|
◇ 僕の宿は大熊座だった。 ランボー
◇ À l'origine, les Algonquins appelaient ce lieu "Sagwa". Ce toponyme amérindien signifierait "déboucher", "verser" ou "tête des eaux", le nom du village doit probablement sa signification au fait qu'il est situé au pied d'un lac et d'une embouchure de rivière. ◆ この Saguay という地名は、アメリカインディアンのアルゴンキン族の言語で 「川の流出するところ」 を意味する Sagwa に由来するのだそうだ。ついでに、アルゴンキン族についても調べたくなるが、キリがなくなるのでやめておこう。といいつつ、ニューヨークのマンハッタン (Manhattan) もアルゴンキン語で 「丘の島」 という意味だとか・・・。それから、日本では Algonquins というファッションブランドがあるらしくて、 ◇ 私は ALGONQUINS や PEACE NOW や h.NAOTO や X-LARGE のようなファッションが好きです。同じような感じでオススメのブランドありますか?? メンズでもかまわないです。教えてください^^
|
◇ わたしが寝台車に乗っていて体験したもっとも甘美な出来ごとは、もう十年以上前になるが、シチリアのパレルモからナポリに向かって乗ったコンパートメントのなかで起きた。夜更けがたにふと起きて見ると、窓の向こうに巨大な月が耿々(こうこう)としてあった。信じられないことだが、わたしは月の光の強さのおかげで目が醒めたのだ。こんなことが、これからの人生でふたたび起きることがあるだろうかと思うと、わたしは幸福感に包まれた気になった。それまで何十回となく寝台車に乗って旅をしてきたのは、この瞬間に廻りあうためためだったような気持ちさえしてきたのだ。 ◆ ワタシが寝台列車に乗ったのはせいぜい十回くらいのもので、それもみな十年以上もむかしのことだが、一度、パリからローマ行の寝台列車に乗ったことがある。ローマは遠いが、次の朝には、とにかくイタリアのまっただなかを走っていることだろう、そう思って眠りに就く。朝、目が覚めると、列車は停車中。どこの駅かと辺りを見回し駅名を確認すると、Ventimiglia と書いてある。そこはまだフランスとの国境の町、ヴェンチミリアだった。目がすっかり覚めて、おなかが少し空いてきても、列車はこの駅に停まったまま、いっこうに出発する気配がない。これではローマに着くのは一週間後になるだろう。 ◆ 急行 「津軽」 は秋田県のどこかを走っている。寝台車の寝台で、寝つけずに、ずっと窓から外を見ている。けれども、あたりは一面の闇で何も見えない。ふいに闇に花火が上がる。音もなく花火が上がる。この列車のなかで、この花火を見ているのはワタシだけだろう。そう思うと、とても幸せな気がした。 ◆ 今度寝台列車に乗るのはいったいいつのことだろう? |
◇ さてさて、今日のお題は「Japanese things」と「things Japanese」。この違い分かりますか? ◆ ワタシにゃ、わかりません。ついでにいうと、「木材」と「材木」の違いもよくわかりません。「牛乳」と「乳牛」や「事情」と「情事」の違いならわかるけどね。 ◇ ~s Japanese ((英では正式ややまれ))日本(特有)の文物[風俗的事物] 《◆この意味を含め広い意味では Japanese ~s が一般的》 ◆ なんでこんなことが気になったかというと、チェンバレンの『日本事物誌』の原書を見てみたいと思って探したら、原題は “Things Japanese” なんだけど、文庫版ではなぜだが “Japanese Things” に変えられていることに気づいたからで、なんでこんな本を見てみたいと思ったかというと、そこには「狆」のハナシが書いてあるからで・・・。 ◆ 《道浦俊彦の平成ことば事情:ことばの話1728「材木と木材」》では、辞書を引きつつ、 ◇ あ、そうか、わかったぞ!「木材」は、「材」の種類・質・素材を表しているのに対して、「材木」は紛れもなく「木」で、それが何かの「材(料)」になっていることを表しているんだ。 ◆ うん? ワタシには、やっぱりわかりません。というか、同じじゃないの? |
◆ 「青い空」 なら空のハナシで、「空の青」 なら色のハナシで、このふたつはまったく別のジャンルのコトバであるというような、言説をワタシはまったく信用していない。 |
