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◆ 引越屋にとって、忙しい日々はまだまだ続いているけれども、4月になって、たしかに峠は越えたので、ちょっぴり余裕が出始めて、またサイトの更新に精を出さねばと思い、パソコンに向かったところが、ディスプレイ上には、 ◇ A disk read error occured. ◆ という不吉なコトバが・・・。「ディスク読み取りエラーが発生しました。Ctrl+Alt+Del を押して再起動してください」。それでは、と Ctrl+Alt+Del のキーを押してはみるが、同じコトの繰り返しで、起動できず。ハードディスクを交換するしかないのかなあ? というわけで、復旧にはしばらく時間がかかりそうです。しばらくはネットカフェから。 |
◇ 「ぼくは、もうここには戻らないようにしようと思う。そう決めたんだ」 ◆ いつもは座れるのに、雨のせいだろうか、優先座席以外に空席はなく、仕方がないので、つり革にぼんやりと身をまかせている。そんな朝のバスのなか、こんな台詞がふとどこからともなくやって来て、夜になってもなぜだか憶えているので、記しておくことにする。でも、なぜだろう? 「ここ」 とはどこだろう? どうして 「ぼく」 はそう決めたんだろう? まちがいなく自分のアタマのなかのことなのに、皆目見当がつかない。もしかすると、あれはバスで隣り合わせたひとのふぶやきだったのかもしれない。そう考えたほうが気が楽だ。まったく情けないハナシだけれども、この台詞が妙に気にかかってアタマから離れない。 |
◆ ひとつ前の文章にワタシは 「ぼくは、もうここには」 というタイトルをつけた。これは適当なタイトルを思いつけなかったために、冒頭の数語をもってタイトルに代えたという次第だが、こういうのを 「インチピット」 というのだそうで、 ◇ 『平成三年五月二日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに』 というのは、石黒達男の小説につけられたタイトルである。書き出しの文句をタイトルにしたものは、「インチピット incipit」(「~と始まる」 という意味のラテン語)と言い、オペラのアリアの呼び名に見られる馴染みのものだが、 ◆ ラテン語というのであれば、あるいは 「インキピット」 というべきかもしれなくて、 ◇ 中世写本の冒頭は、ラテン語の incipit という言葉で始まりました。incipit ... は英語では here begins ... と訳され、「ここに・・・が始まる」 という意味になります。この文章をインキピットと呼びます。 ◆ インチピットでもインキピットでも(あるいはインシピットでも)、無題よりはいいと思う。 |
◆ インチピット(インキピット)というのは、案外よく使われていたりもするので、たとえば、 ◇ 「春のうららの隅田川~」 の歌にもあるように隅田川は、墨田区民にとってかけがえの無い身近な自然であり故郷を感じさせる象徴的な原風景のはずである。しかし、実際の隅田川には高速道路がかかり憩いの場所にはなっていない。 ◆ という文章を読んでも、べつに違和感を感じることもなくて、滝廉太郎作曲の、 ◇ 「春のうららの隅田川」 という歌いだしでおなじみのこの童謡の曲名はどれでしょう? 1.隅田川 2.春 3.花 4.春うらら ◆ なんていうクイズには答えられなくても、コミュニケーションはとれているのだから、なんの問題もないように思える。 ◇ よく知られたこの歌ですが、曲名はご存じでしょうか? たぶん違うと思いながらもつい 「春のうららの」 …なんて答えてしますよね。 ◆ クイズででもなければ、「春のうららの」 と言っておけばいいので、逆に正しいタイトルがコミュニケーションの妨げになることもあるだろう。 ◇ ♪春のうららの隅田川~という曲あるじゃないですか?今の季節にピッタリでよく耳にするんですけど、曲名がわからなくて、ついこの間わかったんです。この曲が 「花」 だということが。 ◆ この歌のタイトルが 「花」 であるということがわかったとして、そのことが会話をより円滑にするかどうか? ◇ 花びらのように散りゆくなかで:ORANGERANGE ◆ こんなときにはインチピット(インキピット)のほうが便利だろうと思う。 |
