MEMORANDUM
2010年07月


◇ あんな淋しい駅はどこにもないとさえ思った。江若鉄道が通っていたころ、終着駅の近江今津駅のことだ。若狭の在所へ帰るのに、大津から電車に乗った。三輌ぐらいしかない電車は、湖岸道路に沿うて、畑の中や、松林や、町なかをぬけて北へ北へ走り、今津駅に着くと、そこは終着ゆえ、乗客はみな降りる。といっても、私が愛着したころは、どの車輌にも、五、六人しか客はいなかった。医者へ行ったとみえて片手を三角巾で包んだ若者。眼帯をした娘さん。松葉杖をついた中年女。近在から大津まで出た人たちが帰ってきたのである。殆ど農夫や行商人で、あふれるほど混むのは真夏の海水浴シーズンぐらいだろう。ふだんの日は、今津駅は、自転車が一、二台軒下にたてかけてあるだけで、車など見えもしなかった。
水上勉『停車場有情』(朝日学芸文庫,p.152)

◆ 江若(こうじゃく)鉄道のことを書こうと思ったわけではないが、知らないひとも多いだろうから(ワタシも名前しか知らないが)、ちょっと説明。

〔大津市歴史博物館〕 「江若鉄道」と聞いて、当時の姿をイメージできる方は、おそらく40代以上の方でしょう。江若鉄道は、浜大津から今津までの鉄道で、近江と若狭をつなぐという意味から、それぞれの一字をとって、その名が付けられました。大正10年に三井寺-坂本間が、昭和6年には浜大津-今津間が開通しましたが、若狭まで延伸は実現することなく、昭和44年に廃線、同49年に開業した国鉄(JR)湖西線にその役割を譲り、約50年の歴史を終えました。
www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/060701.html

◆ 水上勉は「電車」と書いているが、江若鉄道は廃線まで電化されることはなかったので、したがって電車は走っていなかった。走っていたのは、汽車だったり、ガソリンカーだったり。それはさておき、そのあとの「あふれるほど混むのは真夏の海水浴シーズンぐらいだろう」という箇所を読んで、思い出したことがある。こどものころ、海がそれほど近くはない京都の山科というところに住んでいたワタシにとって、「海水浴」といえば琵琶湖のことだった。おとなになって、琵琶湖で「海水浴」というのは妙な気がし、「湖水浴」などというコトバもあったのだろうかと記憶を遡ってみたりもしたが、よくわからなかった。「海水浴」と言っていたのは、もしかしてワタシだけだったのだろうか? そのことがちょっと気になっていたので、この水上勉の文章を読んだときに、ワタシだけではなかったんだな、とちょっとほっとした。もちろん、水上勉の「海水浴」が、終着の今津からさらにバスに乗り換え、山を越えてようやくたどり着く若狭湾のことである可能性もないではないが……。

◆ 平成18年7月28日(金)~9月3日(日)、大津市歴史博物館で「ありし日の江若鉄道 -大津・湖西をむすぶ鉄路(みち)-」という企画展があったらしい。この展覧会を見に来たひとたちが「江若鉄道の思い出」をさまざまに語っていて、そのなかに、

◇ 若狭への海水浴へは京都から京津電車に乗り、浜大津へ出て、それから江若鉄道にて今津まで、それから国鉄バスで若狭へ到着。まる半日以上はかかったかと思います。
www.rekihaku.otsu.shiga.jp/note/14.html

◆ 若狭に江若鉄道で海水浴に行くひともいたんだな。とすると、水上勉の「海水浴」は、やっぱり、若狭のことだろうか? また、べつなひとは、

◇ 昭和38年-昭和40年頃、家族で夏休みのレクレーションに、小松浜まで、海水浴に連れて行ってもらいました。当時は、車内は冷房設備がなく、1日琵琶湖で泳ぎ楽しんで帰る時、くたくたの体で車内暑かったのを今、54才になる私は、その頃を、ハッキリと覚えています。

◆ これは間違いなく琵琶湖のことだ! その他のひとはどうかというと、

◇ 又真野駅や雄琴温泉駅勤務の時は客といろいろ口けんかをして、水泳客が切符なしで乗車した時もありました。

◇ 昭和の10年前後、柳ヶ崎水泳場で泳いだ想い出なつかしい。浜でさぐると鳥貝などよくとれた。

◇ 機関車の煙と水泳客で鈴なりの乗客の姿も忘れられません。ポアーンとガソリンカーのこだまする懐かしい音も心の底にあり、思い出すといろいろ本当になつかしい鉄道であります。

◇ 京都で生まれ育った私にとって、水泳行の多くは琵琶湖で、江若鉄道のガソリンカーが、自動車中心の時代まで、交通手段だった。

◆ どうやら、「水泳」というのがフツウの言い方であるらしい。「海水浴場」ではなくて「水泳場」、「海水浴客」ではなくて「水泳客」。とはいえ、「海水浴」と言うひとも、それが誤用であるにしても、少なからずいるので、

◇ 小学校、中学校の夏休み当時は学校にプールなどなく、夏休みは歩いて琵琶湖まで海水浴に行くのがほぼ毎日でした。
takasima.shiga-saku.net/e421706.html

◆ と書いているのは、地元のひとだ。

〔道浦俊彦/とっておきの話:ことばの話2877「琵琶湖で海水浴」〕 今日、6月8日の『ズームイン!!SUPER』の関西ローカル部分の放送は、滋賀県大津市の琵琶湖岸からでした。あの遊覧船「ミシガン」からの中継です。今日は「泊まり明け」だったので、会社のテレビでその中継を見ていたら、大田良平アナウンサーが、「いやあ、琵琶湖に来るのは久しぶりです。子供の頃によく海水浴には来たんですけど」とポロッと言ったのを、私は聞き逃しませんでした。「海水浴? いつから琵琶湖で『海水』浴が出来るようになったんだ!?」 でしょ? 琵琶湖は「海」ではありませんから、「『海水』浴」は出来ません。強いて言うなら、「湖水浴」ですが、この言葉は、こなれていませんよね。じゃあどう言えばいいのか? ここはシンプルに、「泳ぎに来た」で良いのではないでしょうか?
www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/2801-2900/2876.html

◆ 琵琶湖は「海」ではないかもしれないが、少なくとも「うみ」の一種ではあるだろう。みずうみ。あわうみ(おうみ)。

◇ 小さい頃、琵琶湖は海だと思っていました。海水浴はいつも琵琶湖でしたが、「うみ」に行くと言っていました。滋賀県の人は、結構高い確率で琵琶湖を「うみ」と呼びます。これは、本当です。
neznet.main.jp/pro.html

