◆ 以前に書いた文章を読み返していて、 ◇ あちこちに幸町があって、そこではだれもが幸せになろうとしている。幸せなひとたちが住むところに、けっして幸町はない。(「幸」住むと人のいふ) ◆ という箇所を、これじゃあ、全国各地の幸町に住むひとに失礼かな、という気がして、書きなおそうかとも思ったが、書きなおすのはやめにして、さらに書き足すことにした。前回の記事でも引用したが、「SACHIKO」という歌に、 ♪ 幸せを話したら 五分あれば足りる ◆ という歌詞がある。しかし、幸子自身がそう感じるのはしかたがないとしても、幸子という名前に皮肉があるわけではない。そもそも幸子という名前は、幸せな女の子という意味ではないからだ。幸子という名前が意味するのは、幸せな女の子になってほしいという親の願望なのであり、じっさいの幸子が幸せかどうかにはまったく関係がない。 ◆ 同様に、優しい女の子が優子と呼ばれ、美しい女の語が美子と呼ばれるわけではない。優しい女の子になってほしいと願う親が優子と名づけ、美しい女の子になってほしいと願う親が美子と名づけるのだ。現実の優子が優しくなく、現実の美子が美しくなくても、それは名づけ親の責任ではない。 ◆ あたりまえのハナシだが、新しく生まれたものに対するこうした命名は、名づけが行われる時点での願望を表現することしかできない。もちろん、それはなにも人名にかぎったことではない。地名も同様である。住むひとが幸せになってほしいと思う気持ちから、新しい町の名を幸町と名づけるので、住むひとが幸せだから幸町と名づけるわけでは、けっしてない。願望ではなくて、現状にふさわしい名づけをせよという法律・条例ができれば、おそらく不幸町という町名が全国にあふれることになるだろう。アパートの名でも同じこと。ぼろアパートになってしまったからといって、「ボヌール」(幸せ)とか「エスポワール」(希望)とかいった新築当時の名前を律儀に改名する大家はいない。名が実態にそぐわないのは大家の責任ではない(名にふさわしいアパートにするのに必要な努力を怠ったというような意味での責任はあるかもしれないが)。実態に即したアパート名しか許されないとしたら、日本全国に無数の「貧乏荘」とか「お先真っ暗荘」が出現するだろうし、老人ホームの名称もなんかも、ほとんどが改称を余儀なくされることになるだろう。 ◆ そんなことを考えていると、すっかり陰鬱な気持ちになってしまうが、もうひとつだけ。元号などというのも、同じことだろう。 ◇ 新しい元号は「平成」であります。これは、史記の五帝本紀及び書経の大禹謨中(だいうぼ)の「内平かに外成る(史記)地平かに天成る(書経)」という文言の中から引用したものであります。この「平成」には、国の内外にも天地にも平和が達成されるという意味がこめられており、これからの新しい時代の元号とするに最もふさわしいものであると思います。 ◆ これは首相に代わって小渕官房長官が読み上げた文章(だったっけな)。平成という名には「国の内外にも天地にも平和が達成される」という願望が込められているということだが、現在、国の内外に平和が達成されたと思っているひとがどれだけいるだろう。それから「天地」、とくに「地」に、平和が達成されたと思っているひとはひとりもいないだろう。 ◇ 元号が一世一元になる前なら、このような大きな災いがあれば改元がなされたはず。平成の世はじつは大乱の世であった。復興と人心の一新のため、法制変えてこのさい改元したらいいと思う。 ◆ ↑は《大震災復興への気分を変えるために「災異改元」はいかが?[絵文録ことのは]2011/03/25》というブログ記事に引用されていたもの。《Wikipedia》に、出典不詳ながら、こんなことも書いてあった。 ◇ 〔Wikipedia:平成〕 平治以来「平」で始まる元号がないのは、平治が戦役によって混乱した時代であったためであり、「平」で始まる元号はこれを避けるのが故実である。また、「平」「成」の文字の中に「干(=楯)」「戈(=鉾)」があり「干戈(戦争を意味する)」に通じる。 ◆ 干戈は「かんか」と読む。そういえば、NHKの大河ドラマ「平清盛」の視聴率が低調であるそうだが、平清盛にも「平成」の文字があるなあ。 |
