住む川崎市でも街路樹になっています。東名川崎ICのすぐ近く、「黒川-尻手」道路の両側です。私の好きなポイントです。葉っぱの紅葉もきれいだし、実も可愛いです。
www.ne.jp/asahi/blue/woods/back0211/692/692.html

◆ という文章を読んだからで、ワタシが拾ったのが、まさしく「東名川崎ICのすぐ近く、『黒川-尻手』道路」だった。この「『黒川-尻手』道路」、これは尻手(しって)と黒川(くろかわ)を結ぶ(予定の)道路のことだから、黒川尻手でも尻手黒川でも同じことだが、ふつうは、尻手黒川道路(あるいは、尻手黒川線)と呼ばれている。尻が頭にあるのが、気になるひともいるかもしれない。

◆ で、この尻手黒川道路を、「シッテク」と略すひとがいるのをさいきん知った。ついでに、これも調べてみると、

〔まちBBS:★☆☆宮前平知ってる?尻手黒川線とか解る?☆☆★★ その13〕 282:皆さんは尻手黒川線を略して呼ぶときなんていいますか? 私は「しっくろ」ですが。
284:地元民が略しているのは聞いたことが無いね。そういえば、第三京浜を川崎、横浜の人間は「第三」って言うが、他の地域では「三京(さんけい)」って言うねぇ。
285:尻グロ。
286:尻手黒川は“尻手”、第三京浜は“第三”。周りの友達もだいたいそう呼んでます。以上、20年以上川崎市民ですた。
288:某全国規模引越しでバイトしているが、尻手黒川は「しっくろ」第三京浜は「さんけい」と言ってますよ。ちなみに溝口は「のくち」これは普通か。。。
289:「しってく」って呼んでます。
290:うちは「黒川線」「第三」「ノクチ」かな。

mimizun.com/machi/machi/kana/1079796788.html

◆ と、ひとそれぞれで、「シッテク」はいまのところ、「ノクチ」(溝口)ほどの一般性を獲得するには至っていないようだけれども、せっかく覚えたので、タイトルに使ってみた。

◆ 高田宏の『信州すみずみ紀行』という本を読んだ。

◇ 角間温泉から千古温泉への歩きでは、さきに書いた「やまんば」の落書きをはじめ、私の旅を旅にしてくれるいろいろなものに出会ったが、鋸の店の看板もその一つだった。
高田宏『信州すみずみ紀行』(中公文庫,p.118)

◆ 旅を旅にしてくれるもの、か。なるほど。それは、たとえば、「ノコギリ店」の看板。

◇  しばらく歩いて、目についたのが、「ノコギリ店」の看板だ。
 ――ふうん、やっぱり山国だなあ。木の暮らしが生きているんだなあ。
 私たちの暮らしのなかで、鋸は今はほとんど使われなくなった。木を伐ったり、木で物をつくるということが稀になったからだ。かつて木でつくった物の多くが今はプラスチックなどで出来ている。木製品でも自分でつくることがなくなった。つくることが少なく、買う世の中になっている。
 しかし、鋸の店があるということは、ここらへんでは今も暮らしのなかに鋸がよく使われているということだろう。つまり、木の暮らしがあるということだ。「ノコギリ店」の看板で、私の気持ちがはずんだ。もうそれだけで、この土地が好きになる。敬意を表したくなってくる。
 この旅の一日目、私はタクシーで、戸石城跡、真田氏館跡、真田本城跡、信綱寺、長谷寺など、真田一族のゆかりの地を能率よく見てまわったのだが、旅というものはやはり自分の足で歩いているときだけ、思いがけないものを見せてくれるものだ。その日タクシーでこの道も通っていたようだが、「ノコギリ店」の看板には気づかなかった。車で走れば短時間に多くの場所へ行き多くのものを見ることができるけれども、あらかじめ予定したものだけしか見ないことになりがちだ。旅がほんとうに旅になるのは、予定外のものに思いがけず出会うところからだ。それには歩くのがいちばんいい。自戒をこめてつくづくそう思った。

Ibid., p.117-118

◆ 旅を旅にしてくれるもの。それは、あるいは、「やまんば」の落書き。

◇ 国道に出てしまうと、とばしてゆく自動車の往来にひやひやしたのだが、電柱の一本にスプレーで書かれている落書きに私は目をみはった。「やまんば」と大きく落書きされていた。真田の里の暴走族あたりが書いたのかと思うが、「やまんば」とは! 平地の町では考えられない、山国の落書きだった。さすが、猿飛佐助の里だ。
Ibid., p.113

◆ ワタシが同じ道を歩いて、「やまんば」の落書きや「ノコギリ店」の看板を目にしたとしても、それらをことさらに山国と結びつけて考えるかどうかはわらないけれども、「旅がほんとうに旅になるのは、予定外のものに思いがけず出会うところからだ。それには歩くのがいちばんいい」という箇所にはまったく同意する。

◆ 高田宏は、旅先でふと偶然に出くわした看板や落書きにこそ旅のエッセンスを感じると書いていた。それには、歩くことが必要であるとも。

◇ 車で走れば短時間に多くの場所へ行き多くのものを見ることができるけれども、あらかじめ予定したものだけしか見ないことになりがちだ。旅がほんとうに旅になるのは、予定外のものに思いがけず出会うところからだ。それには歩くのがいちばんいい。
高田宏『信州すみずみ紀行』(中公文庫,p.118)

◆ 引越屋の日常というのは不思議なもので、ときに仕事をしているのか旅をしているのかわからなくなることがある。といっても、そんなことを思っているのはワタシくらいなもので、せっかく日々ことなる場所へ出かけられるというこのうえない僥倖を手にしているというのに、みな仕事が終わるとすぐに帰りたがる。もったいないと思うが、ひとそれぞれだから、しかたがない。直行直帰のワタシだけ、ひとり散歩をして帰る。あるいは、現場に早めに着いて朝の散歩を楽しむ。そんなとき、さほど遠くでなくても、旅をしている気分になる。

◆ 散歩も旅も、ワタシには区別がつかない。(遠くでなくても)知らない町で出会った看板や落書き。高田宏に倣っていうなら、「旅を旅にしてくれるもの」。たとえば、「椅子店」の看板。たとえば、「ばけもの」の落書き。

◆ と高田宏に倣ってみたが、ちと倣いすぎたようだ。信州で「ノコギリ店」の看板や「やまんば」の落書きに出会えば、山国とつなげることで、それらが旅を旅たらしめるものにもなろうけれど、「椅子店」の看板や「ばけもの」の落書きでは、それらをその場所に結びつけるカギがない(いや、あるのだろうけど、それをさがすには時間がかかる)。旅と散歩の違いはこんなところにあるのかもしれない。だとすれば、ワタシは遠くへ行っても(一般的にいえば、旅をしているときでも)、いつも散歩をしているだけのような気がする。