◆ そういえば、旧制三高の寮歌のひとつ「琵琶湖周航の歌」の歌い出しは、

♪ われは湖(うみ)の子 さすらいの
「琵琶湖周航の歌」(作詞:小口太郎,作曲:吉田千秋)

◆ だった。琵琶湖での海水浴は、塩でべとつかないので、帰りにシャワーを浴びる必要がないのがいいところ。

〔道浦俊彦/とっておきの話:ことばの話2877「琵琶湖で海水浴」〕 琵琶湖は「海」ではありませんから、「『海水』浴」は出来ません。強いて言うなら、「湖水浴」ですが、この言葉は、こなれていませんよね。
www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/2801-2900/2876.html

◆ 先にも引用したこの文章、別なことが気になったので、少しだけ。気になったのかのは『カッコ』の位置で、ワタシなら、

◇ 琵琶湖は「海」ではありませんから、「『海』水浴」は出来ません。強いて言うなら、「『湖』水浴」ですが、この言葉は、こなれていませんよね。

◆ と書くだろうと思う。「海水浴」というコトバの成り立ちは、「海水+浴」なのか、「海+水浴」なのか? 「海水を浴びること」なのか、「海で水浴すること」なのか? それによって、海水浴の対義語もそれぞれ異なったものになる。ひとつが「湖水浴」。

◇ 八月最後の日にもかかわらず、海水浴に行って来たのである。海水浴と言っても、本当の海はお盆を過ぎるとクラゲの登場で、到底泳げっこない。泳ぎに行ってきたのは、滋賀県の琵琶湖である。だから正式には海水浴ではなく湖水浴だ。
www2.nkansai.ne.jp/users/otomu/99.8-1.html

◇ それは「海水浴」ならぬ「湖水浴」。滋賀県内には真野浜、わに浜、松の浦、マキノサニービーチ等、20以上のすばらしい水泳場が数多くある。
urara.47club.jp/2010-07-chikyuu/shiga/4785

◇ 始めての海水浴(正しくは湖水浴ですが、何故かみんなこう言います)は琵琶湖。免許を取ったらとりあえず琵琶湖。デートも琵琶湖。とにかく暇だったら琵琶湖。京都の人間にとって琵琶湖はそういう場所です。
pupa.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-1c90.html

◆ もうひとつが「淡水浴」。「湖水浴」もこなれていないが、「淡水浴」はさらにこなれていないだろう。

◇ 関西出身の私は子供のころ夏は琵琶湖で海水浴ならぬ淡水浴!?
audreyblog.exblog.jp/12112190/

◇ 小さい時は、海水浴といったらだいたい琵琶湖のわに浜やったな。琵琶湖なら淡水浴やね。ワニがおるのと違うかとビクビクしていた。
blog.goo.ne.jp/kyo-otoko/e/8fbe57560f7ae763ff647d0ec03e03e3

◇ 京都人は、海水浴ってゆーたら琵琶湖ですよね。(淡水浴やけど)
fight.blog.eonet.jp/hirokohan/2010/06/post-59b7.html

◆ 「湖水浴」にせよ「淡水浴」にせよ、引用した文章を読んでいると、書き手の脳裏にまっさきに浮かんだコトバが「海水浴」であったことはまず疑いがない。そのあとで「琵琶湖で海水浴? ちょっと変かな?」と考えて、「湖水浴」あるいは「淡水浴」というコトバを作り出す。そんなことなら、面倒だから、「海水浴」でもいいんじゃないかという気がしないでもない。

◆ 湖を「うみ」と読ませる例で、そういえばと思い出したのが、大相撲の「北の湖」。その由来はというと、

〔Wikipedia〕 四股名は故郷壮瞥にある洞爺湖にちなんで師匠の三保ヶ関がつけた。湖を「うみ」と読ませたのは水上勉の小説『湖の琴』(うみのこと)からの着想という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/北の湖敏満

◆ 「北の湖」が洞爺湖であろうことは想像がついたけれど、ありゃりゃ、こんなところにも、水上勉が! この『湖の琴』という小説は読んだことがないが、映画化もされているらしい。舞台は余呉湖。

〔Wikipedia〕 余呉湖(よごこ)は、滋賀県長浜市にある湖。「よごのうみ」とも読む。日本最古とされる羽衣伝説の地として知られる。春夏秋はハイキング、冬場はワカサギ釣りで賑わう。
ja.wikipedia.org/wiki/余呉湖

◆ 「よごのうみ」と「も」読む、か。司馬遼太郎に言わせれば、そうではなくて、

◇ 余呉は、余呉湖(よごこ)ではなく、あくまでもよごのうみとよばれるべきものなのである。
司馬遼太郎『街道をゆく4』(朝日学芸文庫,p.276)

◆ ということになる。

◇  いったいに、湖(みずうみ)という日本語は明治以前にはなかったのではないか。LAKE という外来語が入ってきてその翻訳語としてミズウミという日本語ができ、大正期を経て定着したのではないかとおもわれる。われわれが湖とか湖畔とかいう言葉に、歌謡曲的な適度のハイカラさを(たとえば長崎のオランダ坂といったものと同類の感覚を)もつのは、それが伝統的な日本語でなく、翻訳語であるためかもしれない。
『広辞苑』(第二版)の湖の項をひくと、
「水海の意。周囲を陸地でかこまれ、直接海と連絡のない静止した水塊」とある。
 この「静止した水塊」のことを、明治までの日本語では、単にうみとよぶことが多かった。淡海(あわうみ)、淡海(おうみ)とよばれることもあった。

Ibid.,p.275-276

◆ 「湖畔」というコトバの「適度なハイカラさ」は、たとえば、このホテルにも感じることができる(だろうか?)。(大都会の)湖畔で愛しあう二人。

〔朝日新聞〕 大相撲の賭博問題で、NHKは6日、名古屋場所の中継放送をテレビ、ラジオとも行わないことを決めた。再発防止に向けた日本相撲協会の取り組みが不十分で、中継をすれば受信料を支払う視聴者の理解が得られないと判断した。一方で相撲ファンに配慮し、幕内の取組を紹介するダイジェスト番組を午後6時台に20分間放送する。
www.asahi.com/national/update/0706/TKY201007060426.html

◆ ゴタゴタ続きの大相撲。2年前、露鵬・白露山の大麻問題で北の湖親方が日本相撲協会の理事長を引責辞任。そのあとを引き継いだ武蔵川親方(元横綱・三重ノ海)はただいま体調不良で静養中とか。北の湖と三重ノ海。

