MEMORANDUM
2013年02月


◇  アメリカには、合併でどんどん社名が長くなっていく企業がたくさんある。たとえば大手証券会社の『メリルリンチ』。あちらでの正式社名は、Merrill Lynch, Pierce, Fenner & Smith Inc.
 この会社はC・メリルとE・リンチが創業し、初めの社名はメリルリンチ商会だった。
 「その後、別の会社と合併するたびに、新しいのをくっつけたり、あるいは削ったりして、現在の社名に落ち着いたのです」
 と日本メリルリンチの話だ。
〔中略〕
 ところで、正式社名の Merrill と Lynch の間に、コンマがないのに気づきましたか。
 二人の名前なのだからコンマを入れるのが英文法の常識で、実際に Lynch と Pierce の間などにはあるのに、ここだけなぜないのか、アメリカ人たちも長い間不思議に思ってきた。
 その理由はいろいろに説明されているが、もっとも有名で、創業者の一人であるメリル氏自身も笑いながら認めていたエピソードに、こんなのがある。
「メリルリンチ商会ができた当時、当然ながらメリルとリンチの間にはコンマが入っていた。ところが、社名入りの封筒と便箋を作るよう頼まれた印刷屋が、誤ってコンマを落としてしまった。二人は頭を抱えたが、印刷し直す金もない。それでやむなくコンマなしの封筒と便箋を使っているうち、世間もそれが正しい社名なのだと思い込んでしまった」
 ともかくも、その後どんどん社名が長くなっていく間も、メリルとリンチの間にはコンマが入れられなかった。
 現在の同社のトップも、客や取引先も、入れようとは考えない。コンマがない伝統が半世紀以上も続くと、たとえそれが文法上誤りでも、だれも伝統を壊したくはなくなるものなのだ。
 だからカタカナで書くときも「メリル・リンチ」ではなく「メリルリンチ」とするのが正しいのだが、〔後略〕

上前淳一郎『読むクスリ 18』(1992; 文春文庫,pp.30-32)

◆ 英語(に限らないが)をカタカナ表記したときの「・」(中黒)の使用法は難しい。「Merrill, Lynch」は「メリルリンチ」にするわけにはいかないだろうが、「,」=「・」という決まりはないので、「Merrill Lynch」の場合に「メリルリンチ」と書くか「メリル・リンチ」と書くかは、そのひと次第というほかないだろう。

◆ メリルとリンチの間になぜコンマがないのかということについては、ほかにこんな説がある。

◇ On May 12, 1938, Edmund Lynch passed away. Out of respect to his deceased partner, Merrill decided to drop the comma from Merrill, Lynch& Co. and created the name Merrill Lynch.
www.millenniumv.com/

◇ Begun as an investment banking partnership with Edmund Lynch in 1915, the original firm was Merrill Lynch & Co. — omitting the comma was fashionable at the time. Later mergers added new names to the house until it finally sounded, to one wag, like a beer barrel rolling downstairs.
『LIFE』1956年10月22日号,p.45

〔William Safire, ON LANGUAGE; In Nine Little Words - New York Times〕 The omitted comma should always be examined. In the name of Wall Street's Merrill Lynch, Pierce, Fenner & Smith Inc., a comma would ordinarily appear between the Merrill - Charles Merrill - and the Lynch - Edmund Lynch. Why doesn't it? Because in 1941, when the firm that was once Merrill, Lynch & Company joined with Fenner & Beane, together with Edward A. Pierce, the top man, Charles Merrill, wanted the name of his original firm separated from the rest of the ''thundering herd.'' Without the comma, Merrill Lynch remains pristine - the name the firm is known by, followed by the rest of the guys, with Alpheus C. Beane's name later replaced by Winthrop Smith. How do I know this? Charlie Merrill told me in 1949, in my first interview for The New York Herald Tribune syndicate. He also advised me not to ask silly questions about commas in a serious interview, because ''nit-picking never gets you anywhere in life.'' Little did he know.
www.nytimes.com/1989/03/26/magazine/on-language-in-nine-little-words.html

◆ 先にも引用したが、ニューヨーク・タイムズの名物コラムニストだったウィリアム・サファイアが若かりし頃、メリルリンチ(Merrill Lynch)の創業者であるチャールズ・メリルに、社名の Merrill と Lynch のあいだにコンマ(,)がないのはどうしてか、とインタビューのついでに尋ねたところ、メリルはこの質問に答えたあとに、こう付け加えたそうだ。

〔William Safire, ON LANGUAGE; In Nine Little Words - New York Times〕 He also advised me not to ask silly questions about commas in a serious interview, because ''nit-picking never gets you anywhere in life.''
〔彼はまた、「重箱の隅をつついてもろくなことにはならん(シラミの卵取りは人生であなたをどこへも連れて行かない)」から、真面目なインタビューの最中にコンマの有無なんてくだらない質問はしないほうがいい、と忠告した。〕

www.nytimes.com/1989/03/26/magazine/on-language-in-nine-little-words.html

◆ 「nit-picking」の「nit」はシラミ(louse)の卵で、だから「nit-picking」は「シラミの卵を取ること」が原義。これが転用されて「あら探し」の意味にもなる。日本語の「虱潰し」と語の成り立ちは同じだが、意味は異なる。

