MEMORANDUM

  婦人薬

◆ 中野重治『歌のわかれ』(1940)から。

◇  行ってみると内蔵太は風邪をひいて寝ていた。
「なんだ。中将湯を飲むのか。」
「うむ……きくんだよ、おれには。」
 中将湯が振出し薬だということを安吉ははじめて知った。

中野重治『歌のわかれ』(『村の家・おじさんの話・歌のわかれ』所収,講談社文芸文庫,p.205-206)

◆ 中将湯(ちゅうじょうとう)。それから、振出し薬。この場面で「中将湯が振出し薬だということを安吉ははじめて知った」のだったが、ワタシは「中将湯」というコトバも「振出し薬」というコトバもこの文章ではじめて知った。そもそも、薬についてはほとんどなにも知らない。

◇ 「なんだ。中将湯を飲むのか。」「うむ……きくんだよ、おれには。」

◆ どうやら「中将湯」というのは、ふつうは風邪薬として用いるものではないらしい。では、なんの薬か?

〔ツムラ〕 『中将湯』は、婦人薬として用いられている生薬製剤です。「月経」や「更年期障害」に伴う「頭痛」、「肩こり」、「腹痛」、「腰痛」、「冷え」、「のぼせ」、「めまい」等の不快な症状を改善します。
www.tsumura.co.jp/products/otc/otc01.htm

◆ ああ、婦人薬だったのか(と書きながら、この「婦人薬」というのもよくはわかっていない)。すると、安吉の「なんだ。中将湯を飲むのか」というセリフには、「男のくせに」のという意味が言外に込められていたのだろう。

◇ 「あたし、中将湯を飲み出してから病気というものを知らなくなりました」
「それあ結構ですね。実は僕も中将湯の信者なんです」
「あら!男が飲んでどうするんです?」

村松梢風「彼女と中将湯」(『婦人世界』昭和4年7月号)

◆ ワタシも今度風邪をひいたら中将湯でも試してみようか。中将湯のほかにも婦人薬はいろいろとあるようで、先日たまたま見かけた看板の「実母散」もそのひとつ。

〔yomiDr.:薬と健康 なるほどヒストリー(内藤記念くすり博物館 稲垣裕美)〕 婦人薬はその土地ごとに有名な薬があり、江戸では喜谷実母散(きだにじつぼさん)、千葉実母散、中将湯、また、岐阜では蘇人湯、京都では蘇命散などがありました。
 これらの薬は煎じ煮つめるのではなく、必要な時に湯を沸かして、その中で薬を入れた袋を振ると有効成分がさっと溶け出すタイプの薬です。これは、振り出し薬と呼ばれ、つらい症状の時にすぐに用いることができるようになっています。しかも、温かいうちに飲めば、体が冷えやすい女性の体を温めていたわる働きもあり、重宝されました。

www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=26983

◇  煎じ薬はお袋の匂いだった。火鉢に土鍋をかけて、ことことと薬を煎じていたお袋を思い出す。白い割烹着の似合うお袋だった。もう四〇代も半ばを過ぎていただろうか。
 その年頃の婦人特有の変調に“血の道症”というのがある。今風にいえばホルモンのアンバランスと自律神経失調による病変で、更年期障害の代表的な症候群であろう。こんなとき、よく家庭で用いられたのが「實母散」という煎じ薬たった。

鈴木昶『日本の伝承薬 江戸売薬から家庭薬まで』(事業日報社,p.246)

◇ 「私ねえ、本は読まないようにしているの」
 閑(ひま)さえあれば寝っころがって本を読んでいる私はびっくりして、
「どうして」
 と聞いた。
「だって、おばあさんになって老人ホームに行った時、普通の人と話が合わなくなると思うから」

佐野洋子『ふつうがえらい』(新潮文庫,p.234)

