MEMORANDUM

◆ 「まつり」のための描かれたかわいい絵がたくさん並べて展示されていた。こういうのを見るのは好きなので、ひとつひとつ見ていった。そしたら、ふと疑問がわいた。

◆ 「まつり」は「祭り」なのに、「こおり」はどうして「氷り」じゃなくて「氷」なんだろう?

◇ 氷は「氷り」と送り仮名を使わないのに、祭には「祭り」と送り仮名を使うしで、年寄は迷ってしまう。
www.melma.com/backnumber_12972_494996/

◆ ワタシも迷ってしまう。「年寄」に「り」はいらないのだろうか? 文部科学省サイトに「送り仮名の付け方」というページがあって、「現代の国語を書き表す場合の送り仮名の付け方のよりどころ」を親切に示してくれているので、それを見ると、「通則4」のところに、

◇ 本則 活用のある語から転じた名詞及び活用のある語に「さ」,「み」,「げ」などの接尾語が付いて名詞になったものは,もとの語の送り仮名の付け方によって送る。
www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19730618001/k19730618001.html

◆ とあって、その例に「祭り」も挙げられている。ただし、例外があって、「次の語は,送り仮名を付けない」と書かれている。どれどれ。

◇ 謡 虞 趣 氷 印 頂 帯 畳 卸 煙 恋 志 次 隣 富 恥 話 光 舞 折 係 掛(かかり) 組 肥 並(なみ) 巻 割

◆ ああ、あった。ここにしっかり「氷」があった。氷は例外だから、送り仮名をつけない、と。なるほど。でも、これらの語が例外とされているのはどうして? などと考え始めると、またキリがなくなるが、

◇ この「送り仮名の付け方」は、科学・技術・芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。

◆ ということらしいので、お言葉に甘えて、とりあえず、あまり気にしないことにしておこう。それにしても、例外のなかに、どうして「祭」も入れとかなかったんだろう?

◇ じつは私は、ものごとの理解が遅いんです。こんな本を書いたりしているから、早いと思う人もいるでしょうが、いまでも他人のいったことを、一年間考えたりするんです。だから、ただいま現在のことを、あれこれ議論するような会議は、徹底的に苦手です。その場の議論についていけないんです。だから会議では意見をいわなくなる。教授会で意見をいったのは、十三年のなかで一回だけですからね。なにしろ一年考えて、それからやっと返事できるんですから。蛍光灯もいいところです。
養老孟司『運のつき』(新潮文庫,p.66-67)

◆ 似たようなことを川上弘美もエッセーに書いてたなあ、と思って、本棚を探してみる。たいていの場合、つぎつぎと本をひっくり返してみて、それでもなかなか見つからなくって、そのうちに関係のないページを熱心に読み始めてしまって、あげくになにかを探していたことさえ忘れてしまうことになるのだが、今回はすぐに見つかった。見つかったのだが、読みなおしてみると、これがあまり似ていない。

◇  頭の廻(めぐ)りが、悪い。
 たとえば、「あなたちょっと正確が悪いんでは」などと言われたとしても、「はあ」などと答えてその場では笑っている。五分後くらいに、やっと「性格が悪いと言われた」ことが頭の芯に届くが、その時にはもう話題は変わっている。じつに間抜けなことである。

川上弘美『あるようなないような』(中公文庫,p.65)

◆ いや、やっぱりちょっとは似ているか? すぐにはわからない。その答えを出すのに、ワタシの場合、どれくらいの時間がかかるのだろう?

◇ ぼくは放浪したとき一番さきに気にしたのはあつさ寒さなので、陽気によって持物をかえなければなりません。夜は野天風呂のそばや駅のベンチでねるので、さむければかぜをひくので、あつければ着るものをたくさんもってあるくのは、リュックがおもくてしかたがない。ヨーロッパもいくさきざきによって陽気がちがうので、とても放浪しにくいところだと思った。
山下清『ヨーロッパぶらりぶらり』(ちくま文庫,p.214-215)

◆ あれっ、と思ったのは、「野天風呂」という言い方なので、というのも、ぱらぱら彼の放浪記を読んでいて、これまで記憶にあるのはすべて「露天風呂」という言い方だったからなので、版によっては「ろてん風呂」とか「ろ天風呂」と書いてあるのもあったけれど、原稿を見たわけではないので、ほんとうはどれがほんとうかよくわらない。たとえば、