◇ ものには旬というものがある。いや、あるはずだった。
鷲田清一『新編 普通をだれも教えてくれない』(ちくま学芸文庫,p.127)

◆ 今年のセンター試験の国語の問題に鷲田清一の文章が出たというので、ちょうどそのとき鷲田清一の本を読んでいたワタシは、解いてみようかという気になった。という気になっただけで、もちろん、いまだに解いてはいない。ものには旬というものがある。旬はとうに過ぎてしまったので、また来年。とはいえ、せっかくなので、読んでいた本の一節を引用すると、

◇ この季節(六月)の京都、和菓子と言えば、あの直角三角形のういろうの上に小豆を埋め込んだ水無月を食べるのが習慣である。習慣というよりもむしろ生理と言うべきで、舌がどうしてもそれに焦がれる。北山にある氷室から献上された氷を象ったあのまっ白のういろうを食べないと、梅雨時の鬱からからだが醒めないし、また火照りもなかなか冷めない。七月になればこんどは綜(ちまき)だ。綜は祇園祭という京の夏の祭りにどうしても欠かせない。ういろうを包む笹の香りがほんのり鼻腔を剌して、なんとも心地いい。
鷲田清一『新編 普通をだれも教えてくれない』(ちくま学芸文庫,p.127)

◆ と、これまたまったく旬を無視したものになってしまうのは、どうしてだろう?

◆ 鷲田清一の同じ文章をふたたび引用。

◇ この季節(六月)の京都、和菓子と言えば、あの直角三角形のういろうの上に小豆を埋め込んだ水無月を食べるのが習慣である。習慣というよりもむしろ生理と言うべきで、舌がどうしてもそれに焦がれる。北山にある氷室から献上された氷を象ったあのまっ白のういろうを食べないと、梅雨時の鬱からからだが醒めないし、また火照りもなかなか冷めない。七月になればこんどは綜(ちまき)だ。綜は祇園祭という京の夏の祭りにどうしても欠かせない。ういろうを包む笹の香りがほんのり鼻腔を剌して、なんとも心地いい。
鷲田清一『新編 普通をだれも教えてくれない』(ちくま学芸文庫,p.127)

「水無月」の部分だけで止めておけばいいものを、ついでだと思って、七月の粽(ちまき)まで続けて引用してしまったら、ちょっと困ってしまった。「綜は祇園祭という京の夏の祭りにどうしても欠かせない」とあって、それはたしかにそうだ。けれど、そのあとの「ういろうを包む笹の香りがほんのり鼻腔を剌して、なんとも心地いい」という箇所はどうなのだろう? 祇園祭の粽は食べられるものだったのか?

◇ 祇園祭で、厄除けのお守りとされるのがちまきである。このちまきは私達が想像するものと違い、笹だけでできていて食べられない。
www.actside.com/gion/02year/1-4.html

◆ んじゃなかったのか? もちろん、食べられる粽もあるけれど、それは端午の節句に食べるものじゃなかったのか?

♪ 柱のきずは おととしの
  五月五日の 背くらべ
  粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
  計ってくれた 背のたけ

  「背くらべ」(作詞:海野厚、作曲:中山晋平)

◆ よくわからないので、端午の節句までに調べておこう。

◆ 知らなかったが、鷲田清一の現在の肩書きは「大阪大学総長」であるらしい。かれが大学組織のトップの職にあるということも知らなかったが、大阪大学のトップの呼称が「学長」ではなく「総長」であることも知らなかったので、ちょっと気になった。国立大学(法人)で、「総長」を用いるのは東京大学だけだというハナシを聞いた記憶があるのだが(京都大学もだったか?)、思い違いだったろうか? 大阪ということで、東京への対抗意識の表れなのかとも思ったり。たとえば、かつての「大阪警視庁」のように。

〔asahi.com(朝日新聞社):【戦後に5年実在!】「大阪警視庁」ホンマやで - 関西〕 「戦後しばらく大阪警視庁があった覚えがあります。どんな経緯で『警視庁』は東京だけになったんですか」。編集部に妙な投稿が届いた。大阪にも警視庁? そんなアホな。でも、投稿主の井上勉さん(72)によると、小学校時代、住んでいた姫路から国鉄で大阪に行くと、車体に「警視庁」とあるパトカーが駅前にいてカッコイイと思ったという。「橋下知事がしきりに『大阪都』や言うてるでしょ。ほんで思い出しまして」
www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK201012010130.html

◆ 調べてみると、東大、京大、阪学にかぎらず、

〔愛知教育大学:学長トピックス 2008年6月号〕 なぜか、旧7帝大の学長は、別格らしく、総長と呼びます。
www.aichi-edu.ac.jp/intro/message/2008_06.html

◆ ということのようで、はてさて、これはいつからのことなのか? こんなハナシもある。

〔5号館のつぶやき(2005/01/27)〕 北大の学長が総長と呼ばれるようになったのは、それほど昔の話ではありません。それまでは学長と呼ばれていたものが、当時のH学長が東大や京大では学長のことを総長と呼んでいるので、(「自分もそう呼ばれたい」とまで言ったかどうかは定かではありませんが)同じ旧帝大の北海道大学でも学長のことを総長と呼ぶことにしたいと提案し、あっさり決まってしまいました
shinka3.exblog.jp/455847/

◆ 国語の入試問題といえば、センター試験の前身である共通一次試験で、こんなハナシもあるらしい。

◇ 芥川賞選考委員の黒井千次が、昔、自分の書いた文章「春の道標」がセンター試験(共通一次)に出たので挑戦したら、自分の文章なのに正解が10問中3つしかなかったので、キレたという話がある。
kenshijun.exblog.jp/13999365/

◆ 共通一次に黒井千次の小説『春の道標』が出題されたのは、まさにワタシが受験した年で、しかも家の本棚には『春の道標』の単行本があったのだった。しかし、その先の記憶が怪しい。試験の前にこの本を読んでいて、しめしめとほくそ笑んだのだったか、試験の後にこの本が本棚にあることに気がついて、地団駄を踏んだのだったか。たぶん後者だったような気がするが、どちらにしても試験の出来にたいした違いはなかっただろうと思う。さて、どんなハナシだったのか? すっかり忘れてしまって、なにも思い出せない。

◆ で、ちょっと調べてみると、ああ、ちょっと思い出した。そうそう、「棗(なつめ)」という女の子が出てくるのだった。主人公の高校生、倉沢明史が好きになった女の子が「棗」。わが子に「なつめ」と名づけた父親がいる。

◇ 名づけの由来はといいますと、黒井千次さんの小説『春の道標』(新潮社刊行・1981年)で主人公・倉沢明史が恋する可憐な日本的少女・染野棗の「棗(なつめ)」からつけました。〔中略〕 この作品を知ったきっかけは、私が高校3年の受験生のころ、現代文の問題集で読解として出題されたことです。その後、ストーリー自体が気になって、絶版となった同書を古本屋さんで探し回り、手に入れて話の続きを読むことができました。
www.subarusya.jp/syain/suzuki57.html

