MEMORANDUM

  乗組貝

◆ 森鴎外『妄想』から、二度目の引用。

◇ 自分は錫蘭(セイロン)で、赤い格子縞の布を、頭と腰とに巻き附けた男に、美しい、青い翼の鳥を買はせられた。籠を提(さ)げて舟に帰ると、フランス舟の乗組貝が妙な手附きをして、「Il ne vivra pas !」と云つた。美しい、青い鳥は、果して舟の横浜に着くまでに死んでしまつた。それも果敢(はか)ない土産であつた。
森鴎外『妄想』(青空文庫

◆ これを読んで、乗組員が乗組「貝」になっていることに気がつくひとはどれくらいいるものだろうか? もともとの底本の誤植なのか入力ミスなのかは調べないとわからないが、手入力ではなく、本をスキャンしてOCRソフトで読み取ると、どうしても校正がおろそかになってこうした間違いが多くなる。「乗組貝」で検索すると、国会の議事録など46件がヒットした。そのひとつが、《東北文庫 web 物語伝承館》に収録された夏堀正元「下北半島紀行」。


◇ それらの岩々は、まるで白骨でつくられたかのように白く、脆い感じでそそりたち、いやでもわたしに仏ガ浦のいい伝えを思いださせた。それは、潮の流れの早い津軽海峡の難所で難破した船の乗組貝の死体が、きまってここに漂着したという話である。いわばここは死者の淵なのだ。
夏堀正元「下北半島紀行」(東北文庫

◆ この文章を読むと、ちょっと不思議な気分になる。「員」が「貝」に間違って読み取られたというだけのことなのに、それが鉄道員や国会議員ではなく、たまたま(船の)乗組員であったことで、貝との親和性が生まれてしまう。ここからあとはワタシの「妄想」だが、難破した船の乗組員の死体が、漂いながらしだいに白骨化していき、ついには貝になって海底の岩にへばりつく。ひとり、またひとり、貝になる乗組員が増えていき、仏ガ浦の断崖はますます白さを増していく。

◇ どうしても生まれかわらねばならないのなら、私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い岩にへばりついて何の心配もありませんから。
加藤 哲太郎『私は貝になりたい』(春秋社)

◆ 写真は、地下鉄赤坂駅で見かけた映画『私は貝になりたい』の宣伝パネルの一部。この写真を撮った日が公開日だったようで、「11月22日(土)全国公開」と書いてある。数字の上には、ごていねいに「いいふうふ(1122)」のふりがな付き。さらには、

〔Wikipedia〕 なお、丸刈りにすればBouz割引が適用され、1000円で鑑賞可能。これは、出征を前に丸刈りにする場面があることから来ている。
ja.wikipedia.org/wiki/私は貝になりたい

◆ こんな企画を思いつくのはどんなひとだろう。

  夷灊川

◆ たわむれに「灊」で検索してみると、森鴎外が出てきた。

◇ 河は上総(かづさ)の夷灊川(いしみがは)である。海は太平洋である。
森鴎外『妄想』(青空文庫

◆ そういえば、大多喜を流れていたのも夷灊(隅)川だった。

〔Wikipedia〕 清澄山系の東方の勝浦市上植野に源を発し、数多くの渓流をあわせ複雑に蛇行しながら北流した後、大多喜町付近でその流れを東折し、いすみ市岬町和泉で太平洋に注ぐ。
ja.wikipedia.org/wiki/夷隅川

◆ たまたま見つけた森鴎外の文章、せっかくだから、全部読んだ。自伝的回想を軸にした短編。鴎外とおぼしき「白髪の主人」が別荘近くの海辺を散歩している。じっさい鴎外は夷隅川が外房の海に注ぐ河口近く、夷隅郡東海村字日在(ひあり)(現在のいすみ市日在)に鴎荘という名の別荘を持っていたそうで、散歩から戻った「主人」は、別荘の居間で、

◇ 自分がまだ二十代で、全く処女のやうな官能を以て、外界のあらゆる出来事に反応して、内には嘗(かつ)て挫折したことのない力を蓄へてゐた時の事であつた。自分は伯林(ベルリン)にゐた。

◆ と、留学時代の回想にふけり始める。回想といっても、こむずかしい哲学的なハナシが続くので、ワタシにはあまりおもしろくはない。だいぶとばして、留学から帰朝する場面。

◇ シベリア鉄道はまだ全通してゐなかつたので、印度(インド)洋を経て帰るのであつた。一日行程の道を往復しても、往きは長く、復(かへ)りは短く思はれるものであるが、四五十日の旅行をしても、さういふ感じがある。未知の世界へ希望を懐(いだ)いて旅立つた昔に比べて寂しく又早く思はれた航海中、籐の寝椅子に身を横へながら、自分は行李にどんなお土産を持つて帰るかといふことを考へた。
〔中略〕
 自分は錫蘭(セイロン)で、赤い格子縞の布を、頭と腰とに巻き附けた男に、美しい、青い翼の鳥を買はせられた。籠を提(さ)げて舟に帰ると、フランス舟の乗組貝〔ママ〕が妙な手附きをして、「Il ne vivra pas !」と云つた。美しい、青い鳥は、果して舟の横浜に着くまでに死んでしまつた。それも果敢(はか)ない土産であつた。

◆ 航海の途中、寄港したスリランカ(セイロン)でつい買ってしまった「青い鳥」。船に戻ると、そのカゴの鳥を見た船員からフランス語で声をかけられる。「Il ne vivra pas !」(その鳥はじきに死ぬよ)。すでにだいぶ弱っているのを売りつけられたのだろうか。

◆ ちなみに、鴎外が出帆したのは、フランスのマルセイユ。写真は鴎外となんの関係もない。ただ、「マルセーユ」に「ラメール(海)」というつながりが気にいったもので。それにしても、麻雀屋のネーミングというのはいったいどうなっているんだろう。なんとも不思議だ。

  塩竈

◆ 「いすみ市」が「夷灊市」だったらということを夢想しているうちに、ヤヤコシイ漢字を使った市名に「塩竈市」があるのを思い出した。《Yahoo!知恵袋》にこんな質問。

◇ 宮城県「しおがま市」の漢字表記は、旧字体を用いて「塩竈市」とするのが正式なのですか? 郵便局配布の郵便番号簿には、そのように記載されています。難しい漢字ですね。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q109553180

◆ たしかに難しい漢字だが、「竈」はふつうには「カマド」と読まれる字で、「釜」の旧字体であるわけではない。まったく別の漢字である。その点では、「塩釜」と書くのは、たとえば「塩鎌」と書くのと同じくらいにおかしいはずだが、カマドは「釜戸」とも書かれることがあるので、強弁すれば、「塩釜」の「釜」は「釜戸」の「戸」を省略したもの、という説明も成り立つだろうか。塩竈市は、

〔Wikipedia〕 「塩釜市」と表記されることも多く、塩竈市内にある市以外の機関の名称の多くは「塩釜」になっており(郵便事業の支店も塩釜支店である。なお、杜の都信用金庫は塩竈営業部である)、JRの駅名でも「塩釜」(塩釜駅,本塩釜駅など)であるが、釜は所謂「ナベ・カマ」の「かま」であり、竈は釜をのせる「かまど」のことなので、字義が異なる。
ja.wikipedia.org/wiki/塩竈市

◆ 塩竈の表記については、塩竈市役所のホームページに《塩竈市:「竈」の字の書き方》というよくできたページ(読みやすいデザインだし、内容もまとまっている)があって、ひじょうに参考になる。

〔塩竈市:「竈」の字の書き方〕 塩竈市役所で作成する公文書においては、「塩竈」を使用することになっています。ただし、市民の方、あるいは他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解釈して受理することとしています。
市役所で、塩竈という表記に統一するようになったのは、昭和16年(1941年)からで、それ以前には、「鹽竈」、「塩竈」、「鹽釜」、「塩釜」など、混在して用いられていました。「鹽」という漢字についは、当用漢字の「塩」を用いてもさしつかえありませんが、「竈」と「釜」では、字義が違っており、本市の地名の由来が、「鹽竈神社」の社号に因むものであるところから、「釜」ではなく「竈」を用いることに統一されました。

www.city.shiogama.miyagi.jp/html/service/kamado/index.html

◆ とりあえず「しおがま市」に変更される気配はなさそうだ。

  夷灊

◆ 千葉県夷隅郡大多喜町・夷隅神社の説明板。

◇ むかしから牛頭天王宮と称し、明治の初めに夷灊(いしみ)神社と改号して村社となり、明治十二年には社格が郷社になりました。

◆ 先の記事で、この文章を引き写しているときに、いやあ、こりゃ面倒だな、と思った。イシミの「シミ」にあたる漢字が見たこともない漢字で、この説明板の字体もこの漢字だけがアンバランスな感じ。きっと切り貼りして作ったんだろう。こんな漢字はパソコンでは表示できないよな、さてどうするか、と最初からあきらめていたのだが、《Wikipedia》を見ていたら、夷隅は、

〔Wikipedia〕 古くは古事記に「伊自牟(いじむ)」、日本書紀に「伊甚(いじみ)」として登場する地名であり、日本書紀には朝廷の直轄地として「伊甚屯倉(いじむのみやけ)」が置かれたとの記述が存在する。郡名としては「夷灊」など様々な当て字が用いられてきたが、江戸時代初期に「夷隅」の字が当てられ、定着したとされている。
ja.wikipedia.org/wiki/夷隅郡

◆ ありゃりゃ、「灊」の字がちゃんと表示されている(ちゃんとと言っても、ふつうの文字サイズで見ると、つぶれてしまっていてどんな字だかよくわからないだろうけど)。ちょっとびっくり。

◆ 地名としての夷隅(いすみ)は、さいきんまで郡名でしかなかったので、知らないひとも多かったが、平成の大合併での「いすみ市」の誕生(2005年12月5日)、いすみ鉄道によるムーミン列車の運行開始(2009年10月)、などの効果で、「いすみ」の知名度はかなり上昇したのではないか。ひらがなというのもどうかと思うけれど、地元では「夷灊市」「夷灊鉄道」の表記を推す意見も少しはあったのだろうか。ちょっと気になる。

  猪十六

◆ いすみ鉄道大多喜駅前の食堂「番所」。それほどお腹も減っていなかったのでそばにしたが、メニューに「大多喜名物 猪十六丼」というのがあって、それがひじょうに気になった。

〔厚木市観光協会〕 猪肉は、「牡丹(ぼたん)」「山鯨(やまくじら)」ともよばれ、主に鍋料理として古くから愛好されています。
www.atsugi-kankou.jp/eat-shishi.htm

◆ 牡丹や山鯨という隠語なら知っているけど、「十六」というのはお目にかかったことがなかった。で、「猪十六」の読み方をご主人に聞くと、「シシジュウロク(4×4=16)」との答え。なるほど。

〔中国新聞〕 万葉集には、イノシシの特別な表記法がある。「十六」と書いて、シシと読ませる。九九のもじりである。死の連想につながる四の字を重ねる「四四」と書くのを嫌ったのだ、という。
www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ihen/4-3.html

◆ 万葉の時代にすでに九九があったということ自体が驚き。シシは猪(イノシシ)または鹿(カノシシ)。

〔日国.NET:小林祥次郎の発掘日本のことば遊び 第13回 万葉集の戯書(数の遊び)〕 四四十六によってシシ(狩りの対象となる猪や鹿)と読みます。かつてテレビのアニメ「ゼンダマン」に、ゼンダライオンという機関車が出てきて、そのプレートに「4416」と記してあり、それが出動する時には「胸に輝くプレートは、シシのジュウロク」という歌が流れました。万葉の伝統はこんなところまで続いていると言えるかもしれません。
www.nikkoku.net/ezine/asobi/asb13_04.html

◆ 実例を見てみると(万葉集巻第六・926)、

◇ 朝獦尓 十六履起之 夕狩尓 十里蹋立
(朝狩に 獣(しし)踏み起し 夕狩に 鳥踏み立て)

◆ 訓み下し文は鹿持雅澄(『萬葉集古義』)。万葉仮名で書かれた原文で、シシ(猪・鹿)は「十六」、トリ(鳥)は「十里」か。なるほど、おもしろい。どうして古文の先生は教えてくれなかったんだろう。

◆ ほかに、「三五月」と書いて、モチヅキ(望月)と読ませる。3×5=15で、十五夜は満月(望月)だから。

◆ ほかに、「二八十一不在国」と書いて、ニククアラナクニ(憎くあらなくに〔憎くはないのに、の意〕)と読ませる。81=9×9というわけ。

◆ あるコトバをいつどこで覚えたかなんてことは、たいていの場合、憶えていない。もちろん、例外もある。

◆ その例外のひとつが、スズカケノキ。このコトバを初めて知ったのは、小椋佳の「春なんだなあ」という歌だった。

♪ 鈴懸の並木路 芽がうるむ 背伸びする
  春だ 春なんだなあ

  小椋佳「春なんだなあ」(作詞:藤村渉、作曲:小椋佳)

◆ この曲が収められたアルバム『渡良瀬逍遥』は、1977年4月1日にリリース。ということは、中1だったか。「スズカケのナミキミチ」の「スズカケ」の意味がわからず(樹木だということさえわからなかった)、辞書で調べた。のだったか、それとも親に聞いたのか。当時、辞書を引く習慣があったとも思えないので、たぶん後者だろうなあ。

◇ 和名のスズカケノキという命名は松村任三博士だそうだが、牧野博士によるとこれは山伏の法衣の名で篠懸(すずかけ)というのがあるのを、そこに付けてある球状の飾りの呼び名と間違えて付けてしまったもので、もし強いて書くなら鈴懸とでもしなければ意味が通じないそうだ。
辻井 達一『日本の樹木』(中公新書,p.181)

◆ でも、この山伏の法衣であるスズカケ(勧進帳の弁慶が着てるやつ)のイラストを辞書で見た記憶もあるから、きちんと辞書を引いたのかもしれない。

◆ それから、この「春なんだなあ」の作詞は、小椋佳ではなくて藤村渉。この藤村渉というのは、元セゾングループ代表の堤清二のペンネームだそうで、辻井喬というペンネームで詩や小説を書いていたのは知ってたけど、作詞までやっていたとはちょっとびっくり。

◆ スズカケノキは、プラタナスといったほうが通りがいいだろう。小椋佳には「小さな街のプラタナス」(『彷徨』に収録)という曲もあって、これは自らの作詞。

♪ 小さな街の 小さな恋
  小さな公園 大きな木
  大きな大きな プラタナス

  小椋佳「小さな街のプラタナス」(作詞・作曲:小椋佳)

◆ 書き写していて気恥ずかしい気もしないではない歌詞だが、それはさておき、このプラタナスという言い方はラテン語の学名を英語読みしたもので、この写真を「読む」と、学名として「Platanus orientalis Linn.」と書いてあって、あれっ?、と思った。「リンネ(Linn.)が命名した東洋のプラタナス(Platanus orientalis)」? プラタナスは西洋ではなくて東洋(→ひょっとして日本)の原産だったのか? と、思ったのだったが、

◇ オリエンタリスというのは原産地がトルコ、ペルシア、ギリシャなどだったから
辻井 達一『日本の樹木』(中公新書,p.179)

◆ とあるように、東洋(オリエント)といっても広いので、ヨーロッパ人にとっての東洋(オリエント)が、極東(Far East)に位置する東アジアのことであるよりも、まず第一にトルコにはじまる中近東の地域のことであったのは致し方ない。

◆ プラタナスの主な種類としては、「東のプラタナス」(Platanus orientalis、スズカケノキ)のほかに「西のプラタナス」(Platanus occidentalis、アメリカスズカケノキ)というのもあって、こちらは北米に自生する。それから、「東のプラタナス」と「西のプラタナス」の雑種である「スペインのプラタナス」(Platanus × hispanica、モミジバスズカケノキ)というのもあって、街路樹として見かけるプラタナスのほとんどがこれらしい。上の写真のプラタナスも、正確には、スズカケノキではなくてモミジバスズカケノキということになるのだろう。和名はいいとしても、学名のところは「Platanus × hispanica」と書いておくほうがよくはないか。

ぎおんしんこう【祇園信仰】 牛頭天王(ごずてんのう)および素戔嗚尊(すさのおのみこと)に対する信仰。災厄や疫病をもたらす御霊(ごりよう)を慰め遷(うつ)して平安を祈願するもので、主として都市部で盛んに信仰された。祇園祭・天王(てんのう)祭・蘇民(そみん)祭などの名で各地で祭りが行われる。また、津島神社の津島祭も同系列の信仰とされる。
三省堂「大辞林」

◆ ちょっとまえに「祇園」のハナシを書いたとき(「狭山の祇園」「木更津の祇園」)、祇園信仰のことも多少調べてみたけど、辞書的記述を越える範囲のことはワタシには難しすぎて(複雑すぎて)よくわからないので、続きを書けずにほったらかしにしてある。ただ、なぜだか牛頭天王という神様が気になって仕方がない。

〔Wikipedia〕 明治維新の神仏分離によって、日本神話のスサノオを仏教信仰に組み込んだ牛頭天王は徹底的に弾圧された。天台宗の感神院祇園社は廃寺に追い込まれ、八坂神社に強制的に改組された。全国の牛頭天王を祀る祇園社、天王社は、スサノオを祭神とする神社として強制的に再編された。
ja.wikipedia.org/wiki/牛頭天王

◆ 牛頭天王のこともちょっと調べてみたが、これまたやっぱり、ワタシにはすんなりと理解できないので、ほったらかし。ただ、さいきん、たまたま立ち寄った神社の説明板にたまたま「牛頭天王」の名前を見かけると、なんだかウレシイ。なんにも知らないのに妙なものである。

〔川崎市多摩区菅・八雲神社〕 當社は鎌倉時代の創始と伝う。旧時は天王社と唱え、祇園牛頭天王を祭り、仙谷山寿福寺の末寺小谷山福泉寺(應永年間創立)の境内に〔以下、読みづらいので省略〕

〔大津市和邇中・天皇神社〕 天皇神社は、牛頭天王社と称し、天台宗寺院の鎮守社と伝えられる。祭神は素盞烏尋〔ママ〕を祀る。

〔京都市東山区・粟田神社〕 粟田神社は、旧粟田口村の産土神である。江戸時代までは感神院新宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素盞嗚尊ほかを祭神とする。

〔千葉県夷隅郡大多喜町・夷隅神社〕 この神社の祭神は、天照大神の弟神である素戔鳴〔ママ〕尊です。〔中略〕 むかしから牛頭天王宮と称し、明治の初めに夷灊(いしみ)神社と改号して村社となり、明治十二年には社格が郷社になりました。

◆ スサノオの「嗚」が「鳴」になってたり、ミコトの「尊」が「尋」になってたり、説明板ひとつ書くのも楽じゃない。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈ですっかり姿を消してしまったという牛頭天王。復活する日は来るんだろうか。