MEMORANDUM
2011年06月


◇  京都人は、ラーメンとともに、蕎麦ではなく「おうどん」が大好物だ。それも讃岐うどんや名古屋の味噌煮込みうどんのような腰の強いものではなくて、舌でかんたんに切れるようなふにゃふにゃの「おうどん」。東京のうどんのように醤油に浸かったような濃い汁ではなくて丼の底がうっすらと見えるくらいに薄味で、「お汁」を最後まで残さずすする。これを食べようとおもえば、町中どこにでもある、たとえば「力餅食堂」という名前の庶民的なうどん屋がおすすめである。店先にはおはぎなど甘い物が並べてあり、中ではうどんと丼を出す。もちろん中華そばもかならずある。薄目醤油味のうどんと砂糖味のおはぎや饅頭という取り合わせである。こういった店で、京都ならではの「しっぽく」や「にしんそば」をいただく。「しっぽく」は湯葉に麸に椎茸にほうれん草といったあっさり系のおうどん、「にしんそば」は乾燥にしんを甘辛く煮たものを、刻みネギを散らして蕎麦と汁の上に乗せる。味からいっても色目からいっても、蕎麦は緑色の「茶そば」にかぎる。
鷲田清一『京都の平熱』(講談社,p.89)

◆ 実家にいる。父の書架から適当に文庫本を引き抜き、寝転がって読んでいる。その一冊が、畑正憲『ムツゴロウの青春記』。ムツゴロウさんは大分県立日田高校の出身。当時の教師のひとりに、

◇ 純正な西田哲学の弟子もいた。無類のヘビースモーカーで、皮肉屋だった。巨体に似合った幅の広い顔に鉄ブチのメガネをかけ、マルクスやエンゲルスを読ませて、その批判をするのが大好きだった。『ドイツ農民戦争』を読んで感動した私に三日つきっきりで、古今の例を上げて誤りを指摘した。その情熱に負けて、ついに私は呟いた。
「間違って感動いたしました」

畑正憲『ムツゴロウの青春記』(文春文庫,p.153)

◆ エンゲルスの『ドイツ農民戦争』など一行も読んだことがないので、ムツゴロウさんの感動が誤りであったのかどうかはわからない。ただ、「間違って感動する」という表現に不意討ちをくらって、どうしようもなく動けなくなってしまった。

◆ 近頃は、ひとこと「感動した」と言ってしまえば、そのひとが批判にさらされることは皆無だろう。

◆ 近頃は、泣くために映画を見に行くひとも多いらしいが、映画を見たあとにまんまと泣いてしまったひとに、「あなたは間違って泣いたのだ」と面と向かって指摘できるひとはいるだろうか。

◆ 3・11のあと、「正しく恐れることは難しい」というコトバを何度か目にしたが、「正しく感動する」こともまた、とてつもなく難しいことのように思われる。はたしてそんなことがワタシにできるだろうか。まったく自信がない。

◆ だれだって間違うことはあるのだから、「間違って感動する」ことがあっても、それは仕方のないことだ。では、「間違って生きる」ことはどうだろう。親切なだれかが、「あなたの人生はすべて間違っていた」と教えてくれたとしたら、いったいどうすればいいのだろう。聞かなかったことにするか。すくなくとも、「大きなお世話だ」と逆ギレするようなことはワタシにはできそうもない。

◆ もうひとつ『ムツゴロウの青春記』から。高校を卒業したムツゴロウさんは、東大の理科二類に入学する。

◇  最初、池袋の西口にある親戚の家から通う予定だったが、朝のラッシュには閉口した。電車が混んで、背が小さいので顔が三角になったり四角になったりした。これではいけないと策をめぐらし、大学の構内にある寮にもぐりこんだ。旧制の第一高等学校の校舎をそのまま使っていたので、寮が便利な所にあるのである。かつては、学生がすべて寮に入る全寮制であった。
 寮は鉄筋の三階建てで外観はなかなかしっかりしていたが、中は落書だらけ、ゲーテがこう言ったとか、カントがどうだとか、なつかしい文句が壁にびっしり書いてあった。部屋にはそれぞれ看板がかけられ、「聖書研究会」「ワンダーフォーゲル」「社会主義レアリズム研究会」などなど、同好の士が集まって住んでいた。だが私は遅くもぐりこんだので、欠員があった「科学研究会」の一員となった。
 中には鉄製のべッドが六つ。そのべッドだけが許された自分の空間だった。「科学研究会」と言うからには、七面倒臭い原書の講読会でもやるのかとビクビクしていたら、名目だけで何もしないと聞いて安心した。常時顔をつき合わせている連中と学問の話をするのは真平である。

畑正憲『ムツゴロウの青春記』(文春文庫,p.208-209)

◆ 東大駒場寮。ベッドは鉄製だったろうか? 

◆ 父の本棚から引き抜いたべつな文庫本にも、たまたま東大駒場寮。

◇  朝問研の部屋は駒場寮の中にある。寮と言えば聞こえはいいが、基本的に人の往めるようなところではない。新宿駅の構内のような澱んだ空気が、一様の臭気を持ってたまっている。日もほとんど差しこまない暗くヒンヤリとしたその寮の一室に、私は出入りするようになった。
〔中略〕
 使用ずみの紙コップやら、ワラ半紙やらが散乱している室内。読み合わせをしていると、ゴミの山だと思っていたところからヒョッコリ人が起きあがってきて、
「あーあ、よく寝た。きのうは実験で徹夜だったんだ」
 と、呟いたりする。底辺の環境で朝鮮問題と格闘する。蛍雪の功よろしく、ああ私は頑張っていると、錯覚させるものがそこにはあった。

姜信子『ごく普通の在日韓国人』(朝日文庫,p.76-77)

◆ 著者は、東大に入学してまもなく、日朝問題研究会(朝問研)というサークルの読書会に参加する。そのサークルの部室があったのが駒場寮。

◆ 「落書だらけ」の「人の往めるようなところではない」「底辺の環境」であった駒場寮は、もうない。

◆ かつて(1975年)、クアラルンプールのホリデイ・インのロビーにはオウムがいたらしい(あるいは、今もいるかもしれない)。

◇  佐々木さんとの約束の時間が近づいたので、下に降りて、オウムをかまった。ホテルの入口を入ると、すぐオウムの籠があって、高い声を立てている。ボーイの話では、このオウムは、モーズードン(毛沢東)という言葉と、ブキ(マレー語で、女性の性器の呼称)、ダトック(同じくマレー語で祖父さんの意)の三つが言えるというのであった。だが聞いていると、もっぱら、モーズードンと言ってはアハハハと高笑いをしている。モーズードンばかりを繰り返している。そこで、そばに寄って、「ブキ」と言ってみると、オームはブキとは言わずに、アハハハと高笑いをするのであった。もう一度「ブキ」と言ってみると、またもやけたたましい声で笑うのであった。ブキと言って、オウムに笑われているところに、安田火災海上の堀さん夫婦が現われて、私も仲間に入れていただきますと言った。間もなく佐々木さん夫妻も現われた。
古山高麗雄『兵隊蟻が歩いた』(文春文庫,p.146)

