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◆ 「かっぽれ」 の語源については諸説あるようで、よくはわからない。司馬遼太郎は 「かっ掘れ」 だろうと書いている。ハナシは江戸時代の赤坂溜池の浚渫工事。以下やや長いが要約するのが面倒なので引用すると、 ◇ 話はかわるが、江戸弁というのは母音がみじかく、子音を強く発する。民衆の啖呵(たんか)などでいっそう威勢を出すために、形容詞や動詞のあたまに、「掻(か)っ」 ということばをつけて景気づける。ただし、武家や商家ではつかわない。 カッポレ、カッポレ、甘茶でカッポレ といったであろう。 ◆ ここでようやく 「かっぽれ」 のハナシからべつのハナシになる。穴を掘るということについて。 ◇ 穴を掘るというのは、いかに原始のよろこびかということがわかる。 ◆ 原始のよろこび。単純に、理屈抜きに、穴を掘ることは楽しい。司馬の知り合いの医者は、「ストレスがたまると大きな穴を掘る」 (p.283)。あるいは、司馬自身の軍隊での穴掘り。日本の栃木に戦車を隠すための大きな穴をいくつも掘ったらしい。 ◇ 私も若いころ、大穴を掘ったことがある。あまりにばからしいからこのとき家内に打ちあけなかったが、気持がよかったことが、いまでも思い出せる。 ◆ 戦時中の穴掘りということで、そういえば、とまたべつなことを思い出した。先日観た映画 『硫黄島からの手紙』 でも二宮和也が、「オレって墓穴掘ってんのかな」 とつぶやきつつ、穴(塹壕)を掘っていた。いや掘らされていた。こちらはすこしも気持よさそうではなかった。いかにも 「掻ったるい」 という風情だった。 ◆ 以下、「穴を掘る」 で検索した文章からいくつか。 ◇ たとえば、「ここに穴を掘って下さい」 と人に頼むとします。そう言われて、「わかりました」 と穴を掘り出す人はいないでしょう。どうして穴を掘るのかわからないので、その気になれないからです。そこへ、「徳川幕府の埋蔵金が埋まっています」 と告げます。そうしたら人は、にわかに張り切って穴を掘り始めるでしょう。どうして穴を掘るのか、その理由がわかったからです。このように、人に何かをしてもらうためには、「どうしてやるのか」 を説得することが鍵です。 ◆ これは 『これからレポート・卒論を書く若者のために』 (酒井聡樹、共立出版)という本の著者による内容紹介文。理由もなく穴を掘る人はいないという。 ◇ そもそも人間が穴を掘るという行為には、埋葬、居住・避難、待ち伏せ狩猟(陥し穴)、保存・保管・貯蔵、ゴミ等の廃棄、排泄、飼育・養殖・栽培、取水・水汲み、調理、たき火、柱を建てる、石や碑を立てる・・・など、生活をより充実、便利、快適にする何らかの目的があってのことである。趣味で穴を掘る人はごく稀であろうから、穴を掘ること自体が目的のケースはほとんどない。したがって土坑には何らかの用途があったとみるのが常識的である。 ◆ これはウィキペディア。理由もなく穴を掘る人はほとんどいないという。だが、いるところにはいるらしい。 ◇ 何かを掘り起こす訳ではなく、何かを埋める為でもない。何の目的もない穴掘り作業にただ没頭してみたい。説明し難い衝動にかられて穴を掘る。 ◆ 千葉の成田ゆめ牧場というところでは毎年2月に 「全国穴掘り大会」 を開催していて今年で7回目だったとか。 ◇ ゆめ牧場の恒例イベントとなった“穴掘り大会”。年々参加者が増え、昨年は100組を超えるチームがエントリーしました。ルールは単純明快、1チームのメンバーは6名以内、制限時間以内にスコップ、バケツ、ロープのみを使用して一番深い穴を掘ったチームには、現金10万円を進呈します。 |
