MEMORANDUM

  無意味な首

◆ ニコライ堂の裏手にその首はあった。一瞬、ぎょっとする。できるだけ目を合わせないようにして写真を撮る。石の上に置かれた首ひとつ。もちろん飾られているわけではなく、かといって完全に捨てられているわけでもない。ふと「煉獄」というコトバを思い出すが、煉獄などというものは正教会には存在しないのだった。

〔日本正教会〕 教義的には、人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙するという古代教会の指導者(聖師父)たちの姿勢を受け継ぎ、後にローマ・カトリック教会が付け加えた「煉獄」・「マリヤの無原罪懐胎」・「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教え」は一切しりぞけます。またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように「聖書のみが信仰の源泉」だとも「救われる者も滅びる者もあらかじめ神は予定している」とも決して言いません。かたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を、「付け加えることも」「差し引くこともなく」守っています。
www.orthodoxjapan.jp/seikyoukai.html

◆ しかし、これではいつまでたっても成仏できまい。いや、これもまたべつな宗教の用語だったか。ひとつの首を(こちらはけして見られないようにして)見ながら、ワタシは肝心なことをまだ知らないことに気がついた。「オマエはいったい誰なのだ?」 ここはニコライ堂だから、「オマエはニコライかい?」 もちろん返事はない。無礼なやつだと思ったのかもしれない。しかたがないので、さきほど300円の「ろうそく代」を払って3分ほど見学をした聖堂内に戻って、受付の教会関係者ふたりに質問をする。あの裏手にある首はだれですか? ひとりは、そんなものは知らない、といい、もうひとりは、なんの関心もないかのように、

◇ 「ああ、あれはね、***(よく聞き取れなかった)の改築のときにでてきたものだけど、でも、意味ないよ」

◆ と、言った。オマエには意味がない。もちろん「意味がない」というのは、「とくに重要なものではない」という意味なのだろうけど、首がもしかして聞き耳を立てていたら、と心配になった。オマエは無意味だ! オマエは無意味だ! だが、死にたいと思っても死ねない。黙ってすべてのことを受け入れるしかない。鏡を見よ、生を失ってからすでに百年が経とうかというのに、オマエの顔にはいまだに、人間らしさで満ち満ちているではないか? これから先、風雨にさらされながら、さらに数百年、オマエの顔からは徐々に表情が失われていくだろう。さらに数百年。喜びやら悲しみやら、あらゆる感情がオマエから削り落とされていくだろう。その果ての数百年後のオマエの顔をぜひ見てみたいものだ。

◆ などと、ひとりでなぜだか興奮してしまったのだった。家に帰って調べると、その首はやはりニコライその人であるようだった。ニコライ・カサートキン。本名、イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン(Иван Дмитриевич Касаткин, 1836 - 1912)。

〔wikipedia〕 ニコライは修道士名で、カサートキンは姓。日本正教会では「亜使徒聖ニコライ」と呼ばれる事が多い。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本伝道に捧げた。
ja.wikipedia.org/wiki/ニコライ・カサートキン

◆ チントンシャンにコンチキチン、ついでにおまけに、カサートキン♪

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COMMENTS (1)

- 2012/11/16 09:59

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