MEMORANDUM

◆ 独り言はあまり言わないほうだと自分では思っているが、それはふだん耳が働いていないだけのことかもしれない。そんな気もする。つい今しがた、「あれっ!」という自分の声が自分の耳にはっきりと聞こえた。銭湯の帰りに立ち寄ったいつものスーパーで、いつものように、1パック6缶入りの缶ビールを買って帰った。部屋に戻って、さっそくそのうちの1缶を取り出したところが、「あれっ!」。いつものように、500mlのものを買ったつもりだったのに、手にしているのは、なぜだか350ml。「あれっ!」。このあと何本飲んでいいのやら、微妙に判断に迷いつつ、とりあえず、いま2缶目に手をつけたところ。

◆ 似たような写真が3枚あると、並べたくなる。2枚では少なすぎ、4枚では多すぎる。3枚がちょうどいい。ちょっと前にも、「3つの講堂」を並べてみたが、今回は高校の校門の写真を3枚。

◆ これらがみな高校の門だというのだから、驚く。
(左)長野県立上田高校正門(旧上田藩主居館表御門)。上田市文化財。
(中)千葉県立大多喜高校〔かつては〕正門(旧大多喜城二の丸御殿薬医門)。千葉県文化財。
(右)京都府立園部高校正門(旧園部城本丸櫓門)。文化財指定なし。

◆ 門といえば、小諸城大手門にふれて、「愛がなくちゃね」という記事を書いたが、歴史的建造物として観光名所であるだけの門よりも、じっさいに使用されている門のほうが好きだ。門だって、門として建てられたからには、できることならいつまでも門として仕事をしていたいだろう。博物館に保存された「きかんしゃやえもん」が幸せだとは思えない。

◆ 3つのなかでは、この上田高校の門が一番すばらしい。《長野県上田高等学校公式ホームページ》の、「校門と堀・濠」というページの写真の数々(卒業式や入学式)がこれまたすばらしいのでぜひ一度。

◇  本校正門は、上田藩主居館表御門を継承したものである。
 寛政2(1790)年、上田藩主が松平忠済(ただまさ)の時代に再建され、形式上薬医門と呼ばれる。中世以降の武家、禅宗寺院に多く用いられた様式である。
〔中略〕
 門標の「長野縣上田高等学校」は昭和38年秋、当時、新潟大学教授石橋犀水先生に揮亳していただいたものである。門標が盗難に遭う前に籠字にしておいたものを80周年の記念事業の中で刻して復活した。

ueda-h.ddo.jp/koumon.htm

◆ なにがすばらしいといって、この歴史のある門が、いまなお「生きている」のがすばらしい。訪れたのは土曜日で門は閉ざされていたが、右端のポストには新聞が配達されていた。

◆ 大多喜高校のこの門、説明板によると、

◇ この門は大多喜城内建造物唯一の遺構である。本柱が中心より前方にあり、控柱を付けた薬医門形で、天保十三年の火災後に建築された二の丸御殿の門である。明治四年の廃藩の際に、城山水道の開鑿により、功績のあった小高半左衛門に払い下げられた、大正十五年、曾孫にあたる県立大多喜中学校第一回卒業生小高達也氏により、同校の校門として寄贈された。

◆ とある。たしかにかつては校門として使用されていたらしいのだが、いまでは校舎へと直接つながるスロープが門のすぐわきにあるので、門としての役割はあまり果たしていないのが残念といえば残念。ネット上であれこれ検索してみても、卒業生の思い出話にこの門のハナシは見つからない。城門としても小ぶりで、だから、城めぐりが好きなひとが、

〔K.Yamagishi's 城めぐり〕 裏門だったので大したものではない。水戸一高内にある水戸城本丸正門だった薬医門のほうが立派である。
shiro.travel.coocan.jp/02kanto/otaki/index.htm

◆ と思うのも仕方がないだろうが(ちなみに、上記のサイト管理人は水戸一高卒業生だそうだ)、創立4年目の新しい高校に通ったワタシとしては(そんなことはどうでもいいが)、それでもこんな門のある高校がうらやましい。

◆ 園部高校正門。この門もいまなお生きている。(あれこれ調べて補足の予定)

