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◆ アンデルセンのことを調べていたら、《デンマーク王立図書館 Det Kongelige Bibliotek》 のサイトにたどり着いた。そこに所蔵資料をオンラインで公開しているコーナーがあって、その一覧を見ていると、 ◇ Kanna hifumiden af Hirata Atsutane (1775-1843) ◆ という文字が目に留まった。平田篤胤の 『神字日文傳』(かんなひふみのつたえ)。こんな本がコペンハーゲンにあるのだった。JPEG画像で読める(ワタシには難しくて読めないが)。どんな本かというと、 ◇ 上古に文字なしという宣長説の誤りを論じ、種々の文献により神代に日本独自の文字があったことを説く。とくに阿比留文字(日文)についてその発生をフトマニの兆形に求め詳論、巻末に日文以外の各種古文字を収載。いまや60万円もする篤胤全集を買わないと見ることの出来ない貴重書。
◇ 『神字日文傳』 は江戸時代の国学者神道家である平田篤胤が著したものです。この書物では、日本に固有の文字(神代文字)があったという説が唱えられています。今日いわゆる神代文字と呼ばれるものは多種ありますが、対馬の阿比留家に伝わったとされる 「日文(ヒフミ)」 が特に有名です。現在は、神代文字に関して、固有性はもちろん信憑性についても、学問的に否定されています。 ◇ 我國には古く文字が無かった。漢字が傳はって、はじめて文字を學び、遂にこれで日本語をも寫したが、後には漢字から假名が出來て、以後漢字と假名とが永く用ゐられた。又印度で用ゐられた梵字が僧侶の手で支那から傳はったが、これは梵語を書く爲に用ゐられ、日本語としては、間々人名を之で記すものがあった位である。又ローマ字が西洋から傳はり、之で日本語を書く事もあるが、特殊の場合に限られてゐる。かやうに、我國に用ゐられた文字は、すべて外國の文字か、又はそれから發生したものである。 ◆ 諺文というのは、ハングルのこと。橋本進吉の引用を続けると、 ◇ 諺文は朝鮮の世宗の時はじめて作られたものであるから、日文はそれ以後のものである事疑無い。篤胤は、諺文との類似を認めながら、却って、日文が古く朝鮮に傳はって殘ってゐたのに基づいて諺文を作ったものとしてゐるが、さうで無い事は、諺文創定の歴史や、それまでの朝鮮の文字の歴史を見れば明かである。猶、日文は伊呂波と同じく四十七字であって、濁音を除いて六十種の音節を區別した奈良朝の言語は勿論の事、四十八種の音節を區別した平安朝初期の言語を寫すにも不十分である事、もし日文が實際世に行はれたものとすれば、これで國語を書いたものが殘存すべき筈であるのに、さやうなものはなく、あらゆる違った文字だけを集めた字母表といふべきもののみが存する事、その字母表の順序も 「ヒフミヨイムナヤコトモチロラネシキルユヰツワヌソヲタハクメカウオエニサリヘテノマスアセヱホレケ」 となって、かやうな順序は古書にも所見なく、全く意味をなさぬ事、又、一般文字史上單音文字は最發達した段階に屬するものであるから、日文の如き單音文字は我國にはじめて出來た原始的の文字とは考へ難い事などの諸點から觀れば、日文は決して古く我國に出來て行はれたものではなく、ずっと後世に誰かが作ったものと考へられる。日文以外の諸種の神代文字は、更に一層疑はしいものである。さすれば、我國には、固有の文字は無かったのであって、漢字が早く渡來した爲、之を用ゐて日本語をも寫したものとおもはれる。 ◆ 日文はまた阿比留文字とも呼ばれるが、 ◇ 神代文字の中にはハングルと酷似したもの(阿比留文字、対馬の阿比留氏が関係するとされる)が存在する。