◆ 「辺」という漢字1字のお店があって、これを「なべ」と読ませる。ちょっとおしゃれな感じ。ダイニングバーとあるので、店内もきっとおしゃれなのだろう。オーナーは渡辺さんか田辺さんか。調べたら、渡辺さんだった。 ◆ ナベツネもなべおさみ・やかん父子も、名字は渡辺。 ◆ 埼玉県のどこだったかに〔いま調べたら、東毛呂駅前に同名の店があるようなので、ここだったのかも〕、「Casserole」(フランス語で「鍋」の意)というレストランがあって、マスターに店名の由来を尋ねたことがあるが、こちらも渡辺さんだった(ような記憶がある)。料理店に「鍋」だから、連想の点では、「辺」よりもさらにしゃれていよう。 ◆ 「鍋」はさておき、ハナシを「辺」に戻すと、《コトノハ》に「渡辺は『わたな・べ』なのか『わた・なべ』なのか」という質問がある。回答は、圧倒的に「わた・なべ」が多い。どちらかと選べと言われれば、ワタシも、なんとなく「わた・なべ」と答えるだろう。こんな回答もあった。 ◇ そういや小宮山はどこまでがミヤでどこからがヤマでしょうか ◆ いまは大臣のこのひとのポスターでは、「こ・み・やま」と振り仮名が振ってある。 ◆ 「渡辺」は2字で「わたなべ」と読むわけで、「わたな・べ」でも「わた・なべ」でもないと言われれば、たしかにそうだが、この質問がおもしろいのは、「渡辺(わたなべ)」から「辺(べ)」を引いたら「わたな」が残るし、「渡(わた)」を引いたら「わた」が残るというような「漢字の引き算」にあるのだろう。「小宮山」はその上級編といった感じがする。「渡辺」は2字で「わたなべ」と読むのだ、と言うひとは、「小宮山」は3字で「こみやま」と読むのだ、と言うのだろうか、それとも、「小宮山」の「宮山」は2字で「みやま」と読むのだ、と言うのだろうか? ◆ 「漢字の引き算」というようなことを考えて、すぐに思いつくのは、川崎の溝口を「ノクチ」と呼ぶのもそうだろう。あるいは、全国各地にある「ガオカ」高校。札幌の旭丘高校や福岡の筑紫丘高校をはじめとして、ガオカと呼ばれる高校は多い。 ◆ 「ガオカ」高校の上級編は、春日丘高校。大阪の茨木市にあるのが「かすがおか」高校で、愛知の春日井市にあるのが「はるひがおか」高校。これらの両校はじっさいには「ガオカ」とは呼ばれていないようで、《Wikipedia》によれば、茨木のほうは「かすこう」、春日井のほうは「はるひ」と呼ばれているらしいが、それはともかく、「漢字の引き算」の問題として考えれば、いろいろとおもしろい。茨木の春日丘から「ガオカ」を引いたら「カス」が残って、だから「かすこう」というのか?、いやたんに語呂のせいだろうな、などと考えたあとに、ああ、この「春日丘」の場合は「かすががおか」ではなくて、春日だけで「かすが」と読むのだから、そもそも他の「ガオカ」高校とは種類が異なるのだった、ということにようやく気がついても、今度は「春日」はなぜ「かすが」と読むのだろう、とまたべつな問題が出てくる…… |
◆ 先にも「ローマの休日」で引用したが、 ◇ 〔久保田正人「英語学点描」(千葉大学言語教育センター『言語文化論叢』第2号,2008, p.35)〕 通例、都市名に形容詞は存在しない。したがって Roman Holiday は「ローマの休日」の意にはならない。ローマが都市名でなく用いられるのは「(古代)ローマ帝国」という国家名のみである。 ◆ 「通例、都市名に形容詞は存在しない」という断定がひじょうに気にかかるので、ちょっと続きを書く。上の文章は、著者が中学・高校の英語の先生を対象とした公開講座「生徒がこんな質問をしてきたら」の一部で、引用箇所は「都市の名前に形容詞はないと教わったが、それならば映画の Roman Holiday はどうして『ローマの休日』なのか」という仮定の質問に対する回答として書かれたものだ。中学・高校の英語の授業では「都市の名前に形容詞はない」と教えているらしい。べつなひとも、都市名には形容詞がないのが「英語の大原則」と、似たようなことを書いている。 ◇ Italian, Japanese, British は Italy, Japan, Britain に対応する形容詞。英語ではほとんどの国名に形容詞が与えられている。しかし都市名には形容詞がない。Milan, Shanghai, Kabul には形容詞がない。何かを修飾するには New York mayor, University of Tokyo あるいは holiday in Rome のような表現を選ぶしかないんだ。これが英語の大原則。 ◆ しかし、Milan にも Shanghai にも Kabul にも形容詞形はちゃんとあって、それぞれ、Milanese、Shanghainese、Kabulian。