◆ 新潟市内に「ボトナム通り」というのがある。ベトナムではなく、ボトナム。説明板のなかば消えかかった文字をなんとか読むと、 ◇ ボトナム(柳)通りの由来 2000年6月 新潟県 ◆ 朝鮮語でボトナムとは柳のこと。とぼとぼ歩いてフェリーターミナルへと向かう道すがら、たまたまこの説明板ととなりの「朝鮮民主主義人民共和国帰国記念植樹 一九五九年十一月七日」と記された標柱に気がついて、「はて、なんだろう」と思って一枚写真に撮っておいただけのことなのだから、「なるほど、朝鮮語でボトナムとは柳のことなんだな」ぐらいに、あたらしいコトバをひとつ覚えたことで満足しておけばよかったものを、それが、いましがた「PhotoDiary」の編集のために写真を見なおしているうちに、つい(うっかり)説明板に書かれた文字を読もうとしてしまい、それがあまりに読みにくかったので、この説明板の文字をテキスト化しているサイトはないものかとネットで探し始めたら、道に迷って戻れなくなってしまった。探しものはすぐに見つかったのだけれども(《船のウェブ・サイト:万景峰92見学記》)。 ◇ 〔船のウェブ・サイト:万景峰92見学記〕 ご覧のように、案内板は傷つけられており、一部読めないところがある(■で表記)。 ◆ 「■」の部分は、ワタシの画像では読むことができたので、合わせて読めば全文がつながり、めでたしめでたし。というところなのだが、今度は「案内板は傷つけられており」という箇所がどうにも気になってしまった。あの案内板が読みにくかったのは、「傷つけられて」いたせいだったのか。まったく気がつかなかった。ワタシがじっさいにあの説明板を「見ていた」のは、せいぜい数秒のことだったろう。なにせ、とりあえず写真を撮っておくか、と思っただけのことなのだから、シャッターを押せばもうおしまい。その場でそこに書かれた文章を読む気はさらさらなかった。そんなふうだったから、あの説明板がどんな「状態」だったかなどということは一切憶えていない。それなら、なにも見ていなかったのと同じことではないか。そうなのだろう、ワタシはあの説明板の写真を撮ったが、あの説明板をほんとうは「見ていなかった」。 ◇ 〔浅見洋子 | 金時鐘『長篇詩集 新潟』の舞台 その1 | 日本近代文学研究・論潮の会〕プレートは2000年6月に設置されたものです。しかし、プレートが傷つけられたり、文字がところどころ削りとられたりしていて、判読が困難な状態でした。 ◆ 文字が薄れていて読みにくいと思ったのは、「文字がところどころ削りとられたり」したせいだったのか。まったく気がつかなかった。やはり、ワタシはなにも「見ていなかった」のだろう。とくに見るつもりもなかったのだから、「見ていなかった」ということを確認したからといって、どうということはないはずなのだが、どうもそういうわけにもいかない。どうしてだろう? ◇ 〔毎日jp(新潟):「ボトナムは知っている」 北朝鮮帰還事業50年(1) 植樹の日に生まれて(2009年12月09日)〕 新潟市中央区のショッピングエリア・万代シテイから新潟港へと続く国道113号沿いに、柳の木が約2キロにわたって立ち並ぶ。幹の太さは一本一本不ぞろいで、葉の付きもよくない。港に一番近い柳の前で立ち止まった曹喜国(チョヒグク)さん(50)=埼玉県川口市=は「懐かしいなあ」とつぶやいた。 ◆ じつは、ワタシは5年前にも、小樽行きのフェリーに乗るために、今回とほぼ同じルートで、新潟の町をフェリーターミナルまでとぼとぼ歩いたことがあった。5年前にもあの説明板はあったはずだが、気がつかなかった。道路の反対側を歩いていたのかもしれないし、暑さで辺りを見回す余裕がなかったのかもしれない。その代わり(というわけでもないが)、こんな写真を撮っていた。 ◇ 情報提供のお願い! 連絡先 新潟県警察本部外事課 ◆ 昨日は、横田めぐみさんの誕生日だった。 ◇ 〔MSN産経ニュース〕 柳田稔拉致問題担当相は5日の閣議後記者会見で、北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさんが同日で46歳の誕生日を迎えたことに「拉致から33年が経過し、救出できないことを思うと大変申し訳ない。一日も早く安全に帰れるよう最大限の努力をする」と話した。 ◆ 46歳。ワタシと同い年だ。 |
