MEMORANDUM

◆ 新潟市内に「ボトナム通り」というのがある。ベトナムではなく、ボトナム。説明板のなかば消えかかった文字をなんとか読むと、

ボトナム(柳)通りの由来
 1910年(明治43)年の日韓併合で、日本が朝鮮半島を植民地にした後、朝鮮人が日本内地に渡航してきた。
 第二次世界大戦さなかの1944(昭和19)年になると朝鮮人に対して「国民徴用令」が適用され、強制的に連行されてきた人が多数いた。
 戦後、朝鮮出身者の多くは祖国に帰りたいという強い意志を表していたが、日本と朝鮮民主主義人民共和国とは国交が途絶えたままで、帰国は実現しなかった。
 1958(昭和33)年、朝鮮民主主義人民共和国は「帰国したい者は受け入れるし、日本に船を向ける用意もある」と表明した。
 翌1959(昭和34)年、日本政府は朝鮮民主主義人民共和国への帰国を認め、日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会との間で、「在日朝鮮人の帰国に関する協定」が成立し、調印された。
 帰国者を送り出す港については、当時反対勢力の妨害が予想される状況の下で引き受ける都市がなかったが、当時の新潟市長は、戦前から交流があったこと、また、将来の対岸交流の進展を予測して新潟港から帰国者を出港させることを決断した。
 帰国は1959(昭和34)年12月14日から行われ、一時中断があったものの、1984年(昭和59)年7月25日の第187次帰国まで、延べ28,409世帯、93,339人が新潟港から帰国した。
 1959(昭和34)年12月の第1次県内帰国者が、在日本朝鮮人総聯合会新潟県本部と新潟県在日朝鮮人帰国協力会の協力を得て、日朝友好親善のシンボルとして、東港線沿道約2キロメートルにおいて305本のボトナム(柳)を植樹して寄贈したことから、当時の北村一男新潟県知事が、その行為に感激され、この道を「ボトナム通り」と名付けた。

2000年6月 新潟県

◆ 朝鮮語でボトナムとは柳のこと。とぼとぼ歩いてフェリーターミナルへと向かう道すがら、たまたまこの説明板ととなりの「朝鮮民主主義人民共和国帰国記念植樹 一九五九年十一月七日」と記された標柱に気がついて、「はて、なんだろう」と思って一枚写真に撮っておいただけのことなのだから、「なるほど、朝鮮語でボトナムとは柳のことなんだな」ぐらいに、あたらしいコトバをひとつ覚えたことで満足しておけばよかったものを、それが、いましがた「PhotoDiary」の編集のために写真を見なおしているうちに、つい(うっかり)説明板に書かれた文字を読もうとしてしまい、それがあまりに読みにくかったので、この説明板の文字をテキスト化しているサイトはないものかとネットで探し始めたら、道に迷って戻れなくなってしまった。探しものはすぐに見つかったのだけれども(《船のウェブ・サイト:万景峰92見学記》)。

〔船のウェブ・サイト:万景峰92見学記〕 ご覧のように、案内板は傷つけられており、一部読めないところがある(■で表記)。
www.interq.or.jp/white/ishiyama/column44.htm

◆ 「■」の部分は、ワタシの画像では読むことができたので、合わせて読めば全文がつながり、めでたしめでたし。というところなのだが、今度は「案内板は傷つけられており」という箇所がどうにも気になってしまった。あの案内板が読みにくかったのは、「傷つけられて」いたせいだったのか。まったく気がつかなかった。ワタシがじっさいにあの説明板を「見ていた」のは、せいぜい数秒のことだったろう。なにせ、とりあえず写真を撮っておくか、と思っただけのことなのだから、シャッターを押せばもうおしまい。その場でそこに書かれた文章を読む気はさらさらなかった。そんなふうだったから、あの説明板がどんな「状態」だったかなどということは一切憶えていない。それなら、なにも見ていなかったのと同じことではないか。そうなのだろう、ワタシはあの説明板の写真を撮ったが、あの説明板をほんとうは「見ていなかった」。