◆ 「nit-picking」で画像検索をすると、毛づくろいをしてもらっているおサルさんの気持ちよさそうな画像がたくさん出てくる。

〔東京の野生ニホンザル観察の手引き〕 よく「ノミ取りをしている」といわれますが、一般的にはサルにノミがつくことはなく、毛についたシラミやその卵などをとっています。
www1.yel.m-net.ne.jp/j-monkey/wa-tebikisyo-1.html

◆ もちろん、シラミは人間にもつくので、たいへんな目にあった経験をお持ちの方も多いだろう(アタマジラミ、コロモジラミ、ケジラミ)。さいきん丸刈りにした女性タレントがいたが、あるいはシラミ対策かもしれない。

◆ 冬にシラミを飼えば、温かくなって、暖房代が浮くかもしれない。

◇ 何でも森の説によれば、体に虱がゐると、必(かならず)ちくちく刺す。刺すからどうしても掻きたくなる。そこで、体中万遍なく刺されると、やはり体中万遍なく掻きたくなる。所が人間と云ふものはよくしたもので、痒い痒いと思つて掻いてゐる中に、自然と掻いた所が、熱を持つたやうに温くなつてくる。そこで温くなつてくれば、睡くなつて来る。睡くなつて来れば、痒いのもわからない。――かう云ふ調子で、虱さへ体に沢山ゐれば、睡(ね)つきもいいし、風もひかない。だからどうしても、虱飼ふべし、狩るべからずと云ふのである。
芥川龍之介「虱」(青空文庫

◆ たまたま話は好きだが、またまた話となると、ちょっとため息。

◇  二ヵ月ほど前に、新聞のエッセイに明石のことを書いた。記憶に深く残っている土地のことを書いてください、と頼まれたのである。明石に住んだ期間は一年にも満たなかったが、好きな土地だった。そのことを書いたのである。
 文章が新聞に掲載される二日前に、明石の友人から手紙がきた。近況報告の手紙である。その次の日には、やはり明石の、違う友人から電話がきた。元気かなと思って、と彼女は言った。何年も電話をしあったことはなかったのだが。虫の知らせじみているなあとは思ったが、さほど気にしなかった。
 ところがその半月ほど後に、実際に明石に行くことになった。明石に住む人を訪ねて、話を聞く必要ができた。その人は、前月までは東京に住んでいた。転勤で明石に引っ越したのである。前月ならば、明石に行くはずはなかった。わずか一ヵ月の違いで明石に行くことになってしまった。
 こうなると、虫の知らせなどという言葉では片づけられないかもしれない。何年も明石のことを思いうかべたことはなかったのに。不思議だ。まことに不思議だ。ただ、こういうことは、たまにある。私か特にこういう奇妙な偶然にめぐまれているというわけでもなく、誰にでもあることだろう。ふだんならば長い時間の軸の上にちりぢりばらばらに置かれていることごとが、たまたま集まってくる。いくらか長く生きていると、そういうことがときどき起こるように思う。

川上弘美『ゆっくりとさよならをとなえる』(新潮文庫,pp.123-124)

◆ と長々と引用をして、さあ、これから、いろいろなことをだらだらと書こうと思っていたのだが、そうもいかなくなった。アタマのなかで井上陽水がこう叫ぶ。

♪ 計画は全部中止だ 楽しみはみんな忘れろ
  嘘じゃないぞ 夕立だぞ
  家に居て黙っているんだ 夏が終るまで

  井上陽水「夕立」(作詞・作曲:井上陽水)

◆ これは夏の歌だった。まったく季節外れで申し訳ない。で、そうもいかなくなった理由でも書くことにする。たいした理由ではない。2年ほど前に、同じ本の同じ箇所を引用して「たまたま話」というハナシを書いたことをすっかり忘れていたのである。書こうとしていた内容はすこし違うけれども、たかだか2年前に書いたことを憶えていないとは。ちょっとため息。

◆ さて、タイトルを「またまた話」か「ちょっとため息」のどちらにするべきか?

◆ 懲りもせず、同じ文章を三度引用すると、

◇ ただ、こういうことは、たまにある。私か特にこういう奇妙な偶然にめぐまれているというわけでもなく、誰にでもあることだろう。ふだんならば長い時間の軸の上にちりぢりばらばらに置かれていることごとが、たまたま集まってくる。いくらか長く生きていると、そういうことがときどき起こるように思う。
川上弘美『ゆっくりとさよならをとなえる』(新潮文庫,p.124)

◆ で、前回なにを書こうとしていたかというと、宝くじのハナシ。ちょっと前に、喫茶店でコーヒーを飲んでいると(居酒屋でビールではない)、背後からこんな会話が聞こえてきた。

◇ おまえ、知ってるか。宝くじてのは、ありゃ八百長だ。当たるやつは、最初から決まってんだ。

◆ ちらりと見ると、オヤジがふたり。繰り返すが、居酒屋ではなく喫茶店でのハナシ。相方のおやじは適当に聞き流していたようだったが、苦いコーヒーがさらに苦くなったのではないかと思う。しかし、こういうことを言いたがるひとはたしかに一定の割合でいるもので、けして少なくはないだろう。もちろん、競馬場に行けば、「八百長だ!」と叫んでいるオヤジは山ほどいて、ハタで聞いていると、あまり気分のいいものではないけれど、本人にとっては、一種のストレス発散で、これは仕方がない。自分の馬券が紙くずになったから、「八百長だ!」と言うので、つぎのレースで大穴でも当てれば、叫ぶ内容が「獲った!」に代わるだけのハナシである。それに比べると、宝くじ八百長オヤジは、どうも精神衛生上よろしくない。はっきり言うと、ハタで聞かされただけでも不愉快である。そういうことが言いたいんなら、喫茶店ではなく、宝くじ売り場に行けばいいのにと思う。

