MEMORANDUM
2009年12月


◆ 先日、「つくばエクスプレス」にはじめて乗った。つくばエクスプレスの秋葉原駅は地下駅で、ホームには、こんな注意書き。

風船をお持ちのお客様は、絶対に離さないようご注意下さい。

◆ 「離さない」は「放さない」のほうがよくはないか、と思ったりもしたが、それはさておき、この文章には、風船を手放してはいけない理由が書かれていない。それだから、ワタシは、浅田美代子の「赤い風船」のことを思い出して、いろいろと考えてしまう。前の記事では1番の歌詞を引用したので、今度は2番。

♪ この娘はどこの娘 もう陽が暮れる
  隣の屋根に飛んだ 赤い風船よ
  なぜだかこの手に涙がひかる
  しょんぼりよその家に灯りともる頃

  浅田美代子 「赤い風船」(作詞:安井かずみ,1973)

◆ なぜ風船を手放してはいけないのか? 手にした風船には、空気のように薄くて軽いけれども、小さくてささやかだけれども、とっても大切な夢がつまっているから。夢がつまった風船を手放すと、「しょんぼり」しちゃうから。

◆ とは、まっとうな四十男が考えるようなことではないけれども、そんなことを歌詞を読みつつ考えているうちに、気がついた。ふたたび1番の歌詞に戻って、

♪ あの娘はどこの娘 こんな夕暮れ
  しっかり握りしめた 赤い風船よ
  なぜだかこの手をするりとぬけた
  小さな夢がしぼむ どこか遠い空

◆ 1番で「あの娘」と歌われる女の子が、2番では「この娘」になっている。「あの娘」と「この娘」は同じ女の子なのかどうか? (つづく、と思う)

◆ もう12月で、12月といえば、宝くじを買うのを年中行事にしているひとも多いだろうが、あたりそうもないので、買わない。その代わりといってはなんだが、「PhotoDiary」のトップページの下のほうにあるランダム画像を5枚から10枚に増やしたら(というようなことは、おそらくだれも気がついていないと思うけれども、ワタシ的には)、ちょっと楽しみが増えた。5枚を10枚にしたのだから、あたりまえのことながら、「あたり」の確率が増えたのがうれしい。さっき見たら、ポーカーでいうところのツーペアだった。「托鉢僧」が2枚に「仁王」が2枚。これでは、なんだか、ポーカーというよりもタロット占いみたいな気もするが、今日は、なにかいいことがあるかな?


◆ さきほど仕事から帰ってきましたが、とくにいいこともなしわるいこともなし。なんということもない1日だったようで、残念(というほどのことでもなし)。

◆ 気仙沼の「廣野新聞店」のハナシを書きながら、そういえば、と思い出した。ワタシも中高6年間、朝刊だけだが、新聞配達をしていたのだった。京都新聞の販売店で、ほかに、デイリースポーツと滋賀日日新聞なんてのも配達してたな。あと、紙名は忘れたが、専門業界の新聞。なんとか工業新聞だったか、なんとか繊維新聞だったか、そんなの。

◆ よく考えると、それ以降も、モノを運ぶ仕事ばっかりしてる。好きなんだろうか? よくわからない。

◆ 吉田修一の小説『東京湾景』の主人公、和田亮介は品川埠頭の倉庫でフォークリフトを動かしている。

◇ 亮介と同じ息子がいるらしい高階さんは、仕分表を持って事務所から倉庫へ降りてくるたびに、「和田くんは、ほんと、いっつも楽しそうに仕事してるわねぇ」と声をかけてくる。亮介自身、特に楽しんでいるつもりはないのだが、高階さんの目には、世界各地から海を渡って届けられるこれら貨物を、まるで自分へのプレゼントのように亮介が扱っているように見えるらしい。
吉田修一 『東京湾景』(新潮文庫,p.61)

◆ まるで自分へのプレゼントのように。あるいは、まるで自分からのプレゼントのように。そんな気分になるときもあるが、いつもではない。

◆ 自分の経験したことでなくても、小説を読みながら、映画を観ながら、音楽を聴きながら、リアルに感じる、ということがある。最近では、ある殺人事件をあつかったノンフィクションの一節が、たまらなくリアルだ、と思った。娘を殺された母親が娘の遺体解剖が終わるのを待合室で待っている。