◆ 新潟市内に「ドッペリ坂」というのがある。ドンペリではなく、ドッペリ。説明板によると、 ◇ かつてこの坂の上には、旧制新潟高等学校(1919年)やその後の新潟大学がありました。 ◆ 英語による説明もあるので、ついでに。 ◇ The Dopperi Zaka means the "faillure slope" which comes from a German word, doppeln : double. Niigata University used to be located at the top of the slope and its dormitory "Rikka Ryo" was just at the edge. This slope was a short cut for students to go downtown to Furumachi. Those who used the slope too often would be in danger of falling their examinations. The number of the stairs are 59 which is one point shy of the 60 points needed for a passing grade. So they named it "Dopperi Zaka". ◆ この説明は(日本語も英語も)すこし誤解を招くかもしれない。順序としては、まず先に落第・留年を意味するドイツ語由来の「ドッペリ」という学生スラングがあった。ついで、この坂が「繁華街」(古町は花街として有名)に通じていることから、自然発生的に学生のあいだで「ドッペリ坂」と呼ばれるようになった(ということなのだろう)。よくは知らないが、階段の数が「及第点の60点に1つ足りない59段」であるのは、後年この坂を整備するさいに、あえてそうなるように作ったからで、当時からそうだったわけではない(だろう、と推察)。「ドッペリ」というコトバが使われていたのはなにも新潟にかぎらない。全国各地の旧制高校で、この俗語は使われていた。たとえば、旧制松本高校の学生だった北杜夫も、卒業直後に松本を再訪したときの印象を、こう書いている。 ◇ 懐かしい町はひとしお小さく、家々の軒も低まってしまったよう見えた。むかし小料理屋が並んでいたため落第(ドッペリ)横町と名づけられた小路、唯一の大通りである縄手、浅間の風呂、どこもかしこもどうしようもない痛切な懐かしさにつながっていた。 ◆ ドッペリ坂にドッペリ横町。探せばほかにもいろいろとあるだろう。――と思って探したら、あった。旧制四高(金沢)にドッペリ松。 ◇ 〔北國新聞(2009/08/04)〕 「大槻伝蔵の生首」など旧制四高に伝わる怪談を、同校の寄宿舎「時習(じしゅう)寮」で新寮生を迎えた際、上級生が披露していた怪談会が7日、金沢市の石川四高記念文化交流館で約60年ぶりに復活する。演じるのは旧制四高の後身である金大生ら7人。学生らは当時の寮生活に思いをはせ、熱心にけいこに励んでいる。〔中略〕 本番では、旧制四高の敷地に「加賀騒動」の中心人物大槻伝蔵の屋敷があったことから、伝蔵の没落を見守ったとされる「ドッペリ松」の近くで伝蔵の生首を見たという話など、現存する原稿12話のうち7話を、学生が黒装束で披露する。 ◆ ドッペリ坂にドッペリ横町にドッペリ松。この「ドッペリ」には動詞もあって、その「ドッペる」は辞書にも載っている。 ◇ ドッペ・る [動ラ五]《(ドイツ)doppelt(2倍の、の意)の動詞化》落第する。ダブる。昔、学生の間で用いられた語。 ◇ ドッペ・る (動ラ五) 〔補説〕 ドイツ語 doppeln(二倍にする、の意)から作った学生語 落第する。留年する。ダブる。 ◆ いまの学生なら、ドイツ語ではなく英語で「ダブる」というところだろう。進級試験に落第した結果、原級に留まり、同じ学年を二度繰り返すことが、ドッペる(ダブる、留年する)。いや、いまは「ダブる」でさえ使わないのかも。 ◇ 東大の定期試験は優・良・可・不可の4段階で評価される。不可とは落第のことで、いまの東大生は不可をとることを「不可る」という。しかし戦前から戦後まもなくの学生は、「不可る」ではなく「ドッペる」といった。ドイツ語のdoppelt/doppeln(英語でいうダブル)にかけているのだ。だったら英語のダブルをつかって「ダブる」といえばいいものを、わざわざ彼らはドイツ語っぽくしたのだった、落第したくせに(笑) ◆ でも「不可る」とはなんだか語感がイマイチ。それに、「優・良・可・不可」というのはあくまでも個別の科目試験にかんするコトバであって、進級に直接むすびつくわけではないから、「ドッペる」のように留年するという意味では使えないだろう。『どくとるマンボウ青春記』から、もうひとつ。松本での寮生活。 ◇ 西寮では「コックリさん」が流行した。紙にイロハを書き、一本の箸を何人かで持って、 ◆ コックリさん! これなら旧制高校の学生にかぎらず、懐かしく思い出すひとも多いだろう。はたして今の子どももやっているのかどうか。 ◆ ドイツ語はさっぱりなので、ドッペリ(あるいは、ドッペる)の由来が doppelt なんだか doppeln なんだかよくわからないけれども、獨協医科大学ドイツ語学教室の先生(寺門伸)の「語学エッセイ(31):「ダブル」と doppelt」を読んだりもした。 |
◇ 何度も引いている話だが、『どくとるマンボウ青春記』の中に、北杜夫がトーマス・マンに心酔していたころに、仙台の街を歩いていて「ぎくり」として立ち止まるという話がある。どうして「ぎくり」としたのか知ろうとしてあたりを見回すと、酒屋に「トマトソース」という看板がかかっていた、という話である。 ◆ という文章を読んだので、『どくとるマンボウ青春記』も読んでみた。 ◇ あるときは、仙台の東一番丁の大通りを歩いていて、だしぬけにぎくりとして立止った。なぜ自分がぎくりとしたのか、瞬間わからなかったが、周囲を見まわしてみて、その理由が判明した。すぐ前の店に、こういう貼紙か看板が出ていたのである――「トマトソース」 ◆ 看板(か貼紙)の「トマトソース」という文字を、とっさに「トーマス・マン」と読んでしまっていた、というこのエピソードは、たいへんに興味深いので(そのうち)じっくり考えることにして、とりあえず気になってしまったのは、些細なことだが、この「トマトソース」の看板があった場所のこと。内田樹は「酒屋」と書いているが、北杜夫本人は「すぐ前の店」としか書いていない。べつなところではっきり「酒屋」と書いているのかもしれないが、おそらくは、内田樹が、トマトソースを売っているのは酒屋であろうと「ごく自然に」判断し、「すぐ前の店」を説明的に補完して「酒屋」と書いたのだろうと思う。 ◆ ワタシはトマトソースを酒屋で買ったことがない(スーパーで買う)。ソースも醤油も買ったことがない(スーパーで買う)。そもそも酒以外のものを買った記憶がない(スーパーで買う)。いやあるかな。つまみとかお菓子とか。あとはなにが売っているのだったっけ? というような具合なので、もし内田樹の文章を読まずに北杜夫の文章を先に読んでいたら、「トマトソース」の看板が掲げてあった「すぐ前の店」は「すぐ前の店」のままで、それが何屋か気にすることもなく、それが「酒屋」であることに気がつきもしなかっただろう。 ◆ 《Wikipedia》の「酒屋」の項を読むと、 ◇ 明治時代以降は、町中で諸方面の商品を扱うよろずや的な要素を高めていき、人々の生活と切っても切り離せない存在となった。酒屋の若い店員が各家庭に御用聞きといって、その日に必要な食料や日用品を注文を聞いて回り、あとから宅配するというサービスも一般的に行なわれていた。 ◆ そうそう、酒屋にもいろいろあるけれど、酒屋といえばそんなイメージ。昔ながらの酒屋さん。とはいえ、ワタシにはほとんどなじみがない。 ♪ 角の酒屋のオヤジともすっかり ◆ 酒屋のオヤジか。この歌詞の酒屋の屋号が「かどや」であれば、なおいい。 ◆ 冒頭の内田樹の文章は、本人のブログ《内田樹の研究室:朝の読書》でも読める。 |
