◆ 高田宏の『信州すみずみ紀行』という本を読んだ。
◇ 角間温泉から千古温泉への歩きでは、さきに書いた「やまんば」の落書きをはじめ、私の旅を旅にしてくれるいろいろなものに出会ったが、鋸の店の看板もその一つだった。
高田宏『信州すみずみ紀行』(中公文庫,p.118)
◆ 旅を旅にしてくれるもの、か。なるほど。それは、たとえば、「ノコギリ店」の看板。
◇ しばらく歩いて、目についたのが、「ノコギリ店」の看板だ。
――ふうん、やっぱり山国だなあ。木の暮らしが生きているんだなあ。
私たちの暮らしのなかで、鋸は今はほとんど使われなくなった。木を伐ったり、木で物をつくるということが稀になったからだ。かつて木でつくった物の多くが今はプラスチックなどで出来ている。木製品でも自分でつくることがなくなった。つくることが少なく、買う世の中になっている。
しかし、鋸の店があるということは、ここらへんでは今も暮らしのなかに鋸がよく使われているということだろう。つまり、木の暮らしがあるということだ。「ノコギリ店」の看板で、私の気持ちがはずんだ。もうそれだけで、この土地が好きになる。敬意を表したくなってくる。
この旅の一日目、私はタクシーで、戸石城跡、真田氏館跡、真田本城跡、信綱寺、長谷寺など、真田一族のゆかりの地を能率よく見てまわったのだが、旅というものはやはり自分の足で歩いているときだけ、思いがけないものを見せてくれるものだ。その日タクシーでこの道も通っていたようだが、「ノコギリ店」の看板には気づかなかった。車で走れば短時間に多くの場所へ行き多くのものを見ることができるけれども、あらかじめ予定したものだけしか見ないことになりがちだ。旅がほんとうに旅になるのは、予定外のものに思いがけず出会うところからだ。それには歩くのがいちばんいい。自戒をこめてつくづくそう思った。
Ibid., p.117-118
◆ 旅を旅にしてくれるもの。それは、あるいは、「やまんば」の落書き。
◇ 国道に出てしまうと、とばしてゆく自動車の往来にひやひやしたのだが、電柱の一本にスプレーで書かれている落書きに私は目をみはった。「やまんば」と大きく落書きされていた。真田の里の暴走族あたりが書いたのかと思うが、「やまんば」とは! 平地の町では考えられない、山国の落書きだった。さすが、猿飛佐助の里だ。
Ibid., p.113
◆ ワタシが同じ道を歩いて、「やまんば」の落書きや「ノコギリ店」の看板を目にしたとしても、それらをことさらに山国と結びつけて考えるかどうかはわらないけれども、「旅がほんとうに旅になるのは、予定外のものに思いがけず出会うところからだ。それには歩くのがいちばんいい」という箇所にはまったく同意する。