◆ 映画『ローマの休日』のタイトルが誤訳だというハナシがあるらしい。原題は「Roman Holiday」で、映画とは無関係にこの2語だけで訳す必要に迫られれば、「(古代)ローマの祝日」とするのが一番無難であるように思うけれども、「ローマの休日」がとくに間違っているとも思えない。では、誤訳はどこにあるのか? たとえば、 ◇ さて、『ローマの休日』という題名になったことは、偉大なる誤訳と言われている。〔中略〕 原題は「Roman holiday(ローマの休日)」だし、某国のアン王女のローマにおける一日の一時の気晴らしを描いてはいる。しかし、「Roman holiday」の本当の意味は、ローマ帝国では、奴隷戦士をライオンと戦わせる見世物があり、ローマ人は休日に娯楽としてこれを観戦した。見ている方には娯楽でも奴隷戦士にとってはいい迷惑な話である。このことから、「ローマの休日」で他人の迷惑を楽しむ、あるいは、面白いスキャンダル、という意味になったそうだ。日本では直訳の「ローマの休日」となったので、本来の意味の皮肉を込めた意味が判らなくなっている。これは偉大なる誤訳とされる。 ◆ と書いてあるのを読んでみても、ワタシには「偉大なる誤訳」であるという「誤訳」の箇所がよくわからないし、「偉大な」というコトバの意味はさらにわからないのだが、似たようなハナシを書いているひとはたくさんいて、またたとえば、 〔Yahoo!知恵袋〕 ◇ 日本ではローマの休日という題になっていますが、ローマ風の休日と訳したほうがオリジナルに忠実になります。もとの題 Roman Holiday はバイロンの詩をもとにした慣用句で他人を犠牲にして楽しむ娯楽という意味があります。政治的背景は省略しますが、当時米国で弾圧されていた良心派の映画人が洒落たラブコメに抵抗のメッセージをこめて作った映画で、単なるラブコメとして人気作となったのは日本だけのようです。 〔J-CASTテレビウォッチ〕 ◇ 昔のタイトルでおかしいと思う代表作は「ローマの休日」。原題はRoman Holiday。ローマの休日ならHoliday in Romeでしょう。原題の意味は(ローマ人のように)他人に迷惑をかける休日という意味なのだ。ヘップバーンの王女が皆に迷惑をかけるのを気にも留めず、一人抜け出してペックの記者とローマを遊び歩く。でも映画同様、名訳として映画史上燦然と輝いているのです。 ◇ 今度は50年以上前の作品で、不朽の名作『Roman Holidy(ローマの休日)』について。この邦題は誤訳。あちこちで指摘されています。「ローマの休日」と聞くと、私はつい男女二人のロマンティックかつ優雅な休日をイメージしてしまいますが、辞書の記述にあるように、"Roman holiday"には「他人を犠牲にして成り立つ楽しみ」という意味が込められています。 ◇ 原題はRoman Holiday。これは辞書によると「人の犠牲・苦しみによって得られる娯楽(ローマ人が楽しみに闘技場で剣士などを闘わせたことから)」という意味の慣用句ということだ。確かに、「ローマの休日」なら ’A Holiday in Rome’ となるし、逆にRoman Holiday を直訳するなら「ローマ式休日」とか「ローマ人の休日」になるだろう。原題の方はひねりがあるが、邦題はやはりロマンチックな響きを持った「ローマの休日」で正解だと思う。 ◆ あとの2つの引用の「ロマンティックかつ優雅な」とか「ロマンチックな響きを持った」というイメージはあのグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーンの映画を見たからそう思うので、ローマとロマンチックは語源的には関係があるにしても、『ローマの休日』というコトバ自体がそれほどロマンティックなイメージを喚起するとも思えない。まあ、グンマの休日よりはロマンチックであるだろうけど。 ◆ 「ローマの休日」に対応する英語が「Holiday in Rome」であるというのもよくわからない。いや、わからなくはないが、両者が1対1で対応しているわけでもない。「Roman」というのはローマの形容詞であるが、名詞を元にした形容詞は、一般的には、「~的」と訳しておけば一番網羅的で無難である。しかし「~的」では翻訳臭が漂う場合が多いので、「~的」を「~の」に変えるというのが次善の策になるだろう。たとえば、「日本の夏」を英語にする場合、「summer in Japan」でもいいが、「summer of Japan」や「Japanese summer」がいけないということはない。これが「Indian summer」になると、「インドの夏」ではなくて「インディアンの夏(小春日和)」と訳すべき場合が多いだろうが、それでもインドのハナシをしているのであれば、「インドの夏」としか訳せまい。 ◆ 『ローマの休日』のタイトルが誤訳だという一連のハナシの発端(の大部分)は呉智英であるらしい。 ◇ 〔【断層】呉智英 「ローマの休日」はローマの休日か - MSN産経ニュース(2009.6.10 08:33)〕 この名画は本当にローマにおける休日を描いたのだろうか。