◆ なるほど。それもひとつの見識だろう。「敢えて~しない」という決断は目に見えないから、傍目からは「~しない」と見分けがつかない。でも、注意深いひとなら、どこかの筋肉に微妙な強ばりを見出してしまうかもしれない。「敢えて~しない」を続けていると、そのうち「~しない」と完全に区別がつかなくなって、そのころにはかつて「敢えて」という決断をしたことも忘れてしまっているだろう。そうなればいい。

  優曇華

◆ 「薬師でめめめ」の川柳を『誹風柳多留全集』(岡田甫校訂,三省堂)で確認したさい、ついでに前後の句もちらほら読んでみたが、皆目わからず。唯一わかったのがこれ。

◇ 優曇華を三度見てから龜ハ死(柳多留152・11)

◆ 三千年に一度しか咲かない珍しいウドンゲ(優曇華)の花も、一万年生きる亀なら三度も見ることができる。

ウドン‐げ (名) 優曇華〔うどんハ梵語、優曇鉢羅(ウドンバラ)の略、瑞應の義〕(一)天竺ニアリトイフ樹ノ名、常二、實アリテ花無ク、三千年ニシテ、始メテ花アリト云フ、若シ此樹ニ金花アルトキハ、佛、世ニ出ヅト云ヒ、又、轉輪聖王、世ニ出ヅレバ、此花生ヅトモイヒテ、世ニ稀ナルコトノ譬ヘトス。(二)芭蕉ノ花ノ稱、寒國ニテハ、花稀ニ開クガ故ニ、譬ヘテイフ。(三)無花果(イチジュク)ノ異名。(加州)(四)一種ノ蟲ノ、其卵ヲ草木ノ枝、或ハ屋内ノ器物ナドニ着クルモノ、長サ四五分、白キ絲ノ如クニシテ、頭ニ白ク小キ卵アリテ、花苞ノ如シ、六足四翅ノ蟲ニ羽化ス、虻(アブ)ノ類ナリ。
大槻文彦『言海』(ちくま学芸文庫,p.254)

〔WikiArc:うどんげ〕 優曇は梵語ウドゥンバラ(udumbara)の音写、優曇鉢羅(うどんばら)の略。優曇鉢華(うどんばけ)・優曇鉢樹(うどんばじゅ)ともいう。霊瑞華と漢訳する。桑科のイチジクの一種で三千年に一度だけ咲く花という。仏の出世が稀なことや、めでたいことのおこる前兆を示す喩えに用いられる。
labo.wikidharma.org/index.php?title=うどんげ&oldid=27293

◆ 三千年に一度といえども、かなり運がよければ、寿命百年の人間であっても見ることができるだろう。とてつもなく運がよければ、寿命一日の蜉蝣(カゲロウ)であっても見ることができるだろう。反対に、寿命千年の鶴だって、運が悪ければ、見ることができないだろう。

◇ 優曇華を一度も見ずに鶴は死に

◇ 優曇華を見て蜉蝣はすぐに死に

◆ カゲロウといえば、先に引用した『言海』には、「優曇華」の意味として、四番目に昆虫の卵が挙げられていて、「(四)一種ノ蟲ノ、其卵ヲ草木ノ枝、或ハ屋内ノ器物ナドニ着クルモノ、長サ四五分、白キ絲ノ如クニシテ、頭ニ白ク小キ卵アリテ、花苞ノ如シ、六足四翅ノ蟲ニ羽化ス、虻(アブ)ノ類ナリ」とあって、この「一種ノ蟲」を大槻は「虻ノ類」としているが、これはクサカゲロウのことらしい。

〔虫の雑学(梅谷献二):うどんげの花〕 クサカゲロウはアミメカゲロウ目の昆虫で、英名で lacewing-flies(レースの翅の虫)または aphis-lions(アブラムシのライオン)と呼ばれている。〔中略〕 特徴的なのはその卵で、雌が腹の先から葉面に一滴の液を落とし、腹を持ち上げるとそれが糸状に伸びて固まり、その先端に卵を生む。同じ場所に何本かまとめて産卵するが、糸が細いので卵が空中に浮遊しているように見える。また、成虫は明かりに飛来する性質があり、よく電灯の笠などにも産卵することがある。そして、古く日本ではこれが植物と誤認された。それも、3千年に一度花が咲き、開花のときには如来が世に現れるという伝説の"うどんげ(優曇華)の花"とされたのである。
www.afftis.or.jp/konchu/mushi/mushi92.htm