〔東京新聞:筆洗(2010年6月28日)〕  大鵬時代からの大相撲ファンで、テレビ中継はずっと見てきた。忘れがたい勝負がいくつかある。全盛期の横綱北の湖に勝てなかった大関三重ノ海が仕掛けた奇襲はその一つだ。
 立ち合った瞬間、三重ノ海は横綱の目の前で両手をパチンとたたいた。相手をひるませ、有利な体勢に持ち込もうという作戦は、その名も「猫だまし」。しかし、北の湖にはまったく通じなかった。
 大関を陥落しながら、横綱になった三重ノ海は前さばきがうまく、速攻が魅力だった。親方としても多くの弟子を育て、不祥事で辞任した北の湖前理事長の後を引き継いだが、野球賭博をめぐる対応はあまりにもお粗末すぎた。

www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2010062802000054.html

◆ 三重ノ海は三重県松阪市の出身だそうで、「三重ノ海」とは伊勢湾だろうか? 三重の海の伊勢湾と北の湖の洞爺湖では、もちろん伊勢湾のほうが大きいのだろうが、海よりも湖のほうが巨大であるようなイメージはなかなか消せない。

◆ 「武蔵川」という川はどんな川だろうと思って調べてみたが(といってもウィキペディアを見ただけだが)、よくわからない。

〔Wikipedia〕 武蔵川(むさしがわ)は日本相撲協会の年寄名跡のひとつで、初代・武蔵川が四股名として名乗っていたもので、その由来は定かではない。
ja.wikipedia.org/wiki/武蔵川

◆ その代わりといってはなんだが、こんなハナシはどうだろう。

◇  私の知人で、英語が上手なためにときどき無料通訳をたのまれるという家庭婦人がいる。あるとき京都の小型タクシーに、カイロ大学の総長さんと医学部長さんを詰めこんで、彼女が助手席に乗って、三条大橋にさしかかった。
「この橋の下を流れるのが、日本でもっともエレガントな川といわれております鴨川であります」
 というと、後ろの座席の大男二人は車がゆれるほどに犇(ひしめ)きあって大笑いし、やがてミセス・コバヤシはすばらしいユーモリストだ、と激賞してくれた。ミセス・コバヤシはしばらくその意味がわがらなかったが、やがて、自分が鴨川のことを river といったために獲ちえた褒辞であることがわかった。大男たちの river の概念はナイル河で出来あがっており、海のように大きい。river ! river ! と大男たちは叫び、車が三条大橋を渡りきるまで笑い続けていたという。

司馬遼太郎『街道をゆく 1』(朝日学芸文庫,p36-37)

◆ いつの日か、「ナイル河」(どのような漢字をあてるのがよいのだろう)などという大男のエジプト人力士が大相撲の土俵に上がっていたりはしないか。そのとき、偶然のように「鴨川」というひょろひょろの日本人力士がいたなら、ぜひともそちらを応援したいものだ。

◇ あんな淋しい駅はどこにもないとさえ思った。
水上勉「湖西線近江今津駅―駅舎が姿を消す日」(『停車場有情』所収,朝日学芸文庫,p.152)

◆ と水上勉が書いた江若鉄道の終着駅、近江今津。画像は、《大津市歴史博物館》のサイトから。「昭和44年 福田誠二氏撮影」とある。江若鉄道は1969(昭和44)年11月1日、廃止。5年後の1974(昭和49)年7月20日、国鉄湖西線が開業。

◇  いま、湖西線が、敦賀から京都へ向かう、特急は今津を無視して走ることもある。人びとは、この本線沿いに、むかし三輛か二輛編成の電車が走り、今津駅という平べったい、小さな駅舎が、木材置場と隣りあってあったけしきを思いだすだろうか。
 さいきん、といっても去年の冬、車で若狭へぬける時、「かん六」できつねうどんを喰って、古い駅を見にいった。まだ広場がのこっていた。そこで子供があそんでいた。廃駅の建物は一部残っていて、そこへ風呂敷に扇子の骨をつつんで通りかかる老婆に出あった。そうだった。ここは京扇子の骨をつくる農家が多いのだった。

Ibid., p.155

◆ 初出の雑誌連載が1978(昭和53)年1月から1979(昭和54)年12月ということなので、「さいきん、といっても去年の冬」というのは、1977年か78年の冬。廃線から10年近く経って、水上勉が再訪したとき、思い出の駅舎はまだ健在だった。

◇ 湖岸は、若狭の海とちがって、あの汐くささがない。よく北へ帰りそびれて冬ごしをはじめた鴨や雁を、よしの間に見たことがあった。淋しい岸を背中に負うた近江今津の、暗いけしきを私は愛着しているのだが、駅舎がまったく姿を消す日のことを思うと感慨無量となる。
Ibid., p.156

◆ 「駅舎がまったく姿を消す日のことを思うと感慨無量となる」と書いた水上勉は、2004(平成16)年9月8日、死去。

◇ 人間の宿命とあわれさを見つめ続けた作家、日本芸術院会員の水上勉(みずかみ・つとむ)さんが8日午前7時16分、肺炎のため長野県東御(とうみ)市の仕事場で死去した。85歳だった。通夜、葬儀、喪主は未定。自宅は公表していない。
www.asahi.com/book/news/TKY200409080197.html

◆ で、廃線から40年あまり経った現在、駅舎はどうなったのかというと、それが驚いたことに、いまなお残っているらしい。機会があれば、ワタシも「駅舎がまったく姿を消す日」までに、見ておきたいと思うけれど、こちらが先に姿を消しているかもしれず、こればかりはなんともいえない。【追記:2010/08/24 14:42】 さっそく見てきた。

◆ ある小説の一節。

◇ 清宮は、いつも肩にかけているバッグを大事そうに抱え、誰もいない舞台の両袖に置かれた、ビアズレーのサロメに目を注いでいる。
村松友視『海猫屋の客』(朝日文庫,p.78)

◆ 舞台の両袖に置かれたものを二つ同時に見るのははなかなか難しいだろうと思うけれど、それはさておき、ビアズレーのサロメ。誰もいない舞台の両袖に置かれた、ビアズレーのサロメ。「私にヨカナーンの首をくださいまし」と繰り返すサロメの声が、聞こえそうな気がする。舞台の両袖に置かれているのは、ひょっとしてヨカナーンの首ではないのか? 左右に均衡を保って配置されたヨカナーンの首ふたつ。もちろん、そんなことはありえない。じつのところ、いったい舞台の両袖にはなにが置かれているのか?