◆ 《Yahoo!知恵袋》 にこんな質問。 ◇ ごはん粒を、指で丸める(こねる)癖のある人って何か心の病気?友達がよくこねています。。。粒といえども食べ物ですし、見ていていい気がしないのですが。。。 ◆ これを読んですこしショックを受ける。ワタシもよくコンビニのおにぎりでそれをやる。心の病気だろうか? 精神分析ならそのように解釈するかもしれないが、司馬遼太郎にならって、ワタシはそれを 「原始のよろこび」 だと(小声で)いいたい。 ◆ なんであれ、こねることは楽しい。たとえば鼻くそ。 ◇ 僕は鼻くそを人差し指と親指で丸める感触が好きです。 ◆ と正直に告白するひとはまれだろうが、パン生地ならどうか? ◇ パンを捏ねるのってやっぱり好き。発酵してふんわりとした生地を、やさしくしっかり丸め直すときの、手触りが好きなの。 ◇ ♪パンこねセラピー♪ なんのことはない、パンをこねるだけのことなんですが、、、でも、ぷにゅぷにゅのやわらか~いパン生地をさわるというのは、癒し効果大♪ 頭の芯までぷにゅぷにゅになっていく感じで心地いい~。 ◇ ホームべーカリーもあるけど 手でこねる楽しさを奪われるのはイヤッ!w あれが醍醐味だなあ。 ◇ パンって、こねる時が楽しいです♪ ごしごし、ぐるぐる、生地作りをしていると、なんだか気分爽快~! いいかも^▽^; ◇ 僕がパン作りで一番好きなのはこのこねる時間です。生地がだんだん滑らかに柔らかく変化していく様子は感動ものです。酵母や粉は生きているんですね~。 ◇ パンをこねる感触も粘土みたいで気持ち良いですよね! ◆ なるほど、ご飯つぶをこねるよりはパン生地をこねたほうが気持ちがよさそうだ。 ◆ ほかにもまだこねるものはいろいろある。熊本に 《DaDa》 というグループがある。ダダは 「こねる」 もの。ということで、「こねる」 をキーワードにさまざまな活動をしているらしい。 ◇ 代表の高木淳二氏(建築家)は、ある日、建設現場で処分に困っているどろどろした土に出会いました。「何かに使えないだろうか」。知り合いの瓦職人に見せたところ、瓦には向かない土だとわかりましたが、このとき瓦職人が土を見分けるために見せた仕草に氏は着目しました。「そういえば、左官や陶工も同じ仕草をする」。彼らは土を練って手のひらに取り、紐状に伸ばして輪を作ってみるのです。 ◆ なんであれ、こねることは楽しい。理屈をこねることも楽しい? |
◇ 風邪をひく。 / 六年ぶりくらいに、お医者さんに行く。 / はりきって、よそゆきのブラジャーをしていく。迷ったすえ、パンツもよそゆきのにする。 ◆ 検索エンジンでパンツとブラジャーをキーワードにこちらを訪問された方には申し訳ないけれども、残念ながら、パンツとブラジャーのはなしではない。 ◇ 風邪をひく。六年ぶりくらいに、お医者さんに行く。 ◆ こんな短い文章から、あれこれ考える。医者に行くのが6年ぶりとはよほど健康なんだなあとか、それとも医者がよほどキライなのかなあとか、でも風邪をひいたくらいで医者に行くんだなあとか、6年間で一度も風邪をひかなかったのかなあとか、それともよっぽどひどい風邪だったのかなあとか、あれこれ。 ◆ ワタシは風邪をひいたくらいでは医者には行かない。そもそもあまり風邪をひかない。というようなことを何度も自慢気に書いてきた記憶があるが、このところトシのせいか体調がすぐれない日が続いて、「風邪気味なもので」 と言うことが増えた。 ◆ たとえば、さいきん頻繁に頭が痛くなる。ズキズキと痛む。世に頭痛持ちのひとは多いというはなしは聞いたことがあっても、これまでワタシは頭痛というコトバの意味さえよく理解してはいなかったらしい。ああ、これが頭痛というものなのか、と妙な感心をしている。 ◆ けれど頭痛が続くと、感心しているばかりではすまなくなって、先日くすり屋さんに行った。「頭痛に効くお薬ありませんか?」 「ほかに症状は?」、ほかにべつだん症状はなかったが 「ええと、のどが痛いです」 と答える(のどが痛いのはタバコの吸いすぎだろう)。すると、くすり屋さんは満足そうに 「風邪ですね」 とかぜ薬を出してくれる。ワタシもこのなりゆきに満足して、かぜ薬を買って帰る。ああ、風邪でよかった。 ◆ 医者に行くのは怖い。多少のことなら風邪ということにしておけばいい。もしかしたら、とんでもない病がワタシを蝕んでいるかもしれぬ、ふとそんな恐怖におそわれるときには、いつでも風邪ということにして・・・。 ♪ 天国じゃなくても 楽園じゃなくても |
