MEMORANDUM
2013年01月


◇ ウミネコが鳴いた。もちろんニャーではない。ワンと鳴いたのだ。

◆ さきほどトイレにこもっていたときに、なぜだか思いついた文章。ウミネコという名の犬がどこかにいないともかぎるまい。半年ばかしココをほったらかしにしているまに、年も明けた。さしたるあてもなにもなく、なんとなくまたなにかを書き始めるにあたっては、これくらいのだらけた文章がちょうどいいのではないかと思った次第。今年もよろしくお願いします、とだれにあてるわけでもなくヒトリゴト。

◆ 「日刊ゲンダイ」(おやじしか読まない夕刊タブロイド紙)に、韓国五輪代表フィジカルコーチという肩書きを持つ人がしばらくエッセーを書いている。そのなかに、

◇ 「選手から《セイゴーさん》と呼ばれていたのですが、いつからか《アイゴーさん》に変わりました。アイゴーの意味が分からなかったので通訳に聞いてみたら、『嘆くときに感嘆詞として使う』と教えてくれました。相当に練習がキツかったようですね。意味が分かった瞬間、つい笑ってしまいました」
池田誠剛「日韓サッカーの狭間に揺れて 5」(「日刊ゲンダイ」2013年1月12日付)

◆ 「日刊ゲンダイ」と言えば、五木寛之が1975年の創刊時から「流されゆく日々」というコラムを書き続けていて、もう9000回を越えている。以下の文章は「日刊ゲンダイ」とは関係がないが、「アイゴー」とは関係がある。

◇  平壌の競馬場は、それほど大きなものではなかった。それだけに、観客の数も少なく、空気はきれいで平和ないい遊び場だった。向う正面のアカシアの花の下を、原色の騎手の帽子がチラチラ見え隠れに走る風情は、抒情的な風景でさえあった。
 なにぶん子供の頃のこととて、具体的な数字も何も記憶に残ってはいない。ただ、ゴール寸前で、それまで悠々とトップを走っていた馬が不意に崩れるように転んだ時、そばの朝鮮人の老人が、「哀号!」という絶えいるような叫びをあげた、その声だけを良く憶えている。
 この「哀号」という叫びを、その後、私は何度きいただろうか。
 一度は、関釜連絡船(下関-釜山間)の長いブリッジの上で、私服の官憲に連れの男を引き立てられて行く白衣の美しい娘の号泣として聞いた。
 また、ある時は、一尺ちかい魚を、手もと寸前ですくいそこねた少年の叫び声としても聞いた。話はそれるが、ポーカーや、麻雀や、花札などのゲームで。千慮の一失というべき失策をやらかした時など、思わず「哀号(アイゴー)!」と呟いて相手に変な顔をされることがある。そんな場合に、実にぴったりな感じなのだ。

五木寛之『風に吹かれて』(1968; 新潮文庫, p.145)

◆ この「アイゴー」という感嘆詞を枕に、もう少しハナシをふくらませてみようと思って、《Wikipedia》を見てみたら、

〔Wikipedia:アイゴー〕 アイゴー (아이고) は朝鮮語の感嘆詞。元々は朝鮮語固有の語であるため、本来漢字表記は存在しない。古い書籍などでは漢字で「哀号」と書かれているものもあるが、日本で作られた当て字である。哀号を朝鮮語読みにすると애호(エホ)になる。
ja.wikipedia.org/wiki/アイゴー

◆ なんだ、「哀号」というのは当て字だったのか。これでふくらむはずのハナシがなくなってしまった。アイゴー!

◇ 「兄弟のことは難しいですな。結局私はなんのお役にも立てませんでしたよ」
なかにし礼『兄弟』(文春文庫,p.341)

◆ という文章を読んで、毎回「結局私はなんのお役にも立てませんでしたよ」という主人公のセリフで終わるシリーズ物のテレビドラマはどうだろう、と思った。主人公はやはり熱血漢の弁護士だろうか。いや、ニヒルなほうがいいか。あるいは、マヌケな探偵のがいいか。とにかく、依頼者にくるりと背を向け去ってゆく。そこでエンディングテーマが流れだす。きっと名セリフになるんじゃないかな。などと、テレビもないのにつまらぬことを。

◆ ちなみに、引用したなかにし礼の自伝的小説は、そこで終わらない。まだまだ続く。が、ワタシは続きを読まない。空想を続けたほうがおもしろそうだから。

◆ 咳をしても一人。べつに風邪をひいているわけではない。ふと尾崎放哉の有名な自由律俳句を思い出しただけのこと。なぜ思い出したのかというと、面倒だからはしょって書くが、相撲のことを考えていたら、放哉が出てきたというわけ。相撲といっても国技館でやってるような相撲ではなく、一人相撲。一人相撲のことを考えていたら、放哉が出てきて、「相撲をしても一人」と言った。それを受けてワタシが「恋をしても一人」と言うと、ニヤリと笑って放哉が消えた。

◆ 咳はひとりでもできるが、いや、むしろひとりでするものだが、ひとりで相撲を取ることはできない。一人相撲はそもそも相撲ではない。「双子の一人」はありうるが、「一人の双子」はそもそも双子ではない。

◇ ひとりずもう【一人相撲/独り相撲】
(1)二人で相撲をとっているような所作を一人でしてみせること。また、その芸。神事・大道芸として行われた。
(2)相手がないのに自分だけで気負い込むこと。また、実りのない物事に必死で取り組むこと。「むなしい―をとる」

小学館「大辞泉」

◆ 1の意味は、いまどきのコトバで言えば「エア相撲」か。見えないだけで、相手はいるのだ。

◆ 同様に、ひとりで喧嘩をすることはできないし、ひとりで恋をすることはできない。どちらも相手が必要である。いや、片思いという意味でなら可能だが、相手のいない恋はできない。

◆ ひとりで手紙を書くことはできるが、ひとりで文通することはできない。ひとりでオナニーはできるが、ひとりでセックスはできない。ふたりでするオナニーはセックスではなく、二人オナニーである。

◆ 世の中にはいろんなことがあるが、「ひとりでしかできないこと」と「ふたりでしかできないこと」のどちらかしかない。3以上はないと思う。

◆ 死ぬのはひとりだ。「心中」はひとりではできないが、コトバに惑わされてはいけない。ふたりでひとつの死を死ぬことはできない。そこにはふたつの死が残されるだけだ。

◆ 最近、喫茶店などで、カップルが会話もせずにそれぞれスマートフォンをいじったりゲームをしたりしているのをよく見かける。これを一言で表す便利なコトバをワタシはまだ知らない。

◆ ストーカーというコトバもふと思い出したので、よくはわからないが、きっとこのあたりのハナシに関連があるのだろう。

◆ 夜も更けてきた。

◆ 放哉の代打で、大谷くんが出てきて、「野球をしても一人」と言った。

◆ 大谷くんというのは、日本ハムに入団した新人選手で、ピッチャーとバッターの両立を目指したいという珍しいやつだ。毎試合先発して四番を打つというのはさすがに無理だろうが、先発しない日はDHで打つくらいのことは可能な気もするがどうなんだろう。もちろん、そう甘いもんじゃないだろうけど、少なくとも、サッカーのゴールキーパーが得点王を目指すよりは簡単だろう。

◆ 「野球をしても一人」にハナシを戻すと、野球というのは9人対9人でやるスポーツということになっているが、極限までつきつめれば、ピッチャーとバッターが1対1で勝負をするスポーツということになるだろう。で、大谷くんのピッチャーとバッターの両立ということを考えたときに、実際のところ、ピッチャーの大谷くんとバッターの大谷くんとではどちらがスゴイのだろうかという疑問がわいて、これは実際に対戦すれば、すぐに結論が出ることだ。大谷くんが投げた球を大谷くんがホームランすれば、バッターの大谷くんのほうがスゴイわけだし、空振りすればピッチャーの大谷くんのほうがスゴイということになる。ピッチャーの大谷くんが投げるとすぐにバッターボックスまで走っていってすかさずその球を打つというのも不可能ではないだろうが、これはバッターの大谷くんのほうが、時速160キロで走らねばならず息が切れて非常に不利だ。超山なりのボールを投げればそれほど急がずとも十分間に合うだろうが、これでは真剣勝負にならない。より現実的なのは、ありとあらゆるデータを入力した超高性能ピッチングマシーンの大谷くんが投げて生身の大谷くんが打つことだろう。これは、生身の大谷くんが投げて超高性能バッティングマシーンの大谷くんが打つよりずいぶん簡単だろうと思う。オスプレイを買うくらいの開発費をかければある程度のものができるのではないか(よく知らないけど)。ぜひ見てみたいものである。そして、大谷くんのコメントを聞いてみたいものである。超高性能ピッチングマシーンの大谷くん相手に三振を喫したら、大谷くんはバッターをあきらめるだろうか? ホームランを打ったら、ピッチャーをあきらめるだろうか? ともあれ、成功を祈る。

◆ プロ野球で、ピッチャーとバッターの両方で成功した選手がこれまでいなかったわけではない。解説でおなじみの関根潤三がそうだった(そうだ)。たまたま週刊文春の書評で山崎努が関根潤三の著書(『いいかげんがちょうどいい』)を取り上げていたので、そのことを知った。

◇  ぼくはいわゆるプロじゃなかったんだな。野球は楽しみでやるもので、どこでもできりゃいいと思ってた。
 三〇歳のとき、打者転向を決めた。わけ? 投手に飽きたから。今日でピッチャーやめて明日からバッターでいきますって。生意気だよねぇ。あんなことよく言えたもんだ。許した監督もすごいね。だいたいバッターっていうのは一試合に一本くらい打ってりゃ三割前後いくわけですよ。それくらいに考えてれば気楽でしょうに。そんなに悩みなさんなって。みんな悩むのが好きなのかねぇ。
 自慢じゃないけど、ぼくは練習が好きだった。あれこれ試せるから。試合はおもしろかねぇや。負けちゃいけねえって、目標やゴールをきめられてるみたいで、性に合わない。

「週刊文春」2013年1月17日号

◆ この文章は、どこからどこまでが直接の引用なのかがよくわからない書き方になっているが、気分のいい文章だ。とくに「練習が好き」だったというのがいい。読み間違えることはないと思うが、ふつうの「練習好き」というとはわけが違う。スポーツが原因で人が死んだりする世の中はどこか間違っている。努力などほどほどにしたほうがいい。《Wikipedia》によると、

〔Wikipedia〕 投手・野手両方で実績を残した数少ない選手である。史上唯一、投手・野手の両方でオールスターゲームに出場した(投手としてファン投票で1回。外野手としてファン投票で1回、監督推薦で3回出場)。また、2リーグ制以後では唯一の防御率ベストテン入り、打率ベストテン入りの双方を達成。さらに、通算50勝、1000本安打の双方の達成は2リーグ制以後唯一であり、1リーグ時代を含めても他に中日ドラゴンズなどで活躍した西沢道夫しか達成していない記録である。
ja.wikipedia.org/wiki/関根潤三

◆ 書評の続き。

◇ 解説の最初のあいさつで、ぼく「よろしくどうぞ」つていうんだってね。変だよねえ、「どうぞよろしく」なんでしょ。でも、もうこのまま通すだけ。そうやって無意識に出る言葉やしゃべり方がぼくのスタイルなんでしょう。

◆ 「よろしくどうぞ」と言うひとは、関根にかぎらず、ことのほか多いと思う。

◆ エッセイストの酒井順子が、「エアセックス選手権」(正式名は「エアデート選手権」)なるものの動画を見て、エアセックス(及びエア自体)の考察をしている。

◇  見終わった後、私が最も強く感じたのは、「セックス」という行為がいかに滑稽であるか、ということなのでした。エアディープキスをしている人の、舌の動きとか。エア前戯をしている人の、指の振動の速さとか。そしてエア挿入をしている人の、腰の振りとか。真面目にやればやるほど、それらは見ている側にしみじみとした恥ずかしさを覚えさせる。コント系のエアセックスに行く人は、おそらくリアリティーを追求した時の恥ずかしさに、耐えられない人なのではないかと思われます。
 その手の行為は、リアルセックスの現場においては、誰もが行っていることです。ただ、そこにセックスの当事者ではない他人の視線が介在した途端、それらは真剣な行為から滑稽な行為に転ずる。「見るとやるとでは大違い」ではなく、「やると見るとでは大違い」なのが、セックスなのでしょう。
 何事においても、素振りという行為は、どことなく滑稽なものです。私は中学時代に卓球部に所属しておりましたが、一年生の時にイヤというほどやらされた素振りは、常に「何やってんだかなー、私」という感想を伴うものでした。おじさんがついやってしまうゴルフの素振りにしても、グリップを確認する視緑が真剣であればあるほど周囲の矢笑を買うし、相撲を一人でやろうものなら、まさに一人相撲になってしまうのです。
 スポーツですらそうなのですから、ましてセックスをや。二人でやるべきものを一人でする時の哀しみがエアセックスからは伝わってきますが、だからこそ、「セックスは二人でやってナンボ」というセックスの基本を、理解することができる。

酒井順子『ほのエロ日記』(角川文庫,pp.166-167)

◆ 素振りを出してくるあたりがおもしろい。たしかに、卓球の素振りというものには、「何やってんだかなー」感が漂う。まあ、ゴルフもそうだろう。しかし野球はどうだろうか? あれはあれで完結したもののような感じもする。なにが違うのだろう。

◆ とそう書いて、よく考えると、素振りといっても、実際のスポーツ用具(ラケット、クラブ、バット)を使用して行うものと、代用品(傘、ほうき)を使用して行うもの、あるいは、なにも用いないで文字通りエアで行うものの3種類に分類しておく必要があるかもしれない。そのうえで、卓球の場合は、ラケットを使用して行なっても素振りというものには「何やってんだかなー」感が漂うのはなぜか? ゴルフの場合は、微妙か。傘でやれば、「何やってんだかなー」感がかなり漂うだろうが、実際のクラブを持てばそうでもないような気もする。野球もそうだろう。おそらく、振り切るかどうかという動作の違いあたりが関係しているのではないかと思うが、どうだろうか。

  未嘗

◇ 元来僕は何ごとにも執着の乏しい性質である。就中蒐集と云ふことには小学校に通かよつてゐた頃、昆虫の標本を集めた以外に未嘗熱中したことはない。従つてマツチの商標は勿論もちろん、油壺でも、看板でも、乃至古今の名家の書画でも必死に集めてゐる諸君子には敬意に近いものを感じてゐる。時には多少の嫌悪を交へた驚嘆に近いものを感じてゐる。
芥川龍之介「蒐書」(青空文庫

◆ 「就中」「未嘗」「乃至」はそれぞれ、「なかんずく」「いまだかつて」「ないし」と読むというようなコトは漢文の授業で習ったはずだが、いまではひらがなで書くので、読めなくても仕方がない。「未」には否定の意味が込められているので、「いまだ~ない」と否定文中で使う。例文を見てみよう。

◇  これと反対に、私は未だかつて男でも女でも、紀子さまを好きだという人に会ったことがない。あの喋り方に、どうしても異和感を持つというのだ。そして女性たちは最後に、
「好きで皇室に入った方なんですもの、何でもうまく立ちまわるわよね」
 と意地の悪いひと言をつけ加える。あれだけ両陛下に仕え、男児も出産され、嫁として非のうちどころのない紀子さまに、案外世評は冷たいのはどういうことか。
 皇室に適応することが出来ず、病を得た女性の人間的苦悩に、共感と好意を抱くが、うまく適応出来た女性に、人々はそっけない。これは興味深い現象だ。

「週刊文春」2013年1月3日10日新年特大号

◆ ワタシは、これと反対に、未だかつて男でも女でも、紀子さまを嫌いだという人に会ったことがない。そもそも皇室のついての世間話をしたことがない。いったい「世評」というのはどこで作られるものであろうか。

◆ 油壺のハナシでも書いたほうがおもしろかったかと思う。あ、上の引用の著者を書き忘れた。

◇ 私は未だかつて、林真理子を好きだという人に会ったことがない

◇ 「やればできる子」という表現がある。言うまでもなく、これはできない子を慰めるための気休めである。
www.suzaku-s.net/2007/09/yareba-dekiruko.html

◆ そうだったのか、とこの歳になってから気がつくのは、さすがに世間知らずというものだろうか? ふだんは努力をしない子どもが、たまたま努力をしてやってみたら、ちゃんとできた。それに対して母親が、「やればできるじゃない!」という意味で、それの子ども向けの優しい言い方として、「〇〇ちゃんは、やればできる子ね」という風に使う。そういうものかと思っていたが、そうではないらしい。

◆ 《発言小町》に「やればできる子は痛い子?(駄)」というトピがあったので、こわごわレスを読んてみた。

* 親が、できない我が子をかばう言葉です。
* 親バカで子供が学校なり指導者から切り捨てられそうなとき、言い訳として使う、と思いますが。
*「やらないからできない子」を悪く言わない様にオブラートに包んだ言葉だと思ってます。
* それはつまり「やることができない子」です。以前TVで塾の先生ができない子供の親に対する常套句だと言っていました。
*「出来ない子」のことです。
*「やればできる子」って、結局「今はできてない子」ですよね?

◆ と、冒頭の引用と同じ意見が多く並ぶ。それにまじって、こんなのも。

◇ 私はそんな言葉を聞いたことが無かったのですが、ある男性と付き合ったときに、男性が自分自身をそう言ってました。「やれば出来る子だったんだけど」 その人は、高卒、転職多しで普通なら出会わなかったんですが、友達の勧めでつきあって失敗でした。その言葉は、自分の慰めに使う言葉だと思ってます。

◆ ああ、こわ。それはともかく、ワタシは「やればできるじゃない!」と「やればできる子」はほぼ同義だと思っていたが、どうやら、「やればできる子」という名詞的表現を用いると、「やればできるじゃない!」という動詞的表現がもつ柔軟性が失われて、イメージが固定化されるもののようである。その結果、「やればできる子」は、「後進国」を「発展途上国」と言い換えるような、なにやらPC語(politically correct words)めいた、表と裏の意味が存在するコトバになってしまったのではないかと思う。

◆ と、やればできるオヤジのワタシは、いまやらなければならないことをいつものように先延ばしにしつつ、考えたのだった。

  高梁

◆ いましがた、トイレで読んだ文庫本の一節。

◇ 高梁には数年前の正月にきたことがある。小さいけど本物の城が山の上に建っていて、そこへの石段を登ってゆくと雪まじりの風が渦を巻き、みるみるあたりを白くした。あの時は寒かった。町は武家屋敷や商家がほどよく残って可愛らしいが、山にかかって建ちならんだいくつかの寺院の石垣は壮大だ。寒かったが古い町の正月はしっとりした味があった。
吉田 桂二『なつかしい町並みの旅』(新潮文庫,p.154)

◆ ああ、そういえば、ワタシも小学校の高学年のころに一度だけ訪れたことがある。たかはし。当時は、城めぐりにはまっていたのだった。とはいえ、高梁の城(備中松山城)は、子どもには少々地味過ぎたようように思う。夏の盛りに汗をかきつつ山を登った覚えはあるが、山上の城自体の記憶があまりない。疲れきって城見物どころではなかったのだろう。調べると、バス停から徒歩約20分とあるので、いま考えるとたいした山登りでもなさそうだが、あるいは駅から歩いたのかもしれない。

◆ で、この続きをどう書いていいのやらよくわからないのだが、とりあえず忘れないうちに書いておくと、高梁という町は岡山県にあって、京都の子どもがひとりで行くようなところではない。いうまでもなく、親と行ったのだ。父親といっしょだった。そのあたりまえのことに思いが至ったのは、四十年たったいまがおそらくはじめてだ。そのときの旅の記憶に父の姿はほとんど出てこない。もしかすると、別行動をしていたのだろうか? なんとも薄情だが、なにも思い出せない。子どものためとはいえ、自分に関心のない城めぐりなどにどのような思いで同行していたのだろう? すこしは楽しかっただろうか? 親になった経験がないので、そのあたりの心情は察することもおぼつかないが、こんなこと書いているついでに、せっかくだから、四十年分の感謝を述べておきたい。お父さん、いろんなことをこれまでどうもありがとう。父は高齢ながら、幸いなことに、まだまだ元気だ。高梁のことなども機会があればそのうち聞いてみたい。写真もどこかにあるだろう。そもそもあの日は、ほんとうに暑かったのだろうか?