◆ 〔引用文中に、ひとつだけ「オウム」が「オーム」と書かれているところがあるが、ワタシのミスではない。それからマレー語で女性器は「ブキ」ではなく「プキ」(puki)らしい。それはともかく、〕このクアラルンプールのホリデイ・インのオウムは、オウム返しをしないオウムなのだった。

◆ オウムといえば、いつだったか、朝、引越現場に向かう途中、とつぜん「おはよう」と呼びかけられて、あたりを見回してみたがだれもいない、ということがあった。よくよく探してみると、床屋の店先に吊るされた籠のなかに声の主がいた。「おはよう」のほかには、自分の名前、たしか「きゅうちゃん」――と、ここまで書いて、ああ、あの籠のなかにいたのは、オウムじゃなくて九官鳥だった、ということに気がついてしまったが、消すのも惜しいので、続けることにする。「おはよう」と「きゅうちゃん」、それから、もうひとつ単語をしゃべっていたが、忘れてしまった。その日は仕事が昼過ぎには終了し、仕事仲間の若い女性といっしょに同じ道を歩いて帰ることになった。その途中には、あいかわらず「きゅうちゃん」がいた。ただし、朝ではないので「おはよう」とは言わず、きちんと「こんにちは」とあいさつをした。それから、朝は聞かなかったコトバを、ワタシにではなく、連れの女性に向かって発した。きゅうちゃんは、「かのじょ」と言ったのだった。まるでナンパでもするかのように。鳥のくせに。

◆ 人間の男女を見分け、一日の朝昼を区別する。そんなことがオウム(いや九官鳥だった)にできるのだとすれば、「オウム返し」というコトバはオウムにはじつに不適当ということになろう。いや九官鳥だった。そもそも「九官鳥返し」などというコトバはないので、九官鳥の場合、なんの問題もないのだった。九官鳥とオウムでは、知能のレベルがずいぶんと違うのだろうか。はあ、オウムの話題のつもりだったのに、途中から九官鳥が紛れ込んてしまったので、はだはだ書きにくい。きゅうちゃんがオウムであればよかったのだが。オウムの「九ちゃん」。やっぱり、これはへんだな。べつな名前をでっちあげておくべきだったか。それとも、べつなオウムのハナシにすればよかったか。

◆ 英語に、日本語の「鸚鵡返し」に意味に近い psittacism というコトバがあるらしい。寺田寅彦が書いている。

◇  この頃ピエル・ヴィエイという盲目の学者の書いた『盲人の世界』というのを読んでみた。〔中略〕 ヴィエイがケラー自叙伝中の記述に対して用いた psittacism という言葉がある。
 私はこのイズムには始めて出会ったので、早速英辞書をあけて調べていると psittaci(シッタサイ)というのは鸚鵡(おうむ)の類をさす動物学の学名で、これにイズムがついたのは、「反省的自覚なき心の機械的状態」あるいは「鸚鵡のような心的状態」という意味だとある。
 私はこの珍しい言葉を覚えるために何遍も口の中で、シッタシズム、シッタシズムと繰り返した。それですっかり記憶してしまったが、それからは何かの拍子にこの妙な言葉が意外な時にひょっくり頭に浮んで来る。このような私の頭の状態もやはりこのイズムの一例かもしれない。

寺田寅彦「鸚鵡のイズム」(青空文庫

◆ どうでもいいが、「ピエル・ヴィエイ」は、フランス人、Pierre Villey (1880-1933)。ピエール・ヴィレ。モンテーニュ研究者。

psittacism (SIT-eh-SIZ-um) noun 1. Relating to or characteristic of parrots. 2. Mechanical, repetitive, and meaningless speech. [Latin psittacinus, from psittacus, parrot, from Greek psittakos.]
grammar.about.com/b/2009/09/30/word-of-the-week-psittacism.htm

◆ psittacism とは、「機械的に反復される意味のない話し言葉」。強いて訳せば、「鸚鵡話法」ぐらいだろうか。「鸚鵡返し」とは微妙に意味がずれるか?

◆ あれこれ検索していて、「オウム返し話法」なるコトバも知った。会話術のひとつとして、営業マン相手のサイトにやたら出てくる。

◆ オウム返しの実例として、3・11以降、またたく間に人口に膾炙することになった金子みすゞの詩「こだまでしょうか」。またたく間に無数の替え詩が生まれた。

◆ 軍隊用語には難しい漢字を用いたものが少なくない。輜重(しちょう)だとか、工廠(こうしょう)だとか、兵站(へいたん)だとか。

◇  ネーパン村を出て前線に着くまで、何日ぐらいかかっただろうか。ありがたいことに、トラック行軍である。
 ラングーンの兵站で、一晩か二晩泊まったような気がする。ラングーンを出ると、街道荒らしを警戒しながら北上した。三十年前のダットサンやおトヨちゃんは、エンジンのオーバーヒートを防ぐために、ときどき車を止めて休ませなければならなかった。さいわい街道荒らしには会わなかったが、飯盒炊さんのためにも車を止めなければならなかった。そういう行軍だから、かなり日数がかかったように思う。
 なにしろ三十年余りも前のことだから、いちいち憶えてはいない。けれども、いくつかの光景が心の中に残っている。
 飯盒炊さんは、それまでにも、たとえばイラワジ・デルタ方面に、カレン族を討伐に行ったときなどにはやったわけだが、断作戦の追憶の中で忘れえぬものの中には、食いものにからまるものが少なくない。
 水を見つけては米をとぐ。そのときの米の手ざわり。拾い集めて来た薪の燃える感じ。そんなものが、私の追憶の中にしみついてしまっている。

古山高麗雄『兵隊蟻が歩いた』(文春文庫,p.274)

◆ 飯盒炊さん! 難しい漢字を用いた軍隊用語に、これを加えてもいいだろう。難しすぎてか、「さん」だけひらがなにしてある。「飯盒炊さん」、こう書かれると、なんだか「飯島愛さん」みたいな感じがしないでもない。ハンゴウスイサンをしたのは小学生のときだけだから、「さん」を漢字で書けと言われても書けない。書けないけれども、パソコンで文字変換をすると、ちゃんと出てくる。「飯盒炊爨」と書くらしい。でも文字がつぶれてよくわからない。ちょっと大きくしてみよう。