◇ 2大政党と言っても自民党と民主党の違いはライスカレーとカレーライスの違いほどもないと私は思っている。 ◆ ライスカレーとカレーライスの違い? ◇ 俗には、御飯の上にカレーがかけてあり、それこそソースやしょう油をふって食べる大衆的な雰囲気のものがライスカレー、御飯とは別の容器にカレーが入って出てくるややハイカラなイメージのするものをカレーライスと呼ぶ、と言われています。 ◇ どちらかと言うと今では庶民的なイメージのあるライスカレーは、ウスターソースを掛けて食べるもの、でもカレーライスには掛けない、といった暗黙の了解もあるようです。 ◆ 上のふたつの引用を読んで、なるほどこれはいい豆知識を仕入れたぞ、などとは思わないでほしい。こうしたコトバを実際に辞書や事典を引くこともなく使いこなしているのはわれわれ自身なのだから。それよりも、ライスカレーというコトバを耳にしたときに、「そういえば、うちのおばあちゃんはライスカレーって言ってたなあ」 と今は亡きおばあちゃんに思いを馳せるようなひとがワタシは好きである。 |
◇ こんな言い間違えしたことありませんか? 「糸に針を通す」 ◆ そもそも、「糸に針を通す」 という表現は誤っているのだろうか? もちろん、太い木綿糸の真ん中に細い針を突き刺して貫通させることなら、不器用なひとが糸を針の穴に通すことよりずっと容易なことに違いないが、そういうことではなくて、 ◇ 針の糸通しは針に糸を通すのではなく、糸に針を通すようにすると、案外うまく行くものです。 ◆ といった場合に、どうして 「糸に針を通す」 と言ってはいけないのだろうか? ◇ ファッションデザイナーの山本寛斎氏が講演で来られ、「針に糸を通す場合は、針を糸に近づけるのだ」 と言われた。 ◆ いくら糸を固定して針のほうを移動させたとしても、それはやはり、針に糸を通しているのであって、その逆ではない、といういうことも可能だろうが、(ワタシの) 感覚的には、「糸に針を通す」 という表現のほうがしっくりとくるのではないか? ことばにそれくらいの柔軟性があってもいいだろうと思う。 ◇ 普通の人は縫い物をするとき 「針に糸を」 通す。ところが、職業的に縫い物をする和裁士のような人は 「針に糸を」 通すそうだ。仮に右利きだとすると、左手の親指と人差し指で数ミリほど頭を出した糸をつまみ、右手に持った針の穴をその糸にくぐらせる要領で通すわけだ。寄席の紙切りはハサミを動かすのではなく、紙を動かすことで驚くほど繊細なシルエットを浮かび上がらせる。りんごや梨の皮むきも同じだろう。ナイフを動かすのではなく、果物のほうを動かすほうが確実で早い。 ◆ マーク・トウェインの 『ハックルベリー・フィンの冒険』 に、こんな一節がある。ある事情からハックは女の子の身なりをしていたが、針に糸を通したとたんに、そのしぐさから女装が見破られてしまう。見破ったのはもちろん女性である。 ◇ Bless you, child, when you set out to thread a needle don't hold the thread still and fetch the needle up to it; hold the needle still and poke the thread at it; that's the way a woman most always does, but a man always does t'other way. ◆ 西洋から見れば、日本人(の女性)もハックに負けず劣らず、あべこべということになるようで、チェンバレンの 『日本事物誌』 によれば、 ◇ Their needle-work sometimes curiously reverses the European methods. Belonging as he does to the inferior sex, the present writer can only speak hesitatingly on such a point. But a lady of his acquaintance informs him that Japanese women needle their thread instead of threading their needle, and that instead of running the needle through the cloth, they hold it still and run the cloth upon it. ◆ 「針に糸を通す」 か 「糸に針を通す」 か。ワタシはどちらだろうかと考えてみて、針仕事をまったくしていないことに思い当たった。 |
