◆ つづけて 『赤と黒』 (Le Rouge et le Noir) からもうひとつ(第42章)。 ◇ – «Le comte Altamira me racontait que, la veille de sa mort, Danton disait avec sa grosse voix : C'est singulier, le verbe guillotiner ne peut pas se conjuguer dans tous ses temps, on peut bien dire : Je serai guillotiné, tu seras guillotiné, mais on ne dit pas : J'ai été guillotiné. ◆ ダントンって誰だっけ? ちょっと世界史の復習をすると、フランス革命のさなか、 ◇ ダントンは、ジャコバン派の右派の中心人物として、ダントン派を形成し、革命の過激化を嫌い、恐怖政治の緩和を主張してロベスピエールと対立し、1794年4月に処刑された。 ◆ そうそう、ダントンは断頭台(だんとうだい)の露と消えたのだった。なんだかダジャレみたいだ、と思ったら、 ◇ 発明者の名前を冠した処刑機械・ギロチン。フランス大革命の際にダントンが処刑された故事により「ダントン台」とも呼ばれる…というのはもちろん嘘だが、 ◆ 同じことを考えてるひともいた。それはともかく、「私はギロチンにかけられた」 と過去形で言うことができないのは、あたりまえといえばあたりまえのハナシで、ギロチンにかけられて死んでしまったら、「私はギロチンにかけられた」というコトバに限らず、どんなコトバであれ発することはできはしない(と思うが、死んだことがないので断言は避けて)だろう。 ◆ 日本語でも、ふつう、「私は死んだ」 とは言えないだろう。では、私は死なないのだろうか? もちろん、死ぬだろうけれど、その死ぬ主体はいったいだれなのか? 生活にかまけていると、死の問題など考える機会もなくなるもので、かえって、中学生のほうがモノを考えていたりする。 ◇ 私は、人は死は体験できないものだと考えます。人は死ぬ前に先に意識がなくなるものだと思います。実際に死んだことはないですし、死んだ人に聞いたわけでもないのでそうとは言い切れませんが、死は体験できないと思います。筆者の友人が言う通り、「死ぬのは他人ばかりなり」 その通りだと思います。死んだ後どうなるかは他人しかわからない、だから 「死」 というものは恐れられているのだと私は考えました。 ◆ これは、江戸川学園取手中学校の道徳の授業 「テーマ:生命尊重・・・命のバトン」 の感想文(1年7組 C.A. さん)。中1でこんな文章が書けるのも驚きだが、この 「筆者の友人」 にはもっと驚く。「死ぬのは他人ばかりなり」、こんなセリフを吐く友人がいるとは。C.A. さんは、とんでもない友人をもっている。 ◇ Sur sa tombe au cimetière de Rouen est gravée cette épitaphe : ◆ 「彼」 とは、20世紀の芸術家マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)のこと。 ◇ 人は誰も自分が死ぬとは思っていない。それがどういうことなのかわかってはいない。たとえ納得しているつもりではあっても、納得されているその事態は死そのものではなく死をめぐる物語にすぎない。自分の死後に人がどのように振舞うかを見たいために、死を演じてみせたロシアの皇帝の話を人は笑うことができない。事実は、誰もが同じようなことをしているといってよいからである。たとえば、後世を信ずるとはそういうことだ。 ◆ 『赤と黒』 にハナシを戻すと、ダントンの 「私はギロチンにかけられた」 とは言えないことについての単純で深遠な問題提起を、ジュリアン・ソレルは一笑に付して、 ◇ – «Pourquoi pas. reprit Julien. s'il y a une autre vie ? ... ◆ と呟いたのだった。いま思い出したが、かつて流行った 『北斗の拳』 のケンシロウの決め台詞に 「お前はもう死んでいる」 というのもあった。このコトバもまた、生と死の微妙な差異に触れているように思う。 |
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