〔浅見洋子 | 金時鐘『長篇詩集 新潟』の舞台 その1 | 日本近代文学研究・論潮の会〕プレートは2000年6月に設置されたものです。しかし、プレートが傷つけられたり、文字がところどころ削りとられたりしていて、判読が困難な状態でした。
ronchou.moo.jp/komiti/komiti-kiji1/komiti-nigata1.html

◆ 文字が薄れていて読みにくいと思ったのは、「文字がところどころ削りとられたり」したせいだったのか。まったく気がつかなかった。やはり、ワタシはなにも「見ていなかった」のだろう。とくに見るつもりもなかったのだから、「見ていなかった」ということを確認したからといって、どうということはないはずなのだが、どうもそういうわけにもいかない。どうしてだろう?

〔毎日jp(新潟):「ボトナムは知っている」 北朝鮮帰還事業50年(1) 植樹の日に生まれて(2009年12月09日)〕  新潟市中央区のショッピングエリア・万代シテイから新潟港へと続く国道113号沿いに、柳の木が約2キロにわたって立ち並ぶ。幹の太さは一本一本不ぞろいで、葉の付きもよくない。港に一番近い柳の前で立ち止まった曹喜国(チョヒグク)さん(50)=埼玉県川口市=は「懐かしいなあ」とつぶやいた。
 02年、北朝鮮が日本人拉致を認め、問題がクローズアップされて以来、遠ざかっていた。「ボトナム(朝鮮語で柳の意)のことは、もうみんな忘れているんじゃないかな」。そう言うと、曹さんの表情が曇った。
 1959年11月7日。北朝鮮へ向かう第1次帰還船が新潟港を出発する約1カ月前、帰還を控えた在日コリアンたちが日朝友好の礎として県民に贈った305本の柳がこの道沿いに植樹された。その日に、曹さんは新潟市の中心部・古町にある焼き肉店「牡丹」の末っ子として生まれた。
 新潟は堀のほとりにしだれていた柳の美しさから「柳都」と呼ばれた。平壌もまた「柳京」の異名をもつ。柳が植樹されたこの道を、北村一男知事(当時)が「ボトナム通り」と名付けた。
 朝鮮総連県本部の幹部として植樹にかかわった曹さんの父、閏煥(ユンファン)さん(01年に84歳で死去)は「帰国船の子どもが生まれた」と触れ回ったという。名前を付けるのを、第1船が出る12月14日まで待った。前夜の宴席で、北朝鮮赤十字代表団の李一卿団長に名付け親を頼み、「『喜国』はどうか」と提案された。国を喜ばす、祖国のために生きろ--という意味が込められた。
 在日1世の閏煥さんの生まれは、韓国南東部の慶尚北道。だが、帰還事業でこそ「貧困や差別から解放される」と信じ、仲間に北朝鮮への帰還を勧めた。曹さんは小学3年の時、開校と同時に新潟朝鮮初中級学校に転入。帰還船が出入りする度、全校で港に出向いて北朝鮮の国旗を振った。帰り道のボトナム通りで、植樹した日付が記された白い標柱にボールペンで「曹喜国生まれる」と書き込むいたずらをして、友達に自慢したこともあった。
 だが、八つ上の姉が乗った帰還船を72年に見送った時から、日本海の景色が少し違って見えるようになった。「38度線さえなければ」。曹さんはそう言ったきり、思いをのみ込むように口を閉ざした。
〔中略〕
 帰還船を見送った熱狂的な歓声は、「拉致被害者を返せ」のシュプレヒコールに変わり、船の往来も途絶えた。北朝鮮と韓国を分断する北緯38度線は、新潟をも貫く。第1船の出港から50年。柳は次第に枯れ、植え替えもされなくなり、127本になった。時代の波に翻弄(ほんろう)されてきた人々の姿を、ボトナムは見つめてきた。【黒田阿紗子】

mainichi.jp/area/niigata/news/20091209ddlk15040048000c.html

◆ じつは、ワタシは5年前にも、小樽行きのフェリーに乗るために、今回とほぼ同じルートで、新潟の町をフェリーターミナルまでとぼとぼ歩いたことがあった。5年前にもあの説明板はあったはずだが、気がつかなかった。道路の反対側を歩いていたのかもしれないし、暑さで辺りを見回す余裕がなかったのかもしれない。その代わり(というわけでもないが)、こんな写真を撮っていた。

