◆ 卓袱台で思い出したが、去年の6月に小金井にある江戸東京たてもの園を訪れたときに、「できゆくタワーの足もとで-昭和30年代のくらし-」 展をやっていて、その展示品のひとつに 「遺跡調査の際に出土した昭和30年代のゴミ」 というのがあった。ありふれた日常つかいの茶碗や丼などの瀬戸物の破片が、貴重な考古学遺産よろしく、ていねいにつなぎ合わされて復元してあった。
◆ これまで博物館で縄文式やら弥生式の土器をながめてみても、古代人の家族がたのしく食事をしている一家団欒の光景など思い描いたことはなかったが、そうした土器の展示品のなかにも、お父さんのものであったりお母さんのものであったりしたものが混じっていたかもしれない。日本の歴史のなかで各自が自分専用の食器をもつようになったのは最近のことかもしれないが、よくはしらない。
◇ ちなみに自分の食器というのは、いつごろから存在したのであろうか。縄文時代や弥生時代に使用された食器が自分専用かどうかを確かめる手段は無いので正直なところわからないのであるが、奈良時代くらいになると、個人所有の土器が発見されている。
www.ka.shibaura-it.ac.jp/kou27ki/gakunentayri3.pdf
◆ と、芝浦工業大学柏高等学校の松原誠司先生が 「学年通信」 に書いている。その松原先生によると、朝日放送のテレビ番組 「探偵!ナイトスクープ」 にこんな依頼があったそうだ。
◇ ある女子大生からの依頼で、子供のころから15年以上も使っている茶碗が割れてしまったので、それと同じ茶碗がほしいというものであった。その茶碗はスーパーで買った子供向けのプリントがしてある安物ではあるものの、今回買いなおそうとして何軒もの店に足を運んだが、見つけられなかったので依頼をしたという。
Ibid.
◆ ワタシはひとり暮らしなので、すべての食器が自分の食器であるわけだから、これは案外つまらないことかもしれない。どの食器を使おうと、おい、それはオレの茶碗だ、と文句をいうひとはだれもいない。それだからか、それぞれの食器に愛着というようなものもあまりない。
◆ 以前、身体障害者のひとが10人くらいで居住する施設でアルバイトをしたことがあったが、それぞれの茶碗とコップと箸を覚えるのに一苦労した。
◇ 小さい頃から父のお茶わんやおわんは大きかったし、私のものは小さかった。私の丸くて小さいペコちゃんがついているお茶わん、それで父がご飯を食べるなど考えられなかったし、私が父の長いお箸で食事をできるとも思えなかった。みんなそれぞれ似合ったものを使っていた。
こういう各自の食器を 「属人器」 というそうだ。いまだに、実家へ帰ると私は高校生の頃から使っていたご飯茶わんを使う。
日本の一部の地方や朝鮮半島には、その家の娘が結婚をして家を出る時に、本人の茶わんを玄関先で割るという習慣があるそうだ。また、人が亡くなった時も、その人の茶わんを割って別れを遂げる。
属人器としての茶わんは不思議だ。いくら持ち主がいないからといって、その人の茶わんを使う気にはなれない。毎日毎食使われるその茶わんは、もうその人自身であるように思えるからかもしれない。
平野恵理子 「私のお茶わんあなたのお茶わん」 『和ごころ暮らし』 (ちくま文庫,p.34-35)