MEMORANDUM

  赤帽

◇ 「ぼくたちも降りて見ようか」ジョバンニが言いました。
「降りよう」二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫がかった電燈が、一つ点いているばかり、誰もいませんでした。そこらじゅうを見ても、駅長や赤帽らしい人の、影もなかったのです。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(青空文庫

◆ 鉄道の駅の「駅長や赤帽」、駅長を知らないひとはいないだろうが、いまでは「赤帽」に下線を引いてこの語に説明を加えなければならないのではないだろうか。〔画像は山崎明雄『思い出背負って―東京駅・最後の赤帽』(栄光出版社)カバーより〕

赤帽(あかぼう) 駅構内において旅客から依頼された手回り品荷物を運搬する人。ポーターporterともいう。識別のため小判形の赤い帽子を着用しているところからこうよばれる。〔中略〕 旅装の簡易化や手押し車の普及で赤帽は激減し、2000年には上野駅で、2001年には東京駅で廃止された。
小学館『日本大百科全書』

〔Wikipedia:ポーター (鉄道)〕かつては日本でも他国と同様、全国各地の主要駅に常駐していたが、宅配便の普及などもあって旅客が持つ手荷物の分量が少量化したことで需要が減少したため、現在は日本の鉄道で赤帽が常駐している駅は無くなった。最後まで赤帽が常駐していたのは岡山駅で、運搬料は大小にかかわらず荷物1個500円であった。
ja.wikipedia.org/wiki/ポーター (鉄道)

◆ 《Wikipedia》によると、岡山駅には2006(平成18)年まで赤帽がいたらしい。当然ながら昭和10年の岡山駅にもいた。

◇  岡山のホームには赤帽が幾人も待機していて、寝台係が下ろしてくれた私たちのトランクをかついだ。
 当時の旅客は荷物が多かった。今日の海外旅行ぐらいの荷物を携えていた。国内旅行でも、持って行く土産物、もらって帰る土産物も多く、すべて大がかりであった。それは旅行者の数が少ないことのあらわれでもあった。〔中略〕 だから、旅行のできる恵まれたごく一部の人たちが、旅行できない親類や知人のために土産物を運んでいるような観もあった。
 今日ではチッキや赤帽を利用する人は稀であるが、当時は、持ちきれない荷物は発駅の手荷物窓口で乗車券を提示して別送し。着駅で受けとるという「チッキ」の制度は、旅行者にとって欠かせないものであった。それでもなお手回り品が多く、赤帽の世話になる人が多かったのである。
 これは旅行者の荷物の多寡だけによるのではなしかもしれない。昭和のはじめは労働力が余っていたし、荷物などを自分で持つのを潔しとしない人も多かったのだろう。

宮脇俊三『増補版 時刻表昭和史』(角川文庫,p.60-61)

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