◇  翌日は、東大で遺体解剖だった。
 O・Mさんの遺体が日本医科大学付属病院から着いたのは昼ごろだったが、終わったときには五、六時間ほど過ぎていたという。その日は兄も一緒だった。待合室に入ると、もうひと組の夫婦がいた。互いに目礼をしただけで、どちらも押し黙ったまま終わるのを待っていた。途中、学生らしい若い男が「遅くなります」と教えに来た。それを聞いた母親は、とっさに「そんなに遅くなるんなら、M子に連絡しないと」と思ったという。

佐藤幹夫 『自閉症裁判』(朝日文庫,p.75)

◆ 雨が降っている。雨の日には元気が出る歌が聴きたい。

♪ 窓辺にもたれ
  夢の一つ一つを
  消してゆくのは つらいけど
  若すぎて何だか解らなかったことが
  リアルに感じてしまうこの頃さ

  佐野元春 「SOMEDAY」(作詞:佐野元春,1982)

◆ ふたつの引用をリアルということばでむりやりにつなげてはみたが、しっくりとこない。ひとつめの言葉がどうにも重過ぎる。選曲を誤ったようだ。でも、そろそろ仕事に行かなきゃ。外はリアルに雨が降っているだろう。

♪ 空がとってもひくい
  天使が降りて来そうなほど

  荒井由実 「ベルベット・イースター」(作詞:荒井由実)

◆ ずいぶん前から、天使の階段を探している。いままさに地上に降り立とうとする天使を力ずくで拉致して天国の秘密を聞き出そう、というわけではない。あるいは、自ら天使に成り代わり蜘蛛の糸よろしく天空へと昇って行こう、というわけでもない。2年近くも前に、おともだちの霧さんからのお便り(BBS)に添えてあった写真(上の左)を見て、「ああ、天使の階段だなあ」と思い、その返事に、自分の撮った「天使の階段」の写真を同じように添えようと思ったまではいいのだけれど、空の写真を探すというのはことのほか難しくて、なかなか見つからなかった。あたりまえだが、空には住所がない。雲は移ろい、日は暮れる。それでも、なんとか1枚探し出したが、あんまりデキがいい写真ではない(上の右)。「天使の階段」を、検索サイトで画像検索をしたほうがましなぐらいで。たとえば、《天使の階段 - Google 画像検索》

◆ 天使の階段(Angel's stairs, Angel's stairway)は、気象用語では「薄明光線」で、天使の梯子(はしご)(Angel's Ladder)ともいう。ワタシはどちらかというと後者の語感のほうが好きなのだが、梯子という漢字が難しく、「はしご」とかなで書くのもなんだか間が抜けている。とりあえず、「天使の階段」が無難な表現かなと思ったので、そうした。梯子ということなら、こんな写真もあるが。これでは、天使も降りてくるのに少々難儀するのではないだろうか。いや、羽根があるから大丈夫か(羽根があるなら、そもそも梯子などはいらないか)。あと、中島みゆきにも「天使の階段」という歌があるらしいが、聞いたことはない。

◆ 図書館で、『東京人』という月刊誌の9月号をパラパラめくっていると、フランス文学者で芥川賞作家の堀江敏幸が書いた「世田谷線の踏切をめぐる冒険。」というページが目にとまったので、読んでみた。「全長五キロの東急世田谷線の、下高井戸駅から三軒茶屋駅までにあるすべての踏切を渡る」という企画であるらしい。

◇ 十三時二十五分、その「松原四号」を渡って、上り線路沿いに歩き始める。未来通りと名付けられた将来性の高い通りのコンクリートの柵には、なぜか梅酒の瓶を利用した簡易吸い殻入れがくくりつけられ、濃いコールタールの色をガラス越しに光らせている。線路際には美しいピンクの芙蓉が咲き乱れ、蜜を求めてモンシロチョウが舞い、茎には二星てんとうやカタツムリが張り付いて人口のなかの自然をみごとに演出してくれていたのだが、柵にはまた《眼アポで出会い、裏技でキメる》といういかがわしい張り紙もあって、その惹句にやられたのだろう、鮮やかな緑をまとったカマキリが、切ない出会いを求めてうろついていた。
堀江敏幸「世田谷線の踏切をめぐる冒険。」(『東京人』2009年9月号,p.51)