◆ なるほど、こんな漢字だったか。しばらく睨んでみても、いっこうに「サン」と読める気がしてこない。漢字というよりも、ウルトラ怪獣に見えてくる。交ぜ書きはあまり好きではないが、この場合は「飯盒炊さん」でもいいか。あるいは、コトバを少し変えて「飯盒炊飯」にするか。

◆ 以下の引用はかなり下品につき、注意。

〔2ちゃんねる〕 以前借りたAV、野外乱交モノで女3人と男優3人が川原でキャンプしながら乱交っつーやつなんだけど、女の子が「そろそろ飯盒炊爨やろー」とか言ったときに男優陣が、「すいさん?なにそれw 飯ごう炊飯だろーww」って言って、ご丁寧にテロップも↓みたいに出て
×すいさん?
○炊飯
すげぇ笑いものにされてて、女の子も「そうだっけ?間違えちゃったーw」みたいに言っていた。で、そこからその子はおバカキャラ扱い。
 そのあと、あたりまえだがその女の子も男優にガンガン突かれてアヘアヘ言ってたんだが、なんだが悲しくなってしまったよ。きちんとした知識を持っていた女の子が、こんなバカな男優や製作陣に素っ裸にされてケツにガンガンチンコを出し入れされてるのを見てさ。

hatsukari.2ch.net/test/read.cgi/news/1306976527/

◆ たしかに、ちょっと悲しい。「飯盒炊飯」というコトバはかなり広がっているらしい。知らなかった。

◆ 大正の猫の例。

◇ 春から夏に移るころであったかと思う。ある日座敷の縁の下でのら猫が子を産んでいるという事が、それを見つけた子供から報告された。近辺の台所を脅かしていた大きな黒猫が、縁の下に竹や木材を押し込んである奥のほうで二匹の子を育てていた。一つは三毛でもう一つはきじ毛であった。
 単調なわが家の子供らの生活の内ではこれはかなりに重大な事件であったらしい。猫の母子(おやこ)の動静に関するいろいろの報告がしばしば私の耳にも伝えられた。
 私の家では自分の物心ついて以来かつて猫を飼った事はなかった。第一私の母が猫という猫を概念的に憎んでいた。親類の家にも、犬はいても飼い猫は見られなかった。猫さえ見れば手当たり次第にものを投げつけなければならない事のように思っていた。ある時いた下男などはたんねんに繩切れでわなを作って生けがきのぬけ穴に仕掛け、何匹かの野猫を絞殺したりした。甥のあるものは祖先伝来の槍をふり回して猫を突くと言って暗やみにしゃがんでいた事もあった。猫の鳴き声を聞くと同時に槍をほうり出しておいて奥の間に逃げ込むのではあったが。
 そんなようなわけで猫というものにあまりに興味のない私はつい縁の下をのぞいて見るだけの事もしないでいた。

寺田寅彦「ねずみと猫」(『思想』1921〔大正10〕年11月号; 青空文庫

◆ 昭和の猫の例。

◇  私の家には現在猫が十匹いる。どうしてそんなに猫がふえたのかというと、今から七年ほど前に一匹のメス猫が私の家へ舞い込んでお産をした。それを発見してあわてて魚屋の若い衆を頼んで子猫を海に棄ててもらった。親猫も飼うつもりはなかったが、お産をしたばかりだのにすぐ追い出すのもかわいそうだと牛乳をやったり魚をやったりしているうちに、彼女が居すわってしまったのだった。もともとどこかの飼い猫であったのが、飼い主が転居するか何かで捨てられたという境涯で、私の家ヘネライをつけて来たのに相違なかった。
 この地方では金沢猫とも呼ぶ、一種のキジ猫であった。伝説によると鎌倉時代に宋の船がこの猫を三浦半島の金沢へ持ってきた。その種がこの地方にふえたのだという。私の家へ来たメスは素晴らしいグラマーで美貌の点でも京マチ子以上だった。それが次々と子を生んだ。それが現在私の家にいる猫たちである。これ以上生まれては困るので土地の獣医さんに頼んで去勢をしてもらうと、運悪くその獣医さんは初めての手術とかで、親猫は腹をたち割られたままたちまち死んでしまった。息を引とる寸前に椅子にかけていた私の膝の上ヘピョンと飛び上がってそのまま死んでしまった。私は大声を放って慟哭した。私か泣いたのは長男が死んだ時と、昔愛人が死んだ時と、その次がこの猫が死んだ時と、三回だけである。
 母なしになった子猫たちを私の家では飼い出した。数回に生んだ同胞たちだから実際はもっとあったのだが、よそへやったのもあり、死んだのもあって、八匹だけが残った。そこへよそから舞い込んできた奴が二匹あって、現在十匹いるわけである。

松村梢風「猫料理」(『あまカラ』1958〔昭和33〕年10月号; 高田宏編『「あまカラ」抄 1』,冨山房百科文庫,p.207-208)

◆ それから、平成の猫の例。

◇  こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
 子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。

坂東眞砂子「子猫殺し」(「日経新聞」2006〔平成18〕年8月18日夕刊)

◆ もしも口がきけるなら、猫の意見も聞いてみたい。友人の猫は、とつぜん昨日からしゃべり始めたそうだ。

  赤帽

◇ 「ぼくたちも降りて見ようか」ジョバンニが言いました。
「降りよう」二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫がかった電燈が、一つ点いているばかり、誰もいませんでした。そこらじゅうを見ても、駅長や赤帽らしい人の、影もなかったのです。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(青空文庫

◆ 鉄道の駅の「駅長や赤帽」、駅長を知らないひとはいないだろうが、いまでは「赤帽」に下線を引いてこの語に説明を加えなければならないのではないだろうか。〔画像は山崎明雄『思い出背負って―東京駅・最後の赤帽』(栄光出版社)カバーより〕

赤帽(あかぼう) 駅構内において旅客から依頼された手回り品荷物を運搬する人。ポーターporterともいう。識別のため小判形の赤い帽子を着用しているところからこうよばれる。〔中略〕 旅装の簡易化や手押し車の普及で赤帽は激減し、2000年には上野駅で、2001年には東京駅で廃止された。
小学館『日本大百科全書』

〔Wikipedia:ポーター (鉄道)〕かつては日本でも他国と同様、全国各地の主要駅に常駐していたが、宅配便の普及などもあって旅客が持つ手荷物の分量が少量化したことで需要が減少したため、現在は日本の鉄道で赤帽が常駐している駅は無くなった。最後まで赤帽が常駐していたのは岡山駅で、運搬料は大小にかかわらず荷物1個500円であった。
ja.wikipedia.org/wiki/ポーター (鉄道)

