MEMORANDUM
2010年10月


  酒屋

◇ 何度も引いている話だが、『どくとるマンボウ青春記』の中に、北杜夫がトーマス・マンに心酔していたころに、仙台の街を歩いていて「ぎくり」として立ち止まるという話がある。どうして「ぎくり」としたのか知ろうとしてあたりを見回すと、酒屋に「トマトソース」という看板がかかっていた、という話である。
内田樹『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ,p.62)

◆ という文章を読んだので、『どくとるマンボウ青春記』も読んでみた。

◇ あるときは、仙台の東一番丁の大通りを歩いていて、だしぬけにぎくりとして立止った。なぜ自分がぎくりとしたのか、瞬間わからなかったが、周囲を見まわしてみて、その理由が判明した。すぐ前の店に、こういう貼紙か看板が出ていたのである――「トマトソース」
北杜夫『どくとるマンボウ青春記 改版』(中公文庫,p.245)

◆ 看板(か貼紙)の「トマトソース」という文字を、とっさに「トーマス・マン」と読んでしまっていた、というこのエピソードは、たいへんに興味深いので(そのうち)じっくり考えることにして、とりあえず気になってしまったのは、些細なことだが、この「トマトソース」の看板があった場所のこと。内田樹は「酒屋」と書いているが、北杜夫本人は「すぐ前の店」としか書いていない。べつなところではっきり「酒屋」と書いているのかもしれないが、おそらくは、内田樹が、トマトソースを売っているのは酒屋であろうと「ごく自然に」判断し、「すぐ前の店」を説明的に補完して「酒屋」と書いたのだろうと思う。

◆ ワタシはトマトソースを酒屋で買ったことがない(スーパーで買う)。ソースも醤油も買ったことがない(スーパーで買う)。そもそも酒以外のものを買った記憶がない(スーパーで買う)。いやあるかな。つまみとかお菓子とか。あとはなにが売っているのだったっけ? というような具合なので、もし内田樹の文章を読まずに北杜夫の文章を先に読んでいたら、「トマトソース」の看板が掲げてあった「すぐ前の店」は「すぐ前の店」のままで、それが何屋か気にすることもなく、それが「酒屋」であることに気がつきもしなかっただろう。

◆ 《Wikipedia》の「酒屋」の項を読むと、

◇ 明治時代以降は、町中で諸方面の商品を扱うよろずや的な要素を高めていき、人々の生活と切っても切り離せない存在となった。酒屋の若い店員が各家庭に御用聞きといって、その日に必要な食料や日用品を注文を聞いて回り、あとから宅配するというサービスも一般的に行なわれていた。
ja.wikipedia.org/wiki/酒屋

◆ そうそう、酒屋にもいろいろあるけれど、酒屋といえばそんなイメージ。昔ながらの酒屋さん。とはいえ、ワタシにはほとんどなじみがない。

♪ 角の酒屋のオヤジともすっかり
  顔なじみになってしまって
  「オールドにしてよ」なんで言うと
  「おや景気いいね」と
  「給料日前だからあんまり無理しないで」
  なんて言われて
  「それじゃやっぱりホワイトでいいよ」と

  風「何かいいことありそうな明日」(作詞・作曲:伊勢正三)

◆ 酒屋のオヤジか。この歌詞の酒屋の屋号が「かどや」であれば、なおいい。

◆ 冒頭の内田樹の文章は、本人のブログ《内田樹の研究室:朝の読書》でも読める。

◆ 新潟市内に「ドッペリ坂」というのがある。ドンペリではなく、ドッペリ。説明板によると、

◇  かつてこの坂の上には、旧制新潟高等学校(1919年)やその後の新潟大学がありました。
 “六花寮”という学生寮が正面にあり、大志を抱き、青春を謳歌する弊衣破帽の学生達が、古町などの繁華街を通う近道としてこの坂をさかんに利用していました。
 あまり坂を往来し、遊びの度がすぎると落第するぞという戒めの意から、ドイツ語のドッペルン(doppeln:二重にするという意)と洒落て「ドッペリ坂」と名づけられました。ちなみにこの坂の階段は、及第点の60点に1つ足りない59段でつくられています。

◆ 英語による説明もあるので、ついでに。

◇ The Dopperi Zaka means the "faillure slope" which comes from a German word, doppeln : double. Niigata University used to be located at the top of the slope and its dormitory "Rikka Ryo" was just at the edge. This slope was a short cut for students to go downtown to Furumachi. Those who used the slope too often would be in danger of falling their examinations. The number of the stairs are 59 which is one point shy of the 60 points needed for a passing grade. So they named it "Dopperi Zaka".