◆ 竹内まりやに「駅」という曲がある。ある雨の日、帰宅ラッシュ時の駅で、2年前に別れた男性をふと見かけるが、声をかけることができない。同じ電車に乗って、となりの車輌からその彼をそっと見ているうちに、いろいろなことが思い出されて胸が熱くなる。同じ駅で降り、人ごみに彼を見失う。といった内容の歌詞。 ♪ 今になって あなたの気持ち ◇ 歌詞の中で、「今になってあなたの気持ち初めて解るの・・・私だけ愛してた事も」と、ありますが、私だけがあなたを愛してたのか、私だけを愛してくれてたのか。夜も寝られません。 ◆ そう言われて歌詞を読み直すと、ずいぶんとあいまいな(というか舌足らずな)歌詞で、こんなことに悩むひとがいてもおかしくない。大学の授業でこの歌詞を取り上げ、学生にその解釈を質問してみた先生がいる。 ◇ 女性の主人公が、電車で昔の恋人が一つ隣の車両にいるのを見かけるという内容の歌で出てくる一節ですが、「私だけ愛してた」というのはどういう意味だと考えればいいでしょうか。例年、文法論の授業で取りあげて意味関係を聞いていたのですが、大体四十~五十人程度の中で十人程度は、 ◆ この先生の日本語自体があれこれ気にならないでもないが、それはさておき、さらにはこの歌の解釈でも「電車で昔の恋人が一つ隣の車両にいるのを見かける」というのは明らかな誤読だろうけれど、それもさておき、学生の4、5人にひとりが「片思い解釈」派であるという。このけっして少なくない割合については、さておいてはいけないだろう。でも、時間がないので、これもさておいて・・・。 ◆ (ワタシは、文章の解釈には、たいていの場合、正解があると思っているので、それを安易に「個人の自由」に還元してしまう風潮には異を唱えたい。この場合も、「片思い解釈」などというのはオカシイということを書こうと思っていたのだが、そもそも歌詞自体があやふやで、「片思い解釈」でもオカシクナイかと思い直して、続けるのをやめにした。「駅」というタイトルもよくないと思う。) |
◆ 新千歳空港のミニ水族館、調べてみると、なかなかおもしろい。《新千歳空港ターミナルビル》 のサイトによれば、3つの到着ロビーのそれぞれに水槽があって、その水槽がさらに乗客側(寒帯の魚)と出迎え側(熱帯の魚)で二分されて、約100種類、約2000匹もの魚が泳いでいるということだ。今度行ったら、べつの水槽も覗いてみることにしよう。ハリセンボンもいるらしいから。
◆ 東海大学海洋科学博物館の館長を務めた鈴木克美さんが、こんなエピソードを語っている。 ◇ 東海大学海洋科学博物館が1970年にオープンしたとき、コースの最初の円柱水槽には魚の名札をつけませんでした。円柱水槽はわが博物館で創案し、はじめて実現させた新しいスタイルの水槽で、玄関を入ってすぐ、魚の泳ぐ大小12本の円柱のあいだを通りぬけていくことで水族館を楽しむ期待感をもり上げよう、という計画でした。それなら、ここではまだ、魚の名前を知ってもらわなくてもいいのではないか、雰囲気を味わってもらうのに、魚名札はいらないだろうと考えたのです。1970年代とは、こんなふうに、前例にこだわらず、むしろ水族館の新しい方向をさぐる試行錯誤がいっぱいつまった時代でした。 ◆ ワタシは、わざわざ水族館に足を運んだわけでもなく、ただ空港での時間つぶしに魚を眺めていたにすぎないけど、それでも10分くらいのお付き合いはしたわけで、そしたら、やっぱりそいつの名前が知りたくなるなあ。タマカイ、わかってよかった。 ◆ タマカイ、英語では Giant grouper、学名は Epinephelus lanceolatus。 ◇ It is found throughout the Indo-Pacific region, with the exception of the Persian Gulf. The species can grow as large as 3 m long, weighing up to 600 kg, and there have been unconfirmed reports of attacks on humans. ◆ このタマカイ、中島敦のパラオを舞台にした小説 『南島譚』 にも顔を出す。 ◇ 怠け者の揃った此の島の中で、此の男一人は怠ける暇が無い。朝はマンゴーの繁みに囀る朝鳥よりも早く起きて漁に出掛ける。手槍(ピスカン)で大蛸を突き損って胸や腹に吸い付かれ、身体中腫れ上ることもある。巨魚タマカイに追われて生命からがら独木舟(カヌー)に逃げ上ることもある。盥ほどもある車渠貝(アキム)に足を挟まれ損ったこともある。 ◆ このタマカイ、ダイバーには気になる存在のようで、 ◇ 伝説の巨大魚タマカイがうろうろし、しかも全然逃げない。タマカイって知ってますか? 一番大きくなるハタで、最大2.5mになるとか。漁師にとられ尽くし、数は少なく神経質です。数が少ないのでパラオではほとんど見られないものです。タマカイだよ~見ちゃったよ~!! ◆ ダイビングが趣味で、パラオにも何度も行ったことがある同僚に、「タマカイ、知ってる?」 と聞いたら、「知らない」 って言ってたけども。 |
◆ ネットであれこれ検索することが多い。そうすると、あれで検索したときにもこれで検索したときにも、ああまたこのサイトがヒットしたなあ、ということが何度かあって、それではと、そのサイトにトップページから入り直してじっくり読んでみる、というような事態がまま起きる。そのようなサイトのひとつに金川欣二さんの 《言語学のお散歩》 があって、つい今しがたも、あることを調べていてあるキーワードで検索したら、またこのサイトがヒットしたので、当該箇所のみならずほかの箇所まで読んでしまって、また別のことを考えてしまったというようなことがあったので、あることはほったらかしにして、別なことを先に書いておく(といってもたいしたことではない)。 ◇ こうしたことから、三田誠広は、日本のロケット基地がなぜ種子島にあるか知らなかったら小説家にはなれない、と書いている。つまり、物事を科学的にもきちんと知っていなければ小説は書けないということだ。 ◆ 種子島のロケット基地のハナシも初耳だったけれども、それより驚いたのは、「日本の体重計は北海道用、本州用、沖縄用と3種ある」 ということで、これにはびっくりさせられて(ホントかな?)、ついでに、そういえば、とあれこれ考えてしまったのだった。たとえば、通信販売やなんかで、 ◇ 【送料無料 ※北海道・沖縄・離島を除く】 ◆ とか、 ◇ 但し、北海道、沖縄、離島の場合は別途料金となります。 ◆ とか。ちょっと悲しい(と北海道に住んでいるときは思った)。それから、北海道には 「寒冷地仕様」 なるものがある商品もあって、これが不当に(?)高かったりする。かなり以前のことだが、ワタシは、クルマの寒冷地仕様というのは、クーラー(エアコンではない)がついていないことだと信じて疑わなかった。クーラーがなくて安くなるならまだしも、割高になるなんて、バカにするにもほどがある、と義憤にかられたりもしたのである! ◆ あるいはまた、 ◇ ブラジルからの留学生・ロブソン君は 「CDプレイヤー」 を 「蓄音機」、「ノート」 を 「帳面」 と言って怪訝な顔をされたという。電車のことを 「汽車」 といって東京の人に笑われたが、富山ではまだ 「汽車」 といわれていて安心した。 ◆ という箇所を読んで、そういえば、札幌では、汽車と電車を使い分けていて、汽車とは国鉄(JR)のことで、電車とは市電(路面電車)のことだったなあ、とか。 ◆ 以上、北海道から帰ってきたばかりなので、あれこれなつかしいことを思い出してしまったのでした。余談おわり。 |
