MEMORANDUM

  黒井千次「子供のいる駅」

◆ 黒井千次といえば、「子供のいる駅」という短篇が忘れられない。その冒頭。

◇ はじめての一人旅というものは、まだ幼い心と身体にどれほどの緊張と期待と夢を背負わせるものであることか。たとえその旅が、間違って配達された手紙を四つ角の鈴木さんの郵便受けまで届けるための往復であれ、夕暮れの文房具屋への折り紙や画用紙の買物であれ、子供にとってそれが世界に向けてのたった一人の最初の旅であることに変りはない。そしてその旅で、小さな出来事や奇妙な冒険に出会ったからといって、その子供が不幸であったときめることは誰にも許されない。
黒井千次「子供のいる駅」(阿刀田高編『日本幻想小説傑作集Ⅰ』所収,白水Uブックス,p.285)

◆ はて、ワタシの「はじめての一人旅」はいつどのようなかたちでなされたのだったか? てんで記憶にないところをみると、なにも「小さな出来事や奇妙な冒険」に出会うことがなかったのだろう。さて、小学二年生の少年テルの「はじめての一人旅」は、五つほど先の駅までの往復だった。「小さな出来事」は、帰りの電車を下車した駅で起こった。改札口を前にして、切符を出そうとポケットをさぐるが、見つからない。なんということだろう、母親に「キップを落としちゃだめですよ」「なくしたら、もう駅から出られなくなるんだからね」と念を押されていたというのに、不覚にもその切符をなくしてしまった。どうすればいいのかわからなくなって、テルは駅のホームの片隅にうずくまる。すると、背後からの声。

◇ 「キップ、なくしたんだろ?」
 自分よりすこし年上らしいジーパン姿の男の子が目の前に立っていた。
「心配ないわよ。私達、みんなそうよ」
 お誕生パーティーの帰りらしい、白いドレスを着て小さなバスケットをさげた女の子が脇から言った。ロ々になにかを呟く二十人近い子供達の影が、板張りの隙間から射し込む光線の中にぼんやり浮かんで見えた。奥に行くほど低くなっている斜めの天井が激しく鳴った。電車が来て、大人が慌てて走っているのさ、と野球帽にユニフォームをつけた子供が教えた。どこかで見たことのある顔だった。
「ずっと、いるの?」
 テルは埃臭い空気にようやくなじみながらジーパンをはいた男の子に訊ねた。
「まあ、な」
「キップが出て来るまで?」
「さあ、出ては来ないだろ」
 少年は愉快そうに笑った。今日からここがぼくのうちだ、とテルは咄嗟にさとった。もう大人になるまでぼくはここから出ないだろう、と他人ごとのように思いながら彼はコンクリートの床に尻をつけた。また斜めの天井がゴトゴト鳴っている。

Ibid., p.291-292

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