ハングルは1443年に考案されたものであるから、ハングルが阿比留文字を参考にしたものでなければ、阿比留文字もそれ以降のものであると解される。ハングルが阿比留文字を参考にしたという根拠は韓国の文献には認められない。 ◇ 要するに、阿比留文字等を以て或は我國固有の文字なりとし、或は韓國の文字に用りて作りたるものとせるなど、其由來に就いて諸説紛々たりと雖、今日の學術的見地よりしては、少くとも我が所謂神代文字の或者は、諺文の影響によりて發生したるものなりと云ふべし。但しこれ決して神代のものにあらざるなり。(藤岡勝二 『國語略史』) ◆ この阿比留、なんと読むのかというと、これがアヒルなので、「みにくいアヒルの子」 はこんなところにもいたのだった。とはいえ、このアヒルがハクチョウになる可能性はほとんどない。いまでも、 ◇ ハングルってのは日本の阿比留文字が原型です。知ってる人どれくらいいるのかなと気になるけど、「阿比留文字」 でググるとわかるとおもう。 ◆ そう述べて、アヒルをハクチョウにすることを夢みるひとがあとを絶たないが、「我國上代に文字なしと談じては、一種の耻辱なるが如く考へ」(藤岡勝二 『國語略史』)ることに根拠はない。アヒルはアヒルのままでよい。 ◆ そういえば、いつだったかバラエティ番組で万引きの常習犯だったことを告白して干された女性の芸能人も、またアヒルだった。 |
◇ 映画 「赤い靴」 に主演したイギリスのバレリーナ、モイラ・シアラーがなく亡くなりました。アンデルセンの童話のバレエ化が素晴らしく、中学生だったぼくも感心した映画です。 ◆ とは、表紙を描いた和田誠の弁。ちょっとアンデルセンのことを考えていたときに、こんな表紙の週刊誌。ふだんは表紙のことなど、すぐに忘れてしまうけれど、今回はしばらく見入ってしまった。こんな「たまたま」があると、もういけない。あれこれ考え始めてしまって、収拾がつかなくなる。たとえば、赤い靴をうたった歌は多い。 ◇ アイコの 「赤い靴」 は厚底靴です。他に谷山浩子 「赤い靴」、フリッパーズギター 「マイレッドシューズストーリー」、さだまさし 「赤い靴」、原田知世 「赤いパンプス」、武田久美子 「あなとと赤いシューズ」、ケイトブッシュ 「レッドシューズ(アルバム)」、太田裕美 「赤いハイヒール」、林原めぐみ 「虹のスニーカー」 など多数あります。 ◆ あと、ロウソクについても、アンデルセンについても、もう少し書きたくなるが、もう仕事に行く時間だ。仕事中にゆっくり考えることにしよう。今日はそれくらいの余裕がありますように。では、赤い靴を履いて・・・てな、わけないか? |
◆ 日本では、たんなる風邪でも、風邪をひいたら、あるいは風邪をひかないように、マスクをするというのがなかば常識であるようで、ネットをちょっと検索するだけで、電車のなかで、あるいは職場で、となりのひとがゴホゴホ咳をしているのにマスクをしていないことに腹が立った、というような記事を個人の日記からいくらでも拾い上げることができるのだが、このマスクを着用するという常識は日本に特有のことらしく、西洋人にはかなり奇異に見えるらしい。 ◆ イギリス在住の日本人のエピソード。 ◇ 風邪気味だったのでマスクをして会社に行った。仕事中、同僚達がこちらを見てくすくす笑っている。「マスクに何か付いているのかな?」 と調べても、何も付いてはいない。 / しばらくして、一人が 「奥さんと昨日、けんかでもしたのか?」 と聞いてきた。口元にあざがあるのではないかと思われたらしい。これじゃうっかりマスクも付けられない。 ◆ 《Sweetbrier Lane》 というサイトからふたつの事例。ひとつは長野オリンピックの取材に来たイタリア人記者が書いた記事。 ◇ それにしても結構な数の日本人が、白い布でできた‘マスク’とやらで顔を覆っている。あれは何だ?