◆ 高田宏は、旅先でふと偶然に出くわした看板や落書きにこそ旅のエッセンスを感じると書いていた。それには、歩くことが必要であるとも。 ◇ 車で走れば短時間に多くの場所へ行き多くのものを見ることができるけれども、あらかじめ予定したものだけしか見ないことになりがちだ。旅がほんとうに旅になるのは、予定外のものに思いがけず出会うところからだ。それには歩くのがいちばんいい。 ◆ 引越屋の日常というのは不思議なもので、ときに仕事をしているのか旅をしているのかわからなくなることがある。といっても、そんなことを思っているのはワタシくらいなもので、せっかく日々ことなる場所へ出かけられるというこのうえない僥倖を手にしているというのに、みな仕事が終わるとすぐに帰りたがる。もったいないと思うが、ひとそれぞれだから、しかたがない。直行直帰のワタシだけ、ひとり散歩をして帰る。あるいは、現場に早めに着いて朝の散歩を楽しむ。そんなとき、さほど遠くでなくても、旅をしている気分になる。 ◆ 散歩も旅も、ワタシには区別がつかない。(遠くでなくても)知らない町で出会った看板や落書き。高田宏に倣っていうなら、「旅を旅にしてくれるもの」。たとえば、「椅子店」の看板。たとえば、「ばけもの」の落書き。 ◆ と高田宏に倣ってみたが、ちと倣いすぎたようだ。信州で「ノコギリ店」の看板や「やまんば」の落書きに出会えば、山国とつなげることで、それらが旅を旅たらしめるものにもなろうけれど、「椅子店」の看板や「ばけもの」の落書きでは、それらをその場所に結びつけるカギがない(いや、あるのだろうけど、それをさがすには時間がかかる)。旅と散歩の違いはこんなところにあるのかもしれない。だとすれば、ワタシは遠くへ行っても(一般的にいえば、旅をしているときでも)、いつも散歩をしているだけのような気がする。 |
このページの URL : | |
Trackback URL : |