◇ ものには旬というものがある。いや、あるはずだった。
鷲田清一『新編 普通をだれも教えてくれない』(ちくま学芸文庫,p.127)
◆ 今年のセンター試験の国語の問題に鷲田清一の文章が出たというので、ちょうどそのとき鷲田清一の本を読んでいたワタシは、解いてみようかという気になった。という気になっただけで、もちろん、いまだに解いてはいない。ものには旬というものがある。旬はとうに過ぎてしまったので、また来年。とはいえ、せっかくなので、読んでいた本の一節を引用すると、
◇ この季節(六月)の京都、和菓子と言えば、あの直角三角形のういろうの上に小豆を埋め込んだ水無月を食べるのが習慣である。習慣というよりもむしろ生理と言うべきで、舌がどうしてもそれに焦がれる。北山にある氷室から献上された氷を象ったあのまっ白のういろうを食べないと、梅雨時の鬱からからだが醒めないし、また火照りもなかなか冷めない。七月になればこんどは綜(ちまき)だ。綜は祇園祭という京の夏の祭りにどうしても欠かせない。ういろうを包む笹の香りがほんのり鼻腔を剌して、なんとも心地いい。
鷲田清一『新編 普通をだれも教えてくれない』(ちくま学芸文庫,p.127)
◆ と、これまたまったく旬を無視したものになってしまうのは、どうしてだろう?