情報提供のお願い!
 昭和五二年一一月一五日、新潟市寄居町付近で、当時中学生であった横田めぐみさん(当時一三歳)が被害者となる拉致容疑事案が発生し、現在まで発見されておりません。警察では、横田めぐみさんの発見と事案の解決に向けて引き続き捜査を進めております。
 当時、全国では拉致容疑事案が相次いで発生しており、海岸から連れ去られた可能性もあります。どんなことでも結構ですので、心当たりのある方は、情報をお寄せ下さい。
 市民の皆様のご協力をお願い致します。

連絡先 新潟県警察本部外事課 

◆ 昨日は、横田めぐみさんの誕生日だった。

〔MSN産経ニュース〕 柳田稔拉致問題担当相は5日の閣議後記者会見で、北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさんが同日で46歳の誕生日を迎えたことに「拉致から33年が経過し、救出できないことを思うと大変申し訳ない。一日も早く安全に帰れるよう最大限の努力をする」と話した。
sankei.jp.msn.com/politics/policy/101005/plc1010051546012-n1.htm

◆ 46歳。ワタシと同い年だ。

◆ 新潟市内に「ドッペリ坂」というのがある。ドンペリではなく、ドッペリ。説明板によると、

◇  かつてこの坂の上には、旧制新潟高等学校(1919年)やその後の新潟大学がありました。
 “六花寮”という学生寮が正面にあり、大志を抱き、青春を謳歌する弊衣破帽の学生達が、古町などの繁華街を通う近道としてこの坂をさかんに利用していました。
 あまり坂を往来し、遊びの度がすぎると落第するぞという戒めの意から、ドイツ語のドッペルン(doppeln:二重にするという意)と洒落て「ドッペリ坂」と名づけられました。ちなみにこの坂の階段は、及第点の60点に1つ足りない59段でつくられています。

◆ 英語による説明もあるので、ついでに。

◇ The Dopperi Zaka means the "faillure slope" which comes from a German word, doppeln : double. Niigata University used to be located at the top of the slope and its dormitory "Rikka Ryo" was just at the edge. This slope was a short cut for students to go downtown to Furumachi. Those who used the slope too often would be in danger of falling their examinations. The number of the stairs are 59 which is one point shy of the 60 points needed for a passing grade. So they named it "Dopperi Zaka".

◆ この説明は(日本語も英語も)すこし誤解を招くかもしれない。順序としては、まず先に落第・留年を意味するドイツ語由来の「ドッペリ」という学生スラングがあった。ついで、この坂が「繁華街」(古町は花街として有名)に通じていることから、自然発生的に学生のあいだで「ドッペリ坂」と呼ばれるようになった(ということなのだろう)。よくは知らないが、階段の数が「及第点の60点に1つ足りない59段」であるのは、後年この坂を整備するさいに、あえてそうなるように作ったからで、当時からそうだったわけではない(だろう、と推察)。「ドッペリ」というコトバが使われていたのはなにも新潟にかぎらない。全国各地の旧制高校で、この俗語は使われていた。たとえば、旧制松本高校の学生だった北杜夫も、卒業直後に松本を再訪したときの印象を、こう書いている。

◇ 懐かしい町はひとしお小さく、家々の軒も低まってしまったよう見えた。むかし小料理屋が並んでいたため落第(ドッペリ)横町と名づけられた小路、唯一の大通りである縄手、浅間の風呂、どこもかしこもどうしようもない痛切な懐かしさにつながっていた。
北杜夫『どくとるマンボウ青春記 改版』(中公文庫,p.180)