◇ (そろそろ、ストーブの季節がはじまるか……)
 海猫屋のマスターは、店の奥の舞台の両袖の、ビアズレーの絵のある行燈(あんどん)をつけながら、そんなことを呟いた。

Ibid., p.230

◆ 舞台の両袖にあるのは行燈で、どうやらその行燈の笠に、ワイルドの戯曲『サロメ』のためにビアズレーが描いた挿絵が刷り込まれているようだ。

◇  海猫屋の店内は、元々のレンガの質感を残した上に、新しく内装がほどこされている。店の入口近くにカウンターがあり、その内側は狭く細ながい調理場、外側には数個の椅子が並らべてある。常連はそこへ腰かけるが、ふつうの客はそこから一段下ったテーブル席へ着く。
 客席の奥がやや高い舞台になっていて、両袖に行燈が置いてある。その行燈に貼った紙に描かれているのはビアズレーのサロメ、誰もいないうす暗い舞台に、奇妙なムードを添えている。その舞台の上で何が演じられるのかと訝る客たちにも、壁に貼った大きなポスターでだいたいの想像はつく。いくつかのボスターの中で、もっとも重みをおかれているのは、時が経って煤けたのか、はじめから古色蒼然たる趣きをからめたのか判然としない青白いポスターだ。「北方舞踏派 結成記念公演」、そこに記された大きく武骨な文字が店内に為体の知れぬ妖しい匂いをかもし出している。

Ibid., p.7

◆ 「誰もいないうす暗い舞台に、奇妙なムードを添えている」のは、こんな絵だろうか? それを確かめたくなって、小説の「舞台」である小樽の海猫屋にネット旅行してみることに。まずは、当の《海猫屋》のサイトから。

◇ 1986年には、作家の村松友視氏が海猫屋を題材に小説を書いています。「海猫屋の客」というタイトルで朝日新聞社から出版されました。のちに文庫本にも、なっています。しかし、小説に描かれたような雰囲気やイメージは、今の海猫屋には、ありません。かって、この場所で演じられていた暗黒舞踏の「北方舞踏派」や「鈴蘭党」は、小樽を去り、海猫屋の舞踏の舞台としての価値は薄れていきました。そして、1990年には、店内を大幅に改装し、ワインと無国籍な創作料理の店として生まれ変わることになりました。1階は、バーカウンター、2階は、照明を抑えた空間に自然木の広いテーブル。とても落ち着けるスペースです。
www.uminekoya.com/contents/info.html

◆ どうやら、舞台はもうないようだ。舞台がないとなると、その両袖にあった行燈はどこに?

◇ 急な階段を上り2階に行くと、分厚い木製のテーブルが2つあり、ハロゲンランプが手元だけを照らす暗闇。部屋の隅には行灯が置かれ、よく見るとビアズレのサロメがぼんやりと浮かんでいる。
blog.murablo.jp/syo-ryu/kiji/151118.html

◇ 小説の舞台にもなったらしい「海猫屋」。その2階の角々にあるランプ。近づいて造りをみてみたら…。ビアズリーの画集かなんかを拡大コピーして、ガラスの行灯に内側からコーティング…でした。
blog.goo.ne.jp/m-malena/e/f84f4f0670bad19dfd0467aef7ad786b

◆ どうやら、行燈は舞台からは姿を消したものの、二階に引越してまだ健在らしい。画像はないかと探してみたら、こんなのが見つかった。ほかにも行燈の写真を載せているブログがいくつかあったが、この二枚の絵しか写っていなかった。行燈の笠の形が四角だとすると、行燈ふたつで八枚の絵があってもよさそうなものだが、とにかく他の絵は見あたらない。二枚とはいえ、ビアズレーのサロメを目にすることができたのだから、このネット旅行もその目的を果たした、そう書いてこの記事を締めくくりたい。……のだが、そうはいかない事情がある。というのも、この二枚の絵は、残念ながら、『サロメ』の挿絵ではないのだ。左の絵の右上に「LYSISTRATA」の文字。これはアリストパネスの『女の平和』のために描かれた挿絵。右の絵もまた同じ。

◆ ああ、ビアズレーのサロメはどこに?

◆ 仕事帰りにふらりと狭山市駅前の居酒屋に入る。すわったのはカウンター席で、両隣が若いカップルというのがいささか肩身が狭いが、ビールは旨い。ジョッキを3杯ほど飲み干したころ、右隣のカップルの会話が聞くともなしに聞こえてきて、男性がこう言った。

◇ 「もうすぐ祇園かあ」

◆ なるほど、そういえば、もうすぐ祇園さんだ。してみると、この男も京都生まれなのだろうか。つづきの会話がよく聞こえなかったので、確かめようがないが、ワタシのように雅な雰囲気をまったく漂わせてはいないので、たぶん違うのだろう。


◆ おそらく、このあたりにも「祇園祭」があるのだろう。なぜといって、この居酒屋の住所ががまさに「狭山市祇園」だったから。そういえば、居酒屋に入る直前に通りかかった白山神社で、祭のビラが貼ってあるのを見かけた。それが祇園祭のビラだったのかもしれないが、そこまでは記憶していない。

◆ 家に帰って、白山神社を撮った写真を確かめると、その祭のビラが小さく写っていた。小さな字は判読できないので、大きな字だけをつなげると、

◇ 八雲神社の大御輿が巡行します。7月11日(日)雨天決行。八幡神社

◆ 白山神社に八幡神社が作った八雲神社のビラか。京都の祇園祭は八坂神社の祭礼だが、八坂に八幡に八雲、どれも末広がりで縁起がいいが、祇園祭となにか関係があるのだろうか。いや、じつのところ、祇園祭については、ほとんどなにも知らない。続きは調べてからしか書けない。

〔朝日新聞:天声人語(2010年6月29日)〕 東京の声欄に、少年(12)の投書「バスに乗ったらトンデモ乗客」があった。都下町田市。バスが5分遅れで停留所に着く。少年が母親と乗り込むと、男の客が女性運転士を怒鳴り上げたそうだ。
 遅れに立腹したか、座っても車体をけとばし、手すりに足を乗せる。信号では「黄色なんだから突き進め!」。当然、車内は「とても怖い感じ」になった。降り際には、運転士の名を確かめるそぶりも見せたという。
 〔中略〕
 乗務員は客を選べず、客も隣人を選べない。とりわけストレスの発火点が低い都会では、車内のトラブルは茶飯事だ。大抵の大人は、険悪への感度を鈍らせる知恵を備えている。音楽や携帯電話で耳と目を「開店休業」にするのも一つだろう。
 攻撃と防御がせめぎ合う都市のくらし。とんでもない客に当たった運転士や駅員も気の毒だが、居合わせた子どもはたまらない。耳目が無防備だから、とんがる空気に丸裸でさらされてしまう。怒声と鈍感が並走する車内で、ちいさな心が震えている。

 www.asahi.com/paper/column20100629.html

◆ この文章の「大抵の大人は、険悪への感度を鈍らせる知恵を備えている」というところで、電車やバスの車内でのイヤホンやヘッドホンは偽装された耳栓だったのか、と妙に感心してしまった。耳栓では露骨すぎるからと、音楽を聞きているふりをして耳を塞ぐということか。音楽も聞けてこれは一石二鳥。たいした知恵だ。ワタシも「大抵の大人」を見習ってそうしたいところだが、ワタシは耳栓の類が苦手で ―― いや、苦手なのは耳栓にかぎらない。衣服はしかたがないが、それ以外のものは、「腕時計」も含めて、なにも身につけたくない。――、ガマンがきかずにすぐに外してしまうことになるだろう。同じガマンをするなら、「とんがる空気に丸裸でさらされて」いるほうがまだマシだ。

◆ 携帯電話はどうかというと、これは使っている(ニュースを読んだり、メールをしたり)。しかし、耳と目では事情がだいぶ異なって、携帯電話が険悪への有効な防御になるとはとても思えない。では、アイマスクでもするか?