最初は驚いたが、なんでも風邪が広まるのを防ぐのと予防のためらしい。かの人々はごくまじめに着けているのだが、どう見ても非科学的で、かなり笑わせる。 ◆ もうひとつはドイツ人の友人が日本に来たときの発言。 ◇ 「飛行機の中でたくさんの日本人が白いホラ、なんかこーんなマスクをしてたんだけど、あれはいったい何だ? おまじないなの? それとも何か宗教的なこと? おしえて! けっこうたくさんの日本人がしてたんだよ。」 ◆ 日本に来たアメリカ人をガイドしたひとのエピソード。 ◇ 路線バスに乗っておしゃべりしていたら、突然顔をこわばらせて「あの人は何ですか?」。目で示す先にはコートを着てマスクをした中年男性がバスに乗ってきたところでした。「風邪が流行っていて・・」 と話していたら、日本人は風邪を引くとマスクをして町を歩くのかと聞くのです。その人はニューヨークから来た外科医なのですが、アメリカでは外科医が手術をする時以外にマスクをしたり、まして町を歩くという事はないのでびっくりしたと言われました。その後他のアメリカ人にも聞いてみたのですが、町でマスクをして歩いている一般人を見た時はびっくりしたそうです。風邪を引いた時にはマスクは快適ですね。でもアメリカ人には異様に映ったようです。 ◆ なだいなだのフランス人の奥さんのエピソード。 ◇ ぼくはマスクと片仮名で書いてあるから、あれは西洋起源のもので、日本人が輸入したものだと思っていたら、家内がフランスから日本にやってきて、「あれは何だ」(笑)。西洋にあんなものはないというんです。それで彼女が大学でフランス語の授業をやっている時に、風邪がはやって、生徒が何人もマスクをしてやってきた。そうしたら彼女、これを、質問しても答えませんというストライキだと思っちゃった(笑)。 ◆ 理解できないことをなんとか理解しようとするときのそれぞれの反応がそれぞれにおもしろい。 |
◆ なにかを書こうと書き始めたのに、書いているうちに、なんだかわけがわからなくなって、書いたものをすべて消すはめになってしまう。そんなことがたび重なると、もっとスマートな頭があればと思いもするけれど、もちろんそれはかなわぬ願い。そう簡単に頭を取り替えるわけにはいかない。あるいは、手元に消しゴムがないときには、消すのをやめて、べつなことを書いたりもして・・・ ◆ いま 「スマートな」 と書いた。「利口な」 という意味で書いたのだが、日本語の 「スマート」 にこの意味はまだないのだったか? オンライン辞書には、 ◇ スマート【smart】 [形動] ◆ とある。日本語の 「スマート」 は、そのエッセンスを抽出してみるとと、要は 「無駄な部分がない」 といったことになるだろうか? だとすると、「スマートな頭」 といった表現もそれなりに通用するのかもしれない。 ◆ とはいえ、英語の smart は、とくにアメリカでは、まず 「頭がいい」 「知能が高い」 という意味で使われているようで、たとえば、こんな記事が・・・ ◇ Was Your Meat Smarter Than Your Pet? ◆ これは、ある研究で、羊やら豚やら牛といった家畜は思いのほか知能が高いという結果が出たというハナシで、平易な英語で書かれているので、ぜひ一読をおすすめするが、 ◇ Testing the IQ of a sheep may seem laughable. But at the Babraham Institute in Cambridge, England, they know better. One sheep who got a reward every time she recognized a human face correctly on a video screen scored a perfect 50 out of 50.