◆ 《Wikipedia》によると、岡山駅には2006(平成18)年まで赤帽がいたらしい。当然ながら昭和10年の岡山駅にもいた。

◇  岡山のホームには赤帽が幾人も待機していて、寝台係が下ろしてくれた私たちのトランクをかついだ。
 当時の旅客は荷物が多かった。今日の海外旅行ぐらいの荷物を携えていた。国内旅行でも、持って行く土産物、もらって帰る土産物も多く、すべて大がかりであった。それは旅行者の数が少ないことのあらわれでもあった。〔中略〕 だから、旅行のできる恵まれたごく一部の人たちが、旅行できない親類や知人のために土産物を運んでいるような観もあった。
 今日ではチッキや赤帽を利用する人は稀であるが、当時は、持ちきれない荷物は発駅の手荷物窓口で乗車券を提示して別送し。着駅で受けとるという「チッキ」の制度は、旅行者にとって欠かせないものであった。それでもなお手回り品が多く、赤帽の世話になる人が多かったのである。
 これは旅行者の荷物の多寡だけによるのではなしかもしれない。昭和のはじめは労働力が余っていたし、荷物などを自分で持つのを潔しとしない人も多かったのだろう。

宮脇俊三『増補版 時刻表昭和史』(角川文庫,p.60-61)

◆ 東京駅の赤帽。伝さんは、ミステリー仕立ての短篇のなかの人物。

◇  赤帽の伝さんは、もうしばらく前から、その奇妙な婦人の旅客達のことに、気づきはじめていた。
 伝さんは、東京駅の赤帽であった。東海道線のプラット・ホームを職場にして、毎日、汽車に乗ったり降りたりするお客を相手に、商売をつづけている伝さんのことであるから、いずれはそのことに気がついたとしても不思議はないのであるが、しかし、気がついてはいても伝さんは、まだそのことについて余り深く考えたことはなかった。

大阪圭吉「三の字旅行会」(『新青年』1939〔昭和14〕年1月号; 青空文庫

◆ 山崎明雄さんは実在の人物。東京駅最後の赤帽。

◇  赤帽も長くやっていると、そこから社会の変わり様が見えてもくるのです。
 私の新米時代は、風呂敷包みがずいぶんとあったものです。絹やちぢみ模様のある上品な体裁のものではありません。俗に一反風呂敷という大判なもので、唐草模様の入った実用一点張りのものです。
 風呂敷は便利なもので、包まれる品物の形に合わせて包み込めるので、かさばらなくてすむのです。
 鹿児島から桜島大根をお土産にして上京したお客さんがいました。ダンボール箱に入れて、全体を風呂敷でくるんであるのです。ダンボールだけでは底が抜ける危険がありますし、とても持ちにくい。長方形で高さもそれなりにあるので、抱えにくいのです。抱きあげるように、胸の前あたりで持つのですが、これでは荷物ひとつでいっぱいになってしまいます。
 風呂敷で包んであれば、結び目がしっかりしているか確認して、大丈夫ならばそこを掴めば片手で用が足ります。振り分け荷物にすれは、両手が使えます。風呂敷は実に便利な日用品なのです。
「つづら」も、姿を見なくなったもののひとつです。若い人には「つづら」と言っても、通じないことさえあります。竹やヒノキのうす板を編んだうえに紙を張った箱で、衣類入れに使ったものです。
 同じようなもので茶箱があります。これは、お茶の輸送に使い、湿気を防ぐために内側に錫が張ってあります。大切なもの、湿気をきらうものを納めて運ぶのに適していて、人が入れるほどの大きさのものもありました。
 逆に、通気性を保つのに便利なのが、柳行李です。これは、柳の枝などで編んだ一種の箱で、旅行の時の衣類入れです。行李そのものが軽いので、旅行にはうってつけなのです。これなどもすっかりと見なくなってしまいました。
 学生の入学時期、つまり、四月が近づくとふとん袋を持った旅客がふえたものでした。親御さんが持って上京するケースが多いようです。厚い布製の袋で、たたんだふとんをヒモでロを閉じるようになっていました。赤玉印と言えば、そのままふとん袋を指すほど一般的なものでした。ベッドの生活が主流になったせいでしょうか、これも目にしなくなりました。
 こうした物が姿を消したのは、やはり、オリンピック以後のようです。

山崎明雄『思い出背負って―東京駅・最後の赤帽』(栄光出版社,p.82-84)

◆ いつのまにか見かけなくなってしまったもの。唐草模様の一反風呂敷、つづら、茶箱、柳行李、赤玉印のふとん袋。赤帽。

  西域

◇ 中央アジアの古い都市の回教寺院の塔の頂は申合わせたように青い。空の青さとも海の青さとも異った一種独特の人間の心を吸い取ってしまうような深い青さなのである。沙漠の旅行者は、また沙漠の都市の住人は、この青さを眼にすることなしには、その日その日を送れなかったのであろう。この塔頂の青さはおそらく沙漠で生きる人たちが生きるために、どうしても必要なものであると思われる。沙漠の旅行者は遠くからこの青い陶板で包んだ塔の頂を眺め、そしてそれに吸い込まれるようにして城門を持った聚落(しゅうらく)へはいって行ったのであろう。
井上靖『西域物語』(新潮文庫,p.17)

◆ 井上靖『西域物語』。これも実家の父の本棚にあった一冊。たしか、これは「ワタシの本」だった。懐かしくなってパラパラとページをめくる。高校生だった。ほかにも、氏の『桜蘭』や『敦煌』を読んで、シルクロードにひそかに憧れた。もはやタイトル以外にはなんの記憶も残っていないのが、ちょっと悲しい。それから、ちょっと悲しいことが、もうひとつ。『西域物語』の「序章」の冒頭。

◇ 私は学生時代に西域(せいいき)というところへ足を踏み入れてみたいと思った。本当に西域に旅行できないものかと考えた時代がある。西域という言い方は甚だ漠然としたものであるが、これは中国の古代の史書が使っている言い方で、初めは中国西方の異民族の住んでいる地帯を何となく総括して、西域という呼び方で呼んだのである。だから昔は、インドもペルシャも西域という呼称の中に収められていた。要するに中国人から言えば自国の西方に拡がっている未知の異民族が国を樹てている地帯を、何もかもひっくるめて西域と呼んだのである。だから西域という言葉の中には、もともと未知、夢、謎、冒険、そういったものがいっぱい詰め込まれてある。その後インドやペルシャは西域とは呼ばなくなり、西域というと専ら中央アジアに限定するようになって今日に到っている。
Ibid., p.8

◆ なんと「西域」には「せいいき」とルビが振られているではないか! ああ、「西域」は「せいいき」と読むのであったか! ワタシは「さいいき」とばかり思っていた! さきに「タイトル以外にはなんの記憶も残っていない」と書いたが、そのタイトルの読み方さえ間違って記憶していたとは! 「ちょっと」というのは強がりで、ほんとうは「たいへん」悲しい!