形容詞がなかったとしても、英語の場合は、名詞の形のままで形容詞のくる位置に置けば、自動的にそれが形容詞であるかのように機能する。だから、もし「Rome」に形容詞がなくても、「Rome holiday」と並べれば「Roman holiday」の意味になるので、順序(と意味の一部)を変えてまで「holiday in Rome」とする必要もとくにない(と思う)。たとえば、「日本列島」は「the Japanese archipelago」が一般的だが、「the Japan archipelago」でも「the archipelago of Japan」でも通じる。 ◆ 「国名には形容詞があるが、都市名には形容詞がない」ということであれば、すぐに「その中間の州やら郡やらはどうなるのか」とか「都市がそのまま国であるような都市国家はどうなるのか」といった無数の疑問が生じることになるので、中高生向けの便宜的な説明であっても、そのような教え方はしないほうがいいと思う。そうではなくて、すべての固有名詞(地名・人名)には対応する形容詞が実際に、あるいは潜在的に存在する(なくても一定の規則に従ってすぐ作れるのだから)、と考えたほうがいい。ただ使用頻度には差があって、ほとんど使われないものはないも同然だとは言えるかもしれない。 ◆ ひとつの Roma という都市名から派生した「Roman」という形容詞が「古代のローマ帝国」には使えて「現代のローマ市」には使えないなどということはない。ないけれども、古代ローマについて使われる頻度が高いので、現代のローマ市を指すために使うと誤解を招く場合もあるかもしれない。ついでながら、上に引用した2つの文章はともに、「Roman」を「(古代)ローマ帝国」として解すべきとしているが、古代ローマといっても、帝政(Roman Empire)の前には共和政(Roman Republic)の時期が長くあったことを忘れてはならないだろう。 ◆ べつな例を挙げると、「Muscovite」という語がある。これはモスクワに対応する形容詞だが、モスクワといっても、モスクワ市(Moscow)とモスクワ大公国(Muscovy)の2つがあるわけで、都市名には形容詞がないはずだから、この形容詞には「モスクワ市の」という意味はなく、もっぱら「モスクワ大公国の」という意味だ、などというバカげたことにはもちろんならず、「Muscovite」はその両方の形容詞である。 ◆ 《Wikipedia》に都市名の形容詞一覧「Adjectivals and demonyms for cities」があって、見ていて飽きない(これを含む地名全般の形容詞一覧「List of adjectival and demonymic forms of place names」もある)。 ◇ Note: Many of these adjectivals and demonyms are not used in English as frequently as their counterparts in other languages. A common practice is to use a city's name as if it were an adjective, as in "Vienna Philharmonic Orchestra", "Melbourne suburbs", etc. ◆ とはいえ、英語はフランス語、イタリア語などの言語にくらべれば、都市名の形容詞形を使う頻度はかなり低いのも事実で、上の例では「Vienna Philharmonic Orchestra(ウィーン交響楽団)」「Melbourne suburbs(メルボルン郊外)」など、形容詞形があっても(Viennese、Melburnian)それを使わず、都市名自体をそれが形容詞であるかのように使用することが多い。そもそも、英語における都市名の形容詞形は、たとえば、Paris(パリ)の形容詞「Parisian」にしても、Milan(ミラノ)の形容詞「Milanese」にしても、それぞれフランス語、イタリア語からほとんど形を変えることなく借用したもので、英語独自の形容詞の生成法というのは、もともとあまりないのかもしれない(よく知らない)。 ◆ 「グンマの休日」のポスターをよくみると、「GUNMA HOLIDAY」と書いてあった。あるいは、これを形容詞形にして「GUNMAN HOLIDAY」としてもおもしろかったかも。 |