◆ ドッペリ坂にドッペリ横町。探せばほかにもいろいろとあるだろう。――と思って探したら、あった。旧制四高(金沢)にドッペリ松。

〔北國新聞(2009/08/04) 「大槻伝蔵の生首」など旧制四高に伝わる怪談を、同校の寄宿舎「時習(じしゅう)寮」で新寮生を迎えた際、上級生が披露していた怪談会が7日、金沢市の石川四高記念文化交流館で約60年ぶりに復活する。演じるのは旧制四高の後身である金大生ら7人。学生らは当時の寮生活に思いをはせ、熱心にけいこに励んでいる。〔中略〕 本番では、旧制四高の敷地に「加賀騒動」の中心人物大槻伝蔵の屋敷があったことから、伝蔵の没落を見守ったとされる「ドッペリ松」の近くで伝蔵の生首を見たという話など、現存する原稿12話のうち7話を、学生が黒装束で披露する。
www.hokkoku.co.jp/subpage/OD20090804501.htm

◆ ドッペリ坂にドッペリ横町にドッペリ松。この「ドッペリ」には動詞もあって、その「ドッペる」は辞書にも載っている。

ドッペ・る [動ラ五]《(ドイツ)doppelt(2倍の、の意)の動詞化》落第する。ダブる。昔、学生の間で用いられた語。
小学館「大辞泉」

ドッペ・る (動ラ五) 〔補説〕 ドイツ語 doppeln(二倍にする、の意)から作った学生語 落第する。留年する。ダブる。
三省堂「大辞林」

◆ いまの学生なら、ドイツ語ではなく英語で「ダブる」というところだろう。進級試験に落第した結果、原級に留まり、同じ学年を二度繰り返すことが、ドッペる(ダブる、留年する)。いや、いまは「ダブる」でさえ使わないのかも。

◇ 東大の定期試験は優・良・可・不可の4段階で評価される。不可とは落第のことで、いまの東大生は不可をとることを「不可る」という。しかし戦前から戦後まもなくの学生は、「不可る」ではなく「ドッペる」といった。ドイツ語のdoppelt/doppeln(英語でいうダブル)にかけているのだ。だったら英語のダブルをつかって「ダブる」といえばいいものを、わざわざ彼らはドイツ語っぽくしたのだった、落第したくせに(笑)
blog.livedoor.jp/todai_guidance/archives/51635356.html

◆ でも「不可る」とはなんだか語感がイマイチ。それに、「優・良・可・不可」というのはあくまでも個別の科目試験にかんするコトバであって、進級に直接むすびつくわけではないから、「ドッペる」のように留年するという意味では使えないだろう。『どくとるマンボウ青春記』から、もうひとつ。松本での寮生活。

◇ 西寮では「コックリさん」が流行した。紙にイロハを書き、一本の箸を何人かで持って、
「コックリさま、コックリさま、お出でになりましたでしょうか。学期末の試験では誰と誰が落第(ドッペ)るでしょうか、お教え願います」
 などと真剣にやっている光景は、どうしても尋常なものとはいえなかった。
 挙句の果て、その下級生はうつろな顔をしてこう報告した。
「まず◯◯さんがドッペります。総務委員長がそれでは、あとは軒並総討死ですな」

北杜夫『どくとるマンボウ青春記 改版』(中公文庫,p.110)

◆ コックリさん! これなら旧制高校の学生にかぎらず、懐かしく思い出すひとも多いだろう。はたして今の子どももやっているのかどうか。

◆ ドイツ語はさっぱりなので、ドッペリ(あるいは、ドッペる)の由来が doppelt なんだか doppeln なんだかよくわからないけれども、獨協医科大学ドイツ語学教室の先生(寺門伸)の「語学エッセイ(31):「ダブル」と doppelt」を読んだりもした。