◆ と、このルビに気がついたときには、そう思ったのだが、冷静になって考えると、当時は「せいいき」と憶えていた可能性もある。あるいは、読み方などどうでもよかったのかもしれない。現在にいたるまで「西域」の読みを問われたことなど一度もないので考えもしなかったが、「せいいき」だと言われても、とくに違和感はない。すぐ慣れてしまう。ET VICE VERSA。

◆ 復習:「西」という漢字、呉音では「サイ」と読み、漢音では「セイ」と読む。たとえば、「東西(トウザイ)」の「ザイ」は呉音で、「北西(ホクセイ)」の「セイ」は漢音。

〔ケペル先生のブログ〕 作家の陳舜臣が朝日新聞に「西域余聞」を連載していたころ、タイトルについて、読者から、「西域」を「さいいき」と読むのか、「せいいき」と読むのか、という質問が一番多かったそうである。陳は「読みたいように読んでもらうほかない。個人によって読み方が異なる。おもに仏教関係者は「さいいき」と呉音で読み、歴史学者は「せいいき」と漢音で読むのがふつうである」といっている。そういえば世界史辞典などでは西域(せいいき)とあるのがふつうである。
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-e382.html

〔「西域」の読み方は? | ことば(放送用語) - 放送現場の疑問・視聴者の疑問 | NHK放送文化研究所〕 「西域」は、中国人が自分たちの西方の地域や諸国を総称したことばです。狭義には現在の中国西部の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面をさします。読み方には(1)[サイイキ](2)[セイイキ]の両方あり、辞書類の扱いをみても(1)を採るもの(2)を採るもの、両方を採るものとマチマチです。しかし、歴史・文化部門の用語としては、古くから[サイイキ]と読まれ、東洋史などの専門家の慣用的な読みは[サイイキ]です。また、同音語の「聖域」[セイイキ]との混同が避けられるということからも、「西域」を歴史的な用語として放送で使う場合には、[サイイキ]と読んでいます。ただし、現在の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面を主にさして言う場合は、[セイイキ]と読んでもよいことにしています。
www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/094.html

◆ なるほどなるほど、よくわかった。混乱していることがよくわかった。そういえば、陳舜臣の『西域余聞』も読んだことがある。これまたタイトル以外にはなにも憶えていない。今度、実家に帰ったら、読みなおしてみよう。

◆ オクラホマ州の田舎のガソリンスタンドのトイレの落書き。

◇  私がトイレで見つけた落書きは、人類史上最も有名で最も多くの場所に書かれた落書きかもしれない。アメリカ人が書いた落書きとしてなら間違いなく歴史上最も有名で最も多くの場所に書かれた落書きだ。それは、"Kilroy was here" という落書き。〔中略〕
 ところで、この落書き "Kilroy was here" を日本語に訳すとどうなるか? 直訳すると、″キルロイはここにいた"、もしくは "キルロイはここに来た" となる(もちろん、キルロイは人の名前だ)。英和辞典では、昔も今も "キルロイ参上" と訳しているものが多い。そうした辞典の編者の方々には大変申し訳ないが、私は "キルロイ参上" という訳が適切とは思っていない。この落書きを書いたアメリカ人のことを考えると、どうしても適切とは思えないのだ。

向井万起男『謎の1セント硬貨』(講談社,p.161)

◆ 大変申し訳ないが、ワタシは "キルロイ参上" という訳が適切ではないという理由がよくわからない。どうしてもよくわからないのだ。続きを読もう。〔画像は同書から(ただし、ガソリンスタンドのトイレの落書きではない)〕

◇  第二次世界大戦のとき、連合軍の一員としてヨーロッパ戦線で戦った大勢のアメリカ兵たちは、自分たちが到着した場所に "Kilroy was here" と書きまくった。アッチャコッチヤ、ホントにいたるところに書きまくった。いつ、誰が、どうして書き始めたのかはわからない。キルロイが一体誰なのかもわからない。正体不明もしくは架空の人物と考えるのが普通のようだ。でもアメリカ兵たちは、そんなことは気にもせずに書きまくったらしい。何故かはわからないが誰かが書き始めたのだろう。それがアメリカ兵たちの間で噂として広まったのだろう。それを面白いと思ったアメリカ兵たちは、自分たちが到着した場所に同じ言葉を書きまくるようになったのだろう。で、私が適切と思う訳は、"キルロイ参上" ではないのだ。キルロイは日本人ではないのに、"鞍馬天狗参上" みたいに "参上" はないだろう("鞍馬天狗参上" の意味がわからない人はトシいった男性に訊いて欲しい)。私なら、"キルロイは来たぜ" と訳す("キルロイはここに来たぜ" ではチョツト長いし、不粋だ)。この訳の方が若いアメリカ兵たちの気分に合っていると思う。まぁ、日本語に訳したりせずに "Kilroy was here" のままが一番イイんだろうけど。
Ibid., p.161-162

◆ ワタシは「キルロイ参上」の「参上」が謙譲語の一種だから不適当なのかとも思ったが、そうではなくて、「キルロイは日本人ではないのに、"鞍馬天狗参上" みたいに "参上" はないだろう」というのが適切ではない理由だそうだ。ようするに、あまりにも古めかしいということを言っているのだろうか。たしかにそれはそうだ。あるいは、「参上」だと「いまここに」という臨場感がありすぎて、「was」のもつ過去形のニュアンスに欠けるということだろうか。それもそうかもしれない。「参上」に代わる、もう少し日常的で落書きに適したコトバがあればいいのだが、なかなか見つからない。で、適当な訳としてあげられているのが「キルロイは来たぜ」。ワタシは落書きに「キルロイは来たぜ」はないだろうと思うけどなあ。辞書のこの項の執筆者が、どういう考えで「参上」という訳語をあてたのかはしらないけれども、参上というコトバのイメージで脳裏に浮かんでいたのは、おそらく鞍馬天狗のセリフではなくて、暴走族かなにかの落書きだろうと思う。落書きは話し言葉ではなく書き言葉なのだ。英語の場合はその差はほとんどないのかもしれないが、日本語の場合はその差がかなりあるだろう。話し言葉をそのまま落書きにするわけにはいかない。とはいえ、「××参上」という落書きもあまり見かけなくなった。そのうち、「××は来たぜ」という日本語の落書きを目にする日が来ないともかぎらない。

