◆ 実家にいる。父の書架から適当に文庫本を引き抜き、寝転がって読んでいる。その一冊が、畑正憲『ムツゴロウの青春記』。ムツゴロウさんは大分県立日田高校の出身。当時の教師のひとりに、 ◇ 純正な西田哲学の弟子もいた。無類のヘビースモーカーで、皮肉屋だった。巨体に似合った幅の広い顔に鉄ブチのメガネをかけ、マルクスやエンゲルスを読ませて、その批判をするのが大好きだった。『ドイツ農民戦争』を読んで感動した私に三日つきっきりで、古今の例を上げて誤りを指摘した。その情熱に負けて、ついに私は呟いた。 ◆ エンゲルスの『ドイツ農民戦争』など一行も読んだことがないので、ムツゴロウさんの感動が誤りであったのかどうかはわからない。ただ、「間違って感動する」という表現に不意討ちをくらって、どうしようもなく動けなくなってしまった。 ◆ 近頃は、ひとこと「感動した」と言ってしまえば、そのひとが批判にさらされることは皆無だろう。 ◆ 近頃は、泣くために映画を見に行くひとも多いらしいが、映画を見たあとにまんまと泣いてしまったひとに、「あなたは間違って泣いたのだ」と面と向かって指摘できるひとはいるだろうか。 ◆ 3・11のあと、「正しく恐れることは難しい」というコトバを何度か目にしたが、「正しく感動する」こともまた、とてつもなく難しいことのように思われる。はたしてそんなことがワタシにできるだろうか。まったく自信がない。 ◆ だれだって間違うことはあるのだから、「間違って感動する」ことがあっても、それは仕方のないことだ。では、「間違って生きる」ことはどうだろう。親切なだれかが、「あなたの人生はすべて間違っていた」と教えてくれたとしたら、いったいどうすればいいのだろう。聞かなかったことにするか。すくなくとも、「大きなお世話だ」と逆ギレするようなことはワタシにはできそうもない。 |
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