◆ この説明は(日本語も英語も)すこし誤解を招くかもしれない。順序としては、まず先に落第・留年を意味するドイツ語由来の「ドッペリ」という学生スラングがあった。ついで、この坂が「繁華街」(古町は花街として有名)に通じていることから、自然発生的に学生のあいだで「ドッペリ坂」と呼ばれるようになった(ということなのだろう)。よくは知らないが、階段の数が「及第点の60点に1つ足りない59段」であるのは、後年この坂を整備するさいに、あえてそうなるように作ったからで、当時からそうだったわけではない(だろう、と推察)。「ドッペリ」というコトバが使われていたのはなにも新潟にかぎらない。全国各地の旧制高校で、この俗語は使われていた。たとえば、旧制松本高校の学生だった北杜夫も、卒業直後に松本を再訪したときの印象を、こう書いている。

◇ 懐かしい町はひとしお小さく、家々の軒も低まってしまったよう見えた。むかし小料理屋が並んでいたため落第(ドッペリ)横町と名づけられた小路、唯一の大通りである縄手、浅間の風呂、どこもかしこもどうしようもない痛切な懐かしさにつながっていた。
北杜夫『どくとるマンボウ青春記 改版』(中公文庫,p.180)

◆ ドッペリ坂にドッペリ横町。探せばほかにもいろいろとあるだろう。――と思って探したら、あった。旧制四高(金沢)にドッペリ松。

〔北國新聞(2009/08/04) 「大槻伝蔵の生首」など旧制四高に伝わる怪談を、同校の寄宿舎「時習(じしゅう)寮」で新寮生を迎えた際、上級生が披露していた怪談会が7日、金沢市の石川四高記念文化交流館で約60年ぶりに復活する。演じるのは旧制四高の後身である金大生ら7人。学生らは当時の寮生活に思いをはせ、熱心にけいこに励んでいる。〔中略〕 本番では、旧制四高の敷地に「加賀騒動」の中心人物大槻伝蔵の屋敷があったことから、伝蔵の没落を見守ったとされる「ドッペリ松」の近くで伝蔵の生首を見たという話など、現存する原稿12話のうち7話を、学生が黒装束で披露する。
www.hokkoku.co.jp/subpage/OD20090804501.htm

◆ ドッペリ坂にドッペリ横町にドッペリ松。この「ドッペリ」には動詞もあって、その「ドッペる」は辞書にも載っている。

ドッペ・る [動ラ五]《(ドイツ)doppelt(2倍の、の意)の動詞化》落第する。ダブる。昔、学生の間で用いられた語。
小学館「大辞泉」

ドッペ・る (動ラ五) 〔補説〕 ドイツ語 doppeln(二倍にする、の意)から作った学生語 落第する。留年する。ダブる。
三省堂「大辞林」

◆ いまの学生なら、ドイツ語ではなく英語で「ダブる」というところだろう。進級試験に落第した結果、原級に留まり、同じ学年を二度繰り返すことが、ドッペる(ダブる、留年する)。いや、いまは「ダブる」でさえ使わないのかも。

◇ 東大の定期試験は優・良・可・不可の4段階で評価される。不可とは落第のことで、いまの東大生は不可をとることを「不可る」という。しかし戦前から戦後まもなくの学生は、「不可る」ではなく「ドッペる」といった。ドイツ語のdoppelt/doppeln(英語でいうダブル)にかけているのだ。だったら英語のダブルをつかって「ダブる」といえばいいものを、わざわざ彼らはドイツ語っぽくしたのだった、落第したくせに(笑)
blog.livedoor.jp/todai_guidance/archives/51635356.html

◆ でも「不可る」とはなんだか語感がイマイチ。それに、「優・良・可・不可」というのはあくまでも個別の科目試験にかんするコトバであって、進級に直接むすびつくわけではないから、「ドッペる」のように留年するという意味では使えないだろう。『どくとるマンボウ青春記』から、もうひとつ。松本での寮生活。

◇ 西寮では「コックリさん」が流行した。紙にイロハを書き、一本の箸を何人かで持って、
「コックリさま、コックリさま、お出でになりましたでしょうか。学期末の試験では誰と誰が落第(ドッペ)るでしょうか、お教え願います」
 などと真剣にやっている光景は、どうしても尋常なものとはいえなかった。
 挙句の果て、その下級生はうつろな顔をしてこう報告した。
「まず◯◯さんがドッペります。総務委員長がそれでは、あとは軒並総討死ですな」

北杜夫『どくとるマンボウ青春記 改版』(中公文庫,p.110)

◆ コックリさん! これなら旧制高校の学生にかぎらず、懐かしく思い出すひとも多いだろう。はたして今の子どももやっているのかどうか。

◆ ドイツ語はさっぱりなので、ドッペリ(あるいは、ドッペる)の由来が doppelt なんだか doppeln なんだかよくわからないけれども、獨協医科大学ドイツ語学教室の先生(寺門伸)の「語学エッセイ(31):「ダブル」と doppelt」を読んだりもした。

◆ 新潟市内に「ボトナム通り」というのがある。ベトナムではなく、ボトナム。説明板のなかば消えかかった文字をなんとか読むと、

ボトナム(柳)通りの由来
 1910年(明治43)年の日韓併合で、日本が朝鮮半島を植民地にした後、朝鮮人が日本内地に渡航してきた。
 第二次世界大戦さなかの1944(昭和19)年になると朝鮮人に対して「国民徴用令」が適用され、強制的に連行されてきた人が多数いた。
 戦後、朝鮮出身者の多くは祖国に帰りたいという強い意志を表していたが、日本と朝鮮民主主義人民共和国とは国交が途絶えたままで、帰国は実現しなかった。
 1958(昭和33)年、朝鮮民主主義人民共和国は「帰国したい者は受け入れるし、日本に船を向ける用意もある」と表明した。
 翌1959(昭和34)年、日本政府は朝鮮民主主義人民共和国への帰国を認め、日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会との間で、「在日朝鮮人の帰国に関する協定」が成立し、調印された。
 帰国者を送り出す港については、当時反対勢力の妨害が予想される状況の下で引き受ける都市がなかったが、当時の新潟市長は、戦前から交流があったこと、また、将来の対岸交流の進展を予測して新潟港から帰国者を出港させることを決断した。
 帰国は1959(昭和34)年12月14日から行われ、一時中断があったものの、1984年(昭和59)年7月25日の第187次帰国まで、延べ28,409世帯、93,339人が新潟港から帰国した。
 1959(昭和34)年12月の第1次県内帰国者が、在日本朝鮮人総聯合会新潟県本部と新潟県在日朝鮮人帰国協力会の協力を得て、日朝友好親善のシンボルとして、東港線沿道約2キロメートルにおいて305本のボトナム(柳)を植樹して寄贈したことから、当時の北村一男新潟県知事が、その行為に感激され、この道を「ボトナム通り」と名付けた。

2000年6月 新潟県

◆ 朝鮮語でボトナムとは柳のこと。とぼとぼ歩いてフェリーターミナルへと向かう道すがら、たまたまこの説明板ととなりの「朝鮮民主主義人民共和国帰国記念植樹 一九五九年十一月七日」と記された標柱に気がついて、「はて、なんだろう」と思って一枚写真に撮っておいただけのことなのだから、「なるほど、朝鮮語でボトナムとは柳のことなんだな」ぐらいに、あたらしいコトバをひとつ覚えたことで満足しておけばよかったものを、それが、いましがた「PhotoDiary」の編集のために写真を見なおしているうちに、つい(うっかり)説明板に書かれた文字を読もうとしてしまい、それがあまりに読みにくかったので、この説明板の文字をテキスト化しているサイトはないものかとネットで探し始めたら、道に迷って戻れなくなってしまった。探しものはすぐに見つかったのだけれども(《船のウェブ・サイト:万景峰92見学記》)。

〔船のウェブ・サイト:万景峰92見学記〕 ご覧のように、案内板は傷つけられており、一部読めないところがある(■で表記)。
www.interq.or.jp/white/ishiyama/column44.htm

◆ 「■」の部分は、ワタシの画像では読むことができたので、合わせて読めば全文がつながり、めでたしめでたし。というところなのだが、今度は「案内板は傷つけられており」という箇所がどうにも気になってしまった。あの案内板が読みにくかったのは、「傷つけられて」いたせいだったのか。まったく気がつかなかった。ワタシがじっさいにあの説明板を「見ていた」のは、せいぜい数秒のことだったろう。なにせ、とりあえず写真を撮っておくか、と思っただけのことなのだから、シャッターを押せばもうおしまい。その場でそこに書かれた文章を読む気はさらさらなかった。そんなふうだったから、あの説明板がどんな「状態」だったかなどということは一切憶えていない。それなら、なにも見ていなかったのと同じことではないか。そうなのだろう、ワタシはあの説明板の写真を撮ったが、あの説明板をほんとうは「見ていなかった」。

〔浅見洋子 | 金時鐘『長篇詩集 新潟』の舞台 その1 | 日本近代文学研究・論潮の会〕プレートは2000年6月に設置されたものです。しかし、プレートが傷つけられたり、文字がところどころ削りとられたりしていて、判読が困難な状態でした。
ronchou.moo.jp/komiti/komiti-kiji1/komiti-nigata1.html

◆ 文字が薄れていて読みにくいと思ったのは、「文字がところどころ削りとられたり」したせいだったのか。まったく気がつかなかった。やはり、ワタシはなにも「見ていなかった」のだろう。とくに見るつもりもなかったのだから、「見ていなかった」ということを確認したからといって、どうということはないはずなのだが、どうもそういうわけにもいかない。どうしてだろう?

〔毎日jp(新潟):「ボトナムは知っている」 北朝鮮帰還事業50年(1) 植樹の日に生まれて(2009年12月09日)〕  新潟市中央区のショッピングエリア・万代シテイから新潟港へと続く国道113号沿いに、柳の木が約2キロにわたって立ち並ぶ。幹の太さは一本一本不ぞろいで、葉の付きもよくない。港に一番近い柳の前で立ち止まった曹喜国(チョヒグク)さん(50)=埼玉県川口市=は「懐かしいなあ」とつぶやいた。
 02年、北朝鮮が日本人拉致を認め、問題がクローズアップされて以来、遠ざかっていた。「ボトナム(朝鮮語で柳の意)のことは、もうみんな忘れているんじゃないかな」。そう言うと、曹さんの表情が曇った。
 1959年11月7日。北朝鮮へ向かう第1次帰還船が新潟港を出発する約1カ月前、帰還を控えた在日コリアンたちが日朝友好の礎として県民に贈った305本の柳がこの道沿いに植樹された。その日に、曹さんは新潟市の中心部・古町にある焼き肉店「牡丹」の末っ子として生まれた。
 新潟は堀のほとりにしだれていた柳の美しさから「柳都」と呼ばれた。平壌もまた「柳京」の異名をもつ。柳が植樹されたこの道を、北村一男知事(当時)が「ボトナム通り」と名付けた。
 朝鮮総連県本部の幹部として植樹にかかわった曹さんの父、閏煥(ユンファン)さん(01年に84歳で死去)は「帰国船の子どもが生まれた」と触れ回ったという。名前を付けるのを、第1船が出る12月14日まで待った。前夜の宴席で、北朝鮮赤十字代表団の李一卿団長に名付け親を頼み、「『喜国』はどうか」と提案された。国を喜ばす、祖国のために生きろ--という意味が込められた。
 在日1世の閏煥さんの生まれは、韓国南東部の慶尚北道。だが、帰還事業でこそ「貧困や差別から解放される」と信じ、仲間に北朝鮮への帰還を勧めた。曹さんは小学3年の時、開校と同時に新潟朝鮮初中級学校に転入。帰還船が出入りする度、全校で港に出向いて北朝鮮の国旗を振った。帰り道のボトナム通りで、植樹した日付が記された白い標柱にボールペンで「曹喜国生まれる」と書き込むいたずらをして、友達に自慢したこともあった。
 だが、八つ上の姉が乗った帰還船を72年に見送った時から、日本海の景色が少し違って見えるようになった。「38度線さえなければ」。曹さんはそう言ったきり、思いをのみ込むように口を閉ざした。
〔中略〕
 帰還船を見送った熱狂的な歓声は、「拉致被害者を返せ」のシュプレヒコールに変わり、船の往来も途絶えた。北朝鮮と韓国を分断する北緯38度線は、新潟をも貫く。第1船の出港から50年。柳は次第に枯れ、植え替えもされなくなり、127本になった。時代の波に翻弄(ほんろう)されてきた人々の姿を、ボトナムは見つめてきた。【黒田阿紗子】

mainichi.jp/area/niigata/news/20091209ddlk15040048000c.html

◆ じつは、ワタシは5年前にも、小樽行きのフェリーに乗るために、今回とほぼ同じルートで、新潟の町をフェリーターミナルまでとぼとぼ歩いたことがあった。5年前にもあの説明板はあったはずだが、気がつかなかった。道路の反対側を歩いていたのかもしれないし、暑さで辺りを見回す余裕がなかったのかもしれない。その代わり(というわけでもないが)、こんな写真を撮っていた。

情報提供のお願い!
 昭和五二年一一月一五日、新潟市寄居町付近で、当時中学生であった横田めぐみさん(当時一三歳)が被害者となる拉致容疑事案が発生し、現在まで発見されておりません。警察では、横田めぐみさんの発見と事案の解決に向けて引き続き捜査を進めております。
 当時、全国では拉致容疑事案が相次いで発生しており、海岸から連れ去られた可能性もあります。どんなことでも結構ですので、心当たりのある方は、情報をお寄せ下さい。
 市民の皆様のご協力をお願い致します。

連絡先 新潟県警察本部外事課 

◆ 昨日は、横田めぐみさんの誕生日だった。

〔MSN産経ニュース〕 柳田稔拉致問題担当相は5日の閣議後記者会見で、北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさんが同日で46歳の誕生日を迎えたことに「拉致から33年が経過し、救出できないことを思うと大変申し訳ない。一日も早く安全に帰れるよう最大限の努力をする」と話した。
sankei.jp.msn.com/politics/policy/101005/plc1010051546012-n1.htm

◆ 46歳。ワタシと同い年だ。

◆ ニュースの見出しに、「一丁目一番地が三丁目の夕日に…」とあるのを見て、なんのことかと読んでみた。

〔MSN産経ニュース(2010/09/25)〕  鳩山由紀夫前首相は25日、京都市内の同志社大学で講演し、自らが首相在任時に進めてきた「地域主権」「新しい公共」という一連の政策の優先順位が、菅政権で落ちているとして菅直人首相を批判した。
 この中で鳩山氏は「(鳩山氏は政策の優先順位の高い)一丁目一番地のように大事に考えていたが、(菅政権になって)二丁目とか三丁目の夕日みたいになってくると、心配だな、という思いがしないではない」と述べた。

sankei.jp.msn.com/politics/policy/100925/plc1009251747024-n1.htm

◆ 読んでもよくわからない。わからないのは「二丁目とか三丁目の夕日」の「の夕日」の部分で、これに意味があるのかどうか? あるような、ないような。朝日でなく夕日ということで、「すぐに消えてなくなる」というニュアンスが多少は含まれているような気もするが、どうなのだろう。というようなことを書くと、オマエは「三丁目の夕日」も知らないのか、と言われそうだが、同名の漫画を読み映画を観たからといって、この発言にたいする理解が深まるとも思えない。そもそも「一丁目一番地」ってなんなんだ? 「三丁目三番地」よりもエライのか? だって一丁目がなきゃ二丁目も三丁目もありえないんだから、という声もすぐに聞こえてきてきそうだが、なるほどおっしゃる通り、とただうなずくのもしゃくなので、いや、そんなことはないよ、たとえば、

◆ 神田多町(かんだたちょう)と神田司町(かんだつかさまち)に、二丁目はあるが、一丁目はない(三丁目はもともとない)。

〔Wikipedia〕 また、神田多町と神田司町に(二丁目が存在するにもかかわらず)一丁目が存在しないのは、住居表示実施に伴う町名変更により一丁目のみ消滅したからである。
ja.wikipedia.org/wiki/神田_(千代田区)

◆ 新聞が鳩山前首相の「一丁目一番地が三丁目の夕日に」という発言を、もっと削って「一丁目が三丁目に」にするのではなくて、そのまま見出しにしたのはどうしてだろう。洒落た表現だと思ったからだろうか(駄洒落ではあるが)。そもそも鳩山前首相はなぜ「一丁目一番地が三丁目の夕日に」と言ったのだろうか。あらかじめ作文してあったのか、とっさに口をついて出たものか。「江戸っ子」だから、意外に「無駄口(付け足し言葉)」が好きなのかも。

◆ 「三丁目」と言うときには、つい「の夕日」と付け足してしまう、いや、「三丁目の夕日」と言わなければどうしても落ち着かない。「夕日」と言うときには、もちろん「のガンマン」と付け加えたくなる。しかし、そこまでやるのは野暮だろうから、ここはガマンして、と。そんなことを考えながら講演していたのかも、と想像することは楽しいが、まあ、そういうことはないだろうな。

◆ ヒマなので、「PhotoDiary」の抜けてるところをせっせと埋めている。これは5年前の写真。撮った記憶は皆目ないが、こうして残っているから撮ったんだろう。ただ、どうしてこの写真を撮ったのかについては、自分のことだから、5年前とはいえよくわかる。「ヨウ接」の「熔」の字が気になったにちがいない。「溶接」ではなくて「熔接」。水ではなくて「火」偏のヨウ。こんな漢字も使うんだなあ、と思ったにちがいない。あれ、「ヨウコウロ」はどういう漢字を使うんだっけ、といま思いついて、「ようこうろ」と入力してみたら、変換候補に「熔鉱炉/鎔鉱炉/溶鉱炉」と出た。みっつもあるのか。

◆ 「鉱」の字でまた思い出したけど、「炭コウ」の表記も「炭鉱」に「炭砿」とふたつある。理屈はよくわかる。

〔Wikipedia〕 炭鉱は石炭または亜炭を掘り出す鉱山そのものを指すが、しばしば同じ読みで炭砿(旧字体では炭礦)とも表記される。石炭は金属ではなく、その採掘地を金属鉱山とは呼べないため、漢字の偏が「金偏」ではなく「石偏」となるのが正しいという理由である。
ja.wikipedia.org/wiki/炭鉱

◆ それから、「バン金」なんてのも「板金」と「鈑金」があるな。ほかには? いまのところ、思いつかない。風呂屋でちょっと考えてみることにしよう。

◆ 「異常な速度で」と、内田樹は書いている。

◇ 私たちの社会では、「他者が何かを失うこと」をみずからの喜びとする人間が異常な速度で増殖している。
内田樹『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ,p.82)

◆ 先の首相は「友愛」だの「win-win」だのと声高に叫んではいたが、そんなものは絵空事としてだれも耳を傾けようとはしなかった。ゼロサム社会の縮図としてのゼロサムゲームを「battle royal」よろしく演じているのは、現実主義者の子どもたちである。ゲームの規則は単純だ。「偏差値」のスコアをとにかく上げればいい。偏差値を上げる方法は二つ。たったの二つ。

◇ 自分の学力を上げるか、他人の学力を下げるか、である。
内田樹『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ,p.83)

◆ 「そして」と、内田樹は書いている。

◇ そして、ほとんどの人は後者を選択する。
内田樹『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ,p.83)

◆ ! これには、かなりびっくりした。偏差値を上げるのに、こんな魔法のような方法があっただなんて! そして、「ほとんどの人」がその方法を知っていてその方法を採用していただなんて! ワタシも子どものころから知っていれば、以下のような方法をどんどん取り入れていたことだろう。あのころ、どうしてこんな単純なことに気がつかなかったのだろう?

 ◇ だから、学習塾で学校より先に進んでしまった子どもたちは、授業妨害の仕事にたいへん熱心に取り組む。それは「教師の話を聴かないで、退屈そうにしている」という消極的なしかたで教室の緊張感を殺ぐことから始まり、私語する、歩き回る、騒ぎ立てる、というふうにエスカレートする。
 彼らがそれほど熱心なのは、それを「勉強している」ことにカウントしているからである。
 たしかに、彼らは級友たちの学習時間を削減し、学習意欲を損なうことには成功しているのである。だから、そのささやかな努力の成果は彼らの「偏差値」のわずかな上昇として現れることを期待してよいのである。

内田樹『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ,p.83-84)

◆ じっさいの教育現場がどうなっているのかについては、知る機会がないのでよくわからない。もしかしたら、ここに書かれているような事態は、あるいは特殊な例かもしれないし、あるいは内田氏独自の特殊な見方であるかもしれない。とはいえ、教育の問題を別にしても、私たちの社会が「異常な速度で」変わりつつあるという感覚は、漠然とであれ多くのひとが共有しているのではあるまいか?

◆ 引用した内田樹の文章は、かれのブログ《内田樹の研究室:忙しい週末 once again》でも(ほぼ同様なものが)読める。

◆ 2010年10月11日は、よい日だった。空は青空。雲ひとつない青空。それだけでもよい日だけど、仕事が早く終わり、まだ明るいうちに仕事が終わり、ぶらぶらと知らない町を、近くにあった動物園まで散歩をする。動物園にはペンギン。輪になって泳ぐペンギン。2010年10月11日は、とってもよい日だった。

◇ ただ、こういうことは、たまにある。私が特にこういう奇妙な偶然にめぐまれているというわけでもなく、誰にでもあることだろう。ふだんならば長い時間の軸の上にちりぢりばらばらに置かれていることごとが、たまたま集まってくる。いくらか長く生きていると、そういうことがときどき起こるように思う。
川上弘美『ゆっくりとさよならをとなえる』(新潮文庫,p.124)

◆ 「こういうこと」というのは、川上弘美がかつてわずかのあいだ住んでいた町(明石)の思い出を新聞のエッセーに書いたら、そのエッセーが新聞に掲載される2日前にその町の友人からたまたま手紙が届き、1日前にその町の別の友人からたまたま電話がかかってき、新聞の掲載から半月後に会おうと思った人がたまたまその町に転勤で引越してしまっていた、というような偶然の連鎖のことで、こういう「たまたま話」がワタシは大好きなので、他人の話ではあっても、なんとなく楽しい気分になる。

◆ そういえば、数日前、ワタシにもこんなことがあった。横浜の日ノ出町あたりを散歩していたら、「横浜愛犬高等美容学園」という看板がふと目に入った。「高等」の文字がなんとなく気になって、この高等というコトバの位置がなんとなく変かな、などと思い、ではどこに入れればいいのかとあれこれ考えて、「横浜高等愛犬美容学園」がいいかな、とも思ったけれど、それでは「頭のいい犬」のためのトリミングスクールの意味にもとれるから、やっぱり元の語順でいいのか、と思い直しもしたりして、でも結局は「高等」というコトバはそもそも不要じゃないか、などとくだらぬことを考え続けて、ふと通りの反対側に目をやると、マンションに「空ワンルーム」の文字。ワンルーム? とっさに犬用のマンションかと思ってしまった。おまけに、そのマンションの前には犬の散歩をしてる人もいたりして。いや、まあ、それだけのハナシなんだけど。そんなことであっても、なんとなく楽しい気分になった。

◆ 旧制浪速高等学校に、こんなスラングがあったらしい。

◇ ディクテーションとは英語の「書き取り」だ。浪高のすぐ北に位置する箕面市には、柿の木がたくさんあった。秋が深まると真っ赤な実をつける。それを盗みにいくことを浪高では「ディクテーションに出かける」といった。
週刊朝日編『青春風土記 旧制高校物語3』(朝日新聞社,p.119)

◆ 「書き取り」と「柿取り」、いや「柿盗り」か。柿取りといえば、5年前、仕事の合間に世田谷の岡本あたりをふらふらと散歩していたら、区立の民家園というのがあって、無料なので入ってみると、竹の「柿取り棒」を使って柿を取っている人がいた。しばらく見学していると、「やってみるか」というので、やらせてもらって、自分で取った枝付きの柿を三つお土産にもらって帰った。そんなことを思い出した。

◆ たとえば、「書き取り」と「柿取り」ではアクセントが違う。と書いて、違わないひともいるかな、と思った。

小澤 あなたは、いわゆる方言があるんですか。
大江 僕の話しぶりを聞いて芥川也寸志さんが、音楽家として茫然とされたことがありますが、僕の地方は日本列島でも狭い地域にしかないいわゆる非アクセント地域、ノンアクセントゾーンです。僕の思いこみかもしれないけれど、いまでも言葉にアクセントが弱いようです。
小澤 こういくわけですか(手でジェスチャアする)。
大江 そう、そのように平坦です。僕が大学に進学して困ったのは、英文学科の講義を聴きに行ったときに、英語のアクセントがピッチだということがわからなかったことです。アクセントというのは、ただ調子を強くするだけだと……。〔中略〕
小澤 たとえば箸とか橋というのは……。
大江 分かりません。
小澤 駄目なんですか。
大江 いま小澤さんが言われた二つの「はし」の区別が分からないんです。

小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』(中公文庫,p.79-80)

◆ と、大江健三郎は自らの「アクセント音痴」を明らかにしているが、これはもちろん本人のせいではない。

〔くまから・かまから(宮古島方言マガジン) vol.102〕 こういう"アクセント音痴"の人は、平良だけではなくて、全国にいるらしく、有名人で言うと、春日八郎、東京ぼんた、ガッツ石松、前川清、渡辺美智雄、渡辺恒三、柳田邦男、立花隆、大江健三郎、立松和平等がそうらしい。
www.melma.com/backnumber_33637_1630638/

◆ 大江健三郎の出身地は、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)。大江のいう「非アクセント」は、また「無アクセント」「一型アクセント」などとも呼ばれる。

【一型アクセント】 日本語のアクセントで、同一音節数の語がすべて同じ型のアクセントで発音されるもの。例えば、「箸(はし)」と「橋」とが同じアクセントになる。南奥羽から北関東にかけての地域と静岡・福井・愛媛県の各一部、九州中部・八丈島・五島列島などでみられる。
三省堂『大辞林』

◆ さらには、「崩壊アクセント」とも呼ばれるようで、

〔Wikipedia:崩壊アクセント〕 テレビやラジオなどで崩壊アクセントが特徴的な話者としては、あき竹城(山形)、斎藤暁(福島)、ガッツ石松(栃木)、立松和平(栃木)、高橋愛(福井)、マギー司郎(茨城)、磯山さやか(茨城)、松野明美(熊本)、ヒロシ(福岡・熊本)、蛭子能収(長崎)、米良美一(宮崎)、鳥越俊太郎(福岡)らを挙げることができる。
ja.wikipedia.org/wiki/崩壊アクセント

◆ ただ、

〔栃木のことば〕 「無アクセント」のことを、「崩壊アクセント」と呼ぶことがあります。これは、無アクセントの方言が、有アクセントの方言のアクセントが崩れることによって生じたという考え方に基づいた呼び方です。しかし最近は、この逆の方向、つまり、「無アクセント→有アクセント」という変化を考える山口幸洋先生のような研究者もいます。この考え方によれば、無アクセント方言は、アクセントという現象面において、有アクセント方言よりも古い日本語の姿を保っているということになります。
www.hcn.zaq.ne.jp/myattun/tochi/index.html

◆ 「崩壊アクセント」か。学術用語とはいえ、あんまり使いたくはないなあ。

◆ 2005年7月10日、港区麻布十番。

◆ このときは、まだ麻布十番温泉があった。2008年3月31日に廃業。

日経トレンディネット(2008/03/27)〕 2008年3月31日、都会のど真ん中にある名物温泉、「麻布十番温泉」が約60年の歴史に幕を下ろし静かに姿を消す。施設の老朽化や、従業員の高齢化、客足が最盛期の3割ほどに減ったことなどを理由に3月いっぱいで廃業することが決まったのだ。
 1949年に開業した「麻布十番温泉」は、戦後、間もなく空襲で被害を受けた銭湯を、現在の経営者である平岡久枝さんの父親が買い取り、そもそもは銭湯としてスタートした。ところが、戦後の水道事情の悪さと水不足に困り果て井戸を掘っているうちに、地下500メートルから偶然にも温泉が湧き出した。

◆ たいやきの浪花家総本店。このときは、まだ旧店舗だった。

ZAKZAK(2010/05/07)  たい焼き売り上げ世界一の老舗店「浪花家総本店」(東京・麻布十番)会長で、大ヒット曲「およげ! たいやきくん」のモデルとなった神戸守一(かんべ・もりかず)さんが5日、前立腺がんのため亡くなっていたことが分かった。86歳。
 神戸さんは、たい焼きを初めてこの世に送り出した同店の3代目として、15歳のときから70年以上たい焼きを焼き続けた名物店主。コック帽にちょうネクタイ姿が話題となり、1975年には「およげ-」のモデルになったことから一躍全国区の人気になった。

◆ さいきんネコの写真を撮ってないな、とふと思ったのが昨日だった。そしたら今日はネコが二匹もお出まし。なんとも愉快愉快。