◆ ところで、もし鞍馬天狗が壁にスプレーで「鞍馬天狗参上」と落書きしたとしたら、これを英語に訳すにはどうすればいいか? ワタシなら、"Kurama-Tengu was here" と訳す。鞍馬天狗はアメリカ人じゃないのに、とは言わないでおこう。

◆ 画像は映画『ショーシャンクの空に』(The Shawshank Redemption, 1994)から。ショーシャンク刑務所の出所者のために用意された仮住居(halfway house)の壁。左に「BROOKS WAS HERE」、右に「SO WAS RED」とナイフで彫られた文字。ブルックス(Brooks)とレッド(Red)は、ともに仮出所者の名。《Wikipedia》に、こんなことが書いてあった。

〔Wikipedia:ショーシャンクの空に〕ブルックスが壁に彫った文字「BROOKS WAS HERE」は、第二次世界大戦中にアメリカ軍人の間で流行した落書き「Kilroy Was Here(キルロイ参上)」のフレーズを捩ったものである。
ja.wikipedia.org/wiki/ショーシャンクの空に

◆ いくらなんでも、これはちょっと考えすぎだろう。「Kilroy Was Here(キルロイ参上)」というフレーズは、キルロイではない数多くの他人がキルロイのふりをしてあちこちに落書きするところにおもしろみがあるので(逆にいうと、その一点にしかおもしろみはない)、ブルックス本人が「Brooks Was Here(ブルックス参上)」と書いても、それはごくありふれた落書きにすぎない。これを捩りというなら、古今東西、この世の多くの落書きが該当してしまうだろう。こうした「So-and-so Was Here(だれそれ参上)」式の落書きは、古代ローマのポンペイ遺跡でも複数見つかっている。

〔The Writing on the Wall - AD79eruption〕 "Daphnus was here with his Felicla." "Staphylus was here with Quieta." "Aufidius was here." "Gaius Pumidius Dipilus was here on October 3rd 78 BC." "Satura was here on September 3rd." "Floronius, privileged soldier of the 7th legion, was here."
sites.google.com/site/ad79eruption/the-writing-on-the-wall

◆ 冒頭の画像に戻って、「BROOKS WAS HERE」の場合は、これを「ブルックス参上」と訳すのはちとまずいかもしれない。というのも、ブルックスはムショ暮らし50年の老人で、仮出所できたはいいものの社会復帰に失敗して、「BROOKS WAS HERE」と刻んだその直後にその部屋で自殺してしまうのであったから。たしか字幕は「ブルックスここにありき」だった。

◆ 「参上」で思い出した。幼いころ、「参上」するのは、鞍馬天狗ではなくて、なによりもまず仮面の忍者赤影だった。

◇ 「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃」

◆ で始まるナレーションがなつかしい。「仮面の忍者赤影」には、赤影のほか白影と青影も登場する。当時、その白影が近くに住んでいるということを聞いて、妙な気がした。もちろん、俳優の名前も知らなかった。白影は白影で十分だった。

〔Wikipedia:牧 冬吉〕牧 冬吉まき ふゆきち、本名:岡村 信行、1930年11月28日 - 1998年6月27日)は秋田県出身の俳優。〔中略〕 夫人は歌手、タレントの牧吉佐登。晩年まで夫人と二人で、京都先斗町で「吉佐登(きちざと)」というクラブを開いていたが(2005年閉店)、「白影」を訪ねての来客が引きも切らなかったという。
ja.wikipedia.org/wiki/牧冬吉

〔朝日新聞(1998年6月29日)〕【牧 冬吉(まき・ふゆきち)=俳優、本名岡村信行=おかむらのぶゆき)27日午後9時4分、間質性肺炎のため京都市の病院で死去、67歳。葬儀・告別式は30日正午から京都市東山区五条橋東3の390の公益社ブライトホールで。喪主は妻登美子(とみこ)さん。自宅は京都市山科区安朱馬場ノ東町11の5。
 秋田県大館市生まれ。新劇俳優を経て、60年ごろからテレビ界に転進。「隠密剣士」の霧の遁兵衛、「仮面の忍者赤影」の白影など、アクション時代劇を中心に、テレビ・映画の名わき役として活躍した】

www31.ocn.ne.jp/~goodold60net/makifuyu.htm

◆ 「参上」するのは赤影だったが、「見参」するのは変身忍者嵐だった。で、《YouTube》を観てみて驚いた。「変身忍者嵐」にも、白影が登場していたのだった。ああ、知らなかった(いや、忘れてただけかも)。

◆ 先の記事で、映画『ショーシャンクの空に』の「BROOKS WAS HERE」という落書きを話題にしたが、この文字が書かれた場所はどこか? とりあえず「仮住居の壁」と書いておいたが、はたして、あそこを「壁」と呼んでもいいものやら自信がない。和室でいうと、鴨居と天井の間の欄間があるような部分。あの場所のことをなんと呼べばいいのだろう?

◆ 《Yahoo!知恵袋》にまさにこの質問があった。

◇ 鴨居と天井の間の壁に名前はありますか? 欄間ではない。。。?ですよね。ただの壁と呼ぶには、せっかく区切られているし、、、「上の壁」とでも呼んだらいいのでしょうか。。。もしご存知の方がいたら、よろしくお願いいたします。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1251777482

◆ この質問に寄せられた回答は、「小壁」に「下がり壁」。ほかで「垂れ壁」という言い方も見つけた。

たれかべ 【垂れ壁】 天井から垂れ下がったような形の壁。鴨居の上の小壁などをいう。防煙区画として重要。
三省堂『大辞林』

◆ 「垂れ壁」がいいような気がするが、西洋建築の場合は、また別な用語があるかもしれない。ほかのひとはあの場所をなんと呼んでいるかをみてみると、

◇ 「Brooks was here.(ブルックスここにあり)」という言葉をに刻み首を吊るのですが、
www.ozawashingo.com/2008/10/post-3ad1.html

に彫られた『Brooks Was Here』で泣いた。
blogri.jp/calcium100/entry/1245505095/

◇ その時彼は現場のアパートのに「Brooks was here」(ブルックスここにありき)と刻むのです。。。
yone-cachikoon.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/yone-was-here.html

◇ レッドがブルックスの部屋を去る際にに彫った文字。「brooks was here , so was red」
dtrt.exblog.jp/4067025/

◇ 私も途中しばらくは、あのに刻んだ「BROOKS WAS HERE」が頭を離れず、おじいさんのことばかり考えてました。
rm.webspace.ne.jp/bbs/rm_thread_5.html

◆ 「柱」「梁」「壁」。意外にも、柱が多い。あれは柱だろうか?