◆ 公園の片隅に、いかにもキノコが生えていそうな「風通しの悪いじめじめした場所」があって、近づくと、やっぱりキノコが生えていた。なんというキノコかしらないけど、裏側から覗いてみると、とってもきれい。

◆ 「2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会で、日本代表の個性的な面々をゲームキャプテンとしてまとめた長谷部 誠選手(26)」がテレビのインタビューで、キノコの話をしたそうだ。

〔FNNニュース〕 大会直前の強化試合で、結果を出せなかった日本代表。浴びせられた多くの批判について、長谷部選手は、「そういう批判は当たり前だと思ってましたけど、ちょうど合宿中に読んだ本で、『キノコは風通りの悪いところに生える』って。僕の好きな、フリードリヒ・ニーチェというドイツの哲学者がいるんですけど、その人が批判とか意見っていうのはね、そういうのがなければ、人間は成長しないって。その言葉を僕は大好きで」と語った。
www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00180076.html

◆ ニーチェを読んでいるとは、さすがにドイツのブンデスリーガの選手だけのことはある、と感心した。読んだのがドイツ語の原書じゃなくても(そりゃそうだろう)、さらには日本語の「超訳」であっても、(まあ)同じこと。長谷部選手が読んだらしい『超訳 ニーチェの言葉』(白取春彦訳,ディスカヴァー・トゥエンティワン)は「40万部を超えるベストセラー」になっているそうだが、まったく知らなかった。キノコの話は、この「超訳」では、

◇ キノコは、風通しの悪いじめじめした場所に生え、繁殖する。同じことが、人間の組織やグループでも起きる。批判と言う風が吹き込まない閉鎖的なところには、必ず腐敗や堕落が生まれ、大きくなっていく。批判は、疑い深くて、意地悪な意見ではない。批判は風だ。頬には冷たいが、乾燥させ、悪い菌の繁殖を防ぐ役割がある。だから、批判は、どんどん聞いた方がいい。
d21blog.jp/discover/2010/07/post-7e00.html

◆ これをワタシがさらに超訳すると、

◇ キノコは、人間社会における腐敗や堕落と同義語であるような、悪い菌であるので、徹底的に排除しなければならない。

◆ これがキノコではなくてカビと訳してあったなら、とくになにも思わないのだが、どうしてだか、キノコがこのように悪者として描写されているときにはいつも軽い反発を覚える。あんなにおいしいのに。ワタシが好んで食べているのが、「腐敗や堕落」だとは。とほほ。

◆ ちなみに、ニーチェのドイツ語原文は『人間的な、あまりにも人間的な』(Menschliches, Allzumenschliches)中のこれ。

◇ 468. Unschuldige Corruption. - In allen Instituten, in welche nicht die scharfe Luft der öffentlichen Kritik hineinweht, wächst eine unschuldige Corruption auf, wie ein Pilz (also zum Beispiel in gelehrten Körperschaften und Senaten).
www.gutenberg.org/cache/epub/7207/pg7207.html

◆ 風はルフトハンザ航空の「Luft」で、キノコは「Pilz」か。あとはしらない。「足のキノコ」(Fusspilz)は水虫。ドイツ生活者による「お口にキノコ」というブログ記事がおもしろい。

◆ 木更津にも(行ったことはないが)祇園がある。その名前にダイレクトに反応して、行ってみたいと思うひともいるだろう。

◇ 「木更津には、『祇園』っていう格調高い飲み屋街があるんだよ」とSさんがぼくに言ったのは、もう何年も前のことだ。木更津から内陸へ向かう久留里線の最初の駅が「祇園」という名前で、二〇年ほど前にSさんはそこで楽しい酒を飲んだとのこと。「チントンシャンっていう雰囲気で、もう最高だったぜ」と言う彼の言葉に「そのうち一度行ってみたいね」と話していた旅に、やはり酒飲みのUさんを引き込み、飲んべえ三人の泊まりがけの旅になったのである。
大穂耕一郎『駅前旅館に泊まるローカル線の旅』(ちくま文庫,p.175)

◆ この話は、(大方の)予想通りに展開して、祇園駅にたどり着くと、そこはローカル線の無人駅で、

◇ 「チントンシャン」どころか、赤ちょうちんもどこにあるのかわからない。
Ibid., p.180

◆ これは題名のとおり、「駅前旅館に泊まるローカル線の旅」という紀行文からの引用だが、祇園というコトバにたいするステレオタイプのイメージをそのまま投影した、おそらくは作者の創作だろう。《2ch》の「【びっくり】イメージと実際が違う駅【がっかり】」というスレッドにも、

◇ 祇園(久留里線)
イメージ:平安ロマンあふれる古風な街並み
実際:ただの田舎の無人駅

gimpo.2ch.net/test/read.cgi/train/1219506498/

◆ と、書かれている。

◇ 家庭教師を終え、産寧坂を下りて、月を眺めながら祇園へ向かう道すがらも、お茶屋の二階からはチントンシャンと三味線の音が聞こえ、舞っている芸妓さんらしき影がすだれに映り、遊び興じている笑い声も聞こえてきていた。
柏木健一『祇園は恋し』(文芸社,p.5)

◇ 京都の祇園というと、華麗なお座敷にお偉いさんと芸妓さんがチントンシャンという場面を思い浮かべる方が多いと思います。
shunichi.cocolog-nifty.com/contents/2008/11/post-207e.html

◆ そういえば、大雨で鴨川が雑炊じゃなかった増水しているらしい。

◆ たまたま引越の仕事で行ったのが狭山市の祇園という地名をもつところだった、ということに過ぎないのに、それ以降「祇園」のことが気になって、あれこれと図書館に行ったりネットで検索したりして、いつまでもだらだらとけりをつけないでいるのが性にあっているようで、ことのほか愉しい。「旅」はいつだって終わってからが始まりだから。祇園のという地名の由来であるだろう祇園信仰については、調べ始めるとずいぶんと難しくもあり、また適当なことを書くのも気がすすまないので、そのことと少し関係があるような(つまりはほとんど関係がないような)別のことをとりあえず先に書くことにする。