原題は確かに「Roman Holiday(ローマの休日)」だし、某国のアン王女のローマにおける一日の息抜きを描いてはいる。しかし、この名画の邦題は原題を直訳した一種の誤訳である。正しくは『はた迷惑な王女様』か『王族のスキャンダル』としなければならない。 ◆ 最後の2文はなるほどそのとおりだと思う。ここで、呉智英は「Roman Holiday」を『はた迷惑な王女様』または『王族のスキャンダル』と訳すべきと書いているが、これまたよく理解できない。「Roman holiday」が「Indian summer」のように熟語であるなら、その熟語としての意味を知識として知っておけばいいだけのハナシで、なにも邦題まで説明調の妙ちくりんなものにする必要はないだろう。それに、そもそも、熟語の「Roman holiday」の意味と映画の内容のつなぐ解釈が間違っているようにも思える(が、ハナシが長くなるので、参考: 「ローマの休日」は誤訳?呉智英先生の誤解・・・・「断層」:イザ!)。 ◆ あと2つ、大学の先生による文章を載せておく。 ◇ 〔久保田正人「英語学点描」(千葉大学言語教育センター『言語文化論叢』第2号,2008)〕 通例、都市名に形容詞は存在しない。したがって Roman Holiday は「ローマの休日」の意にはならない。ローマが都市名でなく用いられるのは「(古代)ローマ帝国」という国家名のみである。Roman holiday は「古代ローマ人の休日(の過ごし方)」が原義であり、剣士や奴隷を死ぬまで戦わせてそれを観戦したことから、「人の苦しみのうえに成り立つ快楽」という意の慣用表現となった。イギリスの詩人 George Gordon Byron が Childe Harold’s Pilgrimage (1812) の中で、gladiator(円形闘技場で観客を楽しませるために死ぬまで戦わされた剣士や奴隷)の死の隠喩として用いたのが最初(ただし英語圏の人でもこの表現の由来を知らない人が多い)。オードリー・ヘップバーン主演のあの映画は、(もし題名が真に意味を持つものであるならば、)一般に考えられているのとはちがって、一種の残酷物語として意図されていたことになる。 ◆ 英語には「通例、都市名に形容詞は存在しない」という箇所がそもそも納得できないが(ハナシが長くなるので機会があれば別に書く)、そうだとしても、「Roman Holiday は『ローマの休日』の意にはならない」という結論づけるのはどうかと思う。「Roman」が現代のローマ市のことを指すものとして使われることは少ないかもしれないが、日本語の「ローマ」に「現代のローマ市」という限定があるわけでもないから、そこには当然「古代ローマ」の意味も含まれていよう。どこに問題があるのだろう? ◇ 〔関東学院大学 文学部 - 文学部TOPICS:文学部教員コラム vol.36 ミルトンの影VI …… 英語英米文学科 島村宣男 先生〕 ところで、英語表現 “Roman holiday” の本来の意味をご存知ですか?客受けを狙った邦題の「ローマの休日」は、誤訳とは言わないまでも、一義的な意味しか伝えてくれません。なにしろ、映画は、ローマ訪問中の某国の王女アンがお忍びで、偶々出合った新聞記者ジョー(私の大好きな俳優 Gregory Peck が演じています)と市内の観光名所をはしゃぎ回るという破天荒な内容だからです(草臥れた老夫婦がローマで閑暇を過ごす、といった悠長な話ではありません)。 ◆ 「ローマの休日」というコトバから「草臥れた老夫婦がローマで閑暇を過ごす」といったイメージが湧くものかどうかはひとそれぞれというほかない。2人の大学の先生は、『ローマの休日』という邦題に対し、「集客効果のある」「客受けを狙った」とそろって「うがった」見方をされているけれども、ワタシには、これほど「すなおな」タイトルもあまりないように思われる。 ◆ あれこれ引用したが、『ローマの休日』という邦題をめぐるハナシは、つまるところ、誤訳であるかどうかというよりも、「Roman holiday」には熟語的な拡張された意味があって、「私はそんなことまで知っているんだぞ」というウンチク話に過ぎないような気がする。たとえ原題が「Holidays in Rome」や「A Holiday in Rome」であっても、そこに「Roman holiday」の比喩的な意味を読み取るひとは読み取るだろう。それは邦題が『ローマの休日』であっても同じことで、この日本語のタイトルからでも、コロッセオのグラディエーターを思い浮かべることができないわけではない。「Roman holiday」の熟語的意味を知っているかどうか、ただそれだけのハナシだろう。「Achilles’ heel」は「アキレウスのかかと」と訳しておけばいいので、それが「急所」という比喩的な意味だとわかるひともいればわからないひともいるだろうが、それはなにも翻訳者の責任ではない。 ◆ 参考までに、諸外国の『ローマの休日』のタイトルを見てみると(カッコ内は対応する英語)、 ◆ いろいろとおもしろいが、英語の熟語的意味を踏まえた意訳的なタイトルはひとつもなさそうだ。 |