◇ He was in a halfway house and carved his name on a wall "Brooks was here" before hanging himself.
www.epinions.com/review/Shawshank_Redemption_Frank_Darabont/content_6547934852

◇ We see Brooks in his room, stepping up on a table, etching an inscription that says “BROOKS WAS HERE” into the ceiling before knocking the table down, feet hanging. Brooks has hanged himself.
www.themoviespoiler.com/Spoilers/shawshank.html

◇ He climbs on a chair, then onto a table and proceeds, without much effort or "tip-toeing", to carve the phrase "Brooks Was Here" on the beam in his apartment.
www.slipups.com/items/1203.html

◇ Carved into the beam from which he hangs himself is the simple epitaph “Brooks was here."
firstcongmontclair.org/Portals/1296/Sunday%20Sermons/Sermon_March_27,%202011.pdf

〔Top Ten Hollywood Movie Suicides〕 After carving his final farewell into a wooden beam in his room – "Brooks Was Here" – the old, institutionalized ex-con slips into his makeshift noose, kicks away the chair and hangs himself until dead
http://factoidz.com/top-ten-hollywood-movie-suicides/

〔Movie mistakes〕 Before Brooks hangs himself he scratches "Brooks was here" into a wooden beam. While he is doing that plaster pieces fall on the table he is standing on. [The lower part of the beam (the vertical poles, moulding, etc) is wood, but the upper part where Brooks (and later Red) carved their names *is* plaster, as you can see when Red first walks into the room towards the end of the movie.]
www.moviemistakes.com/film1146/corrections/page2

◇ the camera moves in for a close-up and the words "Brooks was here" are shown carved in the wood.
kyunggi.ca/?document_srl=161619

〔Filmsite.org : Greatest Tearjerkers Scenes and Movie Moments of All-Time〕 the tragic scene of released aging prisoner Brooks Hatlen's (James Whitmore) suicide by hanging after carving "BROOKS WAS HERE" on the wooden arch above him;
www.filmsite.org/tearjerkers25.html

◇ So by the time Morgan Freeman entered the same hotel room in 279 and glanced up to see "Brooks Was Here" carved into the ceiling beam, the audience understood.
www.shawshankredemption.org/scenes_251a.htm

◇ The prison [Mansfield Reformatory, Ohio] gained world renowned fame with the release of 'The Shawshank Redemption' starring Morgan Freeman and Tim Robbins. The facility served as Shawshank State Prison in the film. Evidence of such still remains there, as "Brooks Was Here" was carved into one of the rafters in the administrative area during filming. That carving can still be seen today.
www.talkparanormal.com/thread-2589.html

◇ Brooks hung himself in a hotel room after he carved "Brooks was here".
www.directessays.com/viewpaper/99811.html

◆ 「wall(壁)」「ceiling(天井)」「beam(梁)」「ceiling beam」「wooden beam」「wooden arch」「wood?」「rafters(垂木)」「hotel room」。あれは天井だろうか? あれは木だろうか? あれはホテルの一室だろうか? やれやれ、なにがなんだかわからなくなってきた。ふと以前に書いた記事のことを思いだした。あれも落書きだった。ジャネット・リンの「Peace & Love」

◆ ブルックスが「BROOKS WAS HERE」とナイフで刻むシーンの動画が《YouTube》にあったので載せておく。その直後に首吊り自殺の場面になるので注意。

◇ 見ているのに、見えていないものって、案外たくさんあるのかもしれないね

◆ と、おともだちの霧さんが書き写したのは、三崎亜記の短篇「彼女の痕跡展」の一文だそう。では、

◇ 「目が四つあるけど見えないものなあに?」子どものなぞなぞである。答えはミシシッピ(Mississippi)。つづりの中に四つの「i」(=eye 目)があるからだ。
ジェームス・M・バーダマン『黒人差別とアメリカ公民権運動』(水谷八也訳,集英社新書,p.199)

◆ "What has 4 eyes but can't see?" "2 blind people" などと答えるひねくれ者もいるようだが、このなぞなぞ(riddle)は、映画『ミシシッピー・バーニング』(Mississippi Burning, 1988)にも出てくる。冒頭近く、FBI捜査官(役)のウィレム・デフォー(Willem Dafoe)とジーン・ハックマン(Gene Hackman)が、三人の公民権活動家が行方不明になった事件の捜査のために、ミシシッピー州の現場に車で向かっている。州境で「Welcome to Mississippi」の看板を目にしたハックマンは、思い出したように、デフォーに問いかける。

ー What's got 4 eyes and can't see?
ー What?
ー Mississippi.

◇ なぞなぞはさておき、黒人住民の扱いを変えるということに限っていえば、ミシシッピが「見えていなかった」というのは実に重い事実を言い当てていた。当時、人口の四十五パーセントを黒人が占め、黒人の割合は南部のどの州よりも高かったミシシッピ州は、黒人に対する殴打、リンチ、未解決の行方不明者の数、そして人種的憎悪の強さにおいてはアメリカ一であった。このようなことでミシシッピ州に匹敵するのはアラバマ州だけだろう。
 まさにそのような理由のため、公民権活動家は一九六四年に「フリーダムーサマー」キャンペーンをミシシッピ州で行う計画を立てた。平均年齢二十一歳の約八百人のボランティアが、その夏ミシシッピ州で活動する契約をした。その四分の三は白人で、約三百人が女性であった。

Ibid., p.199-200

◆ 1964年6月21日、「フリーダムーサマー」に参加した3人の若者がミシシッピ州で惨殺された。それから41年後の2005年、

〔2005/06/23〕 【ニューヨーク23日共同】米ミシシッピ州で1964年、公民権運動活動家3人が殺害された事件で、同州ネショバ郡巡回裁判所は23日、白人優越主義者の秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)元幹部エドガー・レイ・キレン被告(80)に対し、3件の殺人罪で計60年の禁固刑を言い渡した。米南部の人種差別の根深さを如実に示し、映画「ミシシッピー・バーニング」(88年)の題材ともなったこの事件では、同裁判所陪審が事件発生からちょうど41年後の21日、有罪評決を下していた。黒人の有権者登録を支援していた活動家3人は64年6月21日にKKKメンバーに連れ去られ、銃殺後に遺体で発見された。陪審は、キレン被告が一連の行為を組織したとの判断を示していた。
www.47news.jp/CN/200506/CN2005062301005058.html

◆ 四つ目のミシシッピー、その目はいくつ開いたのだろう?

◆ なぞなぞを集めたサイトを見ていたら、こんなのがあった。「くしゃみをする列車は?」

◇ What kind of train can sneeze? A choo choo train!
abbasramzi.blogspot.com/2005/06/jokes-25.html

◆ 英語で「ハクション」は「アチュー(achoo)」だから、「A choo choo train」というわけ。

〔livedoor ニュース〕 「Choo Choo Train」といえば、EXILEを知らない人でも一度は耳にしたことがあるだろう。彼らが『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした曲でもある。
 ところで「train」が電車だということはすぐにわかるが、「Choo Choo Train」とはどういう意味なのか? やはり電車なのだろうか? では、どんな電車なのだろうか? 「Choo Choo Train」というのは、幼児語で蒸気機関車のことである。日本の幼児が言う「汽車ポッポ」をアメリカの幼児が言うと「Choo Choo Train」となる。語源は、蒸気機関車が発する音「シュッシュ、ポッポ」に由来している。しかし「Choo Choo Train」が蒸気機関車を指す言葉だと知らないのは、英語に疎い日本人に限った話ではない。英語を母国語とするアメリカでも、その意味を知らない若い世代が増えてきている。蒸気機関車を目にする機会が少なくなった今日では当然かも知れない。彼らにとって「Choo Choo」と聞けば、それはコカインのことだ。コカインを鼻から吸う「シュッシュッ」という音を連想するからだ。
 それと、もう一つ。蒸気機関車が走る様子から、最近では「Choo Choo Train」というと、一人の女性が複数の男性とセックスすることも意味する。さて、そんな俗語でもある「Choo Choo Train」という曲を、男が集団で歌っている。しかも英語の部分だけ聞き取ったとすれば、アメリカの同性愛者たちは平静ではいられないのではないだろうか。男たちが列をなしてぐるぐる回りながら「To the Paradise, Take me please oh Choo Choo Train」などと歌うのだから。

news.livedoor.com/article/detail/4594034/

◆ なるほど。

◇ Dude yesterday I decided to join a choo-choo train and now my butt hurts
www.urbandictionary.com/define.php?term=choo%20choo%20train

◆ いやはや。

◇ 「ところで、チョット面白いことを教えてあげるわね。イギリスではロージーのスペルが3種類あるの。Rosy, Rosey, Rosie。そしてね、イギリスの南部では、Rosie というスペルは階層が上で、Rosy と Rosey は階層が下という雰囲気があるの。でも、イギリスの北部では、これが逆になるのよ。ね、面白いでしょ?」
向井万起男『謎の1セント硬貨』(講談社,p.188)

◆ 高校時代の女友達の愛称がスージーだった。ちょっと気取って、Susie とみずから綴っていた。名前がスーザンだった、わけではもちろんない。悲しいほど痩せていて、男性だったら、骨皮筋右衛門と呼ばれていたことだろう。

◇ キャシー中島さんは、ふっくらした体型のイメージが強いと思いますが、以前モデルもしており、すらっとした体型だったようです。
kantandiet.org/geinoujin/cat0024/1000000261.html

◆ スージーのことを書いたら、キャシーさんからメールが届いた。キャシー中島さん、ではもちろんない。名前がキャサリンであるわけでもない。スージーと同じく愛称(自称)で、「わたし、華奢(きゃしゃ)だ(った)から」。それで、キャシー。女性の考えることは、いつだってよくわからない。

〔Wikipedia:キャシー〕 キャシー(Kathy, Cathy, Cathi, Cathie, Kathi, Kathie)は、英語圏における女性名、あるいはキャサリン(Katherine, Catherine)、キャスリーン/カスリーン(Kathleen, Cathleen)、キャスリン(Cathryn)の愛称である。
ja.wikipedia.org/wiki/キャシー

◆ ちなみに、キャシー中島さんの「キャシー」は Kathy と綴るようだ。Cathy と綴るのは、たとえば『嵐が丘』のヒロイン(Catherine Earnshaw)。Cathay と綴れば、航空会社の名称になるが、これは関係ない。

◆ 小説『嵐が丘』(Wuthering Heights)の作者、エミリー・ブロンテのエミリーは Emily と綴る。また、(日本のテレビ番組『恋のから騒ぎ』のオープニングテーマ曲にもなった)『嵐が丘』を歌ったケイト・ブッシュ(Kate Bush)の本名は、キャサリン・ブッシュ(Catherine Bush)で、ケイト(Kate)はキャサリン(Catherine)の愛称のひとつ。

〔Wikipedia:キャサリン〕 キャサリン(Catherine, Katherine)またはキャスリン(Kathryn)は、英語圏の女性名。日本語の片仮名ではキャスリンやキャサリーン、カスリンやカスリーンとも表記する。語源はギリシア語で「純粋」という意味を持つ「カタロス」(καθαρός, katharos)という言葉に由来する。愛称として略す場合はケイト(Cate, Kate)、ケイティ(Katie, Katy)、キャシー(Cathy, Kathy)、キティ(Kitty)などと呼ばれる。
ja.wikipedia.org/wiki/キャサリン

◆ ケイト(Kate)といえば、先だってのイギリスのロイヤルウェディング。

〔廣淵升彦 View of the World〕 4月29日、英国ウィリアム王子とキャサリン・ミドルトン嬢の結婚式を見ていて感じたことを書きます。まずは花嫁の名前です。NHKのBS1では終始花嫁を「ケイトさん」と言い、日本テレビでは「キャサリンさん」と言っていました。両方とも正しいのですが、はたして日本の視聴者は「キャサリンが正式名でケイトはこれを縮めた愛称」ということを知っているのだろうか? という疑問が頭に浮かびました。たしかに英語圏では、この両者の共通性が即座に頭に浮かぶでしょうが、日本ではそうはいきません。日テレとNHKを交互に見た人は混乱したのではないかと思います。男子の名前では「ボブ」あるいは「ボビ-」は「ロバート」の愛称だということは割合と知られています。「ジム」や「ジミー」の正式名称は「ジェイムス」です。しかし「キャサリン」が「キャシー」となり、さらに「ケイト」になるということはあまり知られていないのではないかというのが、私の懸念でした。
hirobuchi.com/archives/2011/05/post_470.html

◆ 「キャサリン」が「キャシー」となり、さらに「ケイト」になる。日本語のカタカナで書けばなんの問題もないけれど、Catherine が Cathy になるのはいいとして、さらに Cate ではなく Kate になるのがよくわからない。C と K をどうしてわざわざ入れかえる必要があるのか?