◆ 前の記事を書いていたときに、祇園といえば「チントンシャン」、それだけで十分なのだなあ、と妙な感心の仕方をした。もう一度、引用すると、

◇ 「チントンシャンっていう雰囲気で、もう最高だったぜ」
大穂耕一郎『駅前旅館に泊まるローカル線の旅』(ちくま文庫,p.175)

◆ と、これだけでも祇園の雰囲気が十二分に伝わっていると思えるけれど、念のため、

◇ 京都の祇園というと、華麗なお座敷にお偉いさんと芸妓さんがチントンシャンという場面を思い浮かべる方が多いと思います。
shunichi.cocolog-nifty.com/contents/2008/11/post-207e.html

◆ と、さらに説明的に言えば、京の花街・祇園の情景を表すのに、もはやなにも付け加える必要がないだろう。祇園といえば「チントンシャン」。それだけで、お座敷からは三味線の音が、それから華やかな芸妓の嬌声が聞こえてくる、ような気がする(もちろん、気がするだけで、そんなところには一度も行ったことがないので、じっさいどうなのかはよくわからないのだが)。チントンシャン、なんと不思議なコトバだろう。ついでに、今日のニュース記事から、もうひとつ不思議なコトバを付け加えると、

京に響く「コンチキチン」 祇園祭、宵々山
 京都三大祭りの一つ、祇園祭はハイライトの山鉾巡行を2日後に控えた15日、「宵々山」を迎え、歩行者天国となった京都市の中心街は浴衣姿のカップルや家族連れでにぎわった。
 暑さが和らいだ夕刻、「コンチキチン」と祇園囃子の音が響き渡ると、街はお祭りムード一色に。多くの夜店が並び、旧家や老舗では秘蔵のびょうぶ絵や掛け軸も公開され、見物客は古都の風情を楽しんだ。
 今年は32基の山鉾の一つ、菊水鉾に新築マンション2階から仮設の廊下を渡し、子どもが鉾に上ってはしゃいでいた。
 人出は約24万人(京都府警調べ)だった。

www.47news.jp/CN/200907/CN2009071501000886.html

◆ 祇園祭といえば、コンチキチン。

◇ 祇園祭と言えば、「コンチキチン」っていうあのお囃子。私鉄や市営地下鉄の駅でも流れてます。
blog.canpan.info/colpu/archive/201

◆ まあ、あの祇園囃子が「コンチキチン」と聞こえないひともいるにはいるが、

〔道浦俊彦/とっておきの話:ことばの話1289「コンチキチン」(2003/7/17)〕 7月16日、久々に、祇園祭宵山に行ってまいりました。東京生まれで東京育ちの新人・小林杏奈アナウンサーの「研修」の先生として。放送はしませんが、「月鉾」の前で、1分とか1分半の「仮想リポート」の訓練を小林アナウンサーにさせるのです。その際に小林アナから出た質問です。「『コンチキチン』って何ですか?」 アーホーかー、と言うのをグッと押さえて、「ほら、さっきから聞こえてる、祇園囃子(ぎおんばやし)の音色だよ。鉦の音が『コンチキチン』って聞こえるだろう?」「えー!コンチキチンとは聞こえませんよぉ。」「じゃあ、一体なんて聞こえるんだよ?」 これに答えて小林アナいわく、「『チャンチャカチャン』って、聞こえますーぅ!」
www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/1201-1300/1286.html

◆ それでも、祇園祭はコンチキチン。コンコンチキチン、コンチキチン♪

◇ あと二、三日で祗園さんがある。そう思うだけでコンコンチキチン、コンチキチンというお囃子の鉦(かね)の音が聞こえてくるようだった。
有吉佐和子『和宮様御留』(講談社文庫、p.8)

◆ 京を遠く離れても、聞こえてくるコンチキチン。

◇  少女が急に泣きやみ、覚左衛門夫婦を見てにっこり笑った。
「コンコンチキチン、コンチキチン。コンコンチキチン、コンチキチン。祇園さんえ」
 立ち上り、ふらふらと座敷の中を歩きながらはやしたてたとき、覚左衛門は事態を悟った。和宮様に狐が取り憑いたのだ。おいたわしいことだ。中仙道は五街道のなかで一番嶮しい山道だから、どこかの山狐が宮様にのり移ったのに違いない。
「コンコンチキチン、コンチキチン。コンコンチキチン、コンチキチン」
 フキは、晴れやかに笑いながら、祇園囃子が次第に大声になっていた。

Ibid., p.339

◆ キツネの声やあらしまへんて。これは祇園さんえ。

◆ ニコライ堂の裏手にその首はあった。一瞬、ぎょっとする。できるだけ目を合わせないようにして写真を撮る。石の上に置かれた首ひとつ。もちろん飾られているわけではなく、かといって完全に捨てられているわけでもない。ふと「煉獄」というコトバを思い出すが、煉獄などというものは正教会には存在しないのだった。

〔日本正教会〕 教義的には、人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙するという古代教会の指導者(聖師父)たちの姿勢を受け継ぎ、後にローマ・カトリック教会が付け加えた「煉獄」・「マリヤの無原罪懐胎」・「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教え」は一切しりぞけます。またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように「聖書のみが信仰の源泉」だとも「救われる者も滅びる者もあらかじめ神は予定している」とも決して言いません。かたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を、「付け加えることも」「差し引くこともなく」守っています。
www.orthodoxjapan.jp/seikyoukai.html

◆ しかし、これではいつまでたっても成仏できまい。いや、これもまたべつな宗教の用語だったか。ひとつの首を(こちらはけして見られないようにして)見ながら、ワタシは肝心なことをまだ知らないことに気がついた。「オマエはいったい誰なのだ?」 ここはニコライ堂だから、「オマエはニコライかい?」 もちろん返事はない。無礼なやつだと思ったのかもしれない。しかたがないので、さきほど300円の「ろうそく代」を払って3分ほど見学をした聖堂内に戻って、受付の教会関係者ふたりに質問をする。あの裏手にある首はだれですか? ひとりは、そんなものは知らない、といい、もうひとりは、なんの関心もないかのように、

◇ 「ああ、あれはね、***(よく聞き取れなかった)の改築のときにでてきたものだけど、でも、意味ないよ」

◆ と、言った。オマエには意味がない。もちろん「意味がない」というのは、「とくに重要なものではない」という意味なのだろうけど、首がもしかして聞き耳を立てていたら、と心配になった。オマエは無意味だ! オマエは無意味だ! だが、死にたいと思っても死ねない。黙ってすべてのことを受け入れるしかない。鏡を見よ、生を失ってからすでに百年が経とうかというのに、オマエの顔にはいまだに、人間らしさで満ち満ちているではないか? これから先、風雨にさらされながら、さらに数百年、オマエの顔からは徐々に表情が失われていくだろう。さらに数百年。喜びやら悲しみやら、あらゆる感情がオマエから削り落とされていくだろう。その果ての数百年後のオマエの顔をぜひ見てみたいものだ。