◆ 映画「喜びも悲しみも幾年月」の同名の主題歌の歌詞。 ◇ 昔、子供の頃の私は、「おいら岬」と言う岬が実在すると思ってました。 何県なのか??そんな疑問がありました。この歌を聞いて思ったのは私だけでしょうか?? ◇ 「おいら岬の灯台守りよ」という唄い出しなのだけれども、わたしはこの歌詞をずっと、「おいら岬」という地名の場所があるのだと思っていて、「おいら岬」の灯台の歌だということにしていた。「おいら岬」はきっと、北海道の人里離れた北の果てにあって、吹雪と荒波の吹きよせる苛酷な土地なのだ。そこで暮らす灯台守りはたいへんだよ、と。 ◇ 映画と歌がはやっていた頃、小学生の弟から「おいら岬ってどこにあるの?」と訊かれたことがありました。半年ぐらい弟は「おいら岬」のあだ名でよばれました。 ◇ 歌いだしの「おいら岬の燈台守は」という歌詞を、わたしはずっと「おいら岬」というどこかにある実在の岬の名前だとばかり思っていたのだが」(私の中では「生良岬」とでも書くのかと勝手に想像していた)、TVのモニター画面に映し出される歌詞は「俺ら岬の」であった。 ◇ 日本のどこかの「おいら岬」って岬の灯台守と思っていたのでありますね。ところが「おいら」は一人称でありまして。俺ら岬の灯台守~だったんですね。 |
◆ 似たような写真を見つけると、つい並べてみたくなる。 ◆ で、並べてみた。いずれも登録有形文化財で、文化庁の《文化遺産オンライン》の記載にしたがえば、 (左)滋賀大学経済学部講堂(旧彦根高等商業学校講堂):1924、木造2階建、瓦葺。 ◆ 大学の講堂といえば、東大の安田講堂(1925)、早稲田の大隈講堂(1927)あたりが有名だろうが、東大も早稲田も講堂が建てられたとき、すでにれっきとした大学だった。それにたいして、写真の3つの大学はいずれも戦後の学制改革で誕生した新制大学で、講堂が建てられたときには、まだ大学ではなかった。それぞれの前身には興味深いものがある。信州大学に繊維学部があるということ、その繊維学部が上田市にあるということ、群馬大学の工学部が前橋市ではなく桐生市にあるということ、これらのことをワタシは知らなかった。知らずに上田市と桐生市を訪れ、そこに国立大学の学部があることを知って、かなり驚いた。ワタシはたまたま友人が進学したので知っていたが、滋賀大学の経済学部が大津市ではなく彦根市にあることを知っているひとはそう多くないだろうと思う。 |
♪ 函館止まりの 連絡船は ◆ 知らなかったが、朝日新聞紙上で去年、読者が選ぶ「日本の終着駅ベスト10」といったような企画があったらしい。 ◇ 朝日新聞の「読者が決める“日本一”は?」と題したコラム欄で、アンケートによって選ばれた「終着駅」の第1位は、回答者の1万人余りの6割近くが選んだJR北海道の稚内駅(北海道稚内市)であった。 ◆ 半数以上のひとが稚内駅を選んでいるとは、すごい人気だな。2位以下はというと、 ◇ 2位 枕崎駅(JR指宿枕崎線・鹿児島県枕崎市)、3位 志布志駅(JR日南線・鹿児島県志布志町)、4位 根室駅(JR根室本線・北海道根室市)、5位 函館駅(JR函館本線・北海道函館市)、以下門司港駅(JR鹿児島本線・北九州市門司区)、長崎駅(JR長崎本線・長崎県長崎市)、夕張駅(JR石勝線・北海道夕張市)、三厩駅(JR津軽線・青森県三厩村)、奥多摩駅(JR青梅線・東京都奥多摩町) ◆ という順。なるほど。ほとんどが、北海道か九州だな。えっ、3位に志布志駅? それで、正月に行った志布志の写真の整理をまだやってなかったことに気がついた。いまから、こっそり駅の写真だけでもアップしておくか。10位の奥多摩駅は、都民の人口の多さを物語っているのだろう。しかし、5位に函館駅はあるけれど、青森駅がないなあ。どうしてだろう。青森駅はもはや終着駅ではないのだろうか。函館は、終着駅というよりも始発駅のイメージのような気がする。 ♪ はるばるきたぜ 函館へ ◆ ああ、これは「函館の女」にはるばる会いに来た歌だったから、やっぱり終着駅なのか。それにしても、「終着駅は始発駅」という歌の歌詞。どこが舞台かと思ったら、これまた青函連絡船。しかし、これは「駅」なのだろうか。船の駅? 連絡船だから「駅」でいいのか。 ◆ 以前、「さいはての駅」という記事も書いた。 |