MEMORANDUM

◆ たとえば、「書き取り」と「柿取り」ではアクセントが違う。と書いて、違わないひともいるかな、と思った。

小澤 あなたは、いわゆる方言があるんですか。
大江 僕の話しぶりを聞いて芥川也寸志さんが、音楽家として茫然とされたことがありますが、僕の地方は日本列島でも狭い地域にしかないいわゆる非アクセント地域、ノンアクセントゾーンです。僕の思いこみかもしれないけれど、いまでも言葉にアクセントが弱いようです。
小澤 こういくわけですか(手でジェスチャアする)。
大江 そう、そのように平坦です。僕が大学に進学して困ったのは、英文学科の講義を聴きに行ったときに、英語のアクセントがピッチだということがわからなかったことです。アクセントというのは、ただ調子を強くするだけだと……。〔中略〕
小澤 たとえば箸とか橋というのは……。
大江 分かりません。
小澤 駄目なんですか。
大江 いま小澤さんが言われた二つの「はし」の区別が分からないんです。

小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』(中公文庫,p.79-80)

◆ と、大江健三郎は自らの「アクセント音痴」を明らかにしているが、これはもちろん本人のせいではない。

〔くまから・かまから(宮古島方言マガジン) vol.102〕 こういう"アクセント音痴"の人は、平良だけではなくて、全国にいるらしく、有名人で言うと、春日八郎、東京ぼんた、ガッツ石松、前川清、渡辺美智雄、渡辺恒三、柳田邦男、立花隆、大江健三郎、立松和平等がそうらしい。
www.melma.com/backnumber_33637_1630638/

◆ 大江健三郎の出身地は、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)。大江のいう「非アクセント」は、また「無アクセント」「一型アクセント」などとも呼ばれる。

【一型アクセント】 日本語のアクセントで、同一音節数の語がすべて同じ型のアクセントで発音されるもの。例えば、「箸(はし)」と「橋」とが同じアクセントになる。南奥羽から北関東にかけての地域と静岡・福井・愛媛県の各一部、九州中部・八丈島・五島列島などでみられる。
三省堂『大辞林』

◆ さらには、「崩壊アクセント」とも呼ばれるようで、

〔Wikipedia:崩壊アクセント〕 テレビやラジオなどで崩壊アクセントが特徴的な話者としては、あき竹城(山形)、斎藤暁(福島)、ガッツ石松(栃木)、立松和平(栃木)、高橋愛(福井)、マギー司郎(茨城)、磯山さやか(茨城)、松野明美(熊本)、ヒロシ(福岡・熊本)、蛭子能収(長崎)、米良美一(宮崎)、鳥越俊太郎(福岡)らを挙げることができる。
ja.wikipedia.org/wiki/崩壊アクセント

◆ ただ、

〔栃木のことば〕 「無アクセント」のことを、「崩壊アクセント」と呼ぶことがあります。これは、無アクセントの方言が、有アクセントの方言のアクセントが崩れることによって生じたという考え方に基づいた呼び方です。しかし最近は、この逆の方向、つまり、「無アクセント→有アクセント」という変化を考える山口幸洋先生のような研究者もいます。この考え方によれば、無アクセント方言は、アクセントという現象面において、有アクセント方言よりも古い日本語の姿を保っているということになります。
www.hcn.zaq.ne.jp/myattun/tochi/index.html

◆ 「崩壊アクセント」か。学術用語とはいえ、あんまり使いたくはないなあ。

  柿取り

◆ 旧制浪速高等学校に、こんなスラングがあったらしい。

◇ ディクテーションとは英語の「書き取り」だ。浪高のすぐ北に位置する箕面市には、柿の木がたくさんあった。秋が深まると真っ赤な実をつける。それを盗みにいくことを浪高では「ディクテーションに出かける」といった。
週刊朝日編『青春風土記 旧制高校物語3』(朝日新聞社,p.119)

◆ 「書き取り」と「柿取り」、いや「柿盗り」か。柿取りといえば、5年前、仕事の合間に世田谷の岡本あたりをふらふらと散歩していたら、区立の民家園というのがあって、無料なので入ってみると、竹の「柿取り棒」を使って柿を取っている人がいた。しばらく見学していると、「やってみるか」というので、やらせてもらって、自分で取った枝付きの柿を三つお土産にもらって帰った。そんなことを思い出した。

◇ ただ、こういうことは、たまにある。私が特にこういう奇妙な偶然にめぐまれているというわけでもなく、誰にでもあることだろう。ふだんならば長い時間の軸の上にちりぢりばらばらに置かれていることごとが、たまたま集まってくる。いくらか長く生きていると、そういうことがときどき起こるように思う。
川上弘美『ゆっくりとさよならをとなえる』(新潮文庫,p.124)