◆ などと、ひとりでなぜだか興奮してしまったのだった。家に帰って調べると、その首はやはりニコライその人であるようだった。ニコライ・カサートキン。本名、イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン(Иван Дмитриевич Касаткин, 1836 - 1912)。

〔wikipedia〕 ニコライは修道士名で、カサートキンは姓。日本正教会では「亜使徒聖ニコライ」と呼ばれる事が多い。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本伝道に捧げた。
ja.wikipedia.org/wiki/ニコライ・カサートキン

◆ チントンシャンにコンチキチン、ついでにおまけに、カサートキン♪

  通称

◇ 通称ガンガン寺、正式にはちゃんとした名前があるはずだが、通り名のほうがぴったり会っている。
池内紀『ニッポン発見記』(講談社現代新書,p.12)

◆ ガンガン寺の正式名称は、函館ハリストス正教会。聖堂は正式には「主の復活聖堂」というのだそうだ。

◆ 通称、通り名のほうが知られている建物といえば、同じく正教会のニコライ堂もそうだ。正式には、東京復活大聖堂教会の「東京復活大聖堂」というらしいが、おそらくほとんどのひとは知らないだろう。それから、

◇ 三河国(愛知県東部)の豊川市にある豊川稲荷(江戸・東京の豊川稲荷はその別院)が有名である。“豊川稲荷”は通称で、じつは曹洞宗妙厳寺なのだが、妙厳寺の境内に、寺の守護のために荼枳尼天がまつられ、このほうが有名になった。
司馬遼太郎『街道をゆく33』(朝日学芸文庫,p.256)

◆ おともだちのサイトを訪れたら、日記に「イヤークリップをネットで購入」と書いてあり、はて「イヤークリップ」とはなんだろうと思った。この耳慣れないコトバは、すぐに耳から離れないコトバとなって、調べてみると、耳飾りの一種であるようだが、イヤリングとは違うのだろうか。ワタシの耳飾りにかんする語彙は、これまでずっとイヤリングとピアスのふたつしかなかった。耳に穴をあけるのがピアスで、あけないのがイヤリング。

♪ どこかで半分失くしたら 役には立たないものがある
松任谷由実「真珠のピアス」(作詞・作曲:松任谷由実)

◆ ワタシがピアスというコトバを聞いた最初期に属するもののひとつに、ユーミンの「真珠のピアス」があって、当時18だったワタシには、なんとも自分とはまったく別世界の「大人の女性」の感じがした。なにせ、それまでワタシが知っていたのは、こんな世界だったのだから。

♪ お嬢さん お待ちなさい ちょっと 落としもの
  白い貝がらの 小さなイヤリング

◆ ユーミンの「真珠のピアス」は『PEARL PIERCE』というアルバムに収められているが、この「PIERCE」という英単語は、ピアスの意味で用いられることはないようで、日本語のピアスもイヤリングも、英語では「earring」よ呼ぶそうだ。たとえば、『ジーニアス英和辞典』の「earring」を引くと、

◇ 【名】【C】 [通例~s] イヤリング,耳飾り∥ pierced ~s 耳たぶに穴をあけて通すイヤリング,ピアス/ clip-on ~s 耳たぶをはさんでつけるイヤリング.

◆ とある。だとすると、「森のくまさん」のお嬢さんが落とした「白い貝がらの小さなイヤリング」が「真珠のピアス」であった可能性もないではない(ほとんどないだろうが)。通常ピアスは落とさないものなのだろうけど、何かしらの意図があれば、ユーミンの歌詞にあるように、落とすことがないとはいえないだろう。と思ったが、よく考えると、真珠は「貝がら」ではなかった。真珠といえば、フェルメールに「真珠の耳飾りの少女」という作品もあった。これはよく見ても、ピアスだかイヤリングだかよくわからない。

◇ 生まれつき地図が好きである。

◆ と書いたのは井上ひさしで、「生まれつき」というコトバを「地図好き」にダイレクトにつなぐとはなんとも大胆に思えるが、まあそういう人もいる(いた)のだろう。つづけて、

◇ 地図は現地そのものではない。現地をたくさんの記号に写しかえたもの、いわば記号の集積である。つまり筆者は、現地や現物よりも、その代用品である記号を集めたものの方が好きだという変人なのである。自分は変人である、と決めつけなければいろんなことが判ってくる。実人生そのものより物語という代替物の方が好きだというのもそのせいだろうし、イタリア料理店のテーブルの前にすわることよりイタリア料理の本を丁寧に眺める方が好きだというのも、筆者の地図好き=記号好きとどこかでつながっているにちがいない。
井上ひさし『四千万歩の男(1)』(講談社文庫,p.3)

◆ ワタシもの多少(多分に?)そのケがあるかもしれない。たとえば、旅そのものと旅の本を読むのとどちらが好きかと考えてもなかなか答えはでない。たとえば、『駅前旅館に泊まるローカル線の旅』という本を読むのはそれだけで楽しいし、その本のなかに、じっさいに見たことがある駅前旅館が出てくれば、それはそれでまた楽しい。たとえば、会津田島の和泉屋旅館。

◇ ぼくが度々お世話になっている和泉屋旅館は、田島の街の会津西街道に面した古い旅館である。〔中略〕 狭い間口、大きなガラス戸の玄関、土間と板張りとの異様なほどの高低差、そして長い廊下……。
大穂耕一郎『駅前旅館に泊まるローカル線の旅』(ちくま文庫,p.238-239)

◆ ワタシは一度もお世話になったことはない(そもそも駅前旅館に宿泊したこと自体がない)が、二度田島の町を訪れて、二度和泉屋旅館の写真を撮っていた。だから、「大きなガラス戸の玄関」だけは知っている。一度目は2003年5月10日、二度目は2007年3月6日。この間、2006年3月20日の町村合併で、住所が南会津郡田島町から南会津郡南会津町田島に変更になったことを除けば、(外観は)なにも変わっていないように見える。それだけでもすばらしい。もう一度訪れる機会があれば、そのときにはぜひ泊まってみたい。ただ、

◇ 七月の田島の祇園祭りのときには、祭り見物の客でどの旅館もいっぱいになる。
Ibid., p.243

◆ そうだから、その時期はダメか。いや、前もって予約してでも、その時期に行くべきか。そう、会津田島にも祇園祭があるのだった。そう、まさにいまお祭りの最中なのだった。いまから行くか。