  山神社

◆ 丹那トンネル熱海口坑門の真上には殉職碑があり、その背後には丹那神社がある。《丹那神社》のサイト(URL上は、来宮神社のサイトに間借りしている)によると、

〔丹那神社〕 丹那神社は、このトンネル工事の犠牲者の英霊の鎮魂の意味を込めて、工事の守り神として坑口上に建立、当初「隧道神社」と命名されて現在地に祀られましたが、後に「丹那神社」と改称されて今日に至っています。
www.kinomiya.or.jp/tanna/yurai-keidai.htm

◆ この「丹那神社の右斜め上に」小さな祠がある。この祠について、《丹那神社》のサイトはつぎのような説明をくわえている。

〔丹那神社〕  トンネル工事を担った坑夫は、金、銀、銅などの鉱山で活躍した坑夫の系譜に連なる人たちです。
 固有の歴史と伝統、規律を持つこの人たちには、様々な習俗・習慣がありましたが、その一つに工事を起こす際に、山を鎮め、工事の安全を祈って坑口に山の神様(山神宮)を祀るというものがあります。
 丹那トンネルの工事に際しても、着工前に山の神が祭られました。丹那神社の右斜め上にある小さな祠がそれで、石を刻んだだけの素朴な社です。
 祭神は大山祗命(おおやまずみのみこと)が祀られ、坑夫たちは坑内への出入りの際には参拝したと言われています。

www.kinomiya.or.jp/tanna/yurai-keidai.htm

◆ この「山の神様」を祀っている小さな祠が、山神社(さんじんじゃ)。坑夫、炭鉱夫、トンネル坑夫。ああ、そうか、トンネルで働くひともやはり坑夫なのだった、と当たり前といえば当たり前のことに、いまさらながらに気がついて、なるほどなるほど、と合点がいった。山の神。

◇ 妻が出産した折りには一週間坑内に入らぬ習わしがあり、女が坑内に入るのをかたく禁じる現場もある。それは、山の神――女神の嫉妬を買い、山が荒れるからだという。迷信だと言って笑うのは容易だが、それほど神経を使わねばならぬ危険な職場だ。
吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.94)

◆ トンネルにかぎらず、全国各地の鉱山、炭鉱には、きまって「山神社」がある。友人の住む万字にも山神社はあった(近年移築され、その賽銭箱を友人が作った)。

◆ べつな本を読んでいたら、こんな記述。

◇  宿を出て渓谷沿いに下って行くと、巨大な男根状の岩(男石明神)を過ぎ、やがて狭い谷からすこし開けた里に出た。谷の出口から下に棚田が見えている。その出口というか、里のほうから来れば狭い谷への入口に、小さな神社があった。
 風雪にくろずんだ白本の鳥居に、「山神宮」と書いた板額が上がっている。
 ――なんと素朴な名前だろう。
 角間神宮といった名があってもよさそうだが、たんに山神宮だった。鳥居の奥の社殿も祠といったほうがいいくらいに素朴で小さなものだ。この神社が、固有名詞をもたず、ただ山の神社であるところに、ここがまさに山国であることを思わせられる。

高田宏『信州すみずみ紀行』(中公文庫,p.113)

◆ 「なんと素朴な名前だろう」、ワタシも友人に万字の神社の名が「山神社」であることを聞いたとき、そういう気がした。上の引用文で触れられている角間渓谷の山神宮も、もしかしたら近くに鉱山があったのでは、とつい思ってしまったが、山の神を祀るのは、なにも鉱山だけではない。マタギ、キコリ、炭焼き、山にはいろんな仕事がある。

◆ 吉村昭『闇を裂く道』に参考文献として挙げられているもののうち、鉄道省熱海建設事務所編『丹那トンネルの話』が、《土木学会附属土木図書館 デジタルアーカイブス》の「戦前土木名著100書」に選ばれており、うれしいことにネット上でも読める(PDFファイル)。読み物として、おもしろい。たとえば、こんなハナシはどうだろうか(「十一 馬頭観世音の由来」)。

