◆ 男女が二人で同じ場所にいて、同じ方向を向いていたとしても、同じものを見ているとはかぎらない。
「お前は松の木を見ていたんだな」
「ええ」
「俺は亀を見てたんだ」
横光利一『春は馬車に乗って』(青空文庫,1926)
◆ 夫婦といっても違う人間なのだから、それはあたりまえのことに思える。むしろ、
阿川 でも、丈晴さんのイヤなところとか、直して欲しい癖とか、なかったですか。
山本 イヤなところ? う~ん………。
阿川 ハイ、ないんですね(笑)。
山本 何ていうのかな、人生観、価値観がまったく同じだったんですね。
阿川 たとえば、どんなことが?
山本 別に大袈裟なことじゃなくて、たとえば私一人がどこかで景色を見たり、絵を見たりして、ああきれいだなあ、丈晴さんもきっとそう思うだろうなあっていう……。
阿川 食い違うことがない!?
山本 だからお互い、とっても自然に向き合える。
「阿川佐和子のこの人に会いたい:山本富士子」(『週刊文春』2012年5月3・10日号,p.165)
◆ というような文章を読むと、「理想」としてならいいけれども、現実に「人生観、価値観がまったく同じ」などということはありえないだろうと思ってしまう。いや、ありえないということもないだろうが、まれだろう。そもそもそういう状態が「理想」なのかどうかも、ひとそれぞれだろう。
◆ 男女が二人で同じ場所にいて、同じ方向を向いて、同じものを見ていたとしても、同じことを考えているとはかぎらない。
◇ (ここに、なにか引用文を挿れたいが、適当なのが見当たらない。たとえば、ドライブの途中に牧場があって、そこにいた仔牛を二人で仲良く見たとしても、一人は「かわいい」と思っているのに、もう一人は「おいしそう」と思っているかもしれない、というようなことだ。映画や小説のなかに、ごろごろ転がっているだろうから、各自アタマのなかで適当な引用に差し替えてください。)
◆ 男女が二人で同じ場所にいて、同じ方向を向いて、同じものを見ていたとしても、その視線が同じであるとはかぎらない。ここまで来ると、べつのハナシとして考えなければならなくなるが、せっかくなので、引用しておこう(また、べつのことを考えるときに便利だろうから)。
◇ 幼いころから、私は、あるものをじっと見つめればそれを深さに於て捉えることができると思っていました。町で出会ったりする人々の中で特に私の興味を惹く顔を、私はいつでもじっと見つめ続けたものです。そうすることで、世の中のことが理解できると錯覚していたのです。この癖はいまも変っておりません。電車の中などで乗客の一人に強く惹きつけられたりすると(それは幼児であったり、老人であったりしますが)、思わずその真正面に座ってしげしげと見つめてしまう。父親と市電に乗っていたとき、そんなに他人を見つめるものではないと、何度も忠告されたことを思いだします。
私にとって、何かをじっと見つめることは、愛することの同義語のように思われていました。少女時代に得たそうした習慣へのノスタルジーが残っているのでしょう。ほんの一瞬、ちらりと視線を送ることは、愛情を欠いたよそよそしさにつながるようにいまでも思ってしまいます。
日本人である私の夫は、そうしたノスタルジーを共有しているとは思えませんでした。いったん私に注がれたその瞳は、こんどは私ではないさまざまなものの上を揺れ動き、時折りまた私の上に戻ってくる。それは、私を世界の中に位置づけようとする視線の動きだと私には思われました。ところが、一緒に外出して戻ってきてから、私かじっと見つめたものの話をすると、夫は、「ああ、ぼくも全部見ていたよ」といいます。事実、夫は私の見たものと同じものをしっかりと記憶にとどめていました。集中的な視線に対して、一瞬の包括的な視線というものがあるのでしょうか。
〔中略〕
私たちは、あまりカメラを肩に下げて旅行する習慣を持っていませんが、時折り、夫と私とが撮った写真を見くらべて見ますと、二人の視線の違いがよくわかります。夫の写真では被写体は、あたりの風景に調和したかたちで位置づけられている。私の撮った写真では、被写体が周囲から切り離されている。ここにも、包括的な視線と集中的な視線とがはっきり出ているように思います。それは、ときどき夫の見せる、あの聞く視線ともいうべきものかもしれません。私の話に相槌をうつとき、彼は、私を見つめるのではなく、話している私を受け入れようとするかのようにやや瞳を伏せ、身を傾けているのです。
シャンタル蓮實「二つの瞳」(蓮實重彦『反=日本語論』解説,ちくま文庫,p.315-317)