〔南会津町公式サイト:会津田島祇園祭〕 今から約800年以上の昔、鎌倉時代の文治年間に、この地方を治めることになった長沼五郎宗政(ごろうむねまさ)が、旧地で信仰の厚かった 牛頭天王(ごずてんのう)・須佐之男命(すさのおのみこと)を奉斎し、天王社として祭ったことが始まりで、その後、今から400年前の慶長8年に、領主長沼盛実が京都八坂神社に準じた祭礼格礼を取り入れ、「祭の決まり」を定めて、現在の祇園祭に至ったとされています。
 祇園信仰は疫病から守ってもらう祈りや、自分たちの元にこないように祓ってもらう信仰です。
 伊達政宗が会津を支配した時代に、一時、祭は出来なくなりましたが、祭礼を定めた慶長8年に住民が当時の城代小倉作左衛門にお願いして、祭が再興されました。当時は、天王祭と呼んで6月15日に行われていたようです。
 明治4年、天王社は田出宇賀神社に合祀となり、田出宇賀神社例祭が祇園祭と合併の祭日となりました。
 更には熊野神社の例祭日が明治12年に同一日になるなど、様々な改変を重ねてきましたが、祇園祭の伝統は、牛頭天王奉鎮以来の社家である現宮司室井家により、脈々と今に伝わり、その礼式が保持されています。

www.minamiaizu.org/gion/index.html

◆ 二度と行く機会はないとしても、十年も経てば、自分の写真と他人の文章がワタシのアタマのなかでないまぜになって、和泉屋旅館に泊まったという偽の記憶がしっかりと刻まれているかもしれない。そうなればいい。そういえば、偽の記憶が刻まれそうな旅館がもうひとつあった。鎌倉の「対僊閣」

◇ 「駅前旅館」と聞くと、井伏鱒二の小説『駅前旅館』を思い出すのは、だいぶ年配の人だ。多くの若い人にとっては、「駅前旅館」と聞いてもイメージがわかないのではないだろうか。〔中略〕 この小説『駅前旅館』は森繁久彌主演の喜劇映画としてもヒットした。
大穂耕一郎『駅前旅館に泊まるローカル線の旅』(ちくま文庫,p.9)

◆ 「駅前旅館」と聞くと、ワタシなどはどちらかと言えば、映画のほうが先にアタマに浮かぶけれども、小説のほうが先に浮かぶひとももちろんいるだろうし、同時にセットで思い出すひとも多いだろう。たまたま読んでいた本にも「駅前旅館」が出てきて、これは映画のほう。

◇ 「じいさん、これからどうする。俺は、ブラザーといっしょにダウンタウンに行って、日本の映画でも見ようかなと思っている。羅府新報に広告が出ていた。森繁久彌ゆうムービースターの『駅前旅館』と、加山雄三ゆうのの若大将なんとかと、石原裕次郎の映画をやっているらしい。正月の三本立てだ。裕次郎ゆうんは、ジャパンのトップスターよ。じいさんも、たまにはジャパンの映画でも見ればいいのによ」
石川好『ストロベリー・ロード(下)』(文春文庫,p.33)

◆ これは60年代のカリフォルニアの話。それにしても、なんと豪華な三本立てだろう。ちなみに、「ストロベリー・ロード」も映画化されているらしいが、「ストロベリー・ロード」と聞いても、映画のほうはまったくアタマに浮かばなかった。映画化されていることを知ったのは、ついさっきなのだから、これはしかたがない。ちなみに、「羅府新報」というのは、《Wikipedia》によると、

◇ 1903年にカリフォルニア州ロサンゼルスで創刊された。第二次世界大戦下で日米間で開戦したことを受け、日系人の強制収容が行われたことから1942年以降数年間強制的に休刊させられたものの、その後復刊し、2003年には創刊100周年を迎えた。現在は毎日45,000部発行されており、アメリカ国内で最も多く購読されている邦字新聞である。また、ウェブサイトでも記事を閲覧することが可能である。本社はロサンゼルス中心部のリトル・トーキョーにある。「羅府新報」の名前は、中国語でロサンゼルスのことを言う「Rashogiri」の最初の文字「羅」、日本語で 地域行政(県など)を表す「府」、新聞を表す「新報」を合わせて命名された。
ja.wikipedia.org/wiki/羅府新報

◆ しかし、カリフォルニアで「駅前旅館」の映画を観るというのも、考えてみると、とんでもない贅沢ではないだろうか。アタマがちょっとくらくらする。暑さのせいかもしれないが。

  

〔河北新報〕 第92回全国高校野球選手権宮城大会最終日は26日、仙台市のクリネックススタジアム宮城で決勝が行われ、仙台育英が気仙沼向洋に28―1で大勝し、2年ぶり22度目の甲子園出場を決めた。
www.kahoku.co.jp/news/2010/07/20100726t14030.htm

◆ こんな小さなニュース記事をたまたま目にしていなかったら、気仙沼向洋(旧・気仙沼水産)という高校の名を知ることはなかっただろう。この名にふと目が止まってしまったのは、数年前、気仙沼に一泊することになったとき、市内には「観洋」というホテルと「望洋」というホテルがあって、どちらにしようかと迷ったことがあるからで、観洋に望洋に向洋と並べてみると、太平洋に臨む気仙沼の町のイメージがすこしは浮かび上がりもするだろうか。

◆ 観洋に望洋に向洋と並べてみて、いまさら気がついたというのもウカツなことだと思いつつ、洋、洋、洋、「洋」という漢字には「羊」がいるのだなあ、とはじめて気がついた。気仙沼の海に眠れない夜の羊がぷかぷか浮んでいる。羊、羊、羊。キミたちは泳げるのか? もしかして太平洋を横断できたりもするのか? なぜ「洋」という漢字に「羊」がいるのかは知らない。ちょっと調べてみたが、はっきりしない。熊楠もこう書いている。

◇ 曠野に無数の羊が草を食いながら起伏進退するを遠望すると、糞蛆の群行するにも似れば、それよりも一層よく海上の白波に似居る。近頃何とかいう外人が海を洋というたり、水盛んなる貌を洋々といったりする洋の字は、件(くだん)の理由で羊と水の二字より合成さると釈(と)いたはもっともらしく聞える。しかし王荊公が波はすなわち水の皮と牽強(こじつけ)た時、東坡がしからば滑とは水の骨でござるかと遣(や)り込めた例もあれば、字説毎(つね)に輒(たやす)く信ずべきにあらずだ。
南方熊楠『十二支考 羊に関する民俗と伝説』(青空文庫

◆ 「水の皮」(=波)というのもあったか。これもたやすく信じてしまいそうになるな。