  酒屋

◇ 何度も引いている話だが、『どくとるマンボウ青春記』の中に、北杜夫がトーマス・マンに心酔していたころに、仙台の街を歩いていて「ぎくり」として立ち止まるという話がある。どうして「ぎくり」としたのか知ろうとしてあたりを見回すと、酒屋に「トマトソース」という看板がかかっていた、という話である。
内田樹『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ,p.62)

◆ という文章を読んだので、『どくとるマンボウ青春記』も読んでみた。

◇ あるときは、仙台の東一番丁の大通りを歩いていて、だしぬけにぎくりとして立止った。なぜ自分がぎくりとしたのか、瞬間わからなかったが、周囲を見まわしてみて、その理由が判明した。すぐ前の店に、こういう貼紙か看板が出ていたのである――「トマトソース」
北杜夫『どくとるマンボウ青春記 改版』(中公文庫,p.245)

◆ 看板(か貼紙)の「トマトソース」という文字を、とっさに「トーマス・マン」と読んでしまっていた、というこのエピソードは、たいへんに興味深いので(そのうち)じっくり考えることにして、とりあえず気になってしまったのは、些細なことだが、この「トマトソース」の看板があった場所のこと。内田樹は「酒屋」と書いているが、北杜夫本人は「すぐ前の店」としか書いていない。べつなところではっきり「酒屋」と書いているのかもしれないが、おそらくは、内田樹が、トマトソースを売っているのは酒屋であろうと「ごく自然に」判断し、「すぐ前の店」を説明的に補完して「酒屋」と書いたのだろうと思う。

◆ ワタシはトマトソースを酒屋で買ったことがない(スーパーで買う)。ソースも醤油も買ったことがない(スーパーで買う)。そもそも酒以外のものを買った記憶がない(スーパーで買う)。いやあるかな。つまみとかお菓子とか。あとはなにが売っているのだったっけ? というような具合なので、もし内田樹の文章を読まずに北杜夫の文章を先に読んでいたら、「トマトソース」の看板が掲げてあった「すぐ前の店」は「すぐ前の店」のままで、それが何屋か気にすることもなく、それが「酒屋」であることに気がつきもしなかっただろう。

◆ 《Wikipedia》の「酒屋」の項を読むと、

◇ 明治時代以降は、町中で諸方面の商品を扱うよろずや的な要素を高めていき、人々の生活と切っても切り離せない存在となった。酒屋の若い店員が各家庭に御用聞きといって、その日に必要な食料や日用品を注文を聞いて回り、あとから宅配するというサービスも一般的に行なわれていた。
ja.wikipedia.org/wiki/酒屋

◆ そうそう、酒屋にもいろいろあるけれど、酒屋といえばそんなイメージ。昔ながらの酒屋さん。とはいえ、ワタシにはほとんどなじみがない。

♪ 角の酒屋のオヤジともすっかり
  顔なじみになってしまって
  「オールドにしてよ」なんで言うと
  「おや景気いいね」と
  「給料日前だからあんまり無理しないで」
  なんて言われて
  「それじゃやっぱりホワイトでいいよ」と

  風「何かいいことありそうな明日」(作詞・作曲:伊勢正三)

◆ 酒屋のオヤジか。この歌詞の酒屋の屋号が「かどや」であれば、なおいい。

◆ 冒頭の内田樹の文章は、本人のブログ《内田樹の研究室:朝の読書》でも読める。

◆ 映画「喜びも悲しみも幾年月」の同名の主題歌の歌詞。

◇ 昔、子供の頃の私は、「おいら岬」と言う岬が実在すると思ってました。 何県なのか??そんな疑問がありました。この歌を聞いて思ったのは私だけでしょうか??
blog.emachi.co.jp/amemasu/diary_detail/00000319710/

◇ 「おいら岬の灯台守りよ」という唄い出しなのだけれども、わたしはこの歌詞をずっと、「おいら岬」という地名の場所があるのだと思っていて、「おいら岬」の灯台の歌だということにしていた。「おいら岬」はきっと、北海道の人里離れた北の果てにあって、吹雪と荒波の吹きよせる苛酷な土地なのだ。そこで暮らす灯台守りはたいへんだよ、と。
d.hatena.ne.jp/crosstalk/20100518/p1