◆ ワタシもここを歩いたことがある。下高井戸駅そばのこの踏切が「松原四号」で(左)、線路沿いの道には「未来通り」とあり(中)、してみると、このしおれた花は芙蓉だったのだろう(右)。もしかしたら、ちがうかもしれない。作者は松原四号踏切から「上り線路沿い」に歩いたとあるが、ワタシの歩いたのはたしか「下り線路沿い」。「未来通り」とは線路沿い左右ふたつの道の両方をさすのだろうか。まあ、そんな細かいことはどうでもよくて、ほんとうは「二星てんとう」というコトバが気にかかって、そのことを書こうとしていたのだが、すでに、いつものように、回り道をしてしまっているようだ。ここは、誰が名つけたか「未来通り」。

♪ 君を忘れない 曲がりくねった道を行く
  きっと 想像した以上に 騒がしい未来が僕を待ってる

  スピッツ 「チェリー」(作詞:草野正宗)

◆ 今年もあと2週間あまり。無事に年が越せるとよいが、鉄道ではあちこちで「人身事故」のアナウンス。ちんちん電車の世田谷線に飛び込むひとはまれだとは思うけれども。

◆ そういえば、昨日の朝、バスの車内で聞いたこんな会話。「私の実家には、伊予鉄道ってのが走ってるんだけど、これがほんとに遅くて、事故があってもすぐに止まれるくらい」。松山か。

〔SHY'S ROOM〕 朝、カーテンをそうっと開けて外を見ていたら、バルコニーに置いてあるテーブルに、てんとう虫がちょこんと乗っかってた。雨宿りかな。七星ではなく二星てんとうくんだった。
shy.jugem.ne.jp/?eid=1201

◆ 星が七つあるテントウムシをナナホシテントウというのだから、星が二つなら、フタホシテントウと呼んでもさしつかえないはずで、じっさいそう呼んでいるひとも多いと思われるが、分類学上は、フタホシテントウという種類のテントウムシはいない。ナミテントウという。ナミは並で、ふつうの、ありふれた、という意味。このナミテントウ、

◇ ナナホシテントウとはちがい、黒地に2つの赤い紋、黒地に4つの赤い紋、赤や黄色に多くの紋、赤や黄色の無地など体色に多くの変異がある。
ja.wikipedia.org/wiki/テントウムシ

◆ 上の写真はいずれもナミテントウ。

◇ テントウムシにも種類は多いが、一番ありふれたナミテントウは個体変異の好例で、同じ種類でありながらさまざまな斑紋の変化がある。〔中略〕 初心者はいろんなナミテントウを捕らえ、何種ものテントウムシを蒐(あつ)めたと思いこむが実は同一種なのである。もっとも巨大な宇宙生物がいて人間の標本をこしらえたとしたら、やはりこれと同じことになろう。
北杜夫 『どくとるマンボウ昆虫記』(新潮文庫,p.111)

◆ 同一種ではあっても、あきらかに模様がちがうのだから、コトバで伝えるときには、やはり「二星てんとう」というのが使いやすい。前の記事に引用した堀江敏幸の「蜜を求めてモンシロチョウが舞い、茎には二星てんとうやカタツムリが張り付いて」という文章。モンシロチョウとカタツムリとは異なり、「二星てんとう」だけがカタカナで書かれていないのは、そういった事情によるものだろうか。二紋型のナミテントウとか、黒地に赤い星ふたつのナミテントウとは、書きにくいだろうと思う。

◆ 居酒屋の赤ちょうちんに「へ〇ぬ入レ」と書いてある(左)。これは何と読むか?

◆ しばらく考えてみたが、よくわからない。ネットで解答を探すと、《小嶌天天の『天′s Room』》というブログに行き着いた。このひと、若手の俳優さんだそうだ。そこに同じ居酒屋の赤ちょうちんの画像があって(右)、「このチョウチンが伝えたいメッセージは何でしょうか(^O^)/」とクイズ形式。ブログ読者のひとりが、

◇ 「鎌・輪・ぬ・入・レ」「かまわぬ入レ」「構わぬ入れ」「どうぞお構いなくお入り下さい」
blog.livedoor.jp/tenten_no1jp/archives/51224591.html