◆ 風になることを風化という。人間が風になることはなかなかできない。けれど、岩石にはその特権が与えられている。宮沢賢治に 『楢ノ木大学士の野宿』 という作品がある。野宿第二夜。宝石学が専門の楢ノ木大学士には石たちの会話が聞こえる。 ◇ その時俄(には)かにピチピチ鳴り ◆ 「バイオタさん」 の本名はバイオタイト。biotite は黒雲母。「プラヂョさん」 はお医者さん。石の医師、医師の石。本名はプラジオクレース。plagioclase は斜長石。 ◇ 「プラヂョさん、プラヂョさん。プラヂョさん。」 ◆ 「長くても一万年は持ちません」 というコトバになぜかほっとする。 |
◆ クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』。その冒頭近くのシーン。米軍の上陸に備えて、海岸線に塹壕を掘っている兵士たち。そのうちのひとりである西郷(二宮和也)が、妻への手紙の文面を朗読するかたちで、つぶやいた台詞「墓穴を掘る」についてのちょっとした疑問。《Yahoo!知恵袋》にこんな質問。 ◇ 『硫黄島からの手紙』を観てきました。そこでひとつ質問なんですが、二宮が初めて登場するシーンで妻・花子に語りかけると思うのですが、「花子…、俺たちは掘っている。そこで戦い、そこで死ぬ穴を。○○○掘ってんのかな」というセリフがありますが、○○○は何といったのでしょうか? 「オケツ」と聞こえたような気がするのですが、お尻のことですか??? なぜお尻??? ◆ こんな回答。 ◇ 「墓穴(ボケツ)」って言ってましたよ。「墓穴を掘る」っていう慣用句と、「戦場で死ぬかもしれない場で穴を掘っている事実」とを掛け合わせたのです。 ◆ この回答を読んで、「?」と思った。たしかに土葬の習慣のない今では、「ボケツと掘る」という表現はもはやほとんど比喩的な意味でしか使用されなくなってはいるが、この場面で、この「墓穴を掘る」という表現が、自らがそこで死に埋葬されることになる墓穴(はかあな)を掘るという本来的な意味以外に、慣用句としての「ボケツと掘る」のニュアンスが掛け合わされているとはとても思えない。ワタシはそう思ったのだが、「墓穴を掘る」という表現にたいする以下の数々のコメントを読むにつけ、自信がなくなってくる。 ◇ 西郷が冒頭で言う「…墓穴掘ってるのかな」という言葉。穴を掘るという事と絡ませて粋な台詞です。これが英語などにどう生かしていくのか、そちらの方も気になります。 ◇ 「オレら何掘っているんだろうな。」と隣の兵士が聞くと、「墓穴掘ってるのかもな。」みたいな会話がある。うまいジョークだなあとつい感心してしまったが、ボケツだったのか墓穴だったのかは誰にもわからない。 ◇『墓穴を掘る』なんていうしゃれもね、日本人でこの当時でこんなこと思いつけるやついたのかなあと。今の日本でも、かなりめだつかな。 ◇ 「ハナコ、今俺たちは穴を掘っている。」 「墓穴(ボケツ)ってやつかな。」(←ちょっと切ないダジャレ、涙。) ◇「墓穴」などという熟語も駆使されていることから、日本語へのアダプテーションも問題ないのだろうと思いきや、二宮扮する日本兵のキャラクターがどうにもアメリカ臭い。 ◇ 日本独特の言い回しもいいのではないでしょうか。英語字幕だと殺風景ですが。「墓穴を掘る」ってそのまま英訳しても意味はわからないでしょうね。 ◆ はたして、ここでの「墓穴を掘る」というコトバが、「絡ませて粋な台詞」だったり、「ジョーク」だったり、「しゃれ」だったり、「ダジャレ」だったり、「熟語」だったり、「日本独特の言い回し」だったり、するものだろうか? ◇ 冒頭でのシーン。前線で塹壕を掘りながら「俺達、墓穴掘ってるのかなぁ。」 本来「いやぁ、墓穴掘っちゃってさぁ」なんて、軽く使えるような言葉ではないはず。 ◇ 砂浜で塹壕を掘っている二宮和也が「俺たち、墓穴を掘っているのかな」というセリフはもはや脚本がもとから日本語で書かれたものだと錯覚させる。 ◇ 最初の方のシーンで、ある日本兵が海岸で戦闘用の穴を掘りながら、『墓穴を掘ってるみたいだな』とポツリ。まさに言葉通り。今まで、“墓穴を掘る” の意味は知っていたが、その漢字まで考えたことはなかった。何でこんな言葉が生まれたのだろう? ◇ 「俺たちは掘っている。