◆ とりあえず、いまのところはまだ、優曇華を見たことがないが、クサカゲロウの卵なら、死ぬ前に一度くらいは見ることもできるだろう。

◆ 「落石注意」の標識のつづき。この標識に描かれた石(岩)は何個だろうか。だれがどう見たって4個だろう、と思うひとがほとんどだろうが、1個だと思うひともいる。

 ◇  第二印象は、法隆寺にある玉虫厨子への連想である。その台座の部分に、自らの肉体を与えることで餓えた虎の命を救ったという、釈尊前世の有名な物語「捨身飼虎(しゃしんしこ)」が描かれている。
 崖の上に衣を脱ぐ男、身を投じてまっさかさまに落下する男、崖下には、虎にまさに今食べられんとする男の姿がある。
 それを、三人の男が次々と飛び降りる様子だと受け取れば、画家は、あまりに張り合いがないと嘆くに違いない。
 画家は、一人の男の三つの場面を苦心して描いたのである。同様に、岩もまた、四個ではなく一個でなければならない。
 玉虫厨子の画家と交通標識の画家との間には、なんと千三百年余りの時間が横だわっているのだ。画家にとって、運動をどのように絵にするかということが、永遠の課題であり、標識のこの表現が古くて新しい方法であることがよくわかる。おそらくもっと早く、絵を描き始めた時から、人類はこの難問とともにあったのだろう。
 なんとか絵を動かしたいという願いは昂じて、とうとう映画を生んでしまう。映画ではなく活動写真と呼べば、動く絵に初めてふれた人々の感動かよみがえってくる。

木下直之『ハリボテの町 通勤篇』(朝日文庫,p.205-206)

◇ この看板の第一印象は、おそらくだれもがそうであるように、せやからどない注意せえちゅうねんというものであった。
木下直之『ハリボテの町 通勤篇』(朝日文庫,p.205)

◆ 「この看板」とは「落石注意」(正式には「落石のおそれあり」と読むものらしい)の交通標識のこと。この標識を見て、「せやからどない注意せえちゅうねん」と思うひとはたしかに多いようで、

◇ しかし、運転中に上から落ちてくる石をどうやって注意するのか。がけ沿いの細い道で上を見ながら運転するなど自殺行為だ。うーむ、どうすればいいのでしょうか。
www5b.biglobe.ne.jp/~k-hassy/20091022.html

◇ そこを通る人に何をせよと言いたいのか分からない。山を見上げながら運転したら危ないぞ。車のほうが渓谷に落ちてしまう。
hecota.blog.so-net.ne.jp/2008-05-31

◇ 実際に落石があったとして、どうやって気をつければいいのか分かりませんよね。
aym.pekori.to/koneta/archives/2004/06/post_8.html

◆ などなど。ワタシには「どのように注意すればいいのかわからない」という意味がよくわからない。注意のしようはいくらだってあるだろう。道路の先に「落石のおそれあり」というのであれば、思い切って引き返すとか、ラジオを消して耳をすますとか、ここ数日の天候を思い出してみるとか。もしかして、そういうハナシではないのだろうか? と、ここまで書いて、しばらく時間がたった。そうしたら、なんとなくわかるような気もしてきた。「どのように注意すればいいのかわからない」というひとは、「落石注意」の標識を、例えれば、(気象庁の)「注意報」ではなくて「警報」のようなものとして受け取っているのではないか。「落石のおそれ」にたいする注意ではなくて、「落石そのもの」にたいする注意として捉えているのではないか、どうもそんな気がする。だが、標識は「ただいま落石中につき注意」ではない。