◆ 男女が二人で同じ場所にいて、同じ方向を向いていたとしても、同じものを見ているとはかぎらない。 「お前は松の木を見ていたんだな」 ◆ 夫婦といっても違う人間なのだから、それはあたりまえのことに思える。むしろ、 阿川 でも、丈晴さんのイヤなところとか、直して欲しい癖とか、なかったですか。 ◆ というような文章を読むと、「理想」としてならいいけれども、現実に「人生観、価値観がまったく同じ」などということはありえないだろうと思ってしまう。いや、ありえないということもないだろうが、まれだろう。そもそもそういう状態が「理想」なのかどうかも、ひとそれぞれだろう。 ◆ 男女が二人で同じ場所にいて、同じ方向を向いて、同じものを見ていたとしても、同じことを考えているとはかぎらない。 ◇ (ここに、なにか引用文を挿れたいが、適当なのが見当たらない。たとえば、ドライブの途中に牧場があって、そこにいた仔牛を二人で仲良く見たとしても、一人は「かわいい」と思っているのに、もう一人は「おいしそう」と思っているかもしれない、というようなことだ。映画や小説のなかに、ごろごろ転がっているだろうから、各自アタマのなかで適当な引用に差し替えてください。) ◆ 男女が二人で同じ場所にいて、同じ方向を向いて、同じものを見ていたとしても、その視線が同じであるとはかぎらない。ここまで来ると、べつのハナシとして考えなければならなくなるが、せっかくなので、引用しておこう(また、べつのことを考えるときに便利だろうから)。 ◇ 幼いころから、私は、あるものをじっと見つめればそれを深さに於て捉えることができると思っていました。町で出会ったりする人々の中で特に私の興味を惹く顔を、私はいつでもじっと見つめ続けたものです。そうすることで、世の中のことが理解できると錯覚していたのです。この癖はいまも変っておりません。電車の中などで乗客の一人に強く惹きつけられたりすると(それは幼児であったり、老人であったりしますが)、思わずその真正面に座ってしげしげと見つめてしまう。父親と市電に乗っていたとき、そんなに他人を見つめるものではないと、何度も忠告されたことを思いだします。 |
◆ たとえば、 ◇ その昔、国連鉄鋼部会の視察に同行して、英語、フランス語の通訳の方と組んで日本の某自動車メーカーを訪れたときのこと。前日の夕刻、現地に到着して、地元のホテルに宿泊し、翌日工場見学という手はずになっていた。 ◆ というような文章を読んで、「両者が照合した瞬間、カチッと音がするような快感がある」と書いてあるけど、どうして「カチッと音がする」のだろうとか、なぜ「カチッと音がする」ことが快感になるのだろうとか、考えるひともいるだろうが、まれだろう。考えるひとは、この文章にどこか引っかかりを感じたわけで、引っかかりを感じなければ、そもそも考えてみる機会がない。この文章に引っかかりを感じないひとというのは、この「カチッと音がするような」という比喩をなんなく理解できるひとか、なんとなく理解できるので悩まず先に進むひとのどちらかで、どちらであっても読者の大半はこの両者に属するのではないかと思う。 ◆ 「なんとなく理解できるひと」が、引っかかりを感じて、すこし立ち止まり、あれこれ考えて、その結果、ああこんなことかな、と思うに至ったとき、おそらくそのひとのアタマのなかでもカチッと音がして、「なんなく理解できるひと」に変わっていることだろう。 ◆ はてさて、アタマのなかで、なにかが照合したときに、カチッと音がして開くのはいったいどんな秘密の鍵なのだろう。 |
◆ 「門前の小僧習わぬ経を読む」ということわざがある。「門前の小僧」でGoogle検索をすると、最初にヒットするのがこれ。 ◇ お寺に行儀見習いなどにきた小僧さんが、庭掃除をしたり雑巾がけをしているだけで、お坊さんの読むお経をただ毎日、毎日聞いてるだけで、別にお経を習ったわけでもないのに、お経を読めるようになったというお話です。 ◆ この文章をそのままコピペしたと思しきサイトがこのあとにぞろぞろ続いているのを見れば、一番であるというのは、やはり大事であるということか。それはともかく、「お寺に行儀見習いなどにきた小僧さん」が「門前の小僧」であるというのは、どうにも解せない。この小僧、お寺に行儀見習いに来たものの、寺内にすら入れてももらえなかったのだろうか? それもまた行儀見習いの一環であったのだろうか? こんな解釈もある。 ◇ お坊さんのお子さんでしょうか?普段からお経を聞いていたんでしょう。誰に教わった訳でもなく、また勉強した訳でもないのに、自然とお経を覚えて読み上げる事が出来るようになった、なんてすごいですね。 ◆ 「小僧」というのは「僧のお子さん」? 辞書で「小僧」を引くと、 こぞう【小僧】 ◆ 『大辞泉』によれば、「門前の小僧」の小僧は、(1)の「仏門に入って、まだ修行中の男の子」ということになるようだが、一般的な「門前の小僧」の解釈は、(3)ではないだろうか? ◇ 寺の近所に住む子供たちは、自然に僧の読経を聞き覚えて、御経を読むようになるということで、日頃の感化の力の大きいことをいう。(出典:ことわざ辞典 日東書院) ◆ それとも、「門前」に「寺の前」という意味のほかに、寺そのものを指す用法でもあるのだろうか? |