・・・墓穴掘ってんのかな」という二宮和也の印象的なセリフ、これって英語ではなんていうのかな…? こういう日本語のおもしろさがアメリカ映画で見られたというのはちょっとした衝撃です。 ◇ 冒頭の二宮くんの語り・・・「 花子・・・。俺たちは掘っている。自分たちが入る穴を・・・墓穴(ぼけつ)掘ってるのかな・・・。 」という日本にいる妻に宛てた手紙の日本人でしか持ち得ないメンタリティの細部まで、描いた脚本に驚いた。 ◆ 「ボケツ」と発音されたコトバは、いまでは多くのひとにとって、「墓穴(はかあな)」という具体的なものをイメージさせる力はほとんどなくなっており、もっぱら「ボケツを掘る」という抽象化された慣用表現を連想させるものであるらしい。「オケツ」と聞き違えるひともいるようでは、「ボケツを掘る」という言い回しは、無用なイメージの拡散を防ぐためにも、「ハカアナを掘る」と発音されるべきだったかもしれない。 ◇ 日本語の台詞も割とちゃんと出来てたし。でも墓穴「ぼけつ」はウソでも「はかあな」にして欲しかったかなぁ。………(←) いや、あってるんですけど、でも。 ◇ 砂浜にざん壕を掘る若い兵士西郷(二宮和也)がボヤきます。「俺、墓穴(ぼけつ)、掘ってるんだろうか?」 のっけからジャブをくらったようで、ぐぐっときました。ここでは墓穴(はかあな)のほうがいいんじゃないかなぁ思いつつも、これからどこまで心臓をえぐってくれるのだろうかと、身構えました。 ◆ 「ボケツ」と「ハカアナ」は同じものだというのが辞書的定義であっても、現実の語感においては、「ボケツ」と「ハカアナ」とではいちじるしく異なるものであるらしい。 |
◆ 万字温泉の思い出をもうひとつ。万字温泉の名物は鴨鍋だった。行くたびに鴨鍋を食べた。「最後の客」 になったときも食べた。鴨鍋を食べたのは大広間。正面には舞台があって、カラオケの設備やらないかが雑然と並べられていたが、一番目立つのは赤い大漁旗だったろう。とはいえ、すぐにでも目についていたはずの大漁旗の存在に気をとめたのは、「最後の客」 になったときが初めてだった。
◇ 祝 大漁 第六十八北雄丸 紋別市・・・ ◆ ワタシは 「こんな山奥の温泉にどうして大漁旗?」 と、思っただけだったが、Kさんは違ったらしい。というのも、Kさんの出身は紋別だったから。それだけではなくて、Kさんの父親の勤める水産会社が所有する漁船が北雄丸だったから。それはさぞ不思議な気がしただろう。後日、Kさんは紋別の実家に帰省したさい、父親に大漁旗のハナシをしたらしい。こんなメールをくれた。
◆ ちなみに万字温泉にはこの第六十八北雄丸の大漁旗とはべつに、第六十八北雄丸および第八十二北雄丸の進水旗もあった。おそらく北雄丸関係者に知り合いがいたのだろう。紋別とも北雄丸ともなんの縁もないワタシだが、ちょっと興味をそそられて、ネットで検索してみると、たとえば、こんな文章が・・・。 ◆ 《北海道大学関西同窓会》 の会報 《関西エルム会新聞 vol.56》 (2006年9月)に掲載された、「元北大低温研究所流氷研究施設長・現道立オホーツク流氷科学センター所長」 青田昌秋さんの 「海は母、流氷は友」 と題された講演記録から。 ◇ さて、これとは別に紋別にはもう一つの 「海明け」 がある。流氷を避けて回航して来た、あるいは陸に揚げられていた漁船が紋別港の赤灯台、白灯台を結ぶ線を通過した時刻を 「海明け」 と決め、その時刻を当てる 「クイズの海明け」 がある。今年の流氷接岸初日は、平年より34日も遅い3月5日、ところが翌6日には流氷は離れ、午後2時43分、紋別港所属の沖合底引き船、第8北雄丸が船団の先頭を切って回航先の室蘭から帰港した。ガリンコ号が停泊しているステーション前の特設時計の針が動きを止めた。「クイズの海明け」 時刻が確定した瞬間だ。クイズには全国から9,000通を超す応募があり、今回、初めて時分までぴたりの応募者が居た。 ◆ 紋別といえば、流氷。流氷といえば、観光砕氷船ガリンコ号。それから 「海明け」 というコトバも魅力的。 ◇ 一昔前まで、浜の男たちは、冬、出稼ぎに出た。浜の子供たちにとって 「海明け」 は、待ちに待った父が戻る日でもあった。