◇  トンネルを掘るには、崩した土砂や岩石――之を碿(ズリ)と謂ひます――を坑外に運び出さねばなりません。此の運び出す作業、即ち碿出は、勞働者がウンサウンサとトロを押してもやれます。併しトンネルの長さがだんだん長くなつて碿の量がふへ、捨場の距離が遠くなると、人間の力でやつたのでは、間に合はなくなります。金も餘計掛ります。だから何か人間より力のあるものを使はなければばりません。これには馬か牛の生物をつれて來て、手傳はせるのが一番簡單です。牛や馬なら人間よりは力が強く丈夫で、しかも文句を言ひませんから、餘計に仕事をさせられます。
 丹那トンネルでも、初めの口付け時代には、人力でトロを押して、やりましたが、間もなく馬に代へることにしました。併し馬を使つて一番困ることは、馬が臆病な點です。殊に坑内の暗い處になると、馴れた奴でも、兎角物事に驚き勝で暴れ易く、その爲に能く足を折る奴が出來ます。馬も足を折つては商賣になりませんから、此奴はトロに積んで坑外に運び出して殺してしまひます。已むを得ませんが、如何にも不憫です。いくら畜生でも一掬の涙なしにはと謂ひたくたります。三島口の鹿島組では、可なり長い期間、馬を使ひましたから、此の間に澤山の馬を犠牲にしました。碿出しの下請をやつて居つた川上氏はこれを見て、仕事の爲とは謂へ、餘りに可哀相だ、何とか馬の靈を慰めてやり度いと、考へた末、馬頭觀世音を建立して、供養をしてやりました。今の火藥庫のある山の下にあるのが、それです。近頃は大分お詣りする人が多勢あります。それは家族が病氣のとき病氣が樂になり早く癒る樣に祈るのですが、效驗があらたかの爲か、お供物を供へて、線香の煙のゆらゆらしてゐる日の方が多いやうです。三島口に停車場でも出來ましたら、もつと適當の場所に移す計畫も出來てゐるやうです。
 馬はこんなエ合で、兩ロとも餘り、成績が思はしくないので、次は牛を使ふことにしました。牛は馬よりもカが強く、それに臆病でありませんから、其の點は好都合です。此の馬や牛を使つた時代は、未だ坑内の明りはカンテラですから、手元以外は眞黒です。此の闇の中で圖體の大きい牛や馬と一緒に働くのですから時々間違ひが起ります。牛はトロを引いても、悠々と餘り音を立てず、暗闇から、のそりと出て來ますが、其の眼玉が異樣に光つて、氣味の悪いものです。或る人夫などカンテラの燈だと思つて居ると兩眼を光らした大きな牛の頭が暗闇から突然眼前に浮び出たので、びつくりして、あわてゝ逃げて、大怪俄をした事もありました。そんなことから、牛の首に鈴をつけて見ましたが、牛が歩くとカランカランと鳴り、坑内から鈴音勇しく出て來る樣は、一寸活氣もあり、乙な處もあつて、いゝものでした。牛馬との暗闇生活で、一番困るのは、先生達の糞尿です。所きらはずやるので坑内は臭くなり、足元がともすると辷つて危険です。此の時分の笑話です。三島口の組員の一人が、眞暗な中を、或る時切り擴げの上段から、手捜で降りて來て、大體此の邊が、支保エの「大引」だと思つて、ぐつと、つかまつて見ますと、何だか柔かで暖い、おかしいなと氣がつくと、馬の尻にしつかりつかまつて居たと謂ふナンセンスもありました。熱海ロの鐵道工業會社では、朝鮮牛の赤い奴でトロ三臺を引くのを使ひましたが、三島ロの鹿島組では、丹波牛のトテツモなく大きい奴で、トロ十臺も引くのを使ひました。面白いことに、兩請負人の仕事のやりつぷりの違ふのが、こんな點にも表はれて居ます。
 こんな工合で、牛馬の御厄介には大分なりましたが、結局技術的な動力の力を借りなければ、充分な仕事は出來ません。愈々牛や馬を免職して、電車運搬にしたのは、大正十年夏頃からでした。今日なら電氣工業も發達し、トンネル技術も進歩しましたから、こんな人から馬、馬から牛、牛から電氣と、まだるいことをやらずに、いきなり電氣を使ふでせう。併し當時としては已むを得なかつたのです。暗い地中のトンネル作業では、味もなく、臭もなく、形もない電氣の御厄介になるのが一番です。之れで碿出し作業も、本格的になつたのですが、馴れると云ふものは、おかしなもので、電車にした當時には、坑夫達のなかに、電車は早くていかんとか、トロの連結があぶないとか、不平を謂ふものがありました。こんな連中でも、まさか今日では牛や馬を使つて見る勇氣もありますまい。人間は兎角舊慣に惰して、新しきにつかないものです。しかし一旦移ると又すぐ馴染んでしまひます。新調の靴が一寸はき悪いと謂つた工合なのでせう。