◇ 映画と歌がはやっていた頃、小学生の弟から「おいら岬ってどこにあるの?」と訊かれたことがありました。半年ぐらい弟は「おいら岬」のあだ名でよばれました。
komachi.yomiuri.co.jp/t/2010/0712/330418.htm?g=01

◇ 歌いだしの「おいら岬の燈台守は」という歌詞を、わたしはずっと「おいら岬」というどこかにある実在の岬の名前だとばかり思っていたのだが」(私の中では「生良岬」とでも書くのかと勝手に想像していた)、TVのモニター画面に映し出される歌詞は「俺ら岬の」であった。
blog.goo.ne.jp/sotashuji/e/49cc83231195d91ba0bd5735354e2788

◇ 日本のどこかの「おいら岬」って岬の灯台守と思っていたのでありますね。ところが「おいら」は一人称でありまして。俺ら岬の灯台守~だったんですね。
henjoy.blog78.fc2.com/blog-entry-541.html

◆ 川崎の二ヶ領用水の「新川橋」と「橋本橋」。

〔川崎市建設緑政局道路河川整備部河川課〕 二ヶ領本川は、多摩川の上河原堰から農業用水、工業用水を主として取水し、川崎市の誕生から今日までの発展を支えてきました。旧三沢川を合流し、橋本橋を境に上流区間を準用河川として指定し、上河原線と称しています。橋本橋から下流は一級河川に指定され、東に流下し、山下川、五反田川及び二ヶ領用水宿河原線と合流したのち、高津区久地地先で一級河川平瀬川に流入しています。
www.city.kawasaki.jp/53/53kasen/home/nikaryohonsen/nikaryohonsen.htm

◆ こういった文章は、地図とにらめっこしながら読むのでなければ、さっぱりわからない。この二ヶ領用水(お役所の正式名称でいえば、二ヶ領本川、橋本橋から上流は、二ヶ領本川上河原線)は、新川とも呼ばれているそうで、だから、新川橋ということなのだろう。橋本橋という橋名の由来はよくしらない。地主に橋本さんがいたのかもしれない。要するに、くわしいことはなにも知らない。たまたま仕事のまえに二ヶ領用水をちょっと散歩して、橋本橋と新川橋に出くわしたというだけのこと。かってに想像して書いている。

◆ 新川にかかっている橋だから、新川橋。しかし、新川にかかっている橋はまさかひとつではないだろうから、その他の橋をさしおいてこの橋だけがどうして新川橋と名のれるのだろうか。「僭称」というコトバを思い出す。

◆ 「~川+橋」という名をもつ橋にはちょくちょく出くわすが、そのたびに「えらそうに」と思ったものだった。

◆ 逆のパターンもある。「~橋+川」という名をもつ川がある。たとえば、日本橋のしたを流れる川の名をご存知だろうか。なんと日本橋川のいうのである。ということになると、新川橋があるのだから、日本橋川橋があってもいいだろう。日本橋川があるのだから、日本橋川橋川もあっていいのだろう。さらには、日本橋川橋川橋もあっていいし、日本橋川橋川橋川もあってもいいが、このあたりまでくると、さすがに飽きてくる。なにごともほどほどが大事である。

◆ 橋本橋も似たようなもので、ほんらいは橋があってこその橋本(橋のたもと?)だろうに、その橋本のほうがなぜだかえらくなっちゃって、橋本(橋のたもと)にある橋を「橋本橋」と名づける。すると、橋本橋のたもとは橋本橋本ということになるだろうし、橋本橋本(橋本橋のたもと)にかかる橋は、橋本橋本橋(橋本橋のたもとの橋)と名づけられる資格がある。でも、やっぱり、このへんになると、うんざりしてくるだろう。だから、こんな名前の川や橋はない。ないと思う。たぶんないだろう。いや、どこかにあるかもしれない。

