◆ 大正の猫の例。
◇ 春から夏に移るころであったかと思う。ある日座敷の縁の下でのら猫が子を産んでいるという事が、それを見つけた子供から報告された。近辺の台所を脅かしていた大きな黒猫が、縁の下に竹や木材を押し込んである奥のほうで二匹の子を育てていた。一つは三毛でもう一つはきじ毛であった。
単調なわが家の子供らの生活の内ではこれはかなりに重大な事件であったらしい。猫の母子(おやこ)の動静に関するいろいろの報告がしばしば私の耳にも伝えられた。
私の家では自分の物心ついて以来かつて猫を飼った事はなかった。第一私の母が猫という猫を概念的に憎んでいた。親類の家にも、犬はいても飼い猫は見られなかった。猫さえ見れば手当たり次第にものを投げつけなければならない事のように思っていた。ある時いた下男などはたんねんに繩切れでわなを作って生けがきのぬけ穴に仕掛け、何匹かの野猫を絞殺したりした。甥のあるものは祖先伝来の槍をふり回して猫を突くと言って暗やみにしゃがんでいた事もあった。猫の鳴き声を聞くと同時に槍をほうり出しておいて奥の間に逃げ込むのではあったが。
そんなようなわけで猫というものにあまりに興味のない私はつい縁の下をのぞいて見るだけの事もしないでいた。
寺田寅彦「ねずみと猫」(『思想』1921〔大正10〕年11月号; 青空文庫)
◆ 昭和の猫の例。
◇ 私の家には現在猫が十匹いる。どうしてそんなに猫がふえたのかというと、今から七年ほど前に一匹のメス猫が私の家へ舞い込んでお産をした。それを発見してあわてて魚屋の若い衆を頼んで子猫を海に棄ててもらった。親猫も飼うつもりはなかったが、お産をしたばかりだのにすぐ追い出すのもかわいそうだと牛乳をやったり魚をやったりしているうちに、彼女が居すわってしまったのだった。もともとどこかの飼い猫であったのが、飼い主が転居するか何かで捨てられたという境涯で、私の家ヘネライをつけて来たのに相違なかった。
この地方では金沢猫とも呼ぶ、一種のキジ猫であった。伝説によると鎌倉時代に宋の船がこの猫を三浦半島の金沢へ持ってきた。その種がこの地方にふえたのだという。私の家へ来たメスは素晴らしいグラマーで美貌の点でも京マチ子以上だった。それが次々と子を生んだ。それが現在私の家にいる猫たちである。これ以上生まれては困るので土地の獣医さんに頼んで去勢をしてもらうと、運悪くその獣医さんは初めての手術とかで、親猫は腹をたち割られたままたちまち死んでしまった。息を引とる寸前に椅子にかけていた私の膝の上ヘピョンと飛び上がってそのまま死んでしまった。私は大声を放って慟哭した。私か泣いたのは長男が死んだ時と、昔愛人が死んだ時と、その次がこの猫が死んだ時と、三回だけである。
母なしになった子猫たちを私の家では飼い出した。数回に生んだ同胞たちだから実際はもっとあったのだが、よそへやったのもあり、死んだのもあって、八匹だけが残った。そこへよそから舞い込んできた奴が二匹あって、現在十匹いるわけである。
松村梢風「猫料理」(『あまカラ』1958〔昭和33〕年10月号; 高田宏編『「あまカラ」抄 1』,冨山房百科文庫,p.207-208)
◆ それから、平成の猫の例。
◇ こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。
坂東眞砂子「子猫殺し」(「日経新聞」2006〔平成18〕年8月18日夕刊)
◆ もしも口がきけるなら、猫の意見も聞いてみたい。友人の猫は、とつぜん昨日からしゃべり始めたそうだ。