◇ 伊香保のろ天風呂は外にあって、みなが入るところは池みたいな形をしているので、温泉の色は茶色で土でよごれたような色をしている。
山下清『日本ぶらりぶらり』(ちくま文庫,p.100)

◇ 「ここが草津温泉のろてん風呂で ただで入れるんですか」と言ったら よその人が「そうです ここが草津温泉のろてん風呂です ただで入れます お前はどこの人だ」と言われたので
山下清『裸の大将放浪記 第三巻』(ノーベル書房,p.479)

◆ かれが露天風呂好きなのは、基本的には、タダで入れるからで、

◇ 玉造の温泉プールは野天にあって、その深さは胸ぐらいなのでおよいでも心配はない。ぼくは毎日のようにそのプールへおよぎにいった。ここは男も女も区別がないので、自由にいつでも、だれでも入れる温泉だった。
山下清『日本ぶらりぶらり』(ちくま文庫,p.113)

◆ あっ、これも野天だな。玉造温泉というと、深沢七郎も訪れたことがあるようで、井伏鱒二との対談で、イタチやらテンの話になり、

深沢 そうですか。私はテンというのは、一回見て、あれがテンだということを後で聞いたんですけれども、出雲のほうに玉造温泉というのがありまして、そこの温泉の野天風呂に入ろうと思って行った時、ネコみたいなのがピューッと飛びまして、あまりおっかなかったので、お百姓が入る共同風呂だから、聞いたら、テンだと言いました。
深沢七郎『深沢七郎の滅亡対談』(ちくま文庫,p.41)

◆ これも野天だな。いや、野テンか。まあ、野天でも露天でもたいした違いはない。ノテンとロテンじゃ、聞き分けることさえ難しい。それでも、違いを見つけようとするひとは多いようで、

◇ 野外、屋外にあるお風呂、外気に面しているお風呂の総称が「露天風呂」であり、この中でも「屋根がない」「自然の中にある」「趣(おもむき)がある」といった、いわゆる「いい感じのお風呂」のことを独自に「野天風呂」と称している、ということのようです。「野天風呂」は「露天風呂」に含まれる、つまり「露天風呂=パスタ」「野天風呂=スパゲティ」のような関係です。
www.benchi.in/?eid=936503

◇ 外気にさらされていれば、露天。野にあるお風呂は野天風呂。露天は野天も含むのでは? 露天>野天
oshiete.goo.ne.jp/qa/470862.html

◆ 野天風呂は露天風呂に含まれる、つまり部分集合ということなら、「露天⊃野天」と書いたほうがいいだろうとも思うけれど、どうなんだろう。

◇ 野天風呂は湯殿の上に屋根がなく、また、四方向共壁がない状態の風呂、つまり周りに屋根も壁もなしと言う風呂です。これに対し、露天風呂は屋根が湯殿の上に、二分の一以下で三方向に壁が無い風呂、という定義があるそうです。
www.tsktn5.net/09izukougen.html

◆ そんな定義がどこにあるんだろう。よくわからない。どうも、野天の「野」の字に大自然を感じてしまうひとが多いようで、それだけまわりに自然が少なくなってきたということなのだろうか。たしかに、とってつけたような露天風呂も多くなったので、「野天風呂」ということで差別化したいという意識はあるのだろうけど。いずれにしても、山下清が放浪していたころとは時代が変わってしまったのは、たしか。タダではいれる露天(野天)風呂もめっきり減った。

◆ 山下清のヨーロッパ旅行記からもうひとつ。とはいえ、まだヨーロッパには着かない。その前にアラスカのアンカレッジ。ああ、なつかしい。

〔Wikipedia〕 1990年ごろまで(冷戦時代)は、西側の航空機はソビエト連邦領空の通過をほとんど許可されなかったため、日本・ヨーロッパ間の航空便の経由地として頻繁に使用されていた。日本人をターゲットにしたうどん屋まであったが、現在では旅客便にはあまり使用されていない。
ja.wikipedia.org/wiki/アンカレッジ

〔Wikipedia〕 ソ連崩壊により、1990年代初頭には全ての北極圏経由北周りヨーロッパ線がシベリア上空経由の航路へとシフトされ、現在、旅客便としてこの路線を運航する航空会社はなくなった。しかし、アンカレッジ国際空港ターミナルのうどん屋の味とともにこの路線を懐かしむ人は今も多い。
ja.wikipedia.org/wiki/ヨーロッパ航空航路

