◆ たとえば、「書き取り」と「柿取り」ではアクセントが違う。と書いて、違わないひともいるかな、と思った。 ◇ 小澤 あなたは、いわゆる方言があるんですか。 ◆ と、大江健三郎は自らの「アクセント音痴」を明らかにしているが、これはもちろん本人のせいではない。 ◇ 〔くまから・かまから(宮古島方言マガジン) vol.102〕 こういう"アクセント音痴"の人は、平良だけではなくて、全国にいるらしく、有名人で言うと、春日八郎、東京ぼんた、ガッツ石松、前川清、渡辺美智雄、渡辺恒三、柳田邦男、立花隆、大江健三郎、立松和平等がそうらしい。 ◆ 大江健三郎の出身地は、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)。大江のいう「非アクセント」は、また「無アクセント」「一型アクセント」などとも呼ばれる。 ◇ 【一型アクセント】 日本語のアクセントで、同一音節数の語がすべて同じ型のアクセントで発音されるもの。例えば、「箸(はし)」と「橋」とが同じアクセントになる。南奥羽から北関東にかけての地域と静岡・福井・愛媛県の各一部、九州中部・八丈島・五島列島などでみられる。 ◆ さらには、「崩壊アクセント」とも呼ばれるようで、 ◇ 〔Wikipedia:崩壊アクセント〕 テレビやラジオなどで崩壊アクセントが特徴的な話者としては、あき竹城(山形)、斎藤暁(福島)、ガッツ石松(栃木)、立松和平(栃木)、高橋愛(福井)、マギー司郎(茨城)、磯山さやか(茨城)、松野明美(熊本)、ヒロシ(福岡・熊本)、蛭子能収(長崎)、米良美一(宮崎)、鳥越俊太郎(福岡)らを挙げることができる。 ◆ ただ、 ◇ 〔栃木のことば〕 「無アクセント」のことを、「崩壊アクセント」と呼ぶことがあります。これは、無アクセントの方言が、有アクセントの方言のアクセントが崩れることによって生じたという考え方に基づいた呼び方です。しかし最近は、この逆の方向、つまり、「無アクセント→有アクセント」という変化を考える山口幸洋先生のような研究者もいます。この考え方によれば、無アクセント方言は、アクセントという現象面において、有アクセント方言よりも古い日本語の姿を保っているということになります。 ◆ 「崩壊アクセント」か。学術用語とはいえ、あんまり使いたくはないなあ。 |
◆ 「異常な速度で」と、内田樹は書いている。 ◇ 私たちの社会では、「他者が何かを失うこと」をみずからの喜びとする人間が異常な速度で増殖している。 ◆ 先の首相は「友愛」だの「win-win」だのと声高に叫んではいたが、そんなものは絵空事としてだれも耳を傾けようとはしなかった。ゼロサム社会の縮図としてのゼロサムゲームを「battle royal」よろしく演じているのは、現実主義者の子どもたちである。ゲームの規則は単純だ。「偏差値」のスコアをとにかく上げればいい。偏差値を上げる方法は二つ。たったの二つ。 ◇ 自分の学力を上げるか、他人の学力を下げるか、である。 ◆ 「そして」と、内田樹は書いている。 ◇ そして、ほとんどの人は後者を選択する。 ◆ ! これには、かなりびっくりした。偏差値を上げるのに、こんな魔法のような方法があっただなんて! そして、「ほとんどの人」がその方法を知っていてその方法を採用していただなんて! ワタシも子どものころから知っていれば、以下のような方法をどんどん取り入れていたことだろう。あのころ、どうしてこんな単純なことに気がつかなかったのだろう? ◇ だから、学習塾で学校より先に進んでしまった子どもたちは、授業妨害の仕事にたいへん熱心に取り組む。それは「教師の話を聴かないで、退屈そうにしている」という消極的なしかたで教室の緊張感を殺ぐことから始まり、私語する、歩き回る、騒ぎ立てる、というふうにエスカレートする。 ◆ じっさいの教育現場がどうなっているのかについては、知る機会がないのでよくわからない。もしかしたら、ここに書かれているような事態は、あるいは特殊な例かもしれないし、あるいは内田氏独自の特殊な見方であるかもしれない。とはいえ、教育の問題を別にしても、私たちの社会が「異常な速度で」変わりつつあるという感覚は、漠然とであれ多くのひとが共有しているのではあるまいか? ◆ 引用した内田樹の文章は、かれのブログ《内田樹の研究室:忙しい週末 once again》でも(ほぼ同様なものが)読める。 |
◆ ニュースの見出しに、「一丁目一番地が三丁目の夕日に…」とあるのを見て、なんのことかと読んでみた。 ◇ 〔MSN産経ニュース(2010/09/25)〕 鳩山由紀夫前首相は25日、京都市内の同志社大学で講演し、自らが首相在任時に進めてきた「地域主権」「新しい公共」という一連の政策の優先順位が、菅政権で落ちているとして菅直人首相を批判した。 ◆ 読んでもよくわからない。わからないのは「二丁目とか三丁目の夕日」の「の夕日」の部分で、これに意味があるのかどうか? あるような、ないような。朝日でなく夕日ということで、「すぐに消えてなくなる」というニュアンスが多少は含まれているような気もするが、どうなのだろう。というようなことを書くと、オマエは「三丁目の夕日」も知らないのか、と言われそうだが、同名の漫画を読み映画を観たからといって、この発言にたいする理解が深まるとも思えない。そもそも「一丁目一番地」ってなんなんだ? 「三丁目三番地」よりもエライのか? だって一丁目がなきゃ二丁目も三丁目もありえないんだから、という声もすぐに聞こえてきてきそうだが、なるほどおっしゃる通り、とただうなずくのもしゃくなので、いや、そんなことはないよ、たとえば、 ◆ 神田多町(かんだたちょう)と神田司町(かんだつかさまち)に、二丁目はあるが、一丁目はない(三丁目はもともとない)。 ◇ 〔Wikipedia〕 また、神田多町と神田司町に(二丁目が存在するにもかかわらず)一丁目が存在しないのは、住居表示実施に伴う町名変更により一丁目のみ消滅したからである。 ◆ 新聞が鳩山前首相の「一丁目一番地が三丁目の夕日に」という発言を、もっと削って「一丁目が三丁目に」にするのではなくて、そのまま見出しにしたのはどうしてだろう。洒落た表現だと思ったからだろうか(駄洒落ではあるが)。そもそも鳩山前首相はなぜ「一丁目一番地が三丁目の夕日に」と言ったのだろうか。あらかじめ作文してあったのか、とっさに口をついて出たものか。「江戸っ子」だから、意外に「無駄口(付け足し言葉)」が好きなのかも。 ◆ 「三丁目」と言うときには、つい「の夕日」と付け足してしまう、いや、「三丁目の夕日」と言わなければどうしても落ち着かない。「夕日」と言うときには、もちろん「のガンマン」と付け加えたくなる。しかし、そこまでやるのは野暮だろうから、ここはガマンして、と。そんなことを考えながら講演していたのかも、と想像することは楽しいが、まあ、そういうことはないだろうな。 |