MEMORANDUM

  おりょうの風呂桶

◆ 坂本龍馬の妻、おりょうさんのつづき。こんなエピソードも多くのひとにとっては「そんなの常識」であるのかも。

〔横須賀市観光情報「ここはヨコスカ」〕 慶応2年(1866年)「寺田屋事件」の時、入浴時にもかかわらず、裸で飛び出し危機を知らせ、龍馬を救ったことで有名です。
www.cocoyoko.net/keikyu_otsu/index.html

◆ あまり幕末維新の知識がないので、「寺田屋事件」を辞書で引くと、

てらだや‐じけん【寺田屋事件】 文久2年(1862)尊王攘夷派の薩摩(さつま)藩士有馬新七らが、関白九条尚忠・所司代酒井忠義の殺害を企て京都伏見の舟宿寺田屋に結集したのを、島津久光が家臣を遣わして襲い、殺害した事件。寺田屋騒動。
小学館「大辞泉」

◆ とあって、これは坂本龍馬とは関係がない。「寺田屋事件」と呼ばれる事件は二度あったということらしい。ひとつめが文久2(1862)年の寺田屋騒動、ふたつめが慶応2(1866)年の坂本龍馬が伏見奉行に襲撃された寺田屋遭難。なるほど。で、この寺田屋遭難のとき、おりょうさんは、

〔Wikisource:安岡秀峰による楢崎龍女史の坂本龍馬回想録(昭和6年)〕 「あの時、私は、風呂桶の中につかつて居ました。これは大変だと思つたから、急いで風呂を飛び出したが、全く、着物を引掛けて居る間も無かつたのです。実際全裸(まるはだか)で、恥も外聞も考へては居られない。夢中で裏梯子から駆け上つて、敵が来たと知らせました。その時坂本は、自分の羽織を手早く行燈に冠(かぶ)せて、光を敵の方に向け、自分と三好さんは暗い方に隠れて、敵が表梯子から上つて来る鼻先へ、鉄砲を打(ぶ)つ放しました。私はしばらく様子を見て居ましたが、危険(あぶな)いと思つたので元の裏梯子から湯殿の方へ引返しました」
ja.wikisource.org/wiki/楢崎龍関係文書/阪本龍馬の未亡人/二回

◆ さきに「寺田屋事件」は二度あったと書いたが、あるいは三度かもしれない。寺田屋にはおりょうさんが素裸で飛び出した風呂桶が残っているというのだが(画像はネットから拝借)、これがどうも怪しいらしく、

〔Wikipedia:寺田屋事件〕 現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。2008年になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。
ja.wikipedia.org/wiki/寺田屋事件

◆ これが「平成の寺田屋事件」とか。

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