◇ I am not smarter than a sheep. ◆ ヒトの顔を覚えるのは、どうも苦手だ。もっとスマートな頭がほしい、と切に願う。 |
◆ 一ヶ月前に 「ねずみに轢かれる」 というハナシを書いた。そのなかで、ワタシのボロアパートではネズミを 「さいわい、ここ数年は見かけない。音も聞かない。どこへ行ったのだろう」 と記したことを、まさか当のネズミが聞きつけたわけではあるまいが、まったくよすぎるタイミングで、数年ぶりにネズミが出た。チーズ色をしたビタミンCのタブレットを口にくわえていた。チーズと間違えたのか、それともビタミンが不足していたのか? 小さなネズミだった。なんだか夢のようでもある。 ◆ 「嫁が君」 というコトバがある。オンライン辞書を引くと、 ◇ ネズミの別名。特に正月三が日に忌み詞として使う。《季 新年》「行灯(あんどん)の油なめけり―/子規」 ◇ 鼠(ねずみ)の異名。特に新年、鼠をさしていう忌み詞。[季]新年。《三宝に登りて追はれ―/虚子》 ◆ 「嫁が君」 という言い方はちょっと気取っていて、いまでは俳句でしか使われないかもしれない。地方では、もっと簡単に、ヨメ、ヨメサン、オヨメサンとも言ったとか。 ◇ 特に正月の間に限って、この鼠という名前を忌んで、ヨメゴとかヨメサンとか呼んでおり、俳諧の季語にも 「嫁が君」 という言葉を使っています。 ◆ あるオヨメサンの悲劇。 ◇ 第二次大戦後のことですが、岡山県か兵庫県の山奥の田舎で、戦時中疎開してそのまま居着いてしまった家族のところへ、隣組からこの 「亜砒酸入りの団子」 がネズミ駆除用に配られた時、先の忌み言葉で 「およめさんのための団子」 といわれたのを、地付きでない一家だったためにネズミのこととは理解できず、ほうとうにお嫁さんが口にして中毒死したという悲劇があったそうです。 ◆ わがボロアパートのオヨメサンよ、元気にしてるのはわかったから、それから毒入りダンゴを食べさせたりもしないから、あいさつはしばらくなしでいいよ。わかったかい? |
◆ つづけて、ネズミのハナシ。オヨメサンを死に至らしめたダンゴにはいっていたのは、砒素。最近では、カレーにいれたオバハンもいるけれど、いまではネズミ捕りには使われない。砒素を使った殺鼠剤に、そのむかし、「石見銀山」 の名で知られていたものがあった。 ◇ 「石見銀山」 とくれば、後に続く言葉は 「ネズミとり」。時代劇ファンなら、そう答えるはず。殺鼠剤(ヒ素)を食べ物やら酒にこっそり混ぜて、憎き相手を葬ろうとする陰謀の場面に登場する。
◆ この石見銀山売りには 「いたずらものはいないかな」 という独特の売り声があって、それが子どもを怖がらせた。 ◇ 歌舞伎の 『東海道四谷怪談』 の序幕は 「いたづらものはゐないかな、いたづらものは」 という奇妙なセリフで始まりますが、これは初演当時(一八二五、文政八年)の江戸の町中でお馴染みであった石見銀山売りの売り声なのです。 ◇ 大音にいたづら者は居ないか居ないかな/\いたづら物は居ないかなど呼はるる聲にそこらに遊び居たる五六歳なる小兒は偖(さて)は己れが惡戯(いたづら)を知られて捕らわれんかと膽(きも)を消して逃げ隠れる樣は恰も猫に出遭し鼠の如くなりし ◆ この石見銀山売り、明治になっても、しばらくはいたらしい。 ◇ それから 「いたずらものはいないかな」 と云って、旗を担いで往来を歩いて来たのもありました。子供の時分ですからその声を聞くと、ホラ来たと云って逃げたものである。よくよく聞いて見ると鼠取りの薬を売りに来たのだそうです。鼠のいたずらもので人間のいたずらものではないというのでやっと安心したくらいのものである。そんな妙な商売は近頃とんと無くなりましたが、 ◇ 鼠とり薬を売る 「石見銀山」 は日中か夕方に通った。蝙蝠が飛び出して、あっちこっちで長い竹棹(ものほしざお)を持ちだして騒ぐ黄昏どきに、とぼとぼと、汚れた白木綿に鼠の描いてある長い旗を担ついで、白い脚絆、菅笠(すげがさ)をかぶってゆく老人の姿は妙に陰気くさくいやだった。日中(ひなか)でも、 ◆ 一度でいいから、こどものころに生で聞いてみたかった。 |