◆ 山下清は、アンカレッジで「飛行機がガソリンをつめるあいだ、飛行場にある建物に入って食事をすることにした」とは書いているが、残念ながら、うどんを食べたとの記述はない。まだうどん屋はなかったのかもしれない。それはさておき、アンカレッジで家族に絵はがきを書き、「六月十日」と日付けをつけたら、

◇ 今日は六月九日だといわれた。そんなはずはないので、六月九日のよる羽田を出発して一ばんたった朝だから十日にきまっていると思ったら、アラスカではまだ九日で、どういうわけかというと、どこでも朝とひるとばんがあるのに、地球はまるいので場所によって朝のくる時間がちがってくるので、朝が午後七時ではぐあいがわるいので、どこの国でも朝を午前にしている。それで算数にくわしい人がいろいろ計算して、地球のいろいろの国の日と時間をきめてあるので、ぼくのように頭のよわい人間は、人がきめたことにしたがうしかないのかもしれない。
山下清『ヨーロッパぶらりぶらり』(ちくま文庫,p.38)

◆ ワタシも「算数にくわしい人」ではないので、じつのところ、国際日付変更線というようなことを正確に理解できている自信がない。ほんとうに引用したかったのはつぎの段落で、

◇  世の中にはいろいろぼくにはのみこめないことが多いので、のみこめないことはなんべんもききなおして、のみこめるようにしているのに、なんべんきいてものみこめないこともある。そういうときはしかたがないので、のみこめないことにちかづかないようにするか、わかりやすいところをさがして、でかけていく。
Ibid. p.38-39

◆ 理解できないことは理解できるようにできるだけの努力をする。けれど、それでも理解できなかったときには、いさぎよく理解することをあきらめる。なんと見事な人生の知恵だろう。もう少し続けると、

◇  こんどのヨーロッパでも、いきなりのみこめないことにぶつかってしまって、六月九日が二度くるのは、ぼくの時計がちゃんと動いていて九日の夜から十時間以上もたっているのにまだ九日だというのは、とてもわからない。これは裸になってはいけないの世の中のきめになっているようなもので、そこからにげだせないなら、だまっていうことをきくことにするので、ぼくはだまってはがきの六月十日という日づけを、九日にかきなおした。
Ibid. p.39

◆ 「そこからにげだせないなら、だまっていうことをきくことにするので、ぼくはだまってはがきの六月十日という日づけを、九日にかきなおした」。これには脱帽。ちょっと文章が上手すぎやしないか。もちろん、文章力の問題ではないのだろう。山下清は、こんなふうに、つねに世の中の常識と格闘していたのだろう。たとえば、熱海温泉で、

◇ ぼくは金をだしてこんなに温泉へ入る人が大ぜいいるのはどういうわけか、よくわからない。辰造(弟)は働く人が疲れるので温泉へ入りにくるのだと教えてくれたので、家のなかや風呂にいる人の顔をみたがだれもそう疲れたような顔をしていなかった。疲れて温泉へくるならばみんな休んでいるか寝ていそうなものだが、パチンコをしたり、ピンポンをしたり、玉をついたりして遊んでいる。宿屋にいても酒をのんでさわいでいるので、あれでは疲れがなおらないでかえって疲れるのではないかと心配になって、女中さんにもきいてみたが、温泉へきて寝てばかりいる人はひとりもいないと教えてくれた。そういえばぼくも熱海へきてもねていないで弟と町へでたり、ピンポンをしたりして遊んだので、温泉は疲れをなおしたり病気をなおすところではないようにみえた。もう一度温泉へくるわけを辰造にきいたら「清ちゃんは何でもわけをきくが、どんなことでもみんなわけがあるとはかぎらない、温泉だって来る人はいろいろ人によってちがうのだからそうはっきりはわからない」といわれて、そういうものかと、もうきくのはあきらめました。
山下清『日本ぶらりぶらり』(ちくま文庫,p.104)