◆ 試験問題がきっかけで、この小説をあらためて読みたくなったというひとは多いようで、

◇ 黒井千次『春の道標』。国語のテストで使われてたが、思わずひきこまれ、原文を読みたいと思いつつもう何年たつか。
twitter.com/tatebayashifan/status/28587421259

◇ 黒井千次の「春の道標」との出会いは大学受験の頃に遡る。共通一次試験、現国の過去問。問題文として切り取られたごくわずかな部分に惹かれた。本屋を廻って文庫本を見つけ出し、読む。受験生だというのに。明史と棗の切ない物語にふるえる。
gimura.blogzine.jp/whitestone/2010/03/post_6a81.html

◇ 受験勉強で問題集を解いていたときにこの小説に出会いました。ここまで続きが読みたくなったのは初めてです。
www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=27450

◇ 国語の試験で出た問題の物語に入り込みすぎて、次の日の試験も引きずって受験に失敗した話を先生がしてくれた。その物語は黒井千次の「春の道標」だと。
favotter.net/status.php?id=13850137835

◇ 私とこの物語との出会いは、高枚三年生の時の模擬試験であった。本屋をまわってこの一冊の文庫本を買って下宿に帰り、一気に読み終えた。不思議なくらい主人公明史に感情移入した。明史と同じく、どきどきしたり、不安になったり、絶望したり、喜んだりできた。失恋で終わるこの物語を読み終ったあとの、何か心にぽっかりと穴があいてしまったような虚脱感は、今でもはっきりと心に記憶されている。
www.maebashi-hs.gsn.ed.jp/toshokan/tekisho/tekisho2005/haru_no_dohyo.html

〔Yahoo!知恵袋〕 資料を間違えて捨ててしまったので書名のわからなくなってしまった本があります。進研ゼミ高校講座の小説文として何度か文章が引用されていました。主な登場人物が「棗(なつめ)」という名前の女の子と、彼女と付き合っている男の子(名前は忘れてしまいました)、それと棗の婚約者(素性は覚えていません)です。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211962787

◆ 実家にまだ『春の道標』はあるだろうか?

◆ 黒井千次といえば、「子供のいる駅」という短篇が忘れられない。その冒頭。

◇ はじめての一人旅というものは、まだ幼い心と身体にどれほどの緊張と期待と夢を背負わせるものであることか。たとえその旅が、間違って配達された手紙を四つ角の鈴木さんの郵便受けまで届けるための往復であれ、夕暮れの文房具屋への折り紙や画用紙の買物であれ、子供にとってそれが世界に向けてのたった一人の最初の旅であることに変りはない。そしてその旅で、小さな出来事や奇妙な冒険に出会ったからといって、その子供が不幸であったときめることは誰にも許されない。
黒井千次「子供のいる駅」(阿刀田高編『日本幻想小説傑作集Ⅰ』所収,白水Uブックス,p.285)

◆ はて、ワタシの「はじめての一人旅」はいつどのようなかたちでなされたのだったか? てんで記憶にないところをみると、なにも「小さな出来事や奇妙な冒険」に出会うことがなかったのだろう。さて、小学二年生の少年テルの「はじめての一人旅」は、五つほど先の駅までの往復だった。「小さな出来事」は、帰りの電車を下車した駅で起こった。改札口を前にして、切符を出そうとポケットをさぐるが、見つからない。なんということだろう、母親に「キップを落としちゃだめですよ」「なくしたら、もう駅から出られなくなるんだからね」と念を押されていたというのに、不覚にもその切符をなくしてしまった。どうすればいいのかわからなくなって、テルは駅のホームの片隅にうずくまる。すると、背後からの声。

◇ 「キップ、なくしたんだろ?」
 自分よりすこし年上らしいジーパン姿の男の子が目の前に立っていた。
「心配ないわよ。私達、みんなそうよ」
 お誕生パーティーの帰りらしい、白いドレスを着て小さなバスケットをさげた女の子が脇から言った。ロ々になにかを呟く二十人近い子供達の影が、板張りの隙間から射し込む光線の中にぼんやり浮かんで見えた。奥に行くほど低くなっている斜めの天井が激しく鳴った。電車が来て、大人が慌てて走っているのさ、と野球帽にユニフォームをつけた子供が教えた。どこかで見たことのある顔だった。
「ずっと、いるの?」
 テルは埃臭い空気にようやくなじみながらジーパンをはいた男の子に訊ねた。
「まあ、な」
「キップが出て来るまで?」
「さあ、出ては来ないだろ」
 少年は愉快そうに笑った。今日からここがぼくのうちだ、とテルは咄嗟にさとった。もう大人になるまでぼくはここから出ないだろう、と他人ごとのように思いながら彼はコンクリートの床に尻をつけた。また斜めの天井がゴトゴト鳴っている。

Ibid., p.291-292

◆ 横須賀市大津町。「坂本龍馬の妻 おりょうさんの街 横須賀大津」と書かれた幟を見て、はじめて坂本龍馬の妻の名を知った、と書けばおそらく笑われるだろうから書かない。坂本龍馬の妻が「龍」であったことは、NHKの大河ドラマなどで繰り返し取り上げられていることもあって、ほとんどのひとにとっては、「そんなの常識」であるだろう。《Wikipedia》によると、

〔Wikipedia:楢崎龍〕  楢崎 龍(ならさき りょう、天保12年6月6日(1841年7月23日) - 明治39年(1906年)1月15日)は江戸時代末期から明治時代の女性。名は一般にお龍(おりょう)と呼ばれることが多い。
 中川宮の侍医であった父が死んで困窮していた頃に坂本龍馬と出会い妻となる。薩長同盟成立直後の寺田屋遭難では彼女の機転により龍馬は危機を脱した。龍馬の負傷療養のため鹿児島周辺の温泉を二人で巡り、これは日本初の新婚旅行とされる。龍馬の暗殺後は各地を流転の後に大道商人・西村松兵衛と再婚して西村ツルを名乗る。晩年は落魄し、貧窮の内に没した。

ja.wikipedia.org/wiki/楢崎龍

〔Wikipedia:楢崎龍〕 墓は横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)にある。長く墓碑を建てることができなかったが、田中光顕や香川敬三の援助を受けてお龍の死の8年後の大正3年(1914年)8月に妹の中沢光枝が施主、西村松兵衛らが賛助人となりこの墓を建立し、墓碑には夫の西村松兵衛の名ではなく「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。
ja.wikipedia.org/wiki/楢崎龍