◆ 宝くじが八百長かどうかは知らない。しかし、その知らない度合いは、宝くじ八百長オヤジが「宝くじが八百長だ」と知っている度合いと同程度だろう。

◆ ちょっと気になったので、ネットで調べると、出てくるは出てくるは、すっかり質問サイトの定番の質問になってしまっている。あちこちに八百長オヤジが転がっている。キリがないので、ひとりだけ紹介する。

◇ あのね、宝くじはすでにあたる人はきまってるの。年末ジャンボの矢で射る装置にしたってあらかじめ発射タイミングをきめることができるの。ロトもそう。ナンバー書いたボールコロコロもいくらでも操作できるのよ。
oshiete.goo.ne.jp/qa/878968.html

◆ 宝くじ関係のもうひとつの定番テーマが、「宝くじ高額当選したことありますか?」という感じのもので、《発言小町》を見てみると、これも定期的に話題になっているようだ。

◇ 「ジャンボの1等当たりました」「こんにちは、実は私も宝くじが当たりました! 8桁数字!」「○億当たりました。とりあえず夫に電話で報告」「指1本立てて、ゼロが8個付きます」

◆ などなど。ひとつのトピに高額当選者がうじゃうじゃ名のり出てくるのである。これには笑ってしまった。実際に億万長者になったひとも中にはいるのかもしれないが、大半は自称高額当選者だろうと思う。他人などどうでもよい。じつは……。ワタシも当たってしまったんである! いや、じつは、これが書きたかっただけなんだが。証拠をお見せしよう。

◆ これである! 画像は一枚だけだが、銭湯の無料入浴券10枚。なんと、4500円相当! 生まれてこのかた、こんなコトは初めてで、ちょっと自慢してみたくなったわけ。

◆ 今年のセンター試験の国語の問題に「批評の神様」小林秀雄の文章が出題されたというので読んでみた。どれどれ。

◇ 鐔(つば)というものを、ふとした機会から注意して見始めたのは、ここ数年の事だから、未だに合点のいかぬ節もあり、鐔に関する本を読んでみても、人の話しを聞いてみても、いろいろ説があり、不明な点が多いのだが。

◆ 最初の「鐔」という漢字からしてフリガナがなければ読めなかった。以下、合点のいかぬ節もあり、こちらは骨董の趣味はなく、また受験生でもないので、読み飛ばす。早くも最終段落にたどり着いた。

◇先日、伊那にいる知人から、高遠城址の桜を見に来ないかと誘われた。実は、この原稿を書き始めると約束の日が来て了ったので出掛けたのである。高遠には、茅野から杖突(つえつき)峠を越えて行く道がある。峠の下に諏訪神社の上社がある。雪を残した八ヶ岳の方から、冷たい風が吹いて、神社はシンカンとしていた。境内の満開の桜も見る人はなかった。私は、高遠の桜の事や、あそこでは信玄の子供が討ち死にしたから、信玄の事など考えていたが、ふと神殿の後ろの森を見上げた。若芽を点々と出した大木の梢が、青空に網の目のように拡がっていた。その上を、白い鳥の群れが舞っていたが、枝には、近付いて見れば大壺ほどもあるかと思われる鳥の巣が、幾つも幾つもあるのに気付いた。なるほど、これは桜より余程見事だ、と見上げていたが、私には何の鳥やらわからない。社務所に、巫女姿の娘さんが顔を出したので、聞いてみたら、白鷺と五位鷺だと答えた。樹は何の樹だと訊ねたら、あれはただの樹だ、と言って大笑いした。私は飽かず眺めた。そのうちに、白鷺だか五位鷺だか知らないが、一羽が、かなり低く下りて来て、頭上を舞った。両翼は強く張られて、風を捕え、黒い二本の脚は、身体に吸われたように、整然と折れている。嘴は伸びて、堅い空気の層を割る。私は鶴丸透かしの発生に立会う想いがした。

◆ 「杖突峠」という地名にそそられる。あとは、白鷺だか五位鷺だか。それくらいかな、感想は。画像は、白鷺(コサギ)に五位鷺。うしろにはアオサギもいる。水中にはアザラシもいる。天王寺動物園。

◆ もうひとつ。テンの打ち方。

◇ 社務所に、巫女姿の娘さんが顔を出したので、聞いてみたら、白鷺と五位鷺だと答えた。樹は何の樹だと訊ねたら、あれはただの樹だ、と言って大笑いした。

◆ この「白鷺と五位鷺だと答えた」と「あれはただの樹だ、と言って大笑いした」のテンの有無。これは、自分で文章を書いていても、いつも迷う。いや、本当は適当に書いているだけなので一切迷わないが、あとで、適当なことに気がついて、いつも苦笑する。あとのほうは、実際のセリフとして書いているようなので、カギカッコを用いて、「『あれはただの樹だ』と言って大笑いした」としてもいいように思うが、「白鷺と五位鷺だと答えた」のほうは、よく読むと、微妙に間接話法っぽいような気もする。実際に「『白鷺と五位鷺だ』と答えた」のかもしれないし、実際には「あれは白鷺と五位鷺だ」と答えたのを、作者がまとめたのかもしれない。あるいは「『白鷺と五位鷺』だと答えた」かもしれない。どうせなら、こっちを問題にしてくれれば、参考になったのにと思った。もしかして、「参考になったのに、と思った」と書くべきだったろうか?

◇ 美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。

◆ と言ったのは小林秀雄だが、「白鷺という様な鳥はいない」という様なことを言うひとが、なぜだか多い。

〔東京書籍:花ちゃん・オー君・モンタ博士のてくてく自然散歩シリーズ〕 「うわあー。まっ白い鳥だね。シラサギかな?」
「まっ白なサギなので、シラサギと言ったりするけど、本当はシラサギという鳥はいないのよ。白いサギはコサギ・チュウサギ・ダイサギの3種類(しゅるい)がいるのよ。」

kids.tokyo-shoseki.co.jp/kidsap/downloadfr1/htm/err40909/err44132-196.htm

◇  毎年、京都の八坂神社や東京の浅草寺などで行われる「白鷺の舞」をご存知でしょうか。白駕の装束に身を包んだ演舞者がゆっくりと舞う、なかなか優雅な行事です。シラサギというと、全身純白の姿から、気品とか優雅などのイメージを一般では持っようです。
 確かに、実際のシラサギも純白で、優雅でなかなかきれいな鳥です。しかし、考えてみるとあの白い色はかなり目立つので、かえって外敵に発見されやすく、あまり良くないのではと思えます。あんなに白くて大丈夫なのでしょうか。
 ところで、シラサギという名前の鳥はいません。コサギ、チュウサギ、ダイサギ、アマサギなどの体が白色のサギを総称してシラサギと呼びます。アマサギだけは、夏に頭から首にかけて亜麻色になります。

柴田 佳秀『ポケット図解 鳥の雑学がよ~くわかる本 ー 鳥たちの衣食住と結婚、子育て』(秀和システム,p.100)

〔あわら市のシンボル(花・木・鳥)(案)提出された意見の概要と市の考え方〕 ご指摘いただきましたように、白鷺は白い鷺の総称で、白鷺という名の鷺がいるわけではありません
 ただ、わが国では、この白い鷺を一般的にシラサギと呼称し、古くは姫路城の別称にもなっているほか、近年では北陸線の列車名にも採用され、愛されてきました。

www.city.awara.lg.jp/page/seisaku/pabcome20080110_d/fil/004.pdf

〔いきもの通信 Vol.311[今日のいきもの]シラサギという名前の鳥はいない〕  例えばまっ白なサギを見つけたならば、あなたはそのサギをなんと呼びますか?
 「コサギだ」「ダイサギだ」と言う人は、鳥についてそれなりの知識を持っているようですね。
 「シラサギだ」と言う人は、残念ながら鳥について詳しくない、というより何もわかっていないのではないかという疑念を感じざるをえません。なぜこんなことが言えるのかというと、「シラサギ」という名前の鳥は存在しないからなのです。

ikimonotuusin.com/doc/311.htm

〔姫路科学館:科学の眼 No.432〕  天下の名城姫路城は1993年12月、法隆寺とともに日本で初の世界文化遺産に指定されました。姫路城は白く美しい白壁が天を舞うシラサギのように見えるので、別名「白鷺城」とも呼ばれています。
 さて、鳥の世界では「シラサギ」という名の鳥はいるのでしょうか。残念ながら、日本には「シラサギ」という名の鳥はいないのです。それでは「シラサギ」とはどのような鳥をいうのでしょうか。

www.city.himeji.lg.jp/atom/wadai/manako/432_s.pdf

◆ 書かれていることは概ね理解できるけれども、どうしてもわからないことがひとつある。最後の引用の、

◇ 残念ながら、日本には「シラサギ」という名の鳥はいないのです。

◆ の「残念ながら」だ。白鷺が種の名前でないからといって、なにを残念がる必要があるのだろう。コサギだろうがダイサギだろうが、白鷺はあいかわらずそこにいるではないか。こんなとき、ワタシはやっぱり土星人なんだなと思って、ちょっと悲しくなる。

◆ サギ師の悲しみも、あるいはこんなものだろうか。だますつもりはなかったんです。あなたが勝手に期待して勝手に幻滅しただけなんです。それもわたしのせいですか? シラサギをサギ師呼ばわりするのはやめよう。地球人というのは勝手なものだ。勝手にシラサギと呼び、勝手にお前はシラサギじゃなかったんだねと残念がる。「残念」という気持ちから騙されたという怒りへの移行は瞬時に行われることだろう。願わくば、憎悪にまで達しないことを。

◆ 安楽椅子などというコトバは、おそらくもう死語なのかもしれない。その代わりに安楽死などというコトバが生まれたが。

◇ 珍しい秋晴れの日に縁側へ出て庭をながめながら物を考えたりするのにぐあいのいいような腰の高い椅子があるといいと思う。しかし近ごろは昔あったような高い籐椅子はもうめったに見当たらない。みんな安楽椅子のような扁平なのばかりである。
寺田 寅彦『柿の種』(青空文庫

◇ ××○○会社には、一脚百何十円とかする鞣皮張(なめしがわばり)安楽椅子が二十脚も並んだ重役会議室があった。が、設備のある医務室というものはなかった。
宮本 百合子『舗道』(青空文庫

◇ あそこに置いて在るボロボロの籐の安楽椅子に身を横たえて、
夢野 久作『少女地獄』(青空文庫

◇ K君の部屋は美くしい絨氈(じゅうたん)が敷いてあって、白絹(しらぎぬ)の窓掛(まどかけ)が下がっていて、立派な安楽椅子とロッキング・チェアが備えつけてある上に、小さな寝室が別に附属している。
夏目 漱石『永日小品』(青空文庫

◇ 電灯の明るく照っている、ホテルの広間に這入ったとき、己は粗い格子の縞羅紗(しまらしゃ)のジャケツとずぼんとを着た男の、長い脚を交叉させて、安楽椅子に仰向けに寝たように腰を掛けて新聞を読んでいるのを見た。
森 鴎外『沈黙の塔』(青空文庫

◆ ところで、引用した安楽椅子はみな同じものだろうか。そもそも安楽椅子とはなんだろう。辞書を見ると、

◇ ひじ掛けつきで柔らかくゆったりとした休息用のいす。(大辞泉)
◇ ひじ掛けがあり、体をあずけて楽な姿勢で座れる椅子。(大辞林)
体をあずけて楽な姿勢で座れる、休息用のひじ掛け椅子。(明鏡国語辞典)
スプリングのよくきいた、大形のひじかけ椅子。(新明解国語辞典)

◆ 「ひじ掛け」椅子であることは間違いないようだが、なにが「安楽」なのかということについては、それぞれ説明が異なる。「柔らかくゆったりしている」から安楽なのか、「スプリングがよくきいている」から安楽なのか、はたまた「体をあずけて楽な姿勢で座れる」から安楽なのか。さらには、

◇ 安楽いすとは、休息用のひじ掛けの付いた張りぐるみいすの総称である。
『木工工作法』(雇用・能力開発機構職業能力開発総合大学校能力開発研究センター,p.230)

◆ これなどは、ひじ掛け自体が「安楽」の根拠であるように読める。あとふたつ。

〔家具木工用語辞典:安楽椅子とは〕 休息用のひじ掛け椅子。普通の椅子より大きく、スプリングを設け、よりかかりがあるもの。
www.fuchu.or.jp/~kagu/search/regist_ys.cgi?mode=enter&id=33

〔自立訓練法のやり方〕 安楽椅子とは、頭の部分まで支えがある椅子です。
himawari.fem.jp/howtojiritu.htm

◆ これらを読んで、それぞれの安楽椅子の定義から思い浮かべられるイメージは必ずしも一致しないと思う。《Wikipedia》は、

〔Wikipedia:椅子〕 ロッキング機能に加えて、背当て部分が倒れるなどのリクライニング機能が加わった椅子の総称。ときにロッキングチェアと同義で扱われる場合がある。
ja.wikipedia.org/wiki/椅子

◆ と書いているが、これはちょっと特殊な定義ではないだろうか。まあ、ロッキングチェアもまた「安楽」であろうことは、疑いのないところだろうが。

◆ さきほど「安楽椅子」を『言海』という古い辞書で調べてみたが、載っていなかった。その代わりに、となりのページにこんなのを見つけた。たまたま雨も降ってるし。

あめ-ふらし (名) 雨降(一)動物ノ名、薩摩ノ山中ニアリテ、雨中ニ出ズ、形、あわびニ似テ、痩セテ、莞無シ。雨虎(二)又、海産ノ動物ノ名、形、なめくぢニ似テ、大ク、黒褐雑駁ブチ色ナリ、頭ニ二ツノ肉角アリ、コレニ觸ルレバ、背ヨリ紅紫ナル汁ヲ噴キテ身ヲ隠スコト、烏賊ノ墨ヲ噴クガ如シ。
大槻 文彦『言海』(ちくま学芸文庫,p.179)

◆ 「ブチ」は漢字で「雑?」と書いてあるが、ちょっと読めない。「あん」と「あめ」だと、ページがだいぶ違うのではないかと思われる方もおられるかもしれない。仕組みはよくしらないが、この辞書では、「あむ」の後に「あん」が来て「あめ」につながっている。そういう順番。だから、「アメフラシ」を見つけることができた。

◆ で、(二)のアメフラシは、みんなが知ってるアメフラシだが、(一)の「アメフラシ」とはいったいナニモノであるか? 妖怪のタグイだろうか。そのうち調べてみることにしよう。

◆ 「雨降らし」といえば、「雨晴らし」のハナシを以前に書いたのを思い出して読んでみたが、内容はすっかり忘れていて、読み直して、また改めて勉強になった。

◆ ジャーナリストの高野孟がこんなことを書いていた。

◇  思い出すのは、93年のJリーグ発足の1年ほど前、川淵三郎チェアマン(当時)と懇談した際に彼が口にした言葉である。
 「日本には明治以来、スポーツがなかったんですよ」
 「エッ、じゃあ何があったんですか?」
 「体育です。Jリーグのスタートで初めて日本のスポーツが始まります」

「日刊ゲンダイ」2013年2月16日付

◆ 続けて、高野は、「体育の本質は教練であり、つまりは軍事訓練であるから『日の丸のために死ね』ということになる。それで暴力も横行する」と書いていて、たしかに、最近のスポーツにからんだ不祥事の数々は、根底に「スポーツ」と「体育」の違いという問題が横たわっているようにも思える。

◆ こういう文章は「小論文」にうってつけだろう。以下の文章を読んで、「スポーツ」と「体育」の問題を自由に論じなさい。こんなのはどうか。

◇ 川淵三郎チェアマンは三郎というからには、三男なのであろうか。少子化が進む現代の日本から考えれば、少なくとも男の子を3人は産んでいるということだけでも、その母は表彰されてしかるべきであろう。しかし、かつては当たり前のことだった。有名人から実例を挙げれば、北島三郎、中村勘三郎、柴田錬三郎、篠田三郎、古畑任三郎、時任三郎、坊屋三郎、若山富三郎、嵐山光三郎、大江健三郎、城山三郎、坂東玉三郎、阪東妻三郎、伴淳三郎、風の又三郎、家永三郎など。しかし、三郎くらいでは表彰されるどころか、バカにされるくらいだったかもしれない。遠山金四郎に天草四郎、高見山大五郎にあっと驚く為五郎、六七がなくて、たこ八郎に岡八朗、宮藤官九郎に源九郎義経、椿三十郞、姿三四郎、松井八十五郎(近藤勇の義父)、はてはうしろの百太郎まで(参考サイト:《「一郎・二郎・三郎‥さん」あれこれ - Milch's blog》

◆ 姿三四郎を「34」の位置に並べている点が減点対象になるかもしれない。また、実例ではない部分も注意深い採点者の手にかかれば減点対象になるかもしれない。しかし、「スポーツ」の問題も「体育」の問題も「論じて」いないので、そもそも減点すべき点数がないかもしれない。では、こんなのではどうか。

◇ 言語の点から「スポーツ」と「体育」の問題を考えてみることにする。「スポーツ」というのは、英語の「sports」をカナ書きしたものだが、これは「sport」の複数形なので、サッカーが「sports」であるとはいえない。つぎに、「体育」であるが、本来これは「たいいく」と読むべきにもかかわらず、会話では現代日本人のほとんどがこれを「たいく」と発音している。このような現状においては、パソコンの漢字変換で「たいく」と入力すれば「体育」と変換されるようにするなどの実情に合わせた対策も必要であろう、と書こうと思ったが、いま「たいく」と入力したところ、無事「体育」と変換されたので、この文章は削除する。

◆ これはスポーツ「と」体育の問題を、まったく別個にではあるが、扱っているので、採点はしてもらえるかもしれない。ただし、論じていないことにはかわりがない。さらに、こんなのではどうか。

◇ 「チェアマン」というのは、直訳すれば「椅子男」である。いったい、この男はいかなる椅子だったのであろうか。安楽椅子であろうか。また、「(当時)」ということは、現在「椅子男」でないということになるが、だとすれば、この椅子男は、何男へと進化したのだろうか。この点について、進化論の観点から、いずれ考えてみたい。

小林秀雄は大学の試験で、「かかる愚問には答えず」とのみ記してその試験を放棄してしまったことがあるらしいが、これはちょっと喧嘩腰すぎるだろう。その点、この「いずれ考えてみたい」は、角が立たないみごとな表現である。もちろん、その場でなにか書くべきことが思いつけば「いずれ」を削除し、以下に続ければいい。あと、体育館の裏での甘酸っぱい思い出話などでも書いておけば、白紙で提出するよりは高得点が期待できるだろう。

◇ 当然ながらこだまのあとだまは、「あなたの家の前を虎が通りましたかと言って通ったんですかと言って通ったんですかと言って通ったんですか」と言い、すぐさま師は、「あなたの家の前を虎が通りましたかと言って通ったんですかと言って通ったんですかと言って通ったんですかと言って通ったんですか」と、やり返したのである。
別役実『もののけづくし』(ハヤカワ文庫,p.139;イラスト:玉川秀彦)

◆ レイ・ブラッドベリの『二人がここにいる不思議』という短篇集があって(新潮文庫)、ずいぶん以前にタイトルに惹かれて、ブックオフの100円文庫で買ったのだが、読むのを忘れていた。たまたまなにかの拍子に、このタイトルに似た内容の「なにか」を書こうと思いつき、この本のことを思い出した。で、ぱらぱらページをめくってみて、「二人がここにいる不思議」という短編の原題が I SUPPOSE YOU ARE WONDERING WHY WE ARE HERE? であるのを知った。それはいいのだが、案の定、書きたいと思っていた「なにか」がなんだったのかを忘れてしまった。なので、書けない。しようがないので、この原題についてぼんやり考えていたら、冒頭のハナシを思い出したので、引用した。とまあこういう次第。

◆ 中身をまだ読んでいないので、「We」というのがだれだかわからないけれども、だいたい「私たちがここにいるのはどうしてかな、って思ってるんでしょ?」というような意味だろう。もう少し原文の構造に忠実に訳すと、「『私たちはどうしてここにいるの?』とあなたは思っている、と私は思う」。とまあ、とくになんの不思議もないタイトルだが、「『私たちがここにいるのはどうしてかな、って思ってるんでしょ?』って思ってるんでしょ?」とすると、ちょっとは不思議か。英語では、I suppose you suppose I suppose you are wondering why we are here. になるのか。ワタシのアタマではせいぜいこれくらいが限界であるが、冒頭の「こだまのあとだま」と「師」はこれを数百回も繰り返したそうな。

◆ 似たようなことを考えるのは、じゃんけんのときだろう。相手の裏を読んだはいいが、すぐに相手もこちらの裏を読んでいるに違いないと不安になり、さらにその裏を読んだものの、やはり相手もその裏を読むのではないかと疑念はつもるばかりで、さらに裏を読むべきか、それともさきほど裏を読んだのをやめて表に戻るべきか、いや待てよ、いま私がいるのは裏だっけ、それとも表だっけ、さっぱりわからなくなってきたぞ。アタマが真っ白になって、時間切れ。けっきょく出した手はいつもと同じで、やっぱり負ける。とそんなことを繰り返す。まったく成長のないやつだ。

◆ 槇原敬之の「もう恋なんてしないなんて(言わないよ絶対)」という歌詞も、やや似ている。「もう恋なんてしないなんて言わないなんて絶対言わない」とでもすれば、この意味がわかるひとははたしてどれだけいるだろうか(ワタシはすでにわからない)。

  には

◆ しかたなく「戦闘員資格という概念は非国際的武力紛争には存在しないので」という言葉を書き綴っていたら、突然ニワトリが出てきた。眠気覚ましに、ちょっと「には」のハナシを書くことにしよう。

◆ 一週間ほど前、駅からの帰り道、と書くと電車に乗ったと思われるだろうが、そうではない。駅前に用事があっただけであるが、それはともかく、家への帰り道、前方に親子連れが歩いていた。女の子が右へ寄ったり左へ寄ったりふらふらしながら、おかあさんに「にわにわにはにわにわとりがいる。うらにわにはにわにわとりがいる。幼稚園でならったの」とうれしそうに披露していた。なんとも微笑ましい光景である。で、その「には」が今になって出てきたわけである。

◆ にわにはにわにわにわとりがいる。うらにわにはにわにわとりがいる。にははにわとにわにわとりのあいだにいた。にははうらにわとにわにわとりのあいだにいた。さっきまで。でもいまはいない。にははにわとにわにわとりのあいだにはいない。にははうらにわとにわにわとりのあいだにはいない。あれ、やっぱりいる。にははにわとにわにわとりのあいだといないのあいだにいた。にははうらにわとにわにわとりのあいだといないのあいだにいた。さっきまで。でもいまはいない。にははどこへいったんだろう。
〔庭には二羽ニワトリがいる。裏庭には二羽ニワトリがいる。「には」は庭と二羽ニワトリの間にいた。「には」は裏庭と二羽ニワトリの間にいた。さっきまで。でも今はいない。「には」は庭と二羽ニワトリの間にはいない。「には」は裏庭と二羽ニワトリの間にはいない。あれ、やっぱりいる。「には」は「庭と二羽ニワトリの間」と「いない」の間にいた。「には」は「裏庭と二羽ニワトリの間」と「いない」にいた。さっきまで。でも今はいない。「には」はどこへ行ったんだろう。〕

◆ ニワトリは庭にしかいないけれど、「には」は非国際的武力紛争なんてところにも出てくる。「には」ってすごいなあ。

◆ 以下、おまけ。この「にわには」を同音異義語の実例として国語の授業で取り上げた先生の実践報告をネットで見つけた。生徒に絵を描かせてみたらしい。その結果は、「鶏の数は、1,2、4匹と様々であった」そうだ。「,」「、」の混交も気になるが、なんといっても「匹」が気になる。「にわには」は同音異義語のいい実例でもあるが、数助詞のいい実例でもある。「庭には2羽、裏庭には2羽、合わせて何羽?」という質問に「4匹」という回答がはたして国語の授業で正解なのかどうか? あいかわらず、眠い。

「には」のハナシを書いたので、今度は「では」のハナシを書くことにしよう。では、

◇ でわではにわににわにわとりがいる。でわではうらにわにはにわにわとりがいる。
(出羽では、庭に二羽ニワトリがいる。出羽では、裏庭に二羽ニワトリがいる。)

◆ またニワトリになってしまった。これでは、あまり「では」の出る幕がないではないか。がんばってあれこれ「では」を探してみたが、そもそも「では」はあんまり出たがりではないのかもしれない。きっと出不精なんだろう。「では」のハナシはやめて、「上では」のハナシにする。ではでは、

♪ 暦の上ではもう春なのに
  まだまだ寒い日がつづく

  風「暦の上では」(作詞・作曲:伊勢正三)

◆ いや、まったく。寒いどころではない。今日も寒い。おしまい。ああ、終わっちゃったよ。では、さようなら。

◆ 以下、おまけ。「では」ではなくて「の上」のハナシ。《教えて!goo》に変な質問。この質問者、質問する立場なのに、妙にえらそうなのである。

◇ 皆さんは「暦の上では・・・」の正しい意味を説明できますか。
oshiete.goo.ne.jp/qa/2725228.html

◆ もちろん、こんな質問に回答するひとは少ない。正しい意味などさっぱりわからないが、とりあえずワタシが回答みると、こんなところか。まず暦というのは今のコトバでいえばカレンダーです。年末にあちこちでタダで配ってる、あのカレンダーです。好きなのを買うひともいるようですが、ワタシは買いません。買いませんが、せっかくなら、1枚で1年分のものよりは、1ヶ月ごとで12枚のものがいいです。日めくりだとなおいいかというと、そういうわけでもありません。ずぼらなので、かえって使いにくくなるからです。そのカレンダーの上に、いろいろ書いてあるんですね。2月4日は「立春」とか。5月20日は「Saturnian の誕生日」とか(書いてなかったら、書き足しといてください)。「暦の上では」というのは、そういう意味です。「紙のカレンダーの上では」という意味です。まあ、紙じゃなくてもいいかもしれませんが。木とか金属とかプラスチックとか。でも、そういったおしゃれなカレンダーには、「立春」とか「Saturnian の誕生日」とかはあんまり書いてないと思うので、できれば紙のがいいです。それに、紙なら、「暦の中では」とか「暦の下では」とかになったりする可能性があまりないので、便利です。

◆ 「~の上では」の「~」のところに当てはまるものは、いろいろある。「畳の上では」とか「ベッドの上では」とか「屋根の上では」とか「船の上では」とか「山の上では」とか「舞台の上では」とか「土俵の上」では。「雪の上では」なんてのもある。「机の上では」、ついで「計算の上では」というあたりから微妙になって、「歴史の上では」とか「理屈の上では」とか「経済の上では」とか、こうなってくると、そろそろ限界である。ワタシには、歴史の「上」とか理屈の「上」とかをイメージすることができない。さっぱりできない。

◆ で、「暦の上では」というのは、上の例でいうと(デタラメだが)、「机の上では」と「計算の上では」のあいだくらいに位置するんじゃないか。「暦の上では」というコトバを聞いたときに、リアルに具体的なカレンダーを思い浮かべるひとが、減りつつはあるだろうけど、まだまだいるんじゃないか。と、そんなことを考えました。では、さようなら。

「暦の上では」の正しい理解の仕方の実例をひとつ(しかし、よくもまあこんなに都合よく見つかるものである)。

◇  「もう春ですよ、ひろみちゃん」と祖母に言われ、驚いた。
 昭和半ばの東京、二月初旬。一昨日は雪が降った。出したばかりの十一月ごろには重いと思っていた布団のその重さが嬉しく、いつまでも朝は布団から出られなかった。つまさきを、もう暖かくないゆたんぽを包むネルの布に、ぐずぐずとくっつけていた。
 ようやく布団から出て、長袖のシャツを着て、ブラウスを着て、セーターを着ても、ちっとも暖かくならない。木造の家は隙間だらけで、このごろの機密性のある家のように、窓に結露を見ることもない。外と中の温度がさほど変わらないので、結露しないのである。吐く息が白い。顔を洗いながら、外国のお姫さまはきっと毎日お湯で洗顔してるんだろうなあ、などと考える。
 私は、日本の小学生で、タイツの膝にはつぎが当たっていて(ひどく貧しいから、というのではない、あのころはストッキングだっていちいち伝線をかがっていたものだった)、指先にはしもやけがあって宝物は箱根みやげの千代紙貼りの入れ子の箱とタミー人形(着せ替え用の服は高価なので、母が見よう見まねで二着ほど縫ってくれた)、というごく普通の子供たった。
 「今日から春ですよ」もう一度、祖母が言った。
 「でもまだ冬なのに」私は口をとがらして答えた。霜柱はつんつん立っていたし、その朝も水道管が凍った。あおあおとしているのはつわぶきの葉とアオキばかりで、楓も樺も桜も柿もすっかり葉を落としてしんとしていた。寒暖計の赤は下の方にわだかまり、ぜんぜん上かってこない。
 「でも、暦の上では、ほら。立春ですよ」
 「りっしゅん」
 「春が立つ、春になるっていうことですよ」
 祖母の部屋には日めくりの暦が下げてあった。暦には、二月四日、木曜、友引(お葬式をしてはいけない日だと、少し前に教わった。引かれますからね。祖母は説明した。それ以上は聞いても答えてくれない。ひかれるって、鼠にひかれるみたいなもんなんだろうか。巨大な鼠が出てきてひくんだろうか、こわいこわい、と私は身震いしたものだった)、立春、の字が並んでいた。
 「春って、立つの
 「立ちますよ」そう言って、祖母は真面目に頷いた。以来私は、春は立つものだと思うようになったのである。
 立つ春とは、どんなものなのだろう。学校へのみちみち、考えた。
〔中略〕
 勝手に解かれてしまった「春が立つ」謎は、今にいたるまで、じつは私の中に居つづけている。現在も、立春という言葉を聞くと、反射的に、水平線からゆっくりと立ち上がってくる霧のような絵を思い浮かべるのである。

川上 弘美『あるようなないような』(中公文庫,pp.139-141)

◆ 線を引きながら、文章を読むのは楽しい。あるいは、線をたくさん引けるような文章を読むのは楽しい。鼠にひかれる(小学生なのに、こんなコトバをよく知っていたものだ。ワタシなど、ちょっと前に知ったばかり)。宝物の箱根みやげの千代紙貼りの入れ子の箱とタミー人形。はて、タミー人形とはなんだろう。それから、そのタミー人形の着せ替え用の服。「母が見よう見まねで二着ほど縫ってくれた」と書くだけで、昭和の母のイメージがとてもリアルに感じられる。やさしいお母さん。夜なべをして手袋も編んだかもしれない(これは、もう少し古そうだ)。ゆたんぽ。しもやけ。霜柱。今年はほんとうに寒い。外と中の温度がさほど変わらない、隙間だらけの木造アパートは寒い。昭和のなつかしい冬の感じをひさしぶりに味わっている。さすがに水道管が凍りはしないが。

◆ 霜柱も立つが、春も立つ。どのように立つのかについては、〔中略〕のところに書いてある。冬も、夏も、秋も、みんなそれぞれの仕方で立つだろう。それから、茶柱も立つ。今度は茶柱のハナシでも書くことにしよう。いや、その前に「ほら」のハナシも書いてみたい。いろいろと忙しい。