◇ シュルレアリスム的なイメージの形成原理の説明の場面で,解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘との出会いというロートレアモンの一節が例証として引き合いに出されることはよくあることだが,はたしてこの三つの要素の出会いはそれほど奇妙なことなのだろうか。 ◆ と、松浦寿夫は書いている。(いつものように、それとは)まったく関係はないが、赤川次郎に 『赤いこうもり傘』 という作品がある。読んだことはない。先日図書館に行ったら、児童書のコーナーに表紙が見えるように置かれていたので、目についた。で、「赤いコウモリ傘」 なんてものがありうるのだろうかと、ふと気になった。ワタシにとってのコウモリ傘とは、黒くなくてはならず、「赤い」 コウモリ傘なんてものは、「白い黒板」 とか 「黄色い白線」 とかいった一種のコトバの奇形であり、言語学者ならそれをオクシモロン(撞着語法)の一例であるというかもしれないし、あるいはむしろ、シニカルに、鳥だか獣だかはっきりしないコウモリにはお似合いの表現なのさ、と突き放すべきなのかもしれないが、あいにくそれほどの余裕も能力もないので、ただ思ったことを書いている。 ◆ そもそも、コウモリ傘はコウモリのどこに似ているのか? オンライン辞書で、蝙蝠傘を引くと、 ◇ 《広げた形がコウモリの翼の形に似ているところから》金属製の骨に布などを張った傘。洋傘。こうもり。 ◇ 〔開くとコウモリが翼を広げた形に似るところからいう〕細い鉄の骨に絹・ナイロンなどを張った洋傘。こうもり。 ◆ とあり、どちらの辞書も似ているのは翼の形だとしている。色にかんする記述はない。してみると、コウモリ傘は黒くなければならないなどというのは、ワタシの思い込みにすぎなかったのか? 以下は、夏目漱石 『それから』 の結末。 ◇ 忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くる/\と回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあつた。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くる/\と渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売つてるものがあつた。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸(おつかけ)て来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはつと電車と摺れ違ふとき、又代助の頭の中に吸ひ込まれた。烟草屋の暖簾が赤かつた。売出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつた。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になつた。さうして、代助の頭を中心としてくるり/\と焔の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。 ◆ こんな赤い世界にいると、赤いコウモリだろうが、赤いカラスだろうが、赤い白鳥だろうが、もうどうでもいい。 |
◇ 「日本の陶器会社がテエランの陶器会社から模造品を造ってくれと頼まれたので、造ってみたところが、本物より良く出来たのでテエランの陶器会社が潰れてしまったそうだ。それで造った日本もそれは気の毒なことをしたというので、今になって周章(あわ)て出したというんだが、しかし、やるんだねなかなか。一番ヨーロッパを引っ掻き廻しているのは、陶器会社かもしれないぜ。」 ◆ テエランはイランの首都テヘラン(Tehran, Teheran)。これは小説のなかのハナシだからホントかとどうかしらないけれど、ありそうなことではある。やるんだねなかなか、日本人というのは。器用で勤勉で。 ◆ こんなハナシを聞いたことがある。第二次世界大戦の日本の敗戦にともない、ソ連は多くの日本人捕虜をシベリアの収容所で強制労働に従事させた。その労働には過酷なノルマが課せられたが、勤勉な日本人はそのノルマを努力してクリアしてしまう。そうすると、さらに過酷なノルマが課せられることになるが、そのノルマをさらなる努力でまたもクリアしてしまう。やるんだねなかなか、日本人というのは。けれど、ものには限度というものがあって、ついには身体をこわして死んでしまう・・・。ああ、なんと勤勉すぎる日本人。 ◆ ノルマというコトバはもともとロシア語(Норма)。