◆ 坂本龍馬は姉宛の手紙でおりょうのことにふれ、「名は龍と申し、私に似ており候」と書いているそうだが、ワタシが興味を覚えたのも単純にこのことだった。龍馬とお龍、夫婦の名が似ている。龍の夫婦。

◆ 龍の夫婦といえば、もうひと組知っている。フランス文学者の澁澤龍彦(本名は龍雄)とその妻、龍子(りゅうこ)

◇ 龍雄(本名)と龍子。二人とも名前に龍の字がついているのは、辰年生まれだからです。一回りちがいの辰年です。埴谷雄高さんからいただいた葉書に、「ふたり龍がそろうと(中日)ドラゴンズですね」とありました。
澁澤龍子『澁澤龍彦との日々』(白水社,p.20)

◆ そういえば、ワタシも辰年生まれだった。たまには「Saturnian」を「Taturnian」に変えてみようか。

◆ 坂本龍馬の妻、おりょうさんのつづき。こんなエピソードも多くのひとにとっては「そんなの常識」であるのかも。

〔横須賀市観光情報「ここはヨコスカ」〕 慶応2年(1866年)「寺田屋事件」の時、入浴時にもかかわらず、裸で飛び出し危機を知らせ、龍馬を救ったことで有名です。
www.cocoyoko.net/keikyu_otsu/index.html

◆ あまり幕末維新の知識がないので、「寺田屋事件」を辞書で引くと、

てらだや‐じけん【寺田屋事件】 文久2年(1862)尊王攘夷派の薩摩(さつま)藩士有馬新七らが、関白九条尚忠・所司代酒井忠義の殺害を企て京都伏見の舟宿寺田屋に結集したのを、島津久光が家臣を遣わして襲い、殺害した事件。寺田屋騒動。
小学館「大辞泉」

◆ とあって、これは坂本龍馬とは関係がない。「寺田屋事件」と呼ばれる事件は二度あったということらしい。ひとつめが文久2(1862)年の寺田屋騒動、ふたつめが慶応2(1866)年の坂本龍馬が伏見奉行に襲撃された寺田屋遭難。なるほど。で、この寺田屋遭難のとき、おりょうさんは、

〔Wikisource:安岡秀峰による楢崎龍女史の坂本龍馬回想録(昭和6年)〕 「あの時、私は、風呂桶の中につかつて居ました。これは大変だと思つたから、急いで風呂を飛び出したが、全く、着物を引掛けて居る間も無かつたのです。実際全裸(まるはだか)で、恥も外聞も考へては居られない。夢中で裏梯子から駆け上つて、敵が来たと知らせました。その時坂本は、自分の羽織を手早く行燈に冠(かぶ)せて、光を敵の方に向け、自分と三好さんは暗い方に隠れて、敵が表梯子から上つて来る鼻先へ、鉄砲を打(ぶ)つ放しました。私はしばらく様子を見て居ましたが、危険(あぶな)いと思つたので元の裏梯子から湯殿の方へ引返しました」
ja.wikisource.org/wiki/楢崎龍関係文書/阪本龍馬の未亡人/二回

◆ さきに「寺田屋事件」は二度あったと書いたが、あるいは三度かもしれない。寺田屋にはおりょうさんが素裸で飛び出した風呂桶が残っているというのだが(画像はネットから拝借)、これがどうも怪しいらしく、

〔Wikipedia:寺田屋事件〕 現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。2008年になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。
ja.wikipedia.org/wiki/寺田屋事件

◆ これが「平成の寺田屋事件」とか。

◆ 「平成の寺田屋事件」のつづき。

〔J-CASTニュース:龍馬ファンに衝撃 事件の舞台「寺田屋」に建て替え疑惑(2008/09/05)〕  「週刊ポスト」は2008年9月12日号で、「平成の『寺田屋騒動』」と題し、「寺田屋」が「レプリカ」ではないかという記事を載せている。京都・伏見にある寺田屋は、1866年、坂本龍馬が滞在中に幕吏に暗殺されかけた「寺田屋事件」で有名だ。館内には、襲撃を受けた龍馬が応戦、ピストルを発射した痕だろうと言われる弾痕や、刀痕が残っている。また、入浴中だった寺田屋の女将お登勢の養女・お龍(のちの龍馬の妻)が、龍馬に知らせるため、裸のまま駆け上がったと言われる階段もそのままだ。館内では、「この寺田屋は維新の舞台となった当時の船宿そのままでございます。これが現存することも珍しいことでございますが、この寺田屋の建物の中で歴史が作られたのでございます・・・」という音声解説が流れている。
 ところが同誌は龍馬に関する書籍を元に、寺田屋は1868年の戊辰の兵火(戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い)で焼失していて、もとは現在の寺田屋東側にある庭に建っていたと推測する。さらに庭には「寺田屋遺址」と書かれた碑があり、地元の人は「東側の庭になっている別の場所に建っていたと祖父は話していました」と明かしている。にもかかわらず、「当時のまま」を謳うのは「食品偽装ならぬ『観光偽装』」ではないかとしている。

www.j-cast.com/2008/09/05026320.html?p=all

◆ この「疑惑」について、京都市の担当者はこう述べたそうだ。

◇ 「話を聞いたことはありました。しかし民間の建物だったことと、ご存知のように京都には神社、寺、文化財と星の数ほどの観光資源があり、市がすべて調査することはできません。各施設が責任をもって管理していただかないと」
Ibid.

◆ 「星の数ほどの観光資源」か。いや、まったくそうだろう。たとえば、寺田屋の前を通った次の日に訪れた千本釈迦堂にも、本堂の柱に「刀槍のきずあと」があったが、これは応仁の乱(1467~1477)のときにつけられたものだというが、これにたとえ疑惑があったとしても、もはや確かめようもないだろう。

◆ べつに京都にかぎらない。ローマだってそうだ。そうだ、どころではない。ローマの前では、京都なんか青二才だろう。

宮崎 このまえイタリアヘ行ったときに、ホテルの前に古い屋敷がありまして、はいりたくてしょうがないので門番を買収しました。のぞかせてくれ、と。そうしましたら、夜の八時過ぎになると人がいなくなるから、庭だけなら一人五千リラ、屋敷の中に絵があるがこれは一人一万リラだという話なので、のぞかせてもらいました。旅の最後の夜だったのですが、真のイタリア男に会ったという感じでした。忍び込んだ屋敷の天井画がとてもきれいで、これは国宝クラスだと勝手に思ったのですが、他にもいくらでもありそうなんです。ローマというのは奥深いなぁって……(笑)。
堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』(朝日文芸文庫,p.98-99)

◆ 考えようによっては、「おりょうの風呂桶」だって、それがおりょうが使ったものでないにしても、すでに「それなりに」古いものであるのだろうから、京都でなければ、それなりの歴史的価値をもつことになって、「むかしのくらし」資料館みたいなところに保存されているかもしれない。とそんなことを考えてみたりした。

◆ ところで、大河ドラマの「龍馬伝」で、真木よう子演じるおりょうの入浴シーンというものはあったのだろうか?

