◆ アンデルセンのことを調べていたら、《デンマーク王立図書館 Det Kongelige Bibliotek》 のサイトにたどり着いた。そこに所蔵資料をオンラインで公開しているコーナーがあって、その一覧を見ていると、 ◇ Kanna hifumiden af Hirata Atsutane (1775-1843) ◆ という文字が目に留まった。平田篤胤の 『神字日文傳』(かんなひふみのつたえ)。こんな本がコペンハーゲンにあるのだった。JPEG画像で読める(ワタシには難しくて読めないが)。どんな本かというと、 ◇ 上古に文字なしという宣長説の誤りを論じ、種々の文献により神代に日本独自の文字があったことを説く。とくに阿比留文字(日文)についてその発生をフトマニの兆形に求め詳論、巻末に日文以外の各種古文字を収載。いまや60万円もする篤胤全集を買わないと見ることの出来ない貴重書。 ◆ この60万円(!)もする 「貴重書」 の32ページにハングルに似た文字が掲げられている。これが 「日文」(ひふみ)であるそうな。 ◇ 『神字日文傳』 は江戸時代の国学者神道家である平田篤胤が著したものです。この書物では、日本に固有の文字(神代文字)があったという説が唱えられています。今日いわゆる神代文字と呼ばれるものは多種ありますが、対馬の阿比留家に伝わったとされる 「日文(ヒフミ)」 が特に有名です。現在は、神代文字に関して、固有性はもちろん信憑性についても、学問的に否定されています。 ◇ 我國には古く文字が無かった。漢字が傳はって、はじめて文字を學び、遂にこれで日本語をも寫したが、後には漢字から假名が出來て、以後漢字と假名とが永く用ゐられた。又印度で用ゐられた梵字が僧侶の手で支那から傳はったが、これは梵語を書く爲に用ゐられ、日本語としては、間々人名を之で記すものがあった位である。又ローマ字が西洋から傳はり、之で日本語を書く事もあるが、特殊の場合に限られてゐる。かやうに、我國に用ゐられた文字は、すべて外國の文字か、又はそれから發生したものである。 ◆ 諺文というのは、ハングルのこと。橋本進吉の引用を続けると、 ◇ 諺文は朝鮮の世宗の時はじめて作られたものであるから、日文はそれ以後のものである事疑無い。篤胤は、諺文との類似を認めながら、却って、日文が古く朝鮮に傳はって殘ってゐたのに基づいて諺文を作ったものとしてゐるが、さうで無い事は、諺文創定の歴史や、それまでの朝鮮の文字の歴史を見れば明かである。猶、日文は伊呂波と同じく四十七字であって、濁音を除いて六十種の音節を區別した奈良朝の言語は勿論の事、四十八種の音節を區別した平安朝初期の言語を寫すにも不十分である事、もし日文が實際世に行はれたものとすれば、これで國語を書いたものが殘存すべき筈であるのに、さやうなものはなく、あらゆる違った文字だけを集めた字母表といふべきもののみが存する事、その字母表の順序も 「ヒフミヨイムナヤコトモチロラネシキルユヰツワヌソヲタハクメカウオエニサリヘテノマスアセヱホレケ」 となって、かやうな順序は古書にも所見なく、全く意味をなさぬ事、又、一般文字史上單音文字は最發達した段階に屬するものであるから、日文の如き單音文字は我國にはじめて出來た原始的の文字とは考へ難い事などの諸點から觀れば、日文は決して古く我國に出來て行はれたものではなく、ずっと後世に誰かが作ったものと考へられる。日文以外の諸種の神代文字は、更に一層疑はしいものである。さすれば、我國には、固有の文字は無かったのであって、漢字が早く渡來した爲、之を用ゐて日本語をも寫したものとおもはれる。 ◆ 日文はまた阿比留文字とも呼ばれるが、 ◇ 神代文字の中にはハングルと酷似したもの(阿比留文字、対馬の阿比留氏が関係するとされる)が存在する。ハングルは1443年に考案されたものであるから、ハングルが阿比留文字を参考にしたものでなければ、阿比留文字もそれ以降のものであると解される。ハングルが阿比留文字を参考にしたという根拠は韓国の文献には認められない。 ◇ 要するに、阿比留文字等を以て或は我國固有の文字なりとし、或は韓國の文字に用りて作りたるものとせるなど、其由來に就いて諸説紛々たりと雖、今日の學術的見地よりしては、少くとも我が所謂神代文字の或者は、諺文の影響によりて發生したるものなりと云ふべし。但しこれ決して神代のものにあらざるなり。(藤岡勝二 『國語略史』) ◆ この阿比留、なんと読むのかというと、これがアヒルなので、「みにくいアヒルの子」 はこんなところにもいたのだった。とはいえ、このアヒルがハクチョウになる可能性はほとんどない。いまでも、 ◇ ハングルってのは日本の阿比留文字が原型です。知ってる人どれくらいいるのかなと気になるけど、「阿比留文字」 でググるとわかるとおもう。 ◆ そう述べて、アヒルをハクチョウにすることを夢みるひとがあとを絶たないが、「我國上代に文字なしと談じては、一種の耻辱なるが如く考へ」(藤岡勝二 『國語略史』)ることに根拠はない。アヒルはアヒルのままでよい。 ◆ そういえば、いつだったかバラエティ番組で万引きの常習犯だったことを告白して干された女性の芸能人も、またアヒルだった。 |
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