◇ The native tribes of Central America called this spiky fruit "nana," meaning flavour. In fact, it was so succulent that another syllable was added and it became "the nana of nanas": the flavour of flavours. Ananas became the accepted name in French and numerous other languages. In the 17th century the English gave it the name "pineapple," an old word for pine cone, because of its appearance. ◆ ananas は原産地の住民の言葉をそのまま借用したようで、これだけならよくあるケースである。意外だったのは、むしろ英語のパイナップルの語源のほうである。pine + apple で、なんの問題もない・・・ ◇ パイナップルの語源は PINE (松) APPLE (リンゴ)。松ぼっくりみたいなリンゴということ ◇ pine は松かさに似るところから、apple はリンゴの味に似るところから。 ◆ リンゴに味が似ているとはとても思えないが、ともかく 「松ぼっくりみたいなリンゴ」 ということで、パイナップルという名がついたのだと思っていた。ところが、そうではなくて、もともとパイナップルとは松ぼっくりのことであったのだが、新大陸で発見された松ぼっくりに似たフルーツのこともパイナップルと呼ぶようになり、そのため、もともとパイナップルであった松ぼっくりのほうがパインコーンと名を変えるはめになった、ということなのである。《オンライン語源辞典》 によれば、 ◇ 1398, "pine cone," from pine (n.) + apple. The reference to the fruit of the tropical plant (from resemblance of shape) is first recorded 1664, and pine cone emerged 1695 to replace pineapple in its original sense. For "pine cone," O.E. also used pinhnyte "pine nut." ◆ とあった。パインコーンの運命はジャイアントパンダにその名を奪われたレッサーパンダと同じである。 ◆ よく考えてみると、pineapple をフランス語に直訳すると、pomme de pin で、これは今でも松ぼっくりのことなのだった。どうもややこしいハナシで失礼しました。 |
◆ パイナップルの語源のおさらい。新大陸から現在パイナップルとして知られる果実がイギリスに上陸する以前にも、パイナップルという英単語は存在していて、それは今でいうパインコーン、すなわち松ぼっくりのことであった。その松ぼっくりに似ているというので新しいフルーツもパイナップルと呼ばれることになった。そのうちパイナップルといえば、もっぱらこの熱帯産のフルーツを指すようになったっため、本来のパイナップルである松ぼっくりのほうがその名を譲り、パインコーンという別の名称を与えられることになった。 ◆ では、そもそも松ぼっくりがなぜパイナップル (pineapple) と呼ばれていたのか? リンゴ (apple) といかなる関係があったのか? ふたたび 《オンライン語源辞典》 によれば、apple はそのむかし、 ◇ A generic term for all fruit, other than berries but including nuts ◆ ということで、リンゴという個別の果物に限定されない、かなり幅広い概念だったらしい。松ぼっくりも fruit には違いない。 ◆ 「松ぼっくり」 とは、もちろん 「松かさ」 のことであるが、松かさというコトバをこれまでワタシは使用した記憶がないので、いささか子どもっぽい響きが気にはなったが、ワタシにはなじみ深い松ぼっくりというコトバを使うことにしたのである。しかし、この 「松ぼっくり」 というコトバも何度も書いているうちに気になりだした。この 「ぼっくり」 というのはなんなのだろう? 手っ取り早く、オンラインの 《大辞林》 を引いてみると、 ◇ 「まつふぐり(松陰嚢)」の転。まつぼくり。松かさ。 ◆ とあって、これまた驚いた。松のキンタマのことだったとは! |