◆ どうしてなのだろう? 「龍の夫婦」のことを書いたあとすぐに読み始めた文庫本に、また龍がいた。こういう「たまたま」はたいへん好きなのだが、出来すぎていて、ちょっと不安になる。まあいい、これはなにかの吉兆だろう。

◇  戦争中の辰年生まれ。クラスには龍一もいれば辰雄もいた。辰五郎などと威勢のいいのもいた。だいぶ前に引退した相撲の播竜山は郷土(くに)の名前とエトをとったシコ名で、たしか同郷同年生まれだったと思う。不器用な力士で、おっつけ一本槍、ひと場所だけ小結までいったが、根(こん)がなくなるとアッというまに幕下まで転落した。
 名前だけではない。ごく身近なところに多くの龍がいた。水汲みは子供の日課の一つだったが、ポンプの柄のところにうっすらとした絵模様をとって細長い龍がひそんでいた。「水を吐く」の意味をこめてだろうが、ちょっと油断するとすぐに水切れして悲鳴のような音をたてるばかり。毎朝、仏壇に御飯を供えにいくと、蓮の台(うてな)の横手から金箔づくめの龍がにらんでいた。 神社の境内で三角ベースの野球をしているとき、ホームラン性の当りが拝殿の軒端に突き出た龍の頭にぶつかってファールになり、味方をくやしがらせた。その神社の祭礼ともなると、取っておきの引き幕がもち出されたが、金糸銀糸もあざやかな龍があらわれ、ガラス製の目玉をきょろつかせていた。

池内紀『温泉旅日記』(徳間文庫,p.184-185)

◆ すこしは減ったかもしれないが、いまでも多くの龍がいるだろう。播竜山のかわりに朝青龍がいる、いや、もういないのだったか。子供の日課に水汲みはないかもしれないが、神社に行けば、龍が口から勢いよく水を吐き出しているだろう。ほかにはどこにいたっけな? などと考えながら、つづきを読む。

◇ どうしてこんなにもどっさり龍がいるのだろう? ひとつ、温泉にでもつかりながらとくと考えてみたい。
Ibid., p.185

◆ と、これは『温泉旅日記』という本だから、温泉のハナシになるのは仕方がない。ワタシも、急なことだから温泉には行けないけれど、「龍」の名をもつ銭湯に行ってとくと考えてみるのはどうだろう? なかなかいい思いつきなような気がする。善は急げ、ではさっそく出かけよう。目指すは「天龍泉」。なんと立派な名前だろう。そういえば、天龍という力士もいたっけな。プロレスに行っちゃったけど。

◆ 龍が出た池内紀『温泉旅日記』のあとに読んだのが、山口瞳『温泉へ行こう』。どちらもブックオフの105円本。さすがに龍は出てこないようだ。そのかわり、

◇ 僕は、当時野球部の選手であって、激しい運動に耐えていたから、中房から合戦小屋までなんか屁の河童、道中の苦しさなんか記憶に価するものではなかったのだ。
山口瞳『温泉へ行こう』(新潮文庫,p.47)


◆ 屁の河童。龍ではなくて河童が出てきた。ああ、そうだった。龍のまえには河童が気になっていたんだった。

◇ 河童ほど人々に親しまれ、もてはやされている妖怪はない。女児の断髪を「お河童」といい、泳ぎ上手のものを「河童」という。少しも気にかけないこと、平気なことを「屁の河童」という。寿司の中にも「河童巻き」というのがある。あれやこれや日常生活のなかで「河童」という言葉はよく使われているし、「祇園さんまでに池に入ると河童に肝を技かれてしまうぞ」といわれ、いろいろの河童噺が夏の季節感を盛り上げる。かつては河童の見世物もあったし、夏祭りに男児が河童の面をつけて遊び回る風もあった。
岩井宏実『暮しの中の妖怪たち』(河出文庫,p.35)

◆ 屁のかっぱ、おかっぱ、かっぱ巻き。それから、また「祇園さん」。河童は牛頭天王とどんなかかわりがあるのだろう? などなど、あれやこれやをすべて気にしていたら、キリがないから、とりあえず、「屁の河童」について。

へ‐の‐かっぱ【屁の河童】 なんとも思わないこと。するのがたやすいこと。「こんな仕事は―だ」
小学館「大辞泉」

〔日本語俗語辞書〕 屁の河童は木っ端の火(こっぱのひ)という慣用句からきている。木端(木の屑)の燃える火は火持ちしないことから、たわいもないこと・はかないことを木っ端の火といった。これが訛って河童の屁となり、更に転じて屁の河童となった。
zokugo-dict.com/29he/henokappa.htm

〔日本辞典〕 「屁の河童」は、「木っ端の火(こっぱのひ)」が訛って、「河童の屁」となり、さらに反転したもので、「河童」「屁」は当て字。「木っ端の火(こっぱのひ)」は、木っ端は簡単に火がつくことから、転じて、取るに足りないこと、簡単にやってのけることという意味が生じた。他に、河童の屁は、水中でするため勢いがないことからとする説もある。
www.nihonjiten.com/data/254405.html

◆ 「『河童』『屁』は当て字」という部分は疑問だけれど、まあ、そういうことなんだろう。それ以外は、とくに問題なさそう。つまりは、へのかっぱ。あさめしまえ。さあ、朝飯を食おう。

◆ 「トイレの神様」という歌が流行っているそうなので、ワタシもそれに触発されて、作ってみた(詩のみ)。小3のころからなぜだかおじいちゃんと暮らしてた少年の歌。タイトルは「風呂場の妖怪」。

♪ 風呂場には それは気持ちの悪い
  妖怪さんが出るんやで
  だけど毎日 キレイにしとったら さすがの妖怪の
  垢なめさんも よう出られへんのやで

◆ 売れんかな?

