◆ たまたま話は好きだが、またまた話となると、ちょっとため息。
◇ 二ヵ月ほど前に、新聞のエッセイに明石のことを書いた。記憶に深く残っている土地のことを書いてください、と頼まれたのである。明石に住んだ期間は一年にも満たなかったが、好きな土地だった。そのことを書いたのである。
文章が新聞に掲載される二日前に、明石の友人から手紙がきた。近況報告の手紙である。その次の日には、やはり明石の、違う友人から電話がきた。元気かなと思って、と彼女は言った。何年も電話をしあったことはなかったのだが。虫の知らせじみているなあとは思ったが、さほど気にしなかった。
ところがその半月ほど後に、実際に明石に行くことになった。明石に住む人を訪ねて、話を聞く必要ができた。その人は、前月までは東京に住んでいた。転勤で明石に引っ越したのである。前月ならば、明石に行くはずはなかった。わずか一ヵ月の違いで明石に行くことになってしまった。
こうなると、虫の知らせなどという言葉では片づけられないかもしれない。何年も明石のことを思いうかべたことはなかったのに。不思議だ。まことに不思議だ。ただ、こういうことは、たまにある。私か特にこういう奇妙な偶然にめぐまれているというわけでもなく、誰にでもあることだろう。ふだんならば長い時間の軸の上にちりぢりばらばらに置かれていることごとが、たまたま集まってくる。いくらか長く生きていると、そういうことがときどき起こるように思う。
川上弘美『ゆっくりとさよならをとなえる』(新潮文庫,pp.123-124)
◆ と長々と引用をして、さあ、これから、いろいろなことをだらだらと書こうと思っていたのだが、そうもいかなくなった。アタマのなかで井上陽水がこう叫ぶ。
♪ 計画は全部中止だ 楽しみはみんな忘れろ
嘘じゃないぞ 夕立だぞ
家に居て黙っているんだ 夏が終るまで
井上陽水「夕立」(作詞・作曲:井上陽水)
◆ これは夏の歌だった。まったく季節外れで申し訳ない。で、そうもいかなくなった理由でも書くことにする。たいした理由ではない。2年ほど前に、同じ本の同じ箇所を引用して「たまたま話」というハナシを書いたことをすっかり忘れていたのである。書こうとしていた内容はすこし違うけれども、たかだか2年前に書いたことを憶えていないとは。ちょっとため息。
◆ さて、タイトルを「またまた話」か「ちょっとため息」のどちらにするべきか?