◆ 似たようなハナシはいくらでもあるが、アンカレッジから熱海に戻ってしまって、またヨーロッパへ飛び立つのにはいささか疲れたので、この辺でやめにする。

◆ 「裸の大将」として有名な放浪画家の山下清は、1961(昭和36)年、ヨーロッパに(放浪ではなく)旅行に出かけた。その(放浪記ではなく)旅行記を読んだ。そのはじめ。

◇  ぼくはこんどヨーロッパへ旅行することになったので、そのわけはというと、ずっと前に八幡学園をとびだしてから、あっちこっちを歩きまわって、二十なん年のあいだに日本のくにの五分の一くらい見学してしまった。
 それからぼくので展らん会がはじまって、五年のあいだに北海道の釧路から琉球まで、百なん十回も展らん会があったので、日本じゅう、ほとんど見てしまったことになるかもしれない。そのあいだにぼくは貼絵やスケッチや焼物の絵などをたくさんかいて、もう放浪の癖もなおったので、式場先生がごほうびに、外国へつれていってくれることになった。
 それなのにまだ放浪の癖がよくなおりきっていなかったので、三度くらい家をとびだしたのに、すぐつかまってしまって、とても日本で放浪するわけにはいかなくなったので、自分ではこれでわるいくせはすっかりなおったと思っている。それでも、もう放浪はしませんと約束してから三度もとびだしているので、世間はなかなか信用してくれないといわれた。ほんとうのことをいうと、ぼくはいまでも、自分のいきたいところへぶらりとでかけるのは、そんなに悪いことでないような気がするのですが、世の中には放浪ということは悪いことだというきめがあって、ことに外国では、日本よりもずっと悪いことにしてあるという話なので、外国へいくのが二度もだめになり、がっかりしてしまった。
 ぼくは、日本国中ほとんど歩いてしまったので、どうしても外国を見物したいので、そのためにどんな約束をしてもいいと思ったら、もういちど式場先生が外む省という役所にたのんでくれることになった。

山下清『ヨーロッパぶらりぶらり』(ちくま文庫,p.11-12)

◆ いや、冒頭から、おもしろい。「ほんとうのことをいうと、ぼくはいまでも、自分のいきたいところへぶらりとでかけるのは、そんなに悪いことでないような気がするのですが」という本音の差し挟み方がなんとも絶妙である。それから、「放浪の癖」が治ったわけもこの文章から透けて見えるようだ。有名になってしまったので、放浪しようにも、「すぐつかまってしま」って放浪が現実的に不可能になってしまい、また「日本国中ほとんど歩いてしまった」ので、とくに放浪したくなるような場所が日本にはもうなくなってしまった。つまりは放浪に飽きてしまったということなのだろう。放浪の癖が治りきっていなかったときに、八幡学園長に宛てに「もう放浪はしません」と約束した文章がある(昭和29年4月11日付)。こんなのだ。

◇  僕は毎日々々ふらふらして 遠い所迄歩いて行って るんぺんをして居るのは自分でもるんぺんと言う事はよくないと言うのは知っていて るんぺんをしているのは自分のくせか病気だろうと思うので 毎日ふらふらして歩くのはくせか病気だから くせか病気は急になおら無いからだんだんと其のくせをなおそうと思って居るので今年一ぱいるんぺんをして 来年からるんぺんをやめようと思って 学園の先生とそうだんをしたので 幾らくせでもなほそうと思えば今からでもすぐ其のくせがなおると言はれたから 今度からるんぺんをするのを思いきってやめようと思います
 もしるんぺんをした場合は病気と思われてもかまいません

山下清『裸の大将ヨーロッパを行く』(ノーベル書房,p.11-12)

◆ 「くせか病気」はすぐには治らないから、じょじょに治したい、とは見事な理屈である。これを本音に言い換えると、もう少し放浪をしたいから、「今年一ぱいるんぺんをして」、放浪をやめるのは来年からにしたい、それまで待ってほしい、ということになる。なんとも憎めない。山下清は、「外む省」で渡欧の手続きをしているときに、この約束の文書(「ちかいのことば」)のことを思い出す。

◇ 「とにかく、式場先生が全部の責任をもってくださるわけですね」といわれて、先生がぼくのために、山下清の全部の責任をもつという書るいをかいたので、ぼくはずっと前にやたらに放浪に出かけているとき、もうけっして放浪はしませんというちかいのことばを書かされたことを思い出した。ぼくはそのちかいを書いてから、じきにまた放浪してしまったが、先生ははかせだから約束をやぶることはできないので、ぼくはヨーロッパへいくことができる。
山下清『ヨーロッパぶらりぶらり』(ちくま文庫,p.15-16)