◆ 似たような写真を見つけると、つい並べてみたくなる。

◆ で、並べてみた。いずれも登録有形文化財で、文化庁の《文化遺産オンライン》の記載にしたがえば、

(左)滋賀大学経済学部講堂(旧彦根高等商業学校講堂):1924、木造2階建、瓦葺。
(中)信州大学繊維学部講堂(旧上田蚕糸専門学校講堂):1929、木造2階建、鉄板葺。
(右)群馬大学工学部同窓記念会館(旧桐生高等染織学校本館・講堂):1916、木造2階建、瓦葺。

◆ 大学の講堂といえば、東大の安田講堂(1925)、早稲田の大隈講堂(1927)あたりが有名だろうが、東大も早稲田も講堂が建てられたとき、すでにれっきとした大学だった。それにたいして、写真の3つの大学はいずれも戦後の学制改革で誕生した新制大学で、講堂が建てられたときには、まだ大学ではなかった。それぞれの前身には興味深いものがある。信州大学に繊維学部があるということ、その繊維学部が上田市にあるということ、群馬大学の工学部が前橋市ではなく桐生市にあるということ、これらのことをワタシは知らなかった。知らずに上田市と桐生市を訪れ、そこに国立大学の学部があることを知って、かなり驚いた。ワタシはたまたま友人が進学したので知っていたが、滋賀大学の経済学部が大津市ではなく彦根市にあることを知っているひとはそう多くないだろうと思う。

♪ 函館止まりの 連絡船は
  青森行きの 船になる

  北島三郎「終着駅は始発駅」(作詞:佐東たどる、作曲:中村千里)

◆ 知らなかったが、朝日新聞紙上で去年、読者が選ぶ「日本の終着駅ベスト10」といったような企画があったらしい。

◇ 朝日新聞の「読者が決める“日本一”は?」と題したコラム欄で、アンケートによって選ばれた「終着駅」の第1位は、回答者の1万人余りの6割近くが選んだJR北海道の稚内駅(北海道稚内市)であった。
41-31.at.webry.info/200905/article_1.html

◆ 半数以上のひとが稚内駅を選んでいるとは、すごい人気だな。2位以下はというと、

◇ 2位 枕崎駅(JR指宿枕崎線・鹿児島県枕崎市)、3位 志布志駅(JR日南線・鹿児島県志布志町)、4位 根室駅(JR根室本線・北海道根室市)、5位 函館駅(JR函館本線・北海道函館市)、以下門司港駅(JR鹿児島本線・北九州市門司区)、長崎駅(JR長崎本線・長崎県長崎市)、夕張駅(JR石勝線・北海道夕張市)、三厩駅(JR津軽線・青森県三厩村)、奥多摩駅(JR青梅線・東京都奥多摩町)
Ibid.

◆ という順。なるほど。ほとんどが、北海道か九州だな。えっ、3位に志布志駅? それで、正月に行った志布志の写真の整理をまだやってなかったことに気がついた。いまから、こっそり駅の写真だけでもアップしておくか。10位の奥多摩駅は、都民の人口の多さを物語っているのだろう。しかし、5位に函館駅はあるけれど、青森駅がないなあ。どうしてだろう。青森駅はもはや終着駅ではないのだろうか。函館は、終着駅というよりも始発駅のイメージのような気がする。

♪ はるばるきたぜ 函館へ
  さかまく波を のりこえて

  北島三郎「函館の女」(作詞:星野哲郎、作曲:島津伸男)

◆ ああ、これは「函館の女」にはるばる会いに来た歌だったから、やっぱり終着駅なのか。それにしても、「終着駅は始発駅」という歌の歌詞。どこが舞台かと思ったら、これまた青函連絡船。しかし、これは「駅」なのだろうか。船の駅? 連絡船だから「駅」でいいのか。

◆ 以前、「さいはての駅」という記事も書いた。