◇ 貧しい家庭教師ジュリアンは、雇い主であるレナール夫人を誘惑し、パリに出てはラ・モール公爵の秘書に雇われ、公爵の娘マチルドと恋仲になる――1830年代、混乱期のフランスの一地方とパリを舞台に、田舎出の青年ジュリアン・ソレルの恋と野望の遍歴を見事に描ききったスタンダールの傑作。 ◆ こんなハナシらしいが、以下に引用するのは、小説の終わり近く(第44章)、主人公ジュリアン・ソレルが、不倫をばらしたレナール夫人にアタマにきて発砲し、殺人未遂の罪でブタ箱に入れられ、ギロチンにかけられる日をただ待っている、そんなときにふと思いついたこと。 ◇ – «Une mouche éphémère naît à neuf heures du matin dans les grands jours d'été, pour mourir à cinq heures du soir, comment comprendrait-elle le mot nuit ? ◆ 9時から5時まで。なんだか定時で帰る公務員のようでもあるが、つづけて、 ◇ – «Donnez-lui cinq heures d'existence de plus, elle voit et comprend ce que c'est que la nuit. ◆ 早出と残業、どちらに5時間をつけるかにもよるだろうが、5時間残業してもまだ夜の10時。子どもの寝る時間だ。夜の意味を知るには、まだ足りないだろう。 ◆ けれども、夜とはいったいなんだろう? 大きくなるにつれて、寝る時間はすこしづつ遅くなっていったけれど、いつワタシは夜の意味を知ったのだろうか? |
◆ つづけて 『赤と黒』 (Le Rouge et le Noir) からもうひとつ(第42章)。 ◇ – «Le comte Altamira me racontait que, la veille de sa mort, Danton disait avec sa grosse voix : C'est singulier, le verbe guillotiner ne peut pas se conjuguer dans tous ses temps, on peut bien dire : Je serai guillotiné, tu seras guillotiné, mais on ne dit pas : J'ai été guillotiné. ◆ ダントンって誰だっけ? ちょっと世界史の復習をすると、フランス革命のさなか、 ◇ ダントンは、ジャコバン派の右派の中心人物として、ダントン派を形成し、革命の過激化を嫌い、恐怖政治の緩和を主張してロベスピエールと対立し、1794年4月に処刑された。 ◆ そうそう、ダントンは断頭台(だんとうだい)の露と消えたのだった。なんだかダジャレみたいだ、と思ったら、 ◇ 発明者の名前を冠した処刑機械・ギロチン。フランス大革命の際にダントンが処刑された故事により「ダントン台」とも呼ばれる…というのはもちろん嘘だが、 ◆ 同じことを考えてるひともいた。それはともかく、「私はギロチンにかけられた」 と過去形で言うことができないのは、あたりまえといえばあたりまえのハナシで、ギロチンにかけられて死んでしまったら、「私はギロチンにかけられた」というコトバに限らず、どんなコトバであれ発することはできはしない(と思うが、死んだことがないので断言は避けて)だろう。 ◆ 日本語でも、ふつう、「私は死んだ」 とは言えないだろう。では、私は死なないのだろうか? もちろん、死ぬだろうけれど、その死ぬ主体はいったいだれなのか? 生活にかまけていると、死の問題など考える機会もなくなるもので、かえって、中学生のほうがモノを考えていたりする。 ◇ 私は、人は死は体験できないものだと考えます。人は死ぬ前に先に意識がなくなるものだと思います。実際に死んだことはないですし、死んだ人に聞いたわけでもないのでそうとは言い切れませんが、死は体験できないと思います。筆者の友人が言う通り、「死ぬのは他人ばかりなり」 その通りだと思います。死んだ後どうなるかは他人しかわからない、だから 「死」 というものは恐れられているのだと私は考えました。 ◆ これは、江戸川学園取手中学校の道徳の授業 「テーマ:生命尊重・・・命のバトン」 の感想文(1年7組 C.A. さん)。中1でこんな文章が書けるのも驚きだが、この 「筆者の友人」 にはもっと驚く。