◆ 梅雨はうっとうしい。梅雨は鬱陶しい、と漢字交じりで書けば、その鬱陶しさも倍増する。梅雨が好きなひともそういまい、と書きつけてすぐに、 ◇ 梅雨は嫌いな季節ではありません 恵みの雨だしね 空から水が降ってくるなんてなんていう奇跡なんだろ、とかね さっそく傘をさしながら自転車で遠出 ◆ という文章を読んだが、無視することにする。梅雨がやってくるたびに気になるのは 「入梅」(にゅうばい) というコトバで、そもそも語感がよくないと思う。鬱陶しさがますます募る。「梅雨入り」(つゆいり)の方がいいんじゃないかと思う。これは好みの問題だから、どうしようもないが、それよりも気にかかるのは、この 「入梅」 という語を梅雨入りの意味ではなくて、梅雨それ自体を意味する語として使用するひとがいることで、これまた方言の問題だから、さらにどうしようもないことだが、ワタシは入梅というコトバが梅雨そのものの意味で使われるのを、東京で初めて耳にした。京都では 「入梅」 というコトバそのものを聞いたおぼえがないし、札幌には梅雨そものもがなかった。 ◇ 東京の人は梅雨の事を入梅と言います。梅雨が始まる時はその言葉が合っていますが終わる時も、そろそろ入梅も終わるねとか入梅が明けると言います。入梅は東京の方言だと私は思っています。 ◆ チェンバレンの 『日本事物誌』 にも、 ◇ the "rainy season" (nyūbai) ◆ とある。けれどもワタシは、梅雨の意味での入梅というコトバを初めて聞いたとき、方言としての用法があるとは知らなかったものだから、そのひと独自の言葉遣いなのかと思った。ありていに言えば、間違った言い方だと思い、訂正したくなった。 ◇ 梅雨が来ると思いだすのは、祖母が「入梅」という言葉を「梅雨入り」という意味ではなく、「梅雨」と同義に使用していたことである。浅はかだった自分は、祖母が入梅という言葉を使うたびに、「お祖母ちゃん、入梅っていうのは梅雨入りのことを言うんだよ」と偉そうに指摘したものだが、後日、辞書を引いてみたら 【入梅】 ①つゆに入ること (三省堂新明解国語辞典第五版より) と、日本語として「入梅」が「梅雨の季節全体」を指すものであることがはっきり書かれており、誰に知らせたわけではなかったが、無知な自分がとても恥ずかしかった覚えがある。 ◆ (とてもステキな文章だと思ったので) 長々と引用したが、ワタシもまた無知な自分がとても恥ずかしい。言わなくてよかった。とはいえ、やっぱりこれはもともとは誤用だろうと思う。誤用が広まってしまえば、もはや訂正は効かず、辞書にも採用される。 |
◆ ニラムシという虫がいるらしい。あるいはニワムシとも。ハンミョウの幼虫。 (茨城県土浦市上大津) (千葉県佐原市与倉) (東京都狛江市) (青森県十和田市) ◆ ニラムシ釣り、ニワムシ釣り、ハンミョウ釣り。残念ながら、ワタシはしたことがない。興味のある方は以下のサイトを参考に。 |
◇ 近代的なスタイルの国語辞典の第1号 『言海』 は、「読める辞書」 としても絶大な人気を誇ってきた。語釈には 「堂々めぐり」 がほとんどなく、意味の本質に迫るキリッとした名文づくし。とりわけ動物・植物・鉱物などの語釈がシブい。ユーモアさえ漂う。明治時代の俗語もまじり、方言などの注記もある。用例も豊富で、古典アンソロジーのような一面も。巻頭の 「語法指南」 は日本最初の近代的な文法書として愛用された。明治のことばの辞典として、また古語辞典としても役に立つ。国語辞典として使うための詳しい解説つき。縮刷版 (明治37年) の内容をそのままの大きさで覆製。 ◆ ことのほかオモシロイ。たとえば、「ばいう」 の項を引くと、 ◇ ばい-う (名) 梅雨〔梅實黄熟ノ候ニテ、黄梅雨ノ義ト云、或云、此候、衣物皆黴ヲ生ズ、黴雨ノ義ナリト〕ツユ。ツイリ。サミダレ。夏時ノ霖雨ノ名、芒種ノ後、壬ノ日ニ逢フヲ入梅(つゆいり)トシ、夏至ノ後、庚ニ逢フヲ出梅(つゆあけ)トスト云、然レドモ、諸説、區區ナリ、大抵、芒種ノ後、降リ初メテ、凡ソ三十日間ニシテ、雷鳴アリテ絶ユ。 ◆ 「芒種ノ後、降リ初メテ、凡ソ三十日間ニシテ、雷鳴アリテ絶ユ」。最後の 「雷鳴アリテ絶ユ」 というのが、なんともいえず爽快である。ああ、夏の晴れた空から突如として響く雷鳴が待ち遠しい。出梅はまだ遠い。 |
◆ 手元に知り合いからもらった美術展の招待券が2枚あって、だれか一緒に行くひとはいないかと心当たりを探してみるが、見つからないまま会期も終わりに近づき、しようがないのでひとりで行くことに決める。そんなとき、余った1枚のチケットをどうするか。チケット売り場に並んでいる列の最後尾にいるひとに進呈することしよう、そう決めて美術館へと向かう。なにを期待するわけではないけれど、たまたま一番後ろに並んでいたひとが、ほっそりとした若い女性で、声をかけるのを一瞬ためらった隙に、小太りの中年のオバサンがふたりどこからともなくやってきて、「あら、チケットあまってるの? 遠慮なくいただくわ」と、こちらがなにも言い出さないうちになぜわかったのか不思議なのだが、手を差し出してしまっている。そのときにようやく、前の若い女性が何事かと後ろを振り向き、その顔を初めて目にしたところが、「ああ! なんという運命のいたずらだろう、ワタシは千載一遇のチャンスを逃してしまった!」、と思わせるほどの器量の持ち主だった。ワタシはもはや展覧会を観る気力が失せている。オバサンたちに、「はい、どうぞ」とチケットを2枚手渡して、そそくさと美術館をあとにする。そんな悲劇か喜劇かわからぬハナシを妄想しながら、美術館に着き、チケット売り場の列を確かめる。最後尾は、真面目そうな若い男性で、さいわいなことに、悲劇も喜劇も起こりはしなかった。 |