「海明け」 という言葉には、オホーツク海の春の明るさとともに、浜の人々の思いが込められているようだ。書店で20数冊の国語辞典を片っ端から調べてみた。「海明け」 の項を載せているのは2冊しかなかった。「海明け」 は単なる浜言葉かもしれないが、美しい日本語だと思う。 ◆ つぎは、函館地方海難審判庁の裁決記録から、「漁船第八十六北雄丸機関損傷事件」。 ◇ 第八十六北雄丸(総トン数160トン)は,北海道紋別港沖合の漁場で操業中,主機(6M28H4C型,860キロワット)のシリンダライナに生じた掻き傷が進展していたころ,平成15年8月18日12時00分紋別灯台から026度31.9海里の地点において,潤滑油こし器に金属粉が捕捉され,同こし器前後の圧力差が上昇した。 ◆ もちろん技術的なことは皆目わからないが、ともかくここにも北雄丸。北雄丸の大漁旗はいまでも万字温泉の大広間に掲げられているだろうか? |
◇ うまづら 【馬面】 馬のように長い顔。顔の長い者をあざけっていう語。うまがお。 ◆ 馬面といっても、人間の場合、耳が顔の上にあるわけではないし、目が顔の真横にあるわけでもない。顔のパーツの配置が馬に似ているということが馬面なのではなくて、顔が縦に異様に長いことを馬面というようである。だが、顔が長いというだけでは、馬面というわけにはいかない。たとえば、七福神の福禄寿は馬面だろうか?
◆ なるほど、あの顔は目や鼻が 「ずり落ちた」 結果であったか。まったく百鬼園先生はいろんなことを教えてくれる。明治初期のジャーナリストとして著名な成島柳北、それから福地源一郎(桜痴)。このふたりが、ある年、馬に乗って隅田川の花見に行った。ところで、この成島柳北というひとはまさしく馬面というにふさわしい顔立ちだったらしい。馬上の柳北の姿をしげしげと眺めた桜痴は、「感にたえて一首詠んだ」。 さてもさても ◆ 《国会図書館》 の 「近代日本人の肖像」 というページの成島柳北の写真を見てみると、たしかに立派な馬面である。さぞかし馬も面食らったことだろう。 |
◇ 撮影は機械的操作だから、なぜ写るかはいちおう科学的に説明できる。だが何か説明しきれぬ不思議さを感じさせるものがあった。写ることのなかに不可思議な力を感じていたのであろう。写真を撮ると影がうすくなり、それだけ寿命が短くなるというような考えをもつ人びとがいた。今でも三人でいっしょに写真をとると、一人が死ぬなどという。それを避けるために一人に人形をもたせたりする。人形を人のうちにかぞえて四人とするためか、それとも死ぬ役割を人形に負わせるためかは知らないが、とにかく、人びとのなかに古い気分が残っていて写ることに何かを感じるのである。 ◆ そういえば、そうだった。三人で写真を撮ると中央のひとは早死にする、などともいった。だれが言いだしたのかはしらないが、それを信じる 「古い気分」 がワタシのなかにもたしかにあった。 ◇ 幼い頃、おじいちゃん子だった私は写真にうつると寿命が縮むとか、3人で写真にうつる場合は早死にするから真ん中は避けなさいだとか、写真にまつわる迷信を懇々と聞かされ続けた。そのため、私は写真を撮られるということにもの凄く抵抗がある。 ◆ つぎの引用は、NHK高校講座 「理科総合B 第9回 遺伝子はどのように子に伝わる?」 の番組制作裏話から。 ◇ 気づかなかった人も多かったと思いますが、浦野さんの長女がお嫁にいってから、息子さんがお嫁をもらうまでの3年間、家族3人で映っている足元にぬいぐるみが置いてあります。スタッフは 「お嫁にいった娘さんの代わりに置いたのだ」 と思ったのですが、違いました。このぬいぐるみはカメラマンの安河内さんが置いたもので、古くから 「3人で写真を撮ると、真ん中の人が早死にする」 という言い伝えがあるそうです。おじいさん世代の人には、常識かもしれません。それを避けるため、3人で撮る時は、ぬいぐるみや人形を小道具として置くのだそうです。そう思って一番最初の3人の写真に戻ってみると、確かにお人形を抱いています。一枚の肖像写真の中にもいろいろな心配りがされているのだと感じました。 |
◇ 「あっ、カメだ。亀田三兄弟!」 |