「死ぬのは他人ばかりなり」、こんなセリフを吐く友人がいるとは。C.A. さんは、とんでもない友人をもっている。 ◇ Sur sa tombe au cimetière de Rouen est gravée cette épitaphe : ◆ 「彼」 とは、20世紀の芸術家マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)のこと。 ◇ 人は誰も自分が死ぬとは思っていない。それがどういうことなのかわかってはいない。たとえ納得しているつもりではあっても、納得されているその事態は死そのものではなく死をめぐる物語にすぎない。自分の死後に人がどのように振舞うかを見たいために、死を演じてみせたロシアの皇帝の話を人は笑うことができない。事実は、誰もが同じようなことをしているといってよいからである。たとえば、後世を信ずるとはそういうことだ。 ◆ 『赤と黒』 にハナシを戻すと、ダントンの 「私はギロチンにかけられた」 とは言えないことについての単純で深遠な問題提起を、ジュリアン・ソレルは一笑に付して、 ◇ – «Pourquoi pas. reprit Julien. s'il y a une autre vie ? ... ◆ と呟いたのだった。いま思い出したが、かつて流行った 『北斗の拳』 のケンシロウの決め台詞に 「お前はもう死んでいる」 というのもあった。このコトバもまた、生と死の微妙な差異に触れているように思う。 |
◇ He is known for his famous one-legged "flamingo" batting stance. ◆ 彼とは誰か? もちろん、Sadaharu Oh、王貞治のことである。 ◇ 1962年にすくい上げる打法を矯正するため、荒川博コーチの指導の下で 『一本足打法』 を習得。この打法はアメリカでは 「フラミンゴ打法」 と呼ばれる。この時の特訓で使った部屋の畳が磨り減ったと言われる程の過酷さは伝説として語り継がれている。この打法改造がきっかけとなって驚異的な勢いで本塁打を量産し始め、1964年にはシーズン本塁打55本の日本新記録、同年5月3日に開かれた阪神戦(後楽園球場)では1試合4打席連続ホームランを記録。
◆ ついでにもうひとつ。草野球に熱中していた小学生のころ、ある日、ワタシには荒川コーチはいなかったにもかかわらず、独力で、一本足打法を手本にして新たな打撃フォームの開発に成功したのだった。名づけて 「イッポンダシアホウ」。王選手の一本足打法はピッチャーに近い方の右足を宙に浮かせるものだったが、ワタシのイッポンダシアホウは、それとは逆にキャッチャーに近い方の足を上げるのである。ひじょうにバランスが取りにくく、この打法の習得にはかなりの鍛錬を必要としたが、この打法の効果は絶大だった。相手ピッチャーはワタシが反対の足を上げると一様に驚き笑い、そして暴投をした。しかし、その効果も長くは続かなかった。ピッチャーがこの打撃フォームに慣れてしまい、暴投をしなくなると、残念ながらワタシにはなすすべがなかった。バットを振るたびにワタシのからだは見るも無残によじれ、ボールを打つどころではなくて、その場に倒れこむのだった。ほどなく、ワタシはこの打法を封印することにした。しかし、その名はしばらく残ることになる。というのも、みながワタシを 「一本出し阿呆」 と呼ぶようになったからである。 |
◆ 仕事帰りに駅前の銭湯に寄った。ひとっ風呂浴びて、脱衣所でからだを拭いていると、常連客が番台のオヤジに話しかけて、昨日は何をしていたのかと尋ねる。番台のオヤジは墓参りだと答える。そのつづき。 ◇ 「年寄りになると墓参りが楽しみになるねえ」 ◆ ワタシはそんなものかなと思いながら、服を着る。そのあと、桜のころの霊園はいいねえとか、ひとしきり墓参り談義。 ◆ 以前、街中で聞いた他人の会話を記録して 「今日のひとこと」 というようなページでも作ろうかと思ったことがあったが、印象に残る台詞にそうそう出合うわけもなく、そのまま思いつきだけで終わってしまった。それでも、ときどき、聞き耳を立てているわけでもないのに、自然に聞こえてくるような心地よい会話というものはあって、今日銭湯で聞いたのもそんな感じの会話だった。銭湯を出て、角を曲がると桜がすこし咲き始めていた。 |