◆ 先日、おもしろいハナシを聞いた。札幌地下鉄の車内でのこと。スーツ姿のサラリーマンが乗車してくる。座席は空いていないので、カバンを網棚へ載せようと腕を上げる。腕を下ろした瞬間、その男性の前に座っていた女性がドキリとする間もなく、カバンはその女性の頭上へと落下する。男性は自分が引き起こした事態がよく飲み込めず、狐につままれた顔をしている。女性は痛そうにアタマをさすっている。いったい何が起こったのか? だれが悪いのか? ◆ どうやら、札幌の地下鉄ではこのような事態が日常的に起こっているようなのである。 ◇ その日、I さんの友人は地下鉄車内で座っていたんだって。そこへ大きな荷物を持った人が乗り込んできて友人の目の前に立ち、大きな荷物を網棚へあげる動作をしたそうです。「ガスッ!」 「!!!」 哀れ、座っていた I さんの友人の頭に大きな荷物はヒット! おでこと鼻は真っ赤になり、言葉では言い尽くせない痛みと驚きと荷物が降りかかってきた I さんの友人。きっとこの加害者(!)は東京の人、というのが I さんと友人の見解。 ◇ 札幌の地下鉄には網棚がありません。転勤者はこれで一度は失敗します。地下鉄に乗り込み 「いつもの習慣」 で書類を 「網棚」 に置こうとして手を離した瞬間ハッと気が付くのです。網棚がない! 書類は座っている方の膝にどさ! すみませ~ん!、と平謝りです。私も失敗しました。私の上司も失敗しました。道産子のみなさん、いつも転勤者がご迷惑をおかけして申し訳ありません。 ◇ 札幌の地下鉄には網棚がない。枠はあるのだが、網が張っていない。なぜなのか? という疑問はさて置き、危険ではないだろうか? わしはてっきりあるものと思って、勢いよく荷物を放り投げてしまいました。幸い、他人に迷惑・危害は与えなかったものの、下に赤ちゃんでもいたらと思うと、ぞっとします。地方色があるのは結構だが、全国一律の規格も重要ではなかろうか。 ◆ 札幌の地下鉄には網棚がないそうである。ワタシは札幌に五年も住んでいながら、そのことに気づきませんでした。そもそも網棚にカバンを載せる習慣がないし、乗っても数駅だから、気にならなかったのでしょう。では、なぜ網棚がないのか? ◇ さっぽろの地下鉄車内には網棚(座席の上の荷物置き)が有りません。これは、忘れ物の防止と、故意に忘れていく新聞や雑誌で車内が汚れない為だという事ですが( 車両コストも少しは違うでしょうね)、出張者や観光客が有るものと思い込み放り上げる荷物が座っている人の頭を直撃!!気まずい空気が流れる事もしばしば・・・です。 ◆ 教訓。習慣とはコワイもの。あなたの常識はたんなる思い込みかもしれぬ。網棚があるかどうか指差し確認。あるいは、頭上に注意。居眠り厳禁。備えあれば憂いなし。念のためヘルメット着用。 |
◆ 梅雨は鬱陶しい、と書いたらトンデモナイ暑さになってしまった。雨そのものが嫌いなわけではないけれど、仕事中にズブ濡れになるのもたまには気持ちのいいものだけれど、毎日だとウンザリする。しかし、それにもましてウンザリするほどの暑さだった。暑いのも嫌いではないけれど、せいぜい30度ぐらいにしてほしい。35度でもいいけれど、夜だけは涼しくなってほしい。なにせウチにはエアコンがない。というわけで、雨乞いに、てるてる坊主でも作ってみようかと思った。思ってすぐに、あれは雨乞いのためのものではないことに気がついた。あぶないところだった。いや、てるてる坊主の役目をカン違いしたこと自体がすでにアブナイ。暑さでアタマがやられたのかもしれない。 ◆ いま雨が降っている。すこし涼しい。ワタシの願いが、てるてる坊主を作ってしまおうかとするほどのワタシの願いが通じたのかもしれない。雨の神さま、どうもありがとう。もしかすると、インドのヒキガエルのおかげかもしれない。
◆ このカエルの結婚式はインド各地で行われているようで、ヴァラナシ (Varanasi) でも、22日に挙行されたらしい。 ◇ People cheered, blew conches and sang songs, as the priest solemnized the marriage to the chanting of Hindu hymns by putting streaks of vermilion on the female toad’s head. / “It is believed that frog marriages please the rain god “Indra” as they live in water. So, to pray for good rains, we conducted the marriage,” said Santosh Ojha. ◆ 雨の神さまの名はインドラ。雨はまだ止まないが、仕事に出かけるとしよう。 |