いや、ソビエト語といったほうが正確だろうか? ◇ 言い換える必要がないほど日本に定着しているロシア語にイクラやカンパなどがある。ノルマもその一つ。旧ソ連時代、一定の時間でこなすよう労働者に割り当てた仕事の基準量のことと辞書にある。 ◇ (1) 個人や工場に割り当てられた、一定時間内・期間内になすべき生産責任量。第二次大戦後、シベリア抑留者が日本に伝えた語。 ◆ ノルマのシステムは実に巧妙なものである。以下の引用は群馬県議会議長中村紀雄さんのサイトにある 《今見るシベリア強制抑留の真実》 から。 ◇ 正直で勤勉な日本人がノルマを達成すると次にはより厳しいノルマが課された。又、ノルマの達成度は、例えば、一一〇%以上が一級、その下の一〇〇%以上は二級、その下の八〇%以上は三級、それ以下は四級と評価され、それに応じて食事も差別された。 ◇ 飢えた日本人は、ノルマを超過達成して増量の食事を得ることに懸命であった。しかし、そのために体力を消耗させて倒れ、遂に死に至るものが多かった。 ◇ 日本人の中にも増食に釣られることの危険性を見抜いている者もいた。ノルマ万能の中で八〇パーセント主義を貫いたというある日本人は次のように証言している。 ◆ また、以下の引用は、毎日新聞のコラム 「経済観測」(2004年4月9日 東京朝刊)から。 ◇ シベリア抑留と強制労働に関連して、日本人にも反省すべきことがあったようだ。それは、強制労働の際に課せられたノルマ(達成すべき目標)に関してである。 ◆ とりあえず、ワタシは現在ノルマとは無縁な環境で働いていることをシアワセに思う、という間の抜けた感想しか書くことができない。 |
♪ 空がとっても低い 天使が降りて来そうなほど ◆ まだ天使を見たことがない。とくに天使を見てみたいと思ったこともないが、とにかくまだ天使を見たことがない。 ◇ いまではもう誰も天使が実在するのかとか、天使とはなんなのかなどということをまともに考える人はいなくなってしまいました。もちろんいなくなったのは、キリスト教の天使ばかりではありません。妖精も、アイヌのコロポックルも、修験道の烏天狗も、とにかく人間と神の間に立って、神の言葉を人間に伝え、また人間になにか大きな力をあたえてきた存在について、人々はもうまともに考えなくなってしまったのです。人間の世界から天使は追放され、天使の存在できる空間が根こそぎにされはてた時代に、わたしたちは生きているわけです。 ◆ 天使の背中に生えているもの、あれはハネというのかツバサというのか、どちらのコトバが天使にお似合いかとなると、やっぱりハネかなあ、などとどうでもいいことをつらつら考え、そういえば、こどものころには、天使の羽(翼)のその付け根の部分は一体どうなっているのだろうか、ということが無性に気になったことを思い出して苦笑する。見たことはないので想像では、なんだか取って付けたような、接着剤で貼り付けたような、だからポロリとすぐ取れそうな、そんなもののような気がしていた。もしかすると、と唐突に変なコトを書くようだが、まだ何も知らない女の子が男性にあるというオチンチンというものを想像するときも、こんな感じだろうか? 自然に羽(翼)が生えた天使にイメージをうまく思い描くことができない。ペガサスだって、どうも不自然だ・・・。
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◆ こういうハナシが好きだ。 ◇ さて妖怪を何故にモウといひ始めたかについては、たわいも無いやうな話だが私の実験がある。曾て多くの青年の居る席で試みにオバケは何と鳴くかと尋ねて見たことがある。東京の児童等は全くこれを知らない。だから戯れに仲間を嚇さうとする場合に、妙な手つきをしてオバーケーといひ、もしくはわざとケーを濁つていふこともある。つまり我名を成るたけこはさうに名乗るのである。ところが或る信州の若者はこの問に対して、簡明にモウと鳴きますと答へた。丸で牛のやうだなといふと、他に鳴きやうがあらうとは思はなかつたといつた。 ◆ オバケは何と鳴くかという質問自体がいいし、信州の若者の迷いのない回答の仕方もまた魅力的だ。 |