◆ 《Yahoo!知恵袋》にこんな質問。

〔Yahoo!知恵袋〕 落石注意の標識は既に落ちている落石に注意するのですか??? それともこれから落ちてくる落石に対して注意をするのですか???
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1112362581

◆ この質問の意味も、これまたワタシにはよくわからない。お手上げである。質問者は「落石注意の標識」を見ないで「落石注意の標識」の質問しているのだろうか? 標識に描かれているものを見てもなお、疑問に思うのだろうか?(下手くそな絵なのでなにが描かれているかわからない?) それとも、標識そのものとは関係なしに、たんに「落石注意」というコトバのみを問題にしているのだろうか? それにしても、どうして「既に落ちている落石」と「これから落ちてくる落石」を区別する必要があるのだろう。両方に決まっているではないか。「既に落ちている落石」のみの状況は想像しづらい。その場合、「既に落ちている落石」は、すぐに撤去されるだろうから。「これから落ちてくる落石」のみの状況も想像しづらい。「これから落ちてくる落石」は、数秒後にはかならず「既に落ちている落石」になるだろうから。ちなみに、国土交通省道路局の解釈はこうだ。

〔国土交通省道路局〕 この先に路側より落石のおそれがあるため車両の運転上注意が必要であることを指します。なお、「落ちてくる石(岩)」もしくは「道路に落ちている石(岩)」の一方のみに対して注意が必要であるということではありません。
www.mlit.go.jp/road/sign/sign/douro/road-sign-topics.htm

◆ 後半の「なお~」の一文は、まるで「Yahoo!知恵袋」の質問にたいする回答のようでもあり、おそらくそのような疑問をもつひとが多いということなのだろう。

◆ そもそも「落石」とはなんだろう? 落石には「既に落ちている石」と「これから落ちてくる石」、あるいは「落ちてくる石(岩)」と「道路に落ちている石(岩)」の二種類がある、のだろうか? そう思っているひとが多いのだろうか? 落石とは、まず「石が落ちること」であり、また、その結果として「落ちた石」も指す、そう理解していたワタシには、これはちょっと奇妙で新鮮な二分類で、「(これから)落ちてくる石」をはたして日本語で「落石」と呼べるのかどうか、ということが気にかかる。

〔いさぼうネット〕  「落石」の定義とはなんだろうか?国語辞書の「広辞苑」によれば、「山などで、上から石が落ちてくること。また、その落ちた石」と定義されている。一方、専門図書の「落石対策便覧」(日本道路協会)では、「落石とは、岩盤の不連続面(岩盤中に発達する節理、片理、層理等の割れ目)が拡大して、岩塊や礫がはく離したり、表層堆積物、火山噴出物、固結度の低い砂礫層の中の岩塊、礫が表面に浮き出して斜面より落下する現象をいい、落下した岩塊等も落石ということが多い」と、さすがに詳しく説明されている。
 ちなみに、道路上でよく見かける「落石注意」の標識は、「落ちてくる石に注意という意味ではなく、路上に落ちている石に注意してくださいということを促している」と言う意見がある。

isabou.net/theme/03-01_rakuseki/knowledge/index.asp

◆ しかし、「落石に当たって死亡した」などというニュース記事を目にすることもある。

〔MSN産経ニュース〕 11日午後2時45分ごろ、長野・岐阜県境の御嶽山(3067メートル)で、横浜市保土ケ谷区仏向町、無職、****さん(36)の上半身に1メートル大の落石が当たった。**さんは頭を強く打ち、死亡した。
sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/100712/dst1007121114002-n1.htm

〔読売新聞〕 11日午前10時半頃、山梨県南アルプス市の北岳の標高2700メートル地点の岩壁で、落石に当たって負傷していた岐阜県高山市桐生町、会社員****さん(42)を県防災ヘリが発見したが、**さんは内臓損傷による出血性ショックで死亡した。
www.yomiuri.co.jp/national/news/20101011-OYT1T00391.htm