鉄道省熱海建設事務所編『丹那トンネルの話』(鉄道省熱海建設事務所,p.59-61,1934)

◆ ズリ(碿)を積んだトロ(ッコ)を牽く馬や牛。『闇を裂く道』では、こうなっている。

◇  切端で崩された土石(ズリ)は、労務者がトロッコを押して坑口の外に運び出す。それは、途中で何度も休まねばならぬほどの重労働で、導坑が裾り進められるにつれて運ぶ距離も長くなり、労働は一層きびしさを増した。熱海ロ、三島ロともに一キロメートル近くまで掘り進んでいたので、ズリをトロッコで運び出すにはかなりの時間を要した。
 そのため馬と牛を使用することになり、熱海口では六頭の牛が集められ、三島口では馬が調達された。
 牛馬は、それぞれ空のトロッコ三台をひいて坑口から切端にむかった。坑内は電燈がなく真の闇で、牛、馬は、手綱をとる者の持つカンテラの明かりをたよりに進み、切端にたどりつく。そこでトロッコにズリが積まれ、牛、馬は、それをひいて坑口に引き返して土捨て場にゆく。これによって能率が上がり、人件費の節約にも役立った。
 ズリ出しを終えた牛や馬は、坑口の外で飼料をあたえられて休息をとる。係りの者は馬を近くの川に連れて行って体を洗ったり、牛の体を藁で拭いたりしていた。
 半月ほど過ぎた頃、三島口で馬の事故が起った。
 その日、ズリを積んだトロッコをひいて坑口に進んでいた馬が、突然、暴れ出した。手綱をもつ男の手にしたカンテラの淡い灯だけの闇に、馬が恐怖を感じたのである。
 男は驚いて制止しようとしたが、馬はたけり狂い、足を曳き綱にからめて骨折してしまった。馬の甲高いいななきをきいて集まってきた労務者たちは、倒れた馬の足を綱でしばってトロッコにのせ、坑口の外に運び出した。足を骨折した馬は殺す以外になく、処理業者に渡され、運び去られた。
 馬の事故は、その後もつづいた。臆病な性格の馬は闇を恐れ、不意の音に驚いて暴れ、足を骨折する。その度に、馬は、大ハ車で処理場に運ばれた。三島ロのズリ出しを請け負っていた親方は相つぐ馬の死をあわれみ、霊を慰めるため自費で馬頭観世音の像を建立し、香華をそなえた。
 熱海口で使っていた牛には、事故はなかった。牛は馬より力が強く、歩く速度はおそいが闇も恐れずトロッコをひく。そのため、三島口でも馬の使用をやめて牛に切りかえることになった。
 三島ロでは丹波牛を集めた。それは、体が大きく力もあって、熱海口で使っていた牛がトロッコ三台をひくのに、丹波牛は十台もひく。落ち着いた動きでズリを満載したトロッコをひいて、坑外に運び出し、能率が向上した。
 しかし、牛そのものに事故はなかったが、熱海ロの坑道で、坑内夫が重傷を負う出来事が起った。牛は物音も立てずに歩く。その坑内夫は、闇の中から突然、姿をあらわした牛に驚き、あわてて逃げたため支保工の丸太に体を打ちつけて顔を強打し、腕も骨折したのである。
 この事故は、今後も起ることが予想された。それを防ぐため牛の首に鈴をつけさせることにしたので坑道には悠長な鈴の音が往き来するようになった。
 そのうちに、坑内労務者の間から牛の排泄物に対する苦情が建設事務所派出所に持ち込まれるようになった。坑内に悪臭がただよい、糞に足をすべらせて倒れる者もいる。派出所では、専門の処理係をもうけ、糞をスコップですくってトロッコで坑外に出させる処置をとった。

吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.64-66)

◆ 同じ文章を再読するより、似たような文章を複数読んだほうが愉しいし、記憶に残るように思う。間違いも少なくなるだろう。

◆ 丹那盆地に行くのはやめたが、丹那トンネルだけは見ておこうと思って、新幹線を熱海で降り、伊東線に乗り換え、来宮(きのみや)駅に着いた。改札口でトンネルへの道順を尋ねると、わからないから、となりの交番で聞け、と言う。鉄道員なのに。

◇  丹那山トンネルの工事は、熱海口から開始されることになった。
 大正七年三月二十一日朝、熱海町の梅園近くにある坑口予定地の山肌の前で起工式がもよおされた。

吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.46-47)

◆ たしかに「梅園近く」に丹那トンネル熱海口はあった。

〔Wikipedia:丹那トンネル〕 熱海側の坑門上部には、開通時の鉄道大臣内田信也揮毫の銅製「丹那隧道」扁額が中央にあり、左に2578、右に2594という数字も掲げられている(2つの数字は着工と開通の年の皇紀を表す)。
ja.wikipedia.org/wiki/丹那トンネル

◆ 2594-2578=16。トンネル工事は、1918年(大正7)年から1934年(昭和9)年、完成までにじつに16年もの歳月を要した。殉職者67名。熱海口坑門の真上に「殉職碑」があり、殉職者名簿がある。三澤徳一、長田要一、織田龍一、永井誠一郎、石原森一、横山松太郎、松本源太郎、高橋吉太郎、福本伯太郎、三上清太郎、小林金一、兒玉長太郎、安藤一郎、藤田金一、田口一男。長男っぽい名が多い(なんてことはどうでもいいのだけど)。それから、女性がふたり。岩田エイ、金子安。それから、朝鮮名のもの7名。季春伊、李且鳳、金炳泰、明東善、李賢梓、孫壽日、金芳彦。合掌。

◆ 丹那トンネル工事を描いた吉村昭の小説、『闇を裂く道』を読んだら、丹那盆地に行きたくなった。

◇  子供づれの女が通り、老いた男がすぎた。かれらは例外なく挨拶してすぎ、子供も頭をさげた。
 急に樹林がきれ、あたりがひらけた。峠にたどりついたらしい。
 坂道をのぼったかれは、足をとめた。眼下に思いがけぬ光景がひろがっていた。それは、いかにも盆地というにふさわしい地形で、三方が低い山にかこまれ、平坦な地に田畠のひろがりがみえる。光っているのは川で、池らしいものもある。草木は、まだ緑の色をみせていないが、点々と田畠の中に散る藁ぶき屋根の家々が、おだやかな田園らしいたたずまいをみせている。若い技師が、別天地のようだと言っていたが、曾我の眼にも砂漠の中のオアシスのようにみえた。
〔中略〕
 かれは、しばらくの間、丹那盆地をながめていた。疲れも忘れ、眼が清冽に洗われる思いであった。

吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.33-34)

◇  曾我は、川口の家を出ると畦道を進んだ。小川に膝まで水につかった子供たちが、大きな笊(ざる)を突き立て、そこへ魚を追いこんでいる。あげた笊の中には、川魚が何尾もはねていた。
 かれは、水の豊かなことに呆れた。流れがいたる所にあり、大きな水車がまわっている。村には、水の流れの音と匂いがみちていた。
 咽喉がかわいたので、一軒の農家に入り、水を飲ませてもらった。その水は、家の裏手を流れる小川から直接樋でひき入れたもので、丹那盆地に住む人たちが、小川の水を飲んでいることを知った。
 湧水池の近くには、ワサビも栽培されていた。ワサビ田に清流が絶え間なく走り、それが光りながら樹林の中に消えていた。かれは近づき、掌で水をすくってロにふくんだ。歯にしみ入るような冷たさで、かすかに樹皮の匂いがしていた。