◆ という解答を寄せ、これが正解らしい。最初の「へ」はよく見ると、たしかに鎌の絵だった。

◆ 吉田健一の『私の食物誌』を読んでいたら、そのなかに「石川県の鰌の蒲焼き」があって、うれしくなったので、引用する。

◇  これを広く石川県の食べものとして置くのは前に或る特定の町で食べたこの鰌(どじょう)の蒲焼きが実に旨かったと書いた所がそのような下等なものを食べさせたとあっては我が町の名折れであると怒られたことがあるからで、又それはそれで石川県のように土地が肥沃であれば水田の付近ではどこでもこの上等なものが食べられると考えて先ず間違いなさそうである。
 これは恐らく偏に石川県の鰌がそこの土地と同様に肥え太っていて美味だということによっている。初め見た時に鰌とは思わなかった位大きいのだからそういう発育がいい鰌であることは確かであって脂の乗り方も上々であり、それが鰻(うなぎ)の蒲焼きのやり方で焼いてあって鰻とはどこか違った風味があるのだから旨くなければ可笑しい。或は脂が乗っていても鰻程でないのが却ってしつこさが取れていいのかも知れなくてこういう鰌が餌を探して泳ぎ回り、或は泥に潜っている水田というものが蒲焼きの味から何となくその辺に拡がっている感じがする。

吉田健一 『私の食物誌』(中公文庫,p.54)

◆ 上の文章が書かれたのは、1970年くらいだろうか。そのころ「下等なもの」であったドジョウも最近ではずいぶん出世したようで、

〔どじょうの唐揚〕 ドジョウって鍋にするのじゃないの。何て聞こえてきそうですが、ドジョウ本来の美味しさはこちらが上。加賀料理では、串にさして蒲焼にして料理屋さんでもお出しする位の高級品になってしまいましたが、唐揚はまだ誰でも美味しく作れるB級グルメのままで〜す。
www.oishi-mise.com/dojyou-kara.htm

◆ それでも、「高級品」というのは言いすぎじゃないか。身近にドジョウがいなくなり、値段が上がったということはあるのかもしれないが。

◆ ドジョウは、鍋にしたり、唐揚げにしたり。でも、蒲焼きがいちばんおいしい。母の実家が石川のとなりの富山にあって、こどものころ、よく食べた。ドジョウとは思えないほど大きなのは食べたことがないけど。こどもの目には、黒く焦げて正体不明のそのものは、ちょっと不気味ではあったけど、苦くて甘い不思議なたべもので、そのころおいしいと思って食べていたのかは憶えてないけど、いまは大人だから、とってもおいしい。もちろん、酒のツマミ。

◆ 4人組といえば、やっぱりビートルズかな。あとABBAとか。フォーリーブスとか。SPEEDとか。《Wikipedia》には「四人組」という項目もあって、4人グループのリストが掲載されている。ロックバンドは編成の都合上、4人が多いが、それが4人組として記憶されているかどうかはまた別な事柄だろう。4人のそれぞれがほぼ均等な人気を得ていることが4人組として認知されるための条件だと思うけれども、なかなかそれが難しい。たいていは、主役が1人とその他3人か、主役2人に脇役2人になってしまって、その結果、あれあのグループは全部で何人いたんだっけな、というふうに数え直さなければいけなくなる。これでは4人組とはいえないだろう。

◆ 4人組といえば、こんなのも。お地蔵さんに雪だるま。

◆ べつに富士山の「さん」と「三日」の「さん」を語呂合わせにしようと思ったわけではないが、三日連続で富士山を見た。東京都新宿区から、神奈川県平塚市から、神奈川県大和市から。遠くから富士山が見えるということは、空がとても澄んでいるということで、冬のそんな日は、とても気持ちがいい。青空の果てに見える富士山。富士山には登ったことがない。一度くらいは登ってみたいとも思うが、富士山は登るより眺めるほうが楽しい山のような気がする。そんなことを考えているあいだに「片山右京さんら富士山で遭難」というニュースがあった。二人が死亡し、一人が自力で下山した。

◇ 一体に旨い魚や鳥というのは飼って見たらさぞ可愛いだろうという気がして、これは例えば石川県金沢のごりがそうであり、獣の中では象や河馬が可愛いが、その両方とも非常に旨いそうである。
吉田健一 『私の食物誌』(中公文庫,p.26-27)

◆ 最後の部分をワタシは最初「非常に旨そうである」と読んでしまい、それで、動物園でゾウやカバを見て、思わず「うまそう」と口走り、「お父さんったら、最低!」と妻と子どもから非難をうけるオヤジの図がアタマに浮かんだが、よく見直すと、「旨いそうである」と書いてあった。

◆ ゾウやカバのような巨大な動物を「可愛い」と言うのには少し抵抗があるが、そういえば、以前「おっきくって、かわいい」という記事を書いた。

◆ 生きているゾウやカバを見て「うまそうだ」と思うひとはいるだろうが、公園に置かれたゾウや描かれたカバを見てそう思うひとは、さすがにいないだろう。いや、いるかもしれない。