◆ 「こういうこと」というのは、川上弘美がかつてわずかのあいだ住んでいた町(明石)の思い出を新聞のエッセーに書いたら、そのエッセーが新聞に掲載される2日前にその町の友人からたまたま手紙が届き、1日前にその町の別の友人からたまたま電話がかかってき、新聞の掲載から半月後に会おうと思った人がたまたまその町に転勤で引越してしまっていた、というような偶然の連鎖のことで、こういう「たまたま話」がワタシは大好きなので、他人の話ではあっても、なんとなく楽しい気分になる。

◆ そういえば、数日前、ワタシにもこんなことがあった。横浜の日ノ出町あたりを散歩していたら、「横浜愛犬高等美容学園」という看板がふと目に入った。「高等」の文字がなんとなく気になって、この高等というコトバの位置がなんとなく変かな、などと思い、ではどこに入れればいいのかとあれこれ考えて、「横浜高等愛犬美容学園」がいいかな、とも思ったけれど、それでは「頭のいい犬」のためのトリミングスクールの意味にもとれるから、やっぱり元の語順でいいのか、と思い直しもしたりして、でも結局は「高等」というコトバはそもそも不要じゃないか、などとくだらぬことを考え続けて、ふと通りの反対側に目をやると、マンションに「空ワンルーム」の文字。ワンルーム? とっさに犬用のマンションかと思ってしまった。おまけに、そのマンションの前には犬の散歩をしてる人もいたりして。いや、まあ、それだけのハナシなんだけど。そんなことであっても、なんとなく楽しい気分になった。

  よい日

◆ 2010年10月11日は、よい日だった。空は青空。雲ひとつない青空。それだけでもよい日だけど、仕事が早く終わり、まだ明るいうちに仕事が終わり、ぶらぶらと知らない町を、近くにあった動物園まで散歩をする。動物園にはペンギン。輪になって泳ぐペンギン。2010年10月11日は、とってもよい日だった。

◆ 「異常な速度で」と、内田樹は書いている。

◇ 私たちの社会では、「他者が何かを失うこと」をみずからの喜びとする人間が異常な速度で増殖している。
内田樹『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ,p.82)

◆ 先の首相は「友愛」だの「win-win」だのと声高に叫んではいたが、そんなものは絵空事としてだれも耳を傾けようとはしなかった。ゼロサム社会の縮図としてのゼロサムゲームを「battle royal」よろしく演じているのは、現実主義者の子どもたちである。ゲームの規則は単純だ。「偏差値」のスコアをとにかく上げればいい。偏差値を上げる方法は二つ。たったの二つ。

◇ 自分の学力を上げるか、他人の学力を下げるか、である。
内田樹『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ,p.83)

◆ 「そして」と、内田樹は書いている。

◇ そして、ほとんどの人は後者を選択する。
内田樹『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ,p.83)

◆ ! これには、かなりびっくりした。偏差値を上げるのに、こんな魔法のような方法があっただなんて! そして、「ほとんどの人」がその方法を知っていてその方法を採用していただなんて! ワタシも子どものころから知っていれば、以下のような方法をどんどん取り入れていたことだろう。あのころ、どうしてこんな単純なことに気がつかなかったのだろう?

 ◇ だから、学習塾で学校より先に進んでしまった子どもたちは、授業妨害の仕事にたいへん熱心に取り組む。それは「教師の話を聴かないで、退屈そうにしている」という消極的なしかたで教室の緊張感を殺ぐことから始まり、私語する、歩き回る、騒ぎ立てる、というふうにエスカレートする。
 彼らがそれほど熱心なのは、それを「勉強している」ことにカウントしているからである。
 たしかに、彼らは級友たちの学習時間を削減し、学習意欲を損なうことには成功しているのである。だから、そのささやかな努力の成果は彼らの「偏差値」のわずかな上昇として現れることを期待してよいのである。

内田樹『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ,p.83-84)

◆ じっさいの教育現場がどうなっているのかについては、知る機会がないのでよくわからない。もしかしたら、ここに書かれているような事態は、あるいは特殊な例かもしれないし、あるいは内田氏独自の特殊な見方であるかもしれない。とはいえ、教育の問題を別にしても、私たちの社会が「異常な速度で」変わりつつあるという感覚は、漠然とであれ多くのひとが共有しているのではあるまいか?