Ibid., p.35-36

◆ 「別天地」あるいは「砂漠の中のオアシス」という表現でもいいが、まるで桃源郷のようなところ。かつては。

〔Wikipedia:丹那トンネル〕 トンネルの真上に当たる丹那盆地は、工事の進捗につれて地下水が抜け水不足となり、灌漑用水が確保できず深刻な飢饉になった。住民の抗議運動も過激化したため鉄道省は丹那盆地の渇水対策(貯水池や水道等の新設、金銭や代替農地による補償等)にも追われることとなった。現在でも、完成した丹那トンネルからは大量の地下水が抜け続けており、かつて存在した豊富な湧水は丹那盆地から失われてしまった。例えば、湿田が乾田となり、底なし田の後が宅地となり、7カ所あったワサビ沢が消失している。
ja.wikipedia.org/wiki/丹那トンネル

◆ 正月休みの帰りに、かつては桃源郷であった丹那盆地を訪ねてみようかと思ったが、車がないときびしそうだったので、あっさりヤメにした。寒いし。暖かくなったら、また考えよう。

◆ 引越のお客さんチに丸盆があった。なにかの記念品のようで、裏返してみると、「祝 弾丸鉄道新丹那トンネル鍬入式 株式会社 間組」と書かれている。日付はない。新丹那トンネルは東海道新幹線のトンネル。「弾丸鉄道」の文字が気にかかる。

◇ 新丹那トンネル(しんたんなトンネル)は、丹那トンネルの約50m北側に並行して延びる長さが7,959mの東海道新幹線用のトンネルである。
 新丹那トンネルのトンネル工事が開始されたのは、1941年(昭和16年)8月にさかのぼる。新丹那トンネルは、もともとは戦前の高速鉄道計画である弾丸列車計画に基づくものであった。しかし、1943年には第二次世界大戦の戦況悪化にともない中止されてしまった。中止の時点において、熱海口(東口)は647m、函南口(西口)は1433mの先進導坑がすでに掘削され、両坑口ともに200~300m程度の覆工を完成させていた。〔中略〕
 戦後、東海道新幹線のために弾丸列車計画のルートが採用されたため、新丹那トンネルは今度は新幹線用のトンネルとして利用されることとなった。新丹那トンネルは、1959年に工事が再開され1964年に完成を見た。〔中略〕
 ちなみに、東海道新幹線の全体の起工式が行われたのは、新丹那トンネルの熱海側坑口前である。新丹那トンネルこそが全体の工期を律する最重要工区とみなされていたためである。

◆ 東海道新幹線の起工式が行われたのは、1959(昭和34)年4月20日。

◇  新幹線工事は、新丹那トンネルの掘削からはじめられることになり、昭和三十四年四月二十日午前十時、新丹那トンネル熱海口で新幹線起工式がもよおされ、十河国鉄総裁が鍬入れをおこない、大石新幹線総局長が工事の開始を宣した。
 弾丸列車計画による新丹那トンネルは、熱海口が間組によって、函南口が鹿島建設請負で途中まで導坑がそれぞれ掘削されていたので、新幹線建設計画でも、両社に請け負わせて工事を再開させることになっていた。総工費三十八億七千万円、工期五十三カ月が予定された。

吉村昭『闇を裂く道』(文春文庫,p.417-418)

◆ こんどは、十河国鉄総裁の「十河」の読み方が気にかかる。

〔Wikipedia:十河信二〕 十河 信二(そごう しんじ、1884年4月14日 - 1981年10月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。愛媛県西条市市長、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年 - 1963年)。「新幹線の父」と呼ばれる。西条市名誉市民第一号。
ja.wikipedia.org/wiki/十河信二

◆ この「そごう」さんには、こんなエピソードもあるそうな。

〔Wikipedia:十河信二〕 1973年に東海道新幹線の東京駅18・19番ホーム先端に東京駅新幹線建設記念碑が建立されたが、その碑には功績を讃えて、十河のレリーフと座右の銘である「一花開天下春」の文字が刻まれている。ちなみに、そのレリーフの自分の肖像を見た十河は一言、「似とらん」と言ったそうである。
ja.wikipedia.org/wiki/十河信二