◆ ああ、やっぱり! あれは「書かされた」ものだったのね。だから、「じきにまた放浪してしまった」。放浪という「くせか病気は急になおら無い」。ただ治るのをじっと待つしかない。

◇  昭和十五年、ぼくの十八才のときにはじまったぼくの放浪のくせは、なかなか治らないようで、昭和二十九年と三十年は、いくらとめようとしてもとめられないので、出てしまった。ぼくの放浪はどうしてもがまんできないことがあるので、病気かもわからないと思ったほどだ。
 この放浪のくせも、昨年の夏にはおさまったみたいです。ぼくは世田谷に新しい家ができてお母さんと弟と妹ですむことになったから、もう帰る家があるわけです。今までのように厄介になる八幡学園に戻ったり、せまい母の家へかえらなくてもよくなりました。ぼくの部屋もひと部屋あるので、もう放浪しなくてもよくなりました。〔中略〕 ぼくはこれで三十五になって、やっと十八からの放浪の虫がとれてしまったようです。
 放浪の虫がどうしてとれたのか、放浪のくせがどうしてとれたのか、ぼくにはよくわからない。そして、放浪がいいことか悪いことか、わからないが、やめた方がお母さんも安心するし、弟も妹もよろこぶようですからもうやりません。ぼくはどうして放浪したいのか、その虫がどうしてついたか、病気なのか、なんにもわからないのです。それでもやめてうちのものがよろこぶところをみると、あまりいいことではなかったかもわからないので、もうやらないつもりです。
 昭和二十九年の春、あまりたびたび放浪にでてみんなに心配かけるので、八幡学園で、久保寺先生、渡辺先生、式場先生、弟の辰造のいる前に、もうけっして放浪はしません、こんど逃げ出したら病気だとみとめて病院へ入れて治してくれてもかまいません、とセイヤク書をかいたのにすぐ逃げ出してしまいました。でももうそんなものをかかないでも、おちついていられるようになったので、ぼくも放浪のくせはすっかりなおったと思っています。
 放浪よ、サヨナラ。

山下清『日本ぶらりぶらり』(ちくま文庫,p.202-203)

◆ 「放浪よ、サヨナラ」か。山下清のコトバをもう一度、つぶやいてみる。「ほんとうのことをいうと、ぼくはいまでも、自分のいきたいところへぶらりとでかけるのは、そんなに悪いことでないような気がするのですが」。どうなのだろう?

◆ 森鴎外『妄想』から、三度目の引用。

◇ 自分は錫蘭(セイロン)で、赤い格子縞の布を、頭と腰とに巻き附けた男に、美しい、青い翼の鳥を買はせられた。籠を提(さ)げて舟に帰ると、フランス舟の乗組貝〔ママ〕が妙な手附きをして、「Il ne vivra pas !」と云つた。美しい、青い鳥は、果して舟の横浜に着くまでに死んでしまつた。それも果敢(はか)ない土産であつた。
森鴎外『妄想』(青空文庫

◆ ドイツからの帰途、セイロン(スリランカ)で、現地人に青い鳥を押し売りされた森鴎外。そういえば、ちょとまえに読んだ「馬面」の成島柳北の『航西日乗』にもこんな記述。これもセイロン(錫狼)。

◇ 唯(た)だ土人狡猾(こうかつ)無恥、人に迫て物を売り、囂々(ごうごう)蚊蜹(ぶんぜい)の如くなるは極めて厭(いと)ふ可し。土産数種を買ひ、黄昏(こうこん)舟中に還る。
成島柳北『航西日乗』(『幕末維新パリ見聞記』所収,岩波文庫,p.29)

◆ 外国人観光客に「蚊蜹」(カやブヨ)みたいにブンブンとまとわりついて、押し売りまがいにしつこく土産物を売りつけるのは、なにもスリランカにかぎったことではないが、鴎外も柳北もけっきょくなにかしら買わされてしまっているのが、おかしい。柳北がマルセイユ行きのフランス船でセイロンのゴールに立ち寄ったのは、1872(明治5)年。マルセイユからフランス船に乗った鴎外がセイロンに立ち寄ったのは、1888(明治21)年。『航西日乗』の校注者の注によれば、