◆ 引用した内田樹の文章は、かれのブログ《内田樹の研究室:忙しい週末 once again》でも(ほぼ同様なものが)読める。

◆ ヒマなので、「PhotoDiary」の抜けてるところをせっせと埋めている。これは5年前の写真。撮った記憶は皆目ないが、こうして残っているから撮ったんだろう。ただ、どうしてこの写真を撮ったのかについては、自分のことだから、5年前とはいえよくわかる。「ヨウ接」の「熔」の字が気になったにちがいない。「溶接」ではなくて「熔接」。水ではなくて「火」偏のヨウ。こんな漢字も使うんだなあ、と思ったにちがいない。あれ、「ヨウコウロ」はどういう漢字を使うんだっけ、といま思いついて、「ようこうろ」と入力してみたら、変換候補に「熔鉱炉/鎔鉱炉/溶鉱炉」と出た。みっつもあるのか。

◆ 「鉱」の字でまた思い出したけど、「炭コウ」の表記も「炭鉱」に「炭砿」とふたつある。理屈はよくわかる。

〔Wikipedia〕 炭鉱は石炭または亜炭を掘り出す鉱山そのものを指すが、しばしば同じ読みで炭砿(旧字体では炭礦)とも表記される。石炭は金属ではなく、その採掘地を金属鉱山とは呼べないため、漢字の偏が「金偏」ではなく「石偏」となるのが正しいという理由である。
ja.wikipedia.org/wiki/炭鉱

◆ それから、「バン金」なんてのも「板金」と「鈑金」があるな。ほかには? いまのところ、思いつかない。風呂屋でちょっと考えてみることにしよう。

◆ ニュースの見出しに、「一丁目一番地が三丁目の夕日に…」とあるのを見て、なんのことかと読んでみた。

〔MSN産経ニュース(2010/09/25)〕  鳩山由紀夫前首相は25日、京都市内の同志社大学で講演し、自らが首相在任時に進めてきた「地域主権」「新しい公共」という一連の政策の優先順位が、菅政権で落ちているとして菅直人首相を批判した。
 この中で鳩山氏は「(鳩山氏は政策の優先順位の高い)一丁目一番地のように大事に考えていたが、(菅政権になって)二丁目とか三丁目の夕日みたいになってくると、心配だな、という思いがしないではない」と述べた。

sankei.jp.msn.com/politics/policy/100925/plc1009251747024-n1.htm

◆ 読んでもよくわからない。わからないのは「二丁目とか三丁目の夕日」の「の夕日」の部分で、これに意味があるのかどうか? あるような、ないような。朝日でなく夕日ということで、「すぐに消えてなくなる」というニュアンスが多少は含まれているような気もするが、どうなのだろう。というようなことを書くと、オマエは「三丁目の夕日」も知らないのか、と言われそうだが、同名の漫画を読み映画を観たからといって、この発言にたいする理解が深まるとも思えない。そもそも「一丁目一番地」ってなんなんだ? 「三丁目三番地」よりもエライのか? だって一丁目がなきゃ二丁目も三丁目もありえないんだから、という声もすぐに聞こえてきてきそうだが、なるほどおっしゃる通り、とただうなずくのもしゃくなので、いや、そんなことはないよ、たとえば、

◆ 神田多町(かんだたちょう)と神田司町(かんだつかさまち)に、二丁目はあるが、一丁目はない(三丁目はもともとない)。

〔Wikipedia〕 また、神田多町と神田司町に(二丁目が存在するにもかかわらず)一丁目が存在しないのは、住居表示実施に伴う町名変更により一丁目のみ消滅したからである。
ja.wikipedia.org/wiki/神田_(千代田区)

◆ 新聞が鳩山前首相の「一丁目一番地が三丁目の夕日に」という発言を、もっと削って「一丁目が三丁目に」にするのではなくて、そのまま見出しにしたのはどうしてだろう。洒落た表現だと思ったからだろうか(駄洒落ではあるが)。そもそも鳩山前首相はなぜ「一丁目一番地が三丁目の夕日に」と言ったのだろうか。あらかじめ作文してあったのか、とっさに口をついて出たものか。「江戸っ子」だから、意外に「無駄口(付け足し言葉)」が好きなのかも。

◆ 「三丁目」と言うときには、つい「の夕日」と付け足してしまう、いや、「三丁目の夕日」と言わなければどうしても落ち着かない。「夕日」と言うときには、もちろん「のガンマン」と付け加えたくなる。しかし、そこまでやるのは野暮だろうから、ここはガマンして、と。そんなことを考えながら講演していたのかも、と想像することは楽しいが、まあ、そういうことはないだろうな。