◆ 結局、落石とは「石が落ちること」(fall of rocks)および「落ちている石」(falling rocks)または「落ちた石」(fallen rocks)の3つの意味があるということになるのだろう。

◆ 冒頭に引用した文章は、「第二印象は、」とつづき、書きたいのは、この「第二印象」のほうだったが、長くなったので、次回。

◆ 野坂昭如の自伝的小説『行き暮れて雪』から。戦後まもなくの六甲ケーブル。

◇  ケーブルカーの出発駅はコンクリート造り、要塞の如く頑丈な建物。暗い構内の中央に傾斜した車体があり、これに沿って、プラットフォームも階段状、その向うに明るい山肌とレールが見える。レールの右側に狭い階段、これを掩うように、六甲山特有の、猛々しい熊笹が繁っていた。
 「誰もいてはらへんのかしら」左に切符売場の窓口、正面左側に改札の柵、右が降りロ、構内は深閑と静まって暗い。ケーブルカーの仕掛けは簡単で、山頂駅にもまったく同じ一台が待機している、下の車と、ケーブルで結ばれ、上の車が降りるにつれて、下が引張り上げられる、両駅の中間で、左右にレールが分れて、すれちがい、さらに二つの車は、進みつづける。「ほな、電気みたいなんいらんのん」悠二の説明をきいて、園子がいった。

野坂昭如『行き暮れて雪』(中公文庫,p.268)

◆ 「ほな、電気みたいなんいらんのん」という園子の関西弁がなんとも魅力的だ。「電気みたいなん」はケーブルカーをつなぐ鋼索の巻き上げに使うけれども、ケーブルカー自体は自走するわけではないから、基本的に「電気みたいなん」は不要。

〔Wikipedia:ケーブルカー〕 車両は外部から引っ張って運転するので動力のための電力の供給は必要ないが、車内照明や自動ドアなどのためにバッテリーや架線、第三軌条などから電力を供給している。パンタグラフがついている車両があるのはそのためである。
ja.wikipedia.org/wiki/ケーブルカー

◆ ついでに「運転士」も不要。

〔Wikipedia:ケーブルカー〕 ケーブルカーの車両に乗務している乗務員は必ず前方に乗務している。そのうえ、乗務員がいる箇所には、一見自動車のハンドルのような円形や、クランク状のハンドルがあることも多い。このため、よく「運転士」と勘違いされるが、実際には「車掌」が前方確認のために前方に乗務しているものであり、「運転士」は山上側の駅にある運転室に詰めていて巻上機を操作している。
ja.wikipedia.org/wiki/ケーブルカー

◆ 以下、ワタシのケーブルカーの写真。

◆ 上の写真は、鞍馬寺ケーブル(2004/01/02)。

◆ 上の写真は、高尾登山ケーブル(2004/09/08)。

◆ 上の写真は、大山ケーブル(2010/11/26)。あと、箱根登山ケーブルにも乗っているはずだが(2008/05/03)、写真がないのが、残念。

◆ 先日の「メメメにハハハ」という記事で、

◇ 薬師へめめめ戸隠へはははは

◆ という古川柳を紹介したが、念のために『誹風柳多留全集』(岡田甫校訂,三省堂)で確認してみると、あれあれあれ、「は」がひとつ多かった。つまり、「はははは」ではなく「ははははは」。

◇ 薬師へめめめ戸隠へははははは

◆ 歯の四本が五本になったところでたいした違いはないのかもしれないが、これを単純に「ハハハハハ」と読んでもいいものやら、よくわからない。もしかしたら、

◇ 子子子子子子子子子子子子

◆ のように、特別な読み方があるのかもしれない。ちなみに、上の十二の「子」は、

〔Wikipedia〕 「ねこのここねこ、ししのここじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と読む。この問題を考え出したのは嵯峨天皇、解いたのは小野篁であると伝えられている。
ja.wikipedia.org/wiki/子子子子子子子子子子子子

◆ ここもひとつ、小野篁に聞いてみるべきか。