◇ 東京タワーを見てテレビ塔。 ◆ とつい言ってしまうひともなかにはいるかもしれない(もちろん、東京タワーもテレビ塔には違いないのだから、テレビ塔と言ってなんの問題もないのだが、それはさておき)。たとえば、札幌(北海道)から来たひととか、 ◇ 東京タワーをテレビ塔と呼んじゃったり、多摩川で豊平川を連想したり・・・根っからの道産子だわ私 ◇ 東京へ行った北海道出身者で 「つい、東京タワーをテレビ塔と言ってしまった事がある人」 は結構いるはず。 ◆ あるいは、名古屋(愛知)から来たひととか、 ◇ 名古屋は、テレビ塔と呼ぶので、ついつい、東京タワーを見て、「ほら、テレビ塔についたよ!!」 と言ってしまう母でした。 ◇ 時間があるので東京タワーまでお散歩。値段を見て登るのは断念。つーかあれは暴利でしょ~。ついつい 「テレビ塔」 と言ってしまう私は愛知県人…。 ◆ 札幌と名古屋には似たようなテレビ塔がある。だから、札幌から名古屋に行ったひとは、 ◇ その後はテレビ塔にいってみた。札幌のように赤と白ではなく銀色でした。名古屋の町は札幌に似てる! ◇ テレビ塔を発見! このテレビ塔の雰囲気をみて 『あれ?』 って思った。札幌のテレビ塔とあまりにも類似していたから。ガーデン風のカフェや広場の形など。そして大通り公園のようなものもある! 実際に展望台に登り、周りを見渡すと本当に札幌そっくりだった(@_@;) ◆ 名古屋から札幌に行ったひとは、 ◇ ちょうど夏祭りをやっていた大通公園に出て、名古屋のテレビ塔にそっくりなテレビ塔のある風景を歩き、焼きとうもろこしを食べたりしました。 ◆ と、だれでも似たような感想を抱く。 ◇ 「いつか、どこかで見た風景」 として、札幌と名古屋はテレビ塔と大通公園界隈が、よく似ていると言われます。札幌は大通公園としての歴史が古く、公園の一角にテレビ塔を建てました。名古屋は逆に、テレビ塔の周辺を公園として整備したのです。 ◆ それもそのはず、東京タワーも名古屋や札幌のテレビ塔も、「塔博士」 と呼ばれた内藤多仲(ないとうたちゅう)の設計によるものらしい。 ◇ 内藤博士は、テレビ本放送が開始した1953年に名古屋テレビ塔の設計を担当し、その翌年に竣工を迎える。さらに'56年に現在の通天閣、'57年に別府タワー、さっぽろテレビ塔と、展望台つき鉄塔の構造設計をつぎつぎに手がけ、'58年、ついに東京タワーを完成させるに至った。 |
◇ 富山県射水市の射水市民病院(麻野井英次院長)で平成12年から昨年までに、外科部長の男性外科医(50)に人工呼吸器を取り外された同県内の男女7人の患者が相次いで死亡していたことが25日、分かった。 ◆ というニュースにふれて、安楽死あるいは尊厳死についてすこし考えてみたりもしたが、それよりも気になったのは、この射水市民病院はどこにあるのかということだった。というのも、この射水市は、「平成の大合併」 によって、去年できたばかりの市で、 ◇ 2005年11月1日、射水郡の全町村(小杉町、大門町、大島町、下村)および新湊市が合併して発足した。 ◆ ということなので、射水市民病院とあるだけでは、これが旧市町村のどこにあるのかがわからない。それがちょっと気になったのだった。前掲の記事には、 ◇ 射水市民病院は昭和25年、富山県高岡市立新湊病院として発足。市町村合併に伴い、昨年11月に射水市民病院に改称した。病床数は200床で、13の診療科を備える。 ◆ とあるけれど、これはちょっと端折りすぎで、高岡市立新湊病院がいきなり射水市民病院になったわけではないので、射水市民病院のサイトの 「病院沿革」 にある、昭和26年3月、 ◇ 新湊市立新湊病院と改称(同年1月、市制施行により高岡市から分離、新湊市となる) ◆ の一行をあいだに挿まなければ、誤解を生じる。さらには、昭和51年3月、 ◇ 現在地(朴木)に移転新築し、新湊市民病院と改称 ◆ の一行を加えれば、さらにわかりやすい。高岡市から新湊市をへて射水市へ。思えば、市民病院の歴史とは、そのまま地方自治体の歴史なのだった。 ◆ せっかくなので、射水市の市章でも紹介しておこう。
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