◇ また誰もいない夜とか、人がみな寝静まったあと、風呂桶や風呂場の垢をなめにくる妖怪を「垢なめ」とよんでいる。夜中にこっそりとこうした妖怪が来ては気持ちが悪いので、風呂桶をきれいに洗っておくように心がけたという。この垢なめの正体も見たものはないが、垢なめのアカから赤い顔をしていると人は想像して語り伝えた。
岩井宏実『暮しの中の妖怪たち』(河出文庫,p.139)

◇ たとえば、夕焼けの地平線に向かって電信柱が遠近法で並んでいたりするのを見て、涙がこぼれそうになるのは私だけじゃないですよね。子どもも大人も、誰だって心が震えずにおれません。それは、なぜなのか……。
まど・みちお『いわずにおれない』(集英社be文庫,p.81)

◆ 「私だけじゃないですよね」と書くことのできる「まど」さんがうらやましい。ワタシだって、こころの奥底では、いつもそうつぶやいているのだ。しかし、それを声に出して言う勇気がない。たとえば、電車の「まど」から、きれいな夕焼けが見えたときには、おなじ車両に乗り合わせたおおぜいの人たちと、かくも美しい世界をともに祝福したくなる。そうして、車内を見回したりもするのだが、ワタシのほかはだれも外を見ていたりはしない。

〔NHKスペシャル:ふしぎがり~まど・みちお 百歳の詩~〕 “最後の本物の詩人”と評されるまど・みちおさんが、平成21年11月16日、100歳の誕生日を迎えた。まどさんは、「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」「一ねんせいになったら」など戦後を代表する童謡の作詞をする一方で“誰でもわかることばで、誰もが見過ごしているいのちの不思議”を詩に表現し続け、1994年には児童文学のノーベル賞と言われる国際アンデルセン賞・作家賞を日本人として初めて受賞した。
www.nhk.or.jp/special/onair/100103.html

◆ 100歳!

◆ 上の引用の「NHKスペシャル」は残念ながら見ていないが、そのタイトルの「ふしぎがり」ということばが気にかかる。もちろん、「寒がり」「目立ちたがり」「恥ずかしがり」の「がり」だろうが、この「がり」は「狩り」だと考えることもできて、そうすると「不思議狩り」。

◇  徳山の町の、あれは雑貨屋さんだったかなぁ。棚に樟脳の箱みたいなのが並んでいて、そのレッテルにヒゲもじゃもじゃの鍾馗(しょうき)さんが描かれていたんです。よく見ると、鍾馗さんが手にもっている箱にも小さな鍾馗さんがいて、やっと見えるくらいの箱を手にしている。ということは、その箱にも目に見えないくらい小さな鍾馗さんがいて、もっともっと小さな箱をもってるんじゃないか。そう思ってガラス戸に顔を押しつけるようにして見入ってました。
 箱にじいっと見入っていると、無限に小さくなっていく鍾馗さんの列が見えるような気がしてね。やっぱり世界じゅうがシーンとしてくるような、胸が痛くなるような、不思議な光景でした。

まど・みちお『いわずにおれない』(集英社be文庫,p.79)

◆ 鍾馗の写真ならあるが、まどさんが食い入るように見つめていた樟脳の箱の鍾馗の写真はない(どこかにないだろうか?)。このような無限に連続する視覚的効果をドロステ効果(Droste effect)という。

〔wikipedia:ドロステ効果〕 名前の由来はオランダのドロステ・ココアのパッケージからである。尼僧が持っている盆の上に、ココアの入ったコップと一緒にドロステ・ココアの箱が乗っていて、その箱の絵には、コップとドロステ・ココアの箱が乗った盆を持つ尼僧が描かれている。この絵柄は1904年に始まり、長い間使われ、家庭ではおなじみのものになった。
ja.wikipedia.org/wiki/ドロステ効果

◆ 以下の引用には「レースの帽子をかぶった田舎娘の絵」とあるが、おそらくおなじものだろう。

◇ 「ぼくが無限の観念と初めてぴったり触れ合ったのは、オランダの商標のついた、ぼくの朝食の原料であるココアの箱のおかげだ。この箱の一面に、レースの帽子をかぶった田舎娘の絵が描いてあったのだが、その娘は、左手に同じ絵の描かれた同じ箱をもち、薔薇色の若々しい顔に微笑を浮かべて、その箱を指さしていたのである。同じオランダ娘を数限りなく再現する、この同じ絵の無限の連続を想像しては、ぼくはいつまでも一種の眩量に襲われていた。理論的に言えばだんだん小さくなるばかりで、決して消滅することのない彼女は、からかうような表情でぼくを眺め、彼女自身の描かれた箱と同じココアの箱の上に描かれた、自分自身の肖像をぼくに見せるのだった。」
 ミシェル・レリスの告白の書『成熟の年齢』に出てくる、「無限」と題された、この作者の幼時体験と同じような体験を味わったことのある者は、おそらく私ばかりではあるまい。私は幼年時代、メリー・ミルクというミルクの罐のレッテルに、女の子がメリー・ミルクの罐を抱いている姿の描かれているのを眺めて、そのたびに、レリスの味わったのとそっくり同じ、一種の眩量に似た感じを味わったおぽえがある。キンダー・ブックという絵本の表紙には、子供が小さなキンダー・ブックを見ている絵が描いてあって、その小さなキンダー・ブックには、やはり同じ子供が同じキンダー・ブックを眺めている。これも私には、得も言われぬ不思議な感じをあたえる絵であった。

澁澤龍彦『胡桃の中の世界』(『澁澤龍彦全集15』所収,河出書房新社,p.203-204)

◆ 残念ながら、ワタシは、「鍾馗・樟脳」も「ドロステ・ココア」も「メリー・ミルク」も「キンダー・ブック」も見たことはないが、同種の眩量(めまい)に似た感覚なら味わったことがある。母親の三面鏡に頭をさしいれ、左右の鏡を閉じて、合わせ鏡をして遊んだ記憶ならたしかにある。

◆ ちょっとまえに紹介した、黒井千次「子供のいる駅」。この短篇ははじめ、『問題小説』1975年9月号に掲載。のち、短篇集『星からの1通話』(講談社)に収録。そのほか、いくつかのアンソロジーにも収録されている。ワタシが読んだのは、カッパノベルス版(鮎川哲也編『急行出雲』)だったが、今回読みなおしてみようと思って、近くの図書館の所蔵を調べたら、阿刀田高編『日本幻想小説傑作集Ⅰ』と加藤幸子編『兎追いし日々』のふたつが見つかって、どちらにしようかと迷ったすえに、両方借りてきた。以下、「子供のいる駅」を含む本の収録作品リスト。こうしたリストをながめているのも愉しい。

◆ (1)黒井千次『星からの1通話』(講談社,1984;講談社文庫,1990)

◇ 「幸せな日々」「朝の出来事」「まじめな人たち」「遙かな電話」「人違い」「独りの部屋」「幸せな夜」「帰る場所」「ある来訪者」「妻の休暇」「水音」「老女と自転車」「盗まれた男」「留守番」「夜の贈り物」「ハッピー・バースデー」「早い知らせ」「雨の日に」「乾いた手」「三度目の?」「ドアの前で」「迷子の行方」「危険な遊び」「禁じられた生活」「待合室の女」「彼の贈り物」「鍵がない…」「遺失物」「淋しい人々」「急ぐ女」「よく効く薬」「妻の自由」「ある反逆」「もういいかい?」「静かな夜」「隠れ傘」「地下に置かれた車」「待っている人」「電話ボックスにて」「終電車にて」「夏の終り」「深夜のたくらみ」「落し主」「おかしな仕事」「なにも知らない」「寒い夜」「ある年男の話」「待つ」「五番テーブル」「走る女」「幸せな血」「別れる女」「百人目」「赤い手帳」「見えない隣人」「あるテープの話」「独り住まい」「長い午後」「画廊の絵」「見えない樹木」「尖った屋根」「字を読む子供」「夜の販売機」「銀色のテープ」「マリの自画像展」「真夜中のニュース」「不幸な誕生日」「真夜中のアンケート」「磨く男」「白い一本の線 」「夢のタネ」「大人遊び」「日曜日の隠れんぼ」「子供のいる駅」

◆ (2)鮎川哲也編『急行出雲 鉄道ミステリー傑作選』(カッパノベルス,1976;光文社文庫,1986)。

◇ 芥川龍之介「西郷隆盛」、江戸川乱歩「一枚の切符」、成田尚「夜行列車」、本田緒生「街角の文字」、覆面作家「夜行列車」、丘美丈二郎「汽車を招く少女」、渡辺啓助「悪魔の下車駅」、鮎川哲也「急行出雲」、高城高「踏切」、小隅黎「磯浜駅にて」、河野典生「機関車、草原に」、森村誠一「剥がされた仮面」、大西赤人「ある崩潰」、黒井千次「子供のいる駅」、夏樹静子「特急夕月」、天城一「急行《さんべ》」

◆ (3)阿刀田高編『日本幻想小説傑作集Ⅰ』(白水Uブックス,1985)。

◇ 筒井康隆「佇むひと」、中島敦「山月記」、五木寛之「白いワニの帝国」、五木寛之「老車の墓場」、小川未明「金の輪」、江戸川乱歩「押絵と旅する男」、安部公房「人魚伝」、小松左京「くだんのはは」、赤江瀑「春泥歌」、神吉拓郎「二ノ橋柳亭」、笹沢左保「老人の予言」、都筑道夫「かくれんぼ」、眉村卓「トロキン」、黒井千次「子供のいる駅」、芥川龍之介「魔術」

◆ (4)加藤幸子編『兎追いし日々』(〈光る話〉の花束7,光文社,1989)。

◇ 谷崎潤一郎「小さな王國」、久生十蘭「母子像」、梅崎春生「遠足」、日野啓三「天窓のあるガレージ」、黒井千次「子供のいる駅」、山田詠美「こぎつねこん」、江國香織「草之丞の話」、加藤幸子「翡翠色のメッセージ」、芥川龍之介「蜜柑」、岡本かの子「鮨」、小川未明「金の輪」、泉鏡花「龍潭譚」、P.ルイス「書庫の幻」(生田耕作訳)、J・ルナール「にんじん(抄)」(岸田國士訳)、M・トウェーン「感心な少年の物語」(鍋島能弘訳)、L・フィリップ「火つけ」(淀野隆三訳)、C・マンスフィールド「パール・バトンが盗まれた話」(黒沢茂訳)、G・グリーン「双生児」(瀬尾裕訳)、W・サローヤン「猫」(吉田ルイ子訳)、R・ブラッドベリ「歓迎と別離」(小笠原豊樹訳)、C・エイケン「ひそかな雪、ひめやかな雪」(河野一郎訳)、L・クレジオ「アザラン」(豊崎光一・佐藤領時訳)

◆ (5)日本ペンクラブ編(西村京太郎選)『鉄路に咲く物語 鉄道小説アンソロジー』(光文社文庫,2005)。

◇ 芥川龍之介「蜜柑」、浅田次郎「青い火花」、綾辻行人「鉄橋」、北村薫「夏の日々」、黒井千次「子供のいる駅」、志賀直哉「灰色の月」、西村京太郎「殺人はサヨナラ列車で」、宮本輝「駅」、村田喜代子「鋼索電車」、山本文緒「ブラック・ティー」、E・ヘミングウェイ「汽車の旅」(高見浩訳)

◆ いま、(3)の白水Uブックスを読んでいる。筒井康隆「佇むひと」や安部公房「人魚伝」などがおもしろい(というか、おそろしい)。そういえば、むかしは、こういったアンソロジーが好きで、よく読んだものだった。

◆ (4)の目次には「L・クレジオ」とあるが、これはないだろう。目次以外では、すべて「ル・クレジオ」と表記されている。

◆ 子どもがテーマのアンソロジーのタイトルに『兎追いし日々』というのは、悪くはないだろう。編者のいうように、

◇ すべての大人たちが、一度はあの精彩あふれる『兎追いし日々』を体験した
加藤幸子編『兎追いし日々』(光文社,p.338)

◆ のだとすれば。

♪ 兎追いし かの山
  小鮒釣りし かの川
  夢は今も めぐりて
  忘れがたき 故郷

  「故郷」(作詞:高野辰之,作曲:岡野貞一)

◆ 文部省唱歌の「故郷」。

◇  どんなにたくさんの人びとが、この歌をうたってきたことだろうか。私なども、時折ひとりでこの歌を口にすると、目がしらが熱くなってくる。
 山はあおき故郷、水は清き故郷……。ふるさとの山河が水中花のようにあらわれてくる。自分の少年期が走馬灯になってめぐってゆく。私自身は加賀平野の町の育ちなので、山でウサギを追ったことはない。「兎追いしかの山」は山村でのことだ。だが、それでも、この歌詞はふるさとそのものなのだ。ドングリ拾いをした学校の裏山も、松茸採りにあるいた町はずれの丘も、遠足で登った山々も、すべてがなつかしく立ちあらわれてくる。「小鮒釣りしかの川」も同様だ。笹舟をうかべたりドジョウをすくった小川も、フナやコイを釣ったり舟を漕いだりホタルを追ったりした川も、その匂いまでがただよってくる。
 それぞれが、それぞれの故郷を、この歌から引き出されるのだろう。日本の源郷が、この歌にあるのだ。

高田宏『信州すみずみ紀行』(中公文庫,p.251-252)

◆ ひとはみな、それぞれの「兎追いし日々」の懐かしい思い出を心に大切にしまっている。それはそれでいいのだが、この「兎追いし日々」からカッコを取ってみればどうなるか? 「私自身は加賀平野の町の育ちなので、山でウサギを追ったことはない」という高田宏と同じく、ワタシもウサギを追ったことはない。いまでは、ほとんどのひとがそうだろう。いや、むかしから、フナを釣ったことはあるにしても、ウサギを追ったことがあるというひとはそう多くはなかっただろう。ウサギを追おうにも町にウサギはいない。ウサギを追うのは「山村でのこと」なのだから。

◆ 子どものころに、「兎追いし」を「ウサギ美味しい」とカン違いしていたというひとは多いだろう。

〔名曲スケッチ〕 この曲の歌詞「うさぎおいし」は、「ウサギは美味しい」という意味で、「昔の人はウサギを食べていたんだなー」と思っていたとか、あるいは、「うさぎをおんぶすること」という数々の珍解釈?があるようですが、「うさぎ追いし」とは「うさぎを追っかけていた」の意です。
www.geocities.co.jp/mani359/meikyokuhurusato.html

〔進学館ブログ〕 童謡「ふるさと」の歌い出しで、♪うさぎ追いし かの山~♪とありますが、♪うさぎ美味し かの山~♪と勘違いしている人が結構いらっしゃるのではないかと思います。私も高校生ぐらいまでは、「昔はうさぎ狩りが頻繁に行われていて、きっとうさぎ汁が故郷の味だったのだな」と変に誤解しておりました。
www.up-edu.com/shingakukan-blog/2008/11/post_428.html

◆ たしかに、「うさぎおいし」は「ウサギを追った」の意味で、「ウサギが美味しい」という意味でない。しかし、「では、どうしてウサギを追うのか?」ということを考えてみるひとは少ないようだ。歌詞が「美味し」ではなく「追いし」だと気づくとすぐに、「昔の人はウサギを食べていたんだなー」とか「昔はうさぎ狩りが頻繁に行われていて、きっとうさぎ汁が故郷の味だったのだな」とかの連想も誤解であると撤回してしまうのは、すこしもったいない気がする。

〔ダイヤモンド・オンライン:千石正一 十二支動物を食べる(世界の生態文化誌) ~「卯」を食べる~ 兎美味し彼の山〕 飽食の時代、日本ではウサギというとペットを想起するようで、「ウサギを食べる」というと眉をひそめる反応すら出現しているが、本来ウサギは食用である。私も幼児の頃に、母方の祖父の家を訪れた際、飼育していたウサギを食べ尽くしたことがある。
 これらは飼い兎、動物学的にはアナウサギだが、野生の兎たるノウサギも、別種ながら食用としている。唱歌『ふるさと』の「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川・・・」とあるのは、子供なりの食料確保の手伝いの情景であって、兎を追いかけて単に遊んでいるのではない。動物性蛋白質の不足がちな、かつての農山村ではふつうの光景であった。
 実際、学校をあげての兎狩りの行事もあった。勢子を使って山狩りをし、兎を捕る。勢子は多いほうが広い範囲を覆えて効果的だから、全校児童が参加して兎を追う。捕獲した兎を業者に売って得た「兎基金」で学校備品が調達されたりしていた。農林業に被害のあるノウサギを駆除し、自然に親しみ、協力作業を教え、教育資金も得られる、すばらしいイベントがあったのだ。
 杉や桧の植林、山地開発の進行等によって山に棲む獣の数は減少し、ノウサギも減り、学童の数も減った。社会の変化に伴ってこういう風習は失われてしまった。

diamond.jp/articles/-/5128

◆ なつかしいおともだちの石公さんが、こうつぶやいていた。

◇ 「そりゃおどろいた、玉下駄、駒下駄」などと祖母がおどけていたのを、向かいの座席の和装の女性の雨用のカバーのついた下駄を見て思い出した@横須賀線。やはり雪の日は下駄ですよね、二の字、二の字の跡のつく
twitter.com/ishiko_t/status/35936230478708736

◆ みごとな「無駄口(付け足し言葉)」。東京にはたしかに文化があったんだな、と思う。蛇足ながら、「雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡」の句を田捨女が詠んだのは、わずか6歳のときだというから驚く。ほんとかな?

◆ 兎追いし「故郷」の2番。

♪ 如何(いか)にいます 父母
  恙(つつが)なしや 友がき

  「故郷」(作詞:高野辰之,作曲:岡野貞一)

◆ まったくもって難解な日本語だ。

◆ 「つつが(恙)」とは、病(やまい)のことで、「つつがない」とは、病んでいない、元気である、という意味だということは知っていても、「つつがなく暮らしております」というような手紙ひとつ書いたことがあるわけでもなく、このコトバを使った記憶がない。

◆ そういえば、「つつがない」の用例で有名なのがあった。遣隋使が煬帝に届けた国書。

◇ 日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや。

◆ と書いてはみたが、日本史の知識がほとんどないのであとがつつがない、いや、つづかない。それよりも、「つつが」といえば、「ツツガムシ(恙虫)」を思い出してしまう。

〔Wikipedia:ツツガムシ病〕 手紙などで、相手の安否などを確認する為の常套句として使われる『つつがなくお過ごしでしょうか…』の『つつがなく』とは、ツツガムシに刺されずお元気でしょうかという意味から来ているとする説が広く信じられているが、これは誤りである。
ja.wikipedia.org/wiki/ツツガムシ病

◆ えっ、そんな説が「広く信じられている」とは、ちょっとびっくり。ツツガムシとはダニの一種。

◆ 「如何にいます 父母」の部分の替え歌にこんなのも。

〔コトノハ〕 イカに居ますアニサキス~♪
kotonoha.cc/no/90477

◆ いや、これは傑作。ツツガムシにアニサキス。どちらも寄生虫。

〔Wikipedia:寄生虫〕 寄生の部位によって、体表面に寄生するものを外部寄生虫、体内に寄生するものを内部寄生虫という。寄生虫と言ったときは、おもに内部寄生虫のことを意味することが多いが、外部寄生虫のダニなどを含めることがある。
ja.wikipedia.org/wiki/寄生虫

◆ ツツガムシは外部寄生虫。アニサキスは内部寄生虫。寄生虫といえば、《目黒寄生虫館》。この寄生虫館の定期刊行誌のタイトルがふるっている。「むしはむしでもはらのむし通信」。最新号(第190号)の表紙はアカツツガムシで、「ツツガムシとつつが虫病」という記事もある。ツツガムシ特集ということか。ちょっと読んでみたくなった。

♪ ツツガムシや アニサキス

「玉下駄・駒下駄」という記事を書いたが、下駄についてはなにも知らない。玉下駄というのはどんな下駄だろうと思うくらいになにも知らない。下駄箱にいれる下駄は一足もない。そもそも下駄をいれる下駄箱がない。でも、下駄はいいものらしい。

◇ さらに下駄には次のような効用がある。下駄は足の指に自由を与える。水虫なんかに負けないぞという自信を育てる。こうなればしめたもの、潮干狩に連れてゆくと、足は大いに張り切り、アサリを次々と探し出す。しゃがまなくてもよいから効率がよい。顔は潮風に吹かれていればよい。さらに下駄はちびて表札となり、最後まで人のためになる。
木下直之『ハリボテの町 通勤篇』(朝日文庫,p.33)

◆ 表札となった下駄、これはぜひいちど見てみたい。

◆ 下駄に効用があるなら、下駄箱にも効用があるだろう。風呂に効用があるなら、風呂屋にも効用があるだろう。

◆ 《発言小町》の「昭和風呂事情」というトピがおもしろい。