◇ イギリス船の寄港地がコロンボであったのに対して、フランス郵船はスリランカ南部のゴールに寄った。
井田進也校注『幕末維新パリ見聞記』(岩波文庫,p.185)

◆ ということだから、鴎外が寄港したセイロンの港もゴールだったのだろうか。

◇ 八時港口に達す。港はポイントデガウルと云ふ。此地は北緯六度一分に在り。港の左に灯台有り、台下水石相激し、噴散雪の如し。土人は眼鋭く鼻高く印度人種中にて最上等に位す。衣服は新嘉坡(シンガポール)と一様なり。港口風浪平かならぬ故、奇なる小舸(しょうか)を造り客を載す。其の製、舟の一傍に木板を附け軽重の権衡を取り、覆没を防ぐ。舟の体は横甚だ狭くして尺余に過ぎず。長さは二丈許なり。土人多く舟に来り、澣衣(かんい)を乞ひ土宜(どぎ)を売り投宿を勧む。喧囂(けんごう)厭ふ可し。
成島柳北『航西日乗』(『幕末維新パリ見聞記』所収,岩波文庫,p.27)

◆ これはゴール入港の場面。このときも、現地人は乗船客にわんさかとまとわりついて、洗濯(澣衣)の注文を取るものやら、土産(土宜)を売りつけるものやら、宿の呼び込みをするものやら、さわがしいことこのうえない。まあ、港やら駅やら観光客が集まるところは多かれ少なかれそんなものだろう。日本もかつてそんな時代があっただろう。森繁久彌の『駅前旅館』のような。

◆ 写真の灯台が、柳北が見たものと同じであるかどうかは、まだ調べてない。

《東北文庫 web 物語伝承館》に、こんな文章。

◇ 恐山の地名は元来はアイヌ語のウシヨロ(内湾の意といふ、然らば大湊を指すのであらう。恐山は実に大湊の背後にある)からウソリに転訛し、再転訛してオソリ、オソレとなつたのが、やがて地の印象と結びついてその音を恐の字に当てたのであらう。従つて旧くはこれを宇曽利(うそり)山と記したものもある。
佐藤春夫「恐山半島記」(東北文庫

◆ あっ、と思った。「忍路(おしょろ)と同じだったんだ。

◇  下北半島の不気味な火山、恐山は恐ろしさのための恐れ山と考えられがちですが、麓の大湊あたりに宇曾利という地名があり、宇曾利の後ろの山で宇曾利山であったわけです。北海道では函館の古名がウソリで、アイヌ語で入江の奥の波静かな所を意味しています。
 往年の鰊漁で有名な小樽の近くの漁港で、ソーラン節の中に歌われている地名に忍路(オショロ)がありますが、このオショロもウソリと同じ意味です。

池田光二『山名考』(文芸社,p.30)

〔むつ市観光協会〕 恐山は、藩政時代には宇曽利山(うそりやま)と書かれていました。また、その昔、下北地方を宇曽利郷と呼んでいたこともあったようです。このウソリは、アイヌ語のウショロ(入江とか、湾という意味)に由来していて、これがさらに転化してオソレ(恐)になったものとみられています。
www.mutsu-kanko.jp/guide/miru_01.html

〔小樽學:地名探索〕 忍路はアイヌ語のウシヨロ=湾からきているといわれ、江戸時代にはヲショロ・ヲシヨロなどと書かれていました。1869(明治2)年忍路郡が設置されています。忍路村は1906(明治39)年4月桃内村・蘭島村・塩谷村と合併して二級町村塩谷村となり、忍路郡唯一の村でしたが、1958(昭和33)年4月に塩谷村が小樽市に併合されて消滅、忍路郡も廃止されました。
 「ヲシ」に「忍」の字を宛てるのは、これは今の埼玉県行田市がかつて忍町といっていたことからも、当を得ているといえますが、北海道の人には特に馴染みが薄いかもしれません。

http://otarugaku.jp/article/?c=4&s=8623

◆ 最後の埼玉県行田市の旧町名は忍(おし)町と読む。これらの説が正しいかどうかを判断する能力はワタシにはないのが残念。忍路と恐山。「忍」と「恐」の字が似ているのも、おもしろい。恐山の画像はおともだちの rororo さんのブログからこっそり拝借。