◆ かわいいものはおいしい。おいしいものはかわいい。かなりハナシが飛躍するが、以前「ひよこ裁判」という記事を書き、その最後におともだちのめめさんの「ひよこ」という文章を紹介したことを思い出した。

◆ アグネス・チャンは講演会などで、中国(香港)と日本の文化の違いの例として「日比谷公園のハト」のハナシを繰り返ししているようで、ウェブ上にも、その断片がいろいろ出てくる。そのひとつ、《第14回日司連市民公開シンポジウム/第2回司法書士人権フォーラム「考えよう人権 PART2~いま、高齢者の人権が危ない~」》から。

◇ 17歳とはいえ、私にとっては生まれて初めての外国ですから、何もかも新鮮でしたね。忘れもしない、初めて日比谷公園に連れていってもらったんです。そしたら、うわっ、噴水がきれいだな、花もきれいだなと思ったの。でも、一番びっくりしたのはハトでした。いっぱいいたのよ。しかもみんなコロコロ太っていたんです。私からすれば、うわっ、おいしそうだな、食べたいなと思ったの。(笑)というのは、香港ではハトはごちそうです。煮たり焼いたりバーベキューしたりすると、本当においしいんですよ。何でこんな食べごろになっているハトがいるのに皆さん捕まえて食べないんだろうって、びっくりしまして。その後聞いたんですけど、日本の皆さんにとってハトは平和の象徴なんだそうですね。食べる習慣がないんだってとても納得したの。それでもいまだに公園に行くと、無意識のうちに自分の目線が一番太っているハトを追っているんですよ。やっぱり根強く文化の違いというのはあるんだなと気づきましたね。
www.shiho-shoshi.or.jp/activity/event/20080321/data/20080321_shorthand.pdf

◆ 文化の違いは、鳩を食べるかどうかということだけにあるのではなくて、鳩でなくとも、たとえば鶏を皿の上ではなく生きている状態で見たときによだれが出るかどうかということにもあるだろう。そして、ワタシとしては、後者の「文化の違い」のほうにより関心があって、こちらは個人差の問題も大きいので、そう簡単に二分するわけにもいかないだろうけれど、考えてみるといろいろとおもしろいだろうと思う。

♪ さよならを言う 練習中に
  もう涙がとまらない ヤだわ

  矢野顕子 「また会おね」(作詞:矢野顕子)

◆ 涙ではなくて、なぜだか笑いが止まらない。おともだちの霧さんのある日の「日記」を読んでから。

◇ 家でも車でも、あるいはトラックでも、正面から見ると人の顔そっくりに見えてくることがある。
『ハートシェイプト・ボックス』 ジョー・ヒル/白石朗=訳

page.cafe.ocn.ne.jp/profile/foghorn/diary/d1353

◆ と、文章はこの引用だけ。感想その他注釈はなにもない。ただ、タイトルが「ジープによく似た友人がいる。」。これで笑いが止まらなくなってしまった。タイトルの振りをして、こんなところに霧さん自身のコメントがあったのだった(もしかしたら違うのかもしれないが)。

◆ 『週刊文春』の12月31日・1月7日新年特大号。毎年恒例の「顔面相似形」。こんなのはどうだろう。つくばエクスプレスと草彅剛。そういえば、今月、初めて、つくばエクスプレスに乗った。正面は人の顔に似てるかもしれないけど、車内は人の体内に似てるのかどうか。これは体内をじっくり見たことがないのでよくわからない。

〔時事ドットコム〕 車内に乾燥大麻を所持していたとして、鹿児島県警志布志署は19日までに、大麻取締法違反(所持)容疑で、志布志市志布志町志布志、パン製造販売業****容疑者(34)を現行犯逮捕した。同署によると、容疑を認めているという。(2009/12/19-12:20)
www.jiji.com/jc/zc?k=200912/2009121900169

◆ 鹿児島県の志布志(しぶし)市は、2006年1月、曽於(そお)郡志布志町、松山町、有明町の3町が合併して誕生。市役所は旧有明町役場に置かれ、旧松山町役場、旧志布志町役場はそれぞれ、志布志市役所松山支所、志布志市役所志布志支所に。志布志市